今日で10月も終わりである。このブログを始めたのが夏休みが明けてしばらくしてからだったので、かなり続いている。もうすぐ冬休みになる。早いものだ。もうすぐテストなのでそちらの方も頑張りたい。
今日は部屋でゆっくりしていた。先週の休日は、友達と函館に行って、休みなしの状態だったので少し休みたかった。雨が明日から降るというので、外に行っておけばよかったかもしれないとも思ったが。まぁいいか。
いきなりだが「大人」とはどういう人のことを言うのだろうか。また何を基準として「大人」というのだろうか。私は今21歳になり、成人となっている。成人は大人になったということである。成人になったことで何か変わったか。正直、実感はない。青森に住んでいるので、大阪で行われた成人式には参加していない。青森でも参加していないが。成人式の位置づけはどうなっているのだろうか。おそらく様々な意見があるだろう。一種の通過儀礼(イニシエーション)と言う人もいるかもしれない。この意見が多いと思う。通過儀礼というものは大切だ。子供から大人に変わる一生に一度のことだ。外国でもこれは最も大切な儀式の一つだ。日本では考えられないようなこともする。何をするか教えてくれないところもある。それほど重要なことだ。しかし日本の通過儀礼と呼ばれる成人式はどうだろうか。テレビを見ていると、暴れている成人たちが会場から外に出されているのが映し出されている。アルコールを飲んでいる人は入場不可と注意書きまである。これを見ていて、これが通過儀礼と言えるのだろうか。後日、成人式に参加した私の友達に感想を聞いてみた。同窓会みたいなもんやった、という返答だった。私もこの答えは予想していた。私が思うに、成人式は同窓会だ。通過儀礼でも何でもない。これに参加して、今日から昨日とは全く違う人間になったという実感は無いはずだ。それでは意味が無い。私が参加しなかった理由がそこにある。時間の無駄だ。この日本では、いきなり大人になるというのは難しいことだ。どうしたら大人になれるのだろうか。少しずつ大人になっていけばいい。人づきあい、言葉づかい、冠婚葬祭のマナー、食事のマナー、学んでいけばいい。この学生時代には許されても社会に出ていけば許されないことがたくさんある。社会に出るときに「大人」になっていればいい。
大人になることは大切だが、大人になることによって、年を重ねることによって、失われていくものがある。それは「感じる」ことだ。これはすぐにマヒしてしまうものだ。以前に東京の秋葉原で起こった事件を覚えているだろうか。無差別殺傷事件。忘れることができないほど残酷な事件だった。もし自分がそこにいたらどうしていただろうか。実際そこに居なかったので、あくまで言いたいことだけになってしまうが。ぼーっと突っ立っているだけになってはいないだろうか。そんなことはないという人がいる。本当にそうだろうか。ただ、かわいそう、と遠くで見つめている人もいる。中には携帯で写真を撮っている人もいる。これが現実だ。刺された人はどう思っていただろう。助けてくれ、これ以外ないはずだ。私も刺されていたら間違いなくそう叫んでいただろう。なぜ助けないのか。人ごとになっていないだろうか。自分には関係ない、そう思ってはいないだろうか。もし近くにいた友達が先輩に血まみれになって殴られていたらどうするだろうか。知らん顔している自分はいないだろうか。友達は助けてくれるだろうと思って一人で行くと、誰も付いて来てくれない。痛みを分かち合おうとしない。感じることから逃げている。感じなくなることは楽なことだ。しかしこれは確実に非人間へと近ずいていっている。日常の友達づきあいでもそうだ。一方通行になっていないだろうか。自分は相手に様々なことをしてあげている。しかし、相手からは何も返ってこない。返って来ても少しだけ、というのはないか。友達というのは、自分から追いかけていくものだ。相手からしてもらったことは、今度は自分が相手に、してもらた事以上のことをしてあげるつもりで付き合っていかなければならないと思う。感じることから逃げたいのならしなくてもいい。感じないことは楽だ。感じることは体力のいることだ。しかしこれは大切なことだ。大人になることはすばしいことだ。しかし忘れてないけないものもある。
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