2011年6月3日金曜日

臓器提供

 今日の朝は曇っていたが、昼になるにつれて晴れてきた。とても過ごしやすい気温であった。

 今日の授業で、「健康と医療」という授業があるのだが、臓器提供についての話があった。先生がドナーカード持っているかなどと話をしていた。私は持っている。もし私が脳死、または死亡が確認されたら臓器を提供しますか、という意思表示のカードである。自分が希望する臓器に印をつける。私はすべての臓器に印をつけている。「その他」、という書く欄があるのだが、何を書けばいいのかわからないので、その他すべての臓器と私は書いている。私は脳死、または死亡が確認されたら迷わず臓器を提供する。皆さんはどうであろうか。
 私は高校生の時に入院したことがある。その時から「医療」に興味を持ち始めた。一時期は看護師を真剣に目指したときもあった。入院中、女性看護師では、私が恥ずかしいと思ったことが何度もあったので、これは男性看護師も必要だ、と実感したからだ。また、ちょうどその退院してしばらくしてから、「医療のエキスポ」みたいなイベントが大阪で開かれた。このイベントは何年かに一度開催される大きなイベントなのだ。そこに参加してみた。実際に使われている内視鏡を触れるコーナーがあり、私も触ってみた。モニターを見ながら、両手で内視鏡を操る。中にある小さなブロックを掴んだり放したり、右から左に持ち替えてみたりと、かなり貴重な経験ができた。人工の心臓も展示してあった。心臓の血液を全身に送り出す力がすさまじいことを知っているだろうか。力比べができ、手で大きなスポイトのようなものを力いっぱい圧をかけてみても、その心臓の力の10分の1もいかないのだ。これはすごいと感動したのを覚えている。
 テレビで医療関係のニュースが流れると見てしまう。そこで見つけたのが、全国にはたくさんの臓器を待っている患者さんがいるということだ。その中には小さな子供もたくさんいる。今のその現状を見たとき、私は臓器提供をしようと思った。このお世話になった社会にできる最後のボランティアだ。私の体の一部を使って、一人でも多くの人が助けられるなら、迷わずそっちを選ぼう。最後の仕事だ。
 しかし日本では臓器提供をする人が、海外に比べてかなり少ないのが現状である。その理由はこの日本の文化、哲学、風土が影響している。死んでもそれはただのしたいではなく、れっきとした個人なのだ。家に帰り、お墓に埋葬されるまで体は必要なのだ。また日本の「死」は、キリスト教の考えである断絶ではなく、延長なのだ。死んでも、体が無ければ三途の川を渡ることができないと考えている。確かにその通りだ。
 しかし私は、自分のことよりも困っている人がいたら、どうにかしてあげたいと思う。もちろんできる範囲であるが。死んだらそのまま焼かれていしまうなら、私の臓器を使って病気が治るならその方がいい。私は臓器提供したいと思う。

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