2011年6月29日水曜日

地下鉄

 今日東奥日報という新聞に、小さいが私たちが今やっているボランティア団体のことについて載っていたのだ。明日、駅前の方で報告会があるのだが、その宣伝も兼ねていた。明日どれほどの人が来るかわからないが、復興に向けてさらに一歩踏み出せるような報告会にできたらと思っている。
 今日は雨だと思っていたが、昼から太陽が顔をのぞかせていた。明日は曇りらしく、明後日は雨らしい。明日はできるだけ晴れてほしいものだ。




 さぁ、旅の続きである。ウェストサイドからイーストサイドに行くことができない。パレードを見ることができてうれしかったのだが、向こうにいけないことに腹が立ってきた。行けなかったら、Uターンし、これを何度も続けたが、どうしても向こう側に行くことが出いない。セントラルパークから行けるかもしれないと思い、セントラルパークに向かったのだが、5thアヴェニューは続いていた。やはり行くことができない。地上から無理ならば地下から行こうと思い、地下鉄の駅に向かった。ちょうどセントラルパークに駅があったので、切符を買おうと思った。切符を買う機械が2台あったが、なぜかみんな片方の機械にしか並ばない。誰も並んでいない方を見てみると、画面には何も映っていない。そこに、頭にターバンを巻いたアラブ系の男性が来て、その男性も機械を見ているが、彼も使い方がわからないらしい。近くにいた私に、使い方を知っているか質問してきたが、もちろんわからないと答えた。その男性が使い方を聞きに言ってくれたが、、この機械はこの時間帯は使用できないらしいという。なるほどと思い、もう片方の機械に並ぶことに。しかし、この機械はクレジットカードで買わなければならず、しかもシングルパスではなく、乗り放題の切符しか売っていないようだ。シングルパスは$1.25くらいで買えたのだが、乗り放題の方は$10以上もした。しかし、この方法しかイーストサイドに行くことができないと思い、買うことにした。私の番が来て、日本語で表示できたので指示に従ったのだが、なぜか買うことが出いない。後ろに人がたくさん並んでいたので、もう一度並びなおすことに。再び私の番が回ってきたが、やはりわからない。仕方なくあきらめて、地上に出た。
 疲れたので、ベンチに座った。国連本部はあきらめないといけないかも、と思い始めた。馬車がたくさん走っていた。その時に思いついた。今日行ったグランド・セントラル・ターミナルまで行けば、イーストサイドに行けるかもしれないと思い、地図を広げてみた。かなり遠かったが、行ってみようと思った。人がたくさんいる中、かき分けるように歩いていった。グランド・セントラル・ターミナルまで行くと、パレードはしていなかった。やっぱりと思ってイーストサイドに入ることができた。かなり遠回りそしてしまった。うーん、疲れた。

 

2011年6月28日火曜日

MoMA

 今日は一日激しい雨であった。明日も雨らしい。靴が濡れてしまい、かなり気持ちが悪かった。土砂降りの中を大学に行くのは久しぶりであった。




 さて、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に着いた。開館は10時30分からであり、ちょうどその時間に到着したが、すでに大勢の人でにぎわっていた。おそらく世界中から来ているのだろう。私もそれの一人なのだが。チケットが$20と少し高かった。このMoMAは実は日本にも関係している店があるのだ。東京の表参道にあるのだが、東京に行くときは必ず寄る店で、MoMAデザインストアという店があるのだ。雑貨やアクセサリー、キッチン用品、家具など様々なものがある。この商品一つ一つにデザイナーが存在していて、どれもユニークな品物ばかりで見ているだけで楽しいお店だ。少し値段は高いが私もそこで買い物をしている。そして今回、ニューヨークでその美術館に来られて本当にうれしかった。本物を見ることができたのだから。
 館内は想像していたのよりかなり広い。自分がどこにいるのか分からなくなる。管内で何キロ歩いたかというくらい広い。しかしその作品や展示物は素晴らしいものばかりであった。作品の数がかなりたくさんあるので、説明できないのだが、面白いものばかりである。これが見れただけでもニューヨークに来た価値はある。小学校の教科書に載っている絵もあった。中には何を表現しているのかわからないものもあった。しかし、なぜだか楽しくなる作品ばかりだ。
 その後、道路を挟んで向かいにMoMAデザインストアがあったので、やっぱり行くことに。値段はやはりこちらに来た方が安かった。置いてある品物の数もこちらの方が多い。本場で買う方が気持ちが良い。あまり高いものも変えなかったので、記念に一つ買って帰った。
 このMoMAは行くかどうか迷っていたのだが、高校の担任の先生は言った方がいいと勧めてくれたので、行くことにしたのだが、やはり行った方が良かった。世界的に有名な理由がわかる。ますますMoMAが好きになった。今度東京に行くときもまた寄ってみよう。品物の価値も少しはわかるような気がする。
 その後、国連本部に行こうと思った。ガイドブックによると日本語ツアーがあるらしいのだが、毎日はやっていないらしい。時間も不規則。電話してから参加した方がいいと書いてあったが、何もせずに行くことにした。しかしその前に問題が発生した。
 昨日のブログで、警察がたくさんいたと書いたが、今日はパレードがある日だったのだ。何のパレードかというとセント・パトリック・デーであったのだ。アイルランド人のお祭りである。アメリカの祝日の一つなのだ。セント・パトリックはアイルランドにキリスト教(当然カトリック)を入れた人で、アイルランドの守護神でもある。誰もが緑のものを身に着けていた。そのパレードはあまり見ていないが、祭りへのテンションの高さには驚かされた。誰かが叫べばそれに答えて誰かが叫ぶのだ。やはり日本と違う。あれくらいやれば本当に楽しそうに見える。これぞ「祭り」という感じだ。
 それは良いのだが、パレードをしている道が5thアヴェニューだったのだが、私はウェストサイドにいて国連本部はイーストサイドにあるのだ。5thアヴェニューでパレードをしているため、ウェストサイドからイーストサイドに行くことができなかったのだ。困った。さぁ、どうする!?

2011年6月26日日曜日

グランド・セントラル・ターミナル

 グランド・セントラル・ターミナルに7時30分過ぎくらいに到着した。思っていたよりも広く、天井が高い。天井に星座の絵が描かれている。ここグランド・セントラル・ターミナルは「ルパン三世ファーストコンタクト」の最初のところで出てくる場所である。それにしても美しい駅だ。かなりの人が歩いている。しばらく人間観察することにした。
 入口のところにアメリカ兵が二人立っていて、二人ともマシンガンのような銃を持っていた。さすがアメリカだ。写真と撮りたかったが、やめておいた。少し早く来すぎたのか、店が開いていない。店が開く時間まで駅の中をぷらぷらしていた。アメリカ人はみんな背が高い。ビジネスマンはかっこいい。女性もかっこいい。
 お店が開く時間になり、レターを扱った店があったので、そこには入ってみた。そこでお母さんにレターセットを買ってあげようと思い、3使うともう1つ選べると書いてあり、3つ買うことにした。違う店にいき、友達と自分のお土産としてポストカードを買った。
 今日の夜、ブロードウェイのミュージカルを見る予定だったので、そのチケットを取りに行かなければならなかった。そのチケットは日本で予約していたものである。ガイドブックには9時からオープンと書いてあったので、その時間に到着するようにグランド・セントラル・ターミナルを出た。
 そのチケットを受け取る店はセントラルパークの近くにあった。歩いてその方向へ。ニューヨークは歩いているだけで楽しい。アメリカは街の至る所に星条旗がある。日本では考えられないことだ。しかし、その星条旗が何とも美しいのだ。道の途中に警察がたくさんいたのでびっくりしたが、その時はなぜこんなに警察がいるのかわからなかったが、後でその理由がわかったのだが。
 そのお店に到着した。見つけるのに苦労したが、オープンが10時からと書いてある。ガイドブックには9時からと書いているのにどうなっているのかと思ったが、1時間時間をつぶそうと、セントラルパークを歩いてみることにした。ジョギングをしている人が多い。公園の警察なのか馬に乗った警察がいて驚いた。セントラルパークは広すぎて回り切れなかったが、映画の「ダイハード3」を思い出し、そう言えばここでタクシーを暴走させていたな、と笑ってしまう。その後、コロンバスサークルというところにベンチがあり、そこに座ることにした。私がそこに座っている間、黒人の女性がずうっと一人でタバコをふかしていた。
 そろそろ10時になると思ったので、お店の方にいくことに。インターホンを押し、誰かが日本語でしゃべっているのだが、何を言っているか聞き取れない。聞き返し、名前を言えということであった。階段を上ってそのオフィスに行く。日本人の女性が出てきたので、やっと日本語が話せると思ったが、かなり愛想が悪い。必要最低限のことしか話をせず、そのオフィスから出ていった。日本語を話したかったが、ここまで来て日本語を話さなくてもいいかと思った。とりあえず今夜のチケットはゲットできたので良しとしよう。
 その後、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に行くことにした。再びそこに向かって歩き始めた。時間は10時15分くらいであった。

2011年6月25日土曜日

ニューヨーク

 旅の続きである。3月17日朝6時15分、目が覚める。まだスーツケースが届いていないので、顔も洗わず、何も食べずに出かける準備をした。準備ができ、部屋を出ようとして、ドアのノブを握った。しかし、なぜか突然外に出るのが怖くなってしまった。外はまだ真っ暗である。ドアを開けることができなくなり、ベッドに座ってしまった。5分くらい座っていたが、何をしにここまで来たのか、何のためにここまで来たのか、一歩踏み出さなければ、と自分を奮い立たせ、ドアを開けた。
 しっかりカギが閉まったかをチェックし、エレベーターのボタンを押した。しかし、なかなかエレベーターが来ない。仕方なく階段で下りていった。2回までたどり着いたが、そこから階段がなくなってしまったのだ。どこに階段があるのかと探してみたが、見当たらない。そこからエレベーターで降りることにし、どうにか1回にたどり着いた。
 ホテルの外に出た。空がうっすらと明るくなってきている。まずはグランド・セントラル・ターミナルという大きな駅に行こうと思い、歩き出した。歩いていけるかどうか心配であったが、パークアヴェニューという通りに出ると、それらしい建物が見えたので、歩いていくことにした。夜明け前というのにビジネスマンがたくさんあるいていた。屋台がたくさんあると聞いていたが、これから屋台の準備をするトラックがたくさんあった。アメリカの空気はやはり日本と違う。もちろんにおいもそうなのだが、アメリカのにおいがする。ニューヨークと言った方が正しいのかもしれないが。ニューヨーカーは信号無視は当たり前だ。警察がいてもお構いなしだ。警察もそんなことで注意しない。車が来なければさっさと渡ってしまう。歩くスピードも速い。「自由の国」そう感じざる終えなかった。
 ニューヨークの街並みを見ながら歩いていると、最初は怖い気持ちがあったが、いつの間にかわくわくしながら歩いていた。私もニューヨーカーに習って信号無視をする。大阪の人も信号無視はするが、ニューヨーカーほどではない。楽しい。本当に楽しい。ここがニューヨークか、アメリカか、と自分が異国に来たことを実感し始めた。私はニューヨークにいるのだと。
 写真をかなり撮って帰ってきたが、この頃はあまり写真を撮れなかった。カメラを銃と間違えられて、打たれたという事件が昔あったことを思い出していたからだ。私もこの頃はかなり警戒していて、なかなかカメラを構えて写真を撮ることができなかった。それが今思えば少し後悔だ。もっとあの時の写真を取っておけばと思う。しかし、あの頃の景色はまだ頭に残っている。
 グランド・セントラル・ターミナルに向かってひたすら歩いている。さぁ、ここから「ニューヨーク」を楽しむこととなるのだ。

 アメリカは「自由の国」と書いたが、私がワシントンDCのユニオン駅で上りのエスカレーターの乗っているとき、上りのエスカレータだというのに降りてきている人がいたのだ。そのエスカレーターには結構たくさん人がいたので、危ないと思っていたが、その人に注意する人は誰もいなかった。そこからやはりアメリカは「自由の国」と実感していた。

 

2011年6月24日金曜日

ホテル到着

 昨日の夜から今日の昼近くにかけて、かなり激しい雨が降っていた。今は止んでおり、土曜日と日曜日は晴れるという。




 やっとのことでニューヨークに到着した。歩いて予約したホテルまで行く予定であったが、すでに23時を過ぎており、遅くなった場合はタクシーを使うようにと高校の担任の先生に言われていたので、タクシーで行くことに。といっても、駅に到着し、どこの出口から出たら良いのかわからなかった。タクシーもどこで捕まえるのかもわからなかった。やはりここでも警察に聞くことにした。青の出口から出たらタクシーに乗れるというので、迷わずその出口へ行くことに。タクシーが待っていてくれるのかと思っていたが、自分で捕まえなければならないみたいだ。どうやって捕まえるんだ?と思った。周りに人がいたが、やはり少し怖かった。早くホテルに行かなければと、誰かタクシーを捕まえるのを参考にしようと思い、少し観察する事に。道の半分くらいまで出ていき、手を少し上げて捕まえるのを見た。あまり日本と変わりない。私もタクシーが来るのを待った。来たので手を上げ、停まってくれた。アメリカでは自分でドアの開け閉めをしなければならない。自分でドアを開け、行き先を言う。行き先もアメリカでは、場所を言うことはあまりない。縦に走っている道と横に走っている道に名前を言うのだ。縦がアヴェニュー、横がストリートだ。私のホテルは、5thアヴェニュー、28thストリートだ。そう言うと通じたのか走りだした。
 タクシーの運転手さんは最初の方はあまり愛層が良くなかったが、私が質問ばかりしているとだんだん笑顔が出てきて、楽しく話をするようになった。ニューヨークは危険ですかと聞くと、マンハッタンは大丈夫、ブロンクスとクイーンズは“BLACK AREA” と言っていた。やはり先生から聞いていた通りであった。ここでも地震の話になり、かなり心配してくれた。日本に行けたらなぁ、と言ってくれたので、日本は良いところですよと私が言うと、笑ってくれた。私が言った交差点に到着した。そのホテルがどこにあるのか聞かれ、地図を渡した。あそこじゃないのかな、と運転手さんが指さしたので、見てみると、私の泊まるホテルの名前が書いてあった。“Yes!!” と大きな声で答えてしまった(笑)。運賃は$7.5であった。私は$10渡し、おつりはいりません、とっておいてください、と言うと、ありがとう、頑張ってね、と言ってくれた。私もありがとうと答え、車から降りた。
 ホテルのカウンターへ行き、予約した時のメールのコピーを見せた。明日に私のスーツケースが届くことを伝えた。先にホテル代を払うことにした。ここであのクレジットカードの登場だ。大きなお金を払う時はここではほとんどカードで支払う。カードの方が現金よりも信用度が違うからだ。
 部屋のカギを渡され、私は7階だったのでそこまでエレベータで。エレベーターを降りると、なんだか薄暗い。あまりいい雰囲気ではない。部屋のカギを開けて中に入ってみる。大きなベッドが真ん中にあり、水道があり、テレビがある。普通の部屋だ。しかし、トイレと風呂が無い。私は一応トイレと風呂が付いてあることを確認して予約したつもりだったが、無いのである。部屋の外の廊下の突き当たりに行ってみると、ドアがあり、そこを開けてみると風呂とトイレがある。なるほど、共同で使えということかと思った。しかしそのドアのかぎが壊れているではないか。風呂に入っている間に違う人が入ってきたら怖いではないか。そう思い、ここで風呂に入ることをあきらめた。ありがたいことに部屋にある水道からはお湯が出たので、そこで頭だけは洗うことができた。
 今日はかなり疲れた。機内食以来何も食べていないが、今日は何も食べずに寝ようと思った。テレビを付け、日記を書いた。このホテルまでは長い道のりだったが、まだ旅は始まったばかりである。これからが楽しいのだ。そう言い聞かせ、目覚ましをセットし、眠ることにした。

2011年6月23日木曜日

Amtrak

 ユニオン駅に着いたが、アムトラックのチケットを買わなければならない。ユニオン駅は当たり前だが、初めてであったのでどこに何があるかわからない。警察がいたので、どこで切符を買うのか聞いてみると、親切に教えてくれた。うまく買えるかかなり心配であった。何時発のアムトラックがあるのか、値段はいくらか、わからないことばかりである。とりあえずカウンターへ行き、ニューヨークのペンシルバニア駅まで行きたいのだがと言うと、二つ候補を上げてくれた。一つはかなり早くニューヨークに到着するが、値段も高いもので、もう一つはそれほど早くは到着しないが、値段は安いものだ。安いと言ってもそれなりの値段はしたが。お金があまりないということで安い方のチケットを買うことに。発車は19時過ぎであった。ニューヨークに到着するのは23時であった。予定よりも2時間遅くなってしまった。
 発射まで少し時間があったので、水を買いたいと思い、売店みたいなところへ行った。新聞もあったので、記念にニューヨークタイムズの新聞を買った。その他にも土産物屋さんに入ってみたりと時間を潰していた。早速欲しいものが見つかったのだが、お金を節約しなければと思い、買わなかった。
 アムトラックは日本の電車や新幹線みたいに自由にホームに入ったりすることはできない。ゲートというのがあるのだが、そのゲートが開くまでその前で並んで待っておかなければならないのだ。ここでもどこのゲートに並んでいいのかわからない。とりあえず人が一番多いところへ並んだ。すぐ後ろにいた女性の方に、持っていたチケットを見せて同じアムトラックか確かめた。ラッキー、一緒であった。アムトラックは指定席が無く、自由席なので早くから並ぶ人が多いのだ。
 しばらくするとゲートが開きホームへ行くことに。先ほど会話した女性の後ろをついていくことにし、どうにか椅子に座ることができた。先ほどの女性が斜め前に座り、私と目が合い、“Hi” と私が手を振りながら口で言うと彼女も手を振って返してくれた。さぁ、出発である。3時間以上もかかるので、少し疲れたのか眠くなってきたので、眠ることにした。
 ちょうど目が覚めたのはフィラデルフィア駅であった。先ほどの女性がこの駅で降りていった。まだあと1時間半くらいはある。もう一度寝ることに。寝るといってもぐっすりと寝ることはできなかった。乗り過ごしてしまえば大変なことになるからだ。そして車内放送のアナウンスは何を言っているのか全く分からなかった。緊張しながら寝ていた。だんだんとニューヨークに近づいている。駅に停まるごとにホームの駅の看板を必死で見ていた。今はどこの駅か。車掌さんにも聞いてみたが、何を言っているかわからなかった。聞き返してもおそらくわからなかっただろう。
 そしてある駅に止まった。“Penn Station” と書いてある。それにギョッとした。ペンシルバニア駅は略してペン駅というからだ。降りなければ!と急いで降りようとし、一応後ろに座っていた二人の女性の方に、ここはペンシルバニア駅か聞いてみると、次ですよ、と教えてくれた。助かった。間違って降りても次のアムトラックが来るのは何時かわからなかった。次の駅か、と焦った気持ちを落ち着かせていた。やっとのことで、ペンシルバニア駅、ニューヨークに到着する事ができた。23時過ぎであった。

女の子とユニオン駅へ

 梅雨入りしたというのに今日は晴れであった。明日は昼から雨が降るという。日付が変わってしまっているので、今日ということか。




 ワシントンフライヤーという空港のシャトルバスに乗った。$10である。20分から30分くらい乗り、地下鉄の駅に到着した。地下鉄に乗って、ユニオン駅というところまで行かなければならない。そのユニオン駅にアムトラックが発着するのだ。先ほど話をした年配の女性の方と一緒に降り、地下鉄の切符の買い方を教えてくれるという。その女性は定期券みたいなものかは分からないが、すでに切符を持っていた。しかしその女性もシングルパスの買い方がわからないのだ。そこで近くにいた黒人の警備員の方に切符の買い方を教えてくれるように頼んだ。もちろんということで一緒に切符を買ってくれたのだ。ありがたいありがたい。
 その女性にどこまで行くのか聞かれ、ニューヨークに行かなければならないので、とりあえずユニオン駅までですと言ったら、驚いていた。ユニオン駅まで行くのに、地下鉄の乗り換えが必要なのである。オレンジラインからレッドラインに乗り換えなければならない。そこでその女性は周りにユニオン駅まで行く人を探してくれたのだ。おそらく私一人では心配だったのであろう。私も誰かいてくれた方が安心である。そこで私と同じくらいの年の女の子と出会った。彼女もニューヨークに行くという。それでは一緒にいきなさいとその年配の女性が言い、その女の子も一緒に行こうと言ってくれた。
 その女の子は、グレイハウンドというバスを使ってニューヨークに行くらしい。それを聞いて私もグレイハウンドで行こうかなとも思ったが、アムトラックにした。今思えば一緒に行っていたらと少し後悔している。外国人の友達を作りたいと思っていたからである。日本から来たというと、私の家族のことを心配してくれ、とてもうれしかった。年配の女性の方とその女の子と私の3人で話をしていたが、年配の方はロンドン出身で、その女の子はアルゼンチン出身で、私は日本出身だった。みんなバラバラでアメリカの多民族国家というのを思い出し、ここでも表れているのかなと思った。
 途中で年配の女性の方が先に地下鉄を降りた。私とその女の子と一緒に椅子に座った。またまたいろんな話をした。いつアメリカに来たかと聞かれると、3時間前と答えたら、びっくりしていた(笑)。荷物はどうしたの、と聞かれ、見つけられなかったと答えたら、どうするのと聞かれた。ニューヨークのホテルまで持って来てもらうんだ、と答えたら、重たい荷物を運ばなくていいね、私はこんなにたくさんあると答え、確かに荷物がたくさんあった。彼女にそう言われると、確かに荷物を運ばなくてラッキーだったかもしれないと思うようになった。
 地下鉄に乗り換えるとき、荷物が重そうだったので、持ってあげることに。確かに重かった。彼女も大分助かった様子であった。オレンジラインからレッドラインへ。地下鉄の駅は大変混雑していた。あれで一人でいたらかなり困っただろうと思い、彼女がいてくれて助かった。
 無事にユニオン駅に到着し、ここを真っ直ぐ行けばアムトラックのチケット売り場があるよ、と教えてくれ、彼女はエスカレーターで上に行くらしい。感謝の気持ちを伝え、お別れした。私も彼女と一緒にグレイハウンドでニューヨークに行っておいたらと思う。そこでメールアドレスでも聞いておけば、今度ニューヨークに来た時、案内を頼めたのにと今さら思うのだ。後悔しているところである。一期一会、出会いは大切にしなければならない。とにもかくにも、彼女に出会えたことを感謝している。

2011年6月21日火曜日

問題解決

 今日から青森は梅雨入りらしい。今にも雨が降りそうな天気である。梅雨というのはあまりいい季節ではない。雨を気にしながらは面倒だ。しかし、「おっ、今日は雨か、いいねぇー」と言えるような、気分で過ごせるようにしたい。




 さぁ、旅の続きである。バッゲージクレームセンターに直行だ。私が乗っていた飛行機はユナイテッド航空だったので、ユナイテッドのバッゲージクレームセンタへ。ドアがあったので、少しのぞいてみると、3人くらいのスタッフが仕事をしていて、カバンやスーツケースがいくつかあるではないか。失礼します、と言ってカスタマーサービスで渡された紙をスタッフの一人に渡して、この中にそのスーツケースがあるか聞かれたので探してみる。残念。無かった。しばらく待ってくれと言われたので、ドアの外で待っていた。しばらくして呼び出され、日本語ができる人を呼び出していますと言われたので、やっと日本語で説明ができると心の中で喜んだ。その日本語ができる人が電話に代われと言われたのか、私に電話が渡された。私は日本人と話ができると思っていたのだが、日本語が話せる外国人であった(笑)。何だよ、と思いながら心の中で笑ってしまった。確かに日本語は話せたが、それほどうまくはない。私が言ったことと違う意味でとらえてしまったのか、話が違ってきてしまう。私もこれではまずいと思ったので、時折英語を交えながら説明した。はたから見れば、わけのわからない会話をしていたと思う(笑)。私のスーツケースは今どこにあるのかと質問すると、何かの手違いでまだ成田空港にありますという。“What?成田?” ということはスーツケースは日本で、体だけがアメリカに来たということではないか。今なら笑いながら話せることだが、当時は焦りに焦った(笑)。明日私のスーツケースがワシントンに届くらしい。とりあえず、そのスーツケースの特徴を伝え、これからニューヨークにいかなければならないので、ホテルまで郵送してくれることになった。一応問題解決ということだ。
 さて、これからニューヨークにいかなければならない。ダレス空港からワシントンフライヤーというシャトルバスが、地下鉄の駅まで走っている。それに乗ろうと、歳ほどのユナイテッドの女性スタッフの方が、またまたそこまで案内してくれるという。本当にうれしい。そのバスのチケットを一緒に買ってくれ、ここで待っていたら大丈夫と教えてくれた。
 私が下りるところは、“East Falls Church” という地下鉄の駅であった。そこで思ったことは、途中でいくつかのバス停に止まるかどうかということであった。車内放送の英語を聞き取る自信はなかったし、バス停に止まるごとに教えてくれるかどうかもわからないかった。心配になり、近くにいた年配の女性の方に、このバスはこの“East Falls Church” だけに止まるのか聞いてみると、そうですよと教えてくれた。そこからまたまた会話になった。私は話をする人すべてに、「初めての海外なんです」と言っていたような気がする。ワシントンDCの人はみんな優しい人ばっかりですよ、と言っていた。私もそれは実感していた。まだこのアメリカに到着して、3時間もたっていないというのにたくさんの親切と優しさがあり、ここまで来ている。一人旅は出会いの数も格段に多くなる。誰かと行くとその人に頼ってしまうことが多い。しかし一人旅ではそれはない。すべてを自分でしなければならないからだ。しばらくするとバスが来た。さぁ、次の移動が始まった。

2011年6月20日月曜日

ハプニング

 今日で投稿200回目となる。どこまで続けられるかと思って始めたこのブログだが、気が付けば200回投稿している。早いものだ。大学卒業までは続けられるようにしたい。そして、卒業後も続けられたらと思っている。




 機内食の朝ごはんで、チーズが入ってあるパスタが出てきたのだが、これにはショックであった。食べれないじゃないか、と。袋の入ってあるパンも出てきたのだが、それはこれからの食事として置いておこうと思い、食べずにカバンの中にしまった。今回の旅ではできるだけ食費を浮かそうと考えていた。削れるのはそこくらいだと思っていたからだ。
 気が付けば外は明るくなっており、もう少しで到着という。日本時間の16日の16時20分に出発したが、現地に到着したのは、アメリカ時間で16日の15時であった。16日を2回過ごすような気がして、なんだか得をしたような気分であった。徐々に高度を下げ、無事に到着。13時間のフライトも思ったよりも早かった。予定より30分早く着き、入国審査の方へ。ダレス空港と言えば何か思い出さないだろうか。私は映画の「ダイハード2」を思い出した。この映画の舞台はここダレス空港なのである。入国審査では、帰国の人と外国人の並ぶところが違うので、女性スタッフの方にどこに並べばいいのか訪ね、こちらですと教えてくれた。私の番が回ってきたが、入国官はかなり愛想の悪い人で、何を言っているのかわからなかった。滞在期間や、何しに来たか、を質問され、5本の指の指紋を取り、顔写真を取った。ずっとワシントンにいるのか、と聞かれたが、その日のうちにニューヨークに行かなければならなかったので、これからニューヨークに行きますと言ったら、カスタマーサービスの方に行けと言われた。なぜかわからなかったので、行かなければならないのかと聞いてみると、そうだとうなずいた。その前にスーツケースを取りに行こうと思い、自分のスーツケースを探していたが、見つからない。近くにいた人に尋ね、カスタマーサービスに行った。結局カスタマーサービスに行く羽目になってしまった。しばらく待っていて下さいと言われ、椅子に腰を下ろし、かなり待っていたような気がする。しかし、私の荷物は見つからないという。カスタマーサービスの人にも、ずっとワシントンにいるのか聞かれたが、今からニューヨークに行かなければならない、と言い、何で行くのかと聞かれ、アムトラックだと答えた。何時のアムトラックに乗るのか聞かれたが、私の予定としては17時過ぎのアムトラックに乗る予定であった。しかし、その人に間に合わないかもしれないがそれでも良いか聞かれ、チケットいの予約をしていなかったので、大丈夫と答えた。日本にいるとき、アムトラックのチケットも予約しておこうかと思ったが、やめておいて正解だった。
 もうしばらく待たされ、メインターミナルのバッゲージクレームセンターに行けと言われた。そこに行ってこの紙を渡すようにと紙を渡された。もう何が何だか分からなくなってきた。ハプニングとはこのことである。初めての海外で、しかも一人で、どうしてこんな目に合わなければならないのかと泣きそうになった。しかし、泣いても助けてくれる人はいない。自分で選んだ道。誰のせいにもできない。すべて自分で解決しなければ。
 バッゲージクレームセンターに行けと言われたが、一体それはどこにあるんだ。階段を上れと言われたのだが、どこに階段があるのだ。真っ直ぐ行けば再び並んで、身体チェックをしている。しかしどこにも階段はなく、その真っ直ぐしかないので、そこに並ぶことに。後ろにいた人にメインターミナルはどこか聞くと、この先にあるよと教えてくれた。そこでも会話になった。どこから来たか聞かれ、日本だと答えると、地震の話に。家族は大丈夫か、今どんな状況かなどと聞かれた。みんな心配してくれているんだと嬉しい気持ちになった。
 ここでの身体チェックはかなり厳しかった。飛行機に乗る時よりも厳しい。ベルトをはずし、靴を脱ぎ、財布や携帯電話、カバンなどカゴの中に入れ、機械に通す。体は審査官にチェックされ、通ることを許された。厳しいと聞いていたが、本当に厳しかった。
 さぁ、メインターミナルにいかなければならない。どこにあるんだ。どれくらいの人に聞いたのか、20人くらいは聞いたと思う。少し進むごとに質問。ありがたいことにみんなちゃんと教えてくれる。地下鉄に乗れと言われたのだが、最初聞いた時は驚いた。メインターミナルはそれほど離れているのか。後から分かったことだが、滑走路とメインターミナルの移動は地下鉄を利用しなければならないのだ。
  ホームに行き、どこの駅で降りたらいいかわからない。ちょうどそこに黒人と白人の警備員のような人がいたので、話しかけることに。それが何とも優しい人で、一緒に行こうと言ってくれたのだ。特に黒人の警備員の方は地下鉄の中でもジョーダンを言って私を笑かしてくれた。初めての海外旅行なんですと言ったら、とてもうれしそうに「ようこそアメリカへ」と言ってくれた。荷物が見つけられなくて困っていると言ったら、「大丈夫大丈夫。心配するな」と笑顔で答えてくれ、私もそれでかなり落ち着いた。その警備員さんと地下鉄を降りて、エスカレーターを上る。そこを右に曲がったらバッゲージクレームセンターだよ、と教えてくれ、別れ際にがっちりと握手をした。その後もジョーダンを言いながら別れた。なんてアメリカは良い国なのだろう、そう思った。日本では考えられないコミュニケーションだ。このような助けは、旅人にとってどれほどの助けになることか。あの警備員さんのおかげで助かったかもしれない。警備員さん、本当にありがとう。

2011年6月19日日曜日

機内での白人女性との会話

 今日は朝からいい天気でとても気持ちが良い。こんな時こそどこかへ出かけたかったが、行くところもなかったので、部屋にいることにした。そういえば友達が今日コンサートに行くと言っていた。羨ましい。それにしてもいい天気だ。




 エコノミークラスということもあって、席がかなり狭い。NHよりも窮屈に感じられる。これで13時間はきついなと感じていた。席に座るときにはもう隣の方はいて、“Hello” と一言あいさつ。彼女も返してくれうれしかった。飛び立ってからしばらくして、税関申告書が乗客全員に配られた。書くことはは、ガイドブックを読んでいたので分かっていたのだが、その申告書はもちろんだがすべて英語。目を通していると、隣の白人女性の方が声をかけてくれ、申告書の書き方を丁寧に一つずつ教えてくれたのだ。ときおり日本語を交えながらであったので、ますますうれしくなり、少し話をすることにした。もちろん英語で、私の無いに等しい英語力をすべて発揮した(笑)。彼女は群馬県の高崎市に住んでいるという。1年半住んでいたのだが、今回の地震や原発事故で怖いのでいったん帰ることにしたのだという。やはり外国人は原発に関して敏感なのだと実感。日本に住んでいたが、日本語はほとんどしゃべれないらしい。ワシントンDCのダレス空港についてから、アムトラックでニューヨークに行くのだというので、私もアムトラックでニューヨークに行くと言ったら、一緒なので話が盛り上がった。飛行機の乗り継ぎは、面倒で、アムトラックの方が楽だという。
 私が今回初めての海外旅行だと言うと、「ずいぶん遠くまで行くのね」と驚き、「どのくらい行くの」と聞かれたので、「1週間です」と答えたら、「短いね。もっといたら良いのに」と言われたが、お金が無いんですと言ったら、「ごめんなさい」と笑いながら答え、私も笑ってしまった。
 26歳だという。どこに行くのか聞かれ、今回訪れるところを教えた。イントレピッド航空博物館は、まぁまぁだね、と言っていた。今回、ぜひとも訪れたかった、ホロコースト記念博物館はどうでしたかと聞くと、「すごいところだったわ」と言い、絶対に行った方が良いという。彼女は広島の原爆ドームにも行ったことがあると言うが、それよりももっと悲しいところだったと言っていた。ますます行きたくなってきた。やっぱりニューヨークで一番楽しいところはブロードウェイ、タイムズスクエアという。私は大好きと言っていた。ニューヨークとワシントンDCの地図を見せ、どこに何があるか、地元の知識を教えてもらった。私はチーズが嫌いなので食べれないけど大丈夫か聞いてみたが、大丈夫とあっさり答え、ニューヨークには屋台がたくさんあるし、チーズのない物もいっぱいあるよと教えてくれ、少し安心したのであった。
 他にも色々な話をした。私は大阪に住んでいると言い、今日と入ったことあるのと聞くと、「あるよ!京都大好き!」とすごく楽しそうに答えていた。大阪はどう?と聞くと、「大阪はあんまり好きじゃない」と言い、私は大笑いしてしまった。大阪はBIG CITYと言っていた。私が剣道をしている話や、座席についてあるテレビのモニターのリモコンの使い方なども教えてくれた。まだアメリカについていないのに、これほど英語を話すとは思ってもみなかった。
 しばらくしてから機内食が来た。“BEEF or CHICKEN?”と聞かれ、“FISH” じゃないし、と心の中で笑ってしまった。すぐ近くにいたキャリーアテンダントは二人とも男性で、黒人の方とアジア系の方であった。かなりフレンドリーでいろいろな乗客と話をしていた。夜食も出たり、サービスがかなり充実していたのは驚きであった。
 時折、かなり揺れることがあり、シートベルトを締めるようにランプが付く事がある。私の机の上に水を入れたコップが置いてあったのだが、揺れるため、水がこぼれてしまうのだ。あーあー、と思いながら、飲んでしまおうと思ったのだが、かなり揺れているので、飲むのもかなり苦労しなければならなかった。あの必死に飲もうとする姿は、我ながら笑ってしまう(笑)。
 時差ぼけを防止するには我慢して起きておいた方がいいと誰かから聞いたことがあるが、そんなことのは構わず寝ようと思い、ぐっすりとはいかないが、眠ることができたのでよかった。

2011年6月18日土曜日

いざ、アメリカへ

 9時過ぎに成田空港へ到着した。次のフライトは16時20分だったので、約7時間待たなければならなかった。曇り空であったが、だんだんと晴れてきたので、展望台へ行って、飛行機が飛ぶのを見て時間をつぶそうと思った。飛行機が飛ぶのを何度見ていても飽きなかった。何トンもの鉄の塊がどうして空が飛べるのか不思議でならなかった。展望台は外国人の方もいて、とてもいい雰囲気であった。次のフライトまで待っている間、2回くらい携帯電話に、エリアメールで緊急地震速報が入った。空港がガタガタゆれていた。震度4くらいであった。しかし、フライトにはなにも影響はなかった。
 昼ご飯を食べようと思い、空港内のコンビニへ。当時は計画停電の影響かどうかはわからないが、ベンチや地べたに寝転がっている人がかなりたくさんいた。おそらく空港で寝泊まりしているのだろう。ベンチに座りたかったが、空席は一つもない。コンビニへ行っても、ほとんど売り切れている。売れ残っていたパンを二つと、機内で食べるお菓子を少し買っておいた。座るところが無いので、仕方なく先ほどの展望デッキで食べることに。少しいるくらいなら何ともないのだが、しばらく座っていると寒くなってくる。風邪をひいてはいけないと思い、空港内の土産物屋さんを回ることにした。ほしい靴下があり、買おうと思ったが、ここではあまりお金を使わないでおこうと、あきらめることにした。
 チェックインカウンターの場所を調べておこうと、ロビーへ。成田空港は「南ウィング」と「北ウィング」に分かれていた。私はずっとNHと思って、スクリーンなどで確認しても、どうしてもNHが見つからない。北ウィングと南ウィングを行ったり来たりしていたが、どうしても見つからなかったので、インフォメーションセンターで聞くことに。「ユナイテッドは12時30分からチェックインが始まります。」という。ユナイテッド??よくEチケットを見てみると、“NH”と書いてある後ろの方に、“by UNITED AIRLINES” と書いてある。それでユナイテッドかと問題解決したということだ。先にチェックインだけしておこうと思い、列に並ぼうとしたが、人で混雑していてどこに並べばいいのかわからない。ここだと思って並んだところが違う列だったりし、どこがどこだかわからない。ユナイテッドの列はカウンターからかなり離れたところに最後尾があり、やっとのことで並ぶことができた。しかしなかなか順番が回ってこない。すぐ後ろに並んでいた人と話をしたりして時間を潰していたが、チェックインできたのは並び始めて3時間たっていた。
 やっとのことでチケットが手に入り、そろそろ飛行機に乗らなければならない時間であった。成田に到着してからあっという間に7時間が過ぎようとしていた。もう日本としばらくの間お別れか、と少しの間、ぼーっとしていた。セキュリティチェックをし、出発ゲートのところへ。ユナイテッドは灰色の飛行機であった。チケットを機械に通したが、呼び出され、再びチェックのようなものを受けた。いきなりでびっくりしたが、何も問題なし。きれいなキャリーアテンダントさんがいるのかなと思ったが、男性ばかり。しかし、かなり愛想のいいおじさんが英語で迎えてくれ、こちらも笑顔で、“Hello” と返す。もうここから外国のように感じられた。今回も席は一番奥の通路側であった。隣は白人女性。離陸前にもう一度家族にメールをした。「しばらくはメールできないな」と思いながら。
 いざ出発となると、日本と離れるのが少し辛かった。初めての感覚であった。スケールの大きさに戸惑うばかりだ。必ず日本に帰ってこよう。ここからアメリカへ向けて、約13時間のフライトが始まった。

2011年6月17日金曜日

初フライト

 今日は少し肌寒いくらいではあったが、よく晴れていた。明日は曇りのようである。以前でも書いたのだが東北剣道連盟に登録しておこうと思ったのだが、一人3200円もかかるということが分かった。私個人なら出す金額なのだが、私一人登録してもあまり意味が無い。資料には、代表の代わりになる人や、次期幹事長も書かなければならないところがある。おそらく私の部員はあまり気が進まないだろう。一人だけ登録して、あとから電話などがかかってき、向こうにも迷惑をかけてしまうと思ったので、登録するのをあきらめることにした。来年度考えたい。




 私がこのアメリカ一人旅についてこのブログに書かなかった理由は、東日本大震災ともう一つある。改めて文章に書くということは、旅を振り返ることになる。つまりそれは、旅が終わっていることを意味している。今まで生きてきた中で最高の、あの素晴らしい1週間の旅をまだ終わってほしくないという気持ちがあった。文章にしてしまったら旅が終わってしまうような気がしていたのだ。それですぐに文章にしたくなかったのである。
 これほど旅から時間が経ってしまったので、もう忘れてしまっているのではないかという人もいるかもしれないが、それは大丈夫である。向こうに行った時、毎日日記を付けていたからだ。小学校の時は、日記を無理やり書かされていたということもあったが、生まれて初めて自分から日記を付けていた。見たモノすべてを書きとめた。そして見たモノすべてを写真に収めた。それらを読んだり見たりすると、当時の風景がよみがえってくる。もちろん忘れてしまっていることもあるが、大部分は記録になっているので心配無用である(笑)。
 
 朝早くの暗い大阪の街を一人歩いた。いつもなら人でいっぱいの梅田も、さすがにその時間にはそれほど人がいなかった。スーツケースを引いて歩くのは初めてであったので、スーツケースがいうことを聞いてくれず、うまく転がすのには少し時間がかかってしまった。
 7時55分伊丹空港発、成田空港行きの飛行機に乗らなければならなかった。少し遅くなってしまったと思ったが、調度くらいであった。伊丹空港に来るのは覚えているうちでは3回目だ。1回目は、兄が友達と北海道へ遊びに行くときに、空港まで見送ったことがある。2回目は、今通っている大学の友達が関西に遊びに来た時、帰るときに空港まで見送った時だ。どちらも飛行機に乗りに来たわけではない。どのカウンターに行けばいいのか分からず、適当に国際線と書いてあるカウンターで聞いてみて、乗り継ぎのある人は向こうのカウンターだと教えてくれた。スーツケースのチェックをし、チケットをもらった。バックパッカーを持った学生くらいの男性二人がいたのだが、いかにも旅慣れをしているという感じであった。「現地に入ったら情報を集めよう」と言ったのが聞こえた。すごいな、と感心してしまった。
 手荷物チェックをし、飛行機の中へ。誰もが心配することだが、「落ちないかな」と私ももちろん心配していた。しかし初めての飛行機ということもあり、わくわくもしていた。私の席は、一番奥の窓側であった。のろのろと動きだし、滑走路へ。いきなりスピードを上げ、気が付けば機体が浮いている。「飛んだ!」と心の中で叫んでしまった。あっという間に雲の中へ。街が小さくなった。「これが飛行機か」
 約1時間ほどのフライトであったが、外の景色を見てかなり楽しめた。とりわけ富士山の美しさには言葉を失ってしまった。隣に座っていた男性は、飛行機慣れしている様子で、すぐに毛布を注文し、ひじ掛けの下にあるリモコンを操作し、音楽を聞き始めていた。あれよあれよと成田空港に到着してしまった。9時過ぎであった。預けたスーツケースは、ワシントンDCのダレス空港で受け取ってくださいと、伊丹空港で言われたので、成田空港ではスーツケースは触らなかった。これがハプニングにつながるとは、この時思いもしていなかった。

2011年6月16日木曜日

旅立ちの朝

 今日は朝から太陽が出ていて、暑い一日となった。快晴とはこのことを言うのだろう、と思うくらいであった。



 昨日書き忘れていたが、航空券は8万7千円くらいのものを購入した。成田空港からワシントンDCダレス空港への直行便なので、かなり安い方だろう。そしてもう一つ、購入しなければならないものがあった。それはスーツケースだ。近くのデパートなどに探しに行き、5泊7日のものを購入。TSAロックが付いてあるものだ。TSAロックとは空港で、スーツケースの中を調べるときに使うものだ。数字の暗証番号を自分で設定する。しかし、そこにカギ穴が付いているのだ。このカギ穴に合うカギは私は持っていない。空港の人が中を開けるときに使うのだ。これがTSAロックだ。
 次にしなければならなかったことは、両替だ。もちろん円からドルに。私が両替しに行った時の相場は、確か1ドルが83円であったような気がする。手数料はなしだ。300ドルと交換した。この金額も、高校の担任の先生のアドバイスだ。
 後は持って行くものを用意した。お菓子はかなり持って行くようにした。もし向こうでご飯が食べられなかった時のためだ。洗面用具、1週間分の衣類、ペットボトル2本。パスポートを首から下げる入れ物も購入した。肌に話さず持たなければならなかったからだ。ホテルに置いていくようなことはあり得ない。貴重品は常に肌に離さず持つのが旅のマナーだ。
 そしてアメリカに旅立つ前に、ESTAの申請を行わなければならない。これはアメリカに行くなら必ず申請しなければならないことだ。インターネットでできるので、それほど手間のかかるものではなかった。それを申請し、さぁ、いよいよ出発だ。

 3月16日の朝、5時。私は仕度をし、出かける準備をした。家族で起きていたのはお母さんだけ。急いでご飯を食べ、いざ出発。外は暗く、私も楽しみよりも不安の方が大きく、あまり気が乗らない。エレベーターのところまでお母さんが見送ってくれた。気を付けて、ではなく、「頑張ってきいな」であった。うん、そうだ。頑張らなくては。すべては自分で計画し、自ら選んだ道である。泣きごとなどは許されない。エレベーターを降り、上からお母さんが手を振っている。出かけるときはいつも見えなくなるまで手を振ってくれている。いつもなら「バイバイ」という気持ちで私も手を振るのだが、その時はそんな気持ちではなかった。無事に帰ってこられるだろうか…。恥ずかしいが涙が出てきてしまう。最初からこんなことで泣いていたらどうするのだ、と自分に言い聞かせていた。
 真っ暗な道をスーツケースがゴロゴロとやかましく音を立てる。私は行く。行くのだ。世界に飛び立つのだ。アメリカを見るために、世界を感じるために、そして自分のために。お母さんが見えなくなった。「頑張ってくるわ!!」

2011年6月15日水曜日

クレジットカード、航空券

 朝は曇っていたが、昼からだんだんと晴れてきて、明日も晴れるという。今日は、授業が終わった後、A保健大学に行ってきた。もちろんボランティア報告会の宣伝の件だ。このA保健大学にもボランティアサークルがあり、かなり活動しているらしい。そのサークルもそのような報告会がしたいということで、もしかすると私たちと合同で報告会ができるかもしれない。この大学の事務の方もつながって支援ができたらいいですね、とおっしゃっていた。私もそう思う。もちろんこのA保健大学だけではない。昨日、おとといと訪ねた大学や県内の大学で連携して復興支援ができたらいい。その一歩が6月末の報告会でできたらと思っている。



 さて、行き先が東海岸と決まった。しかし行く前にしなければならないことがあった。それは旅に行く前にもこのブログで書いていたことだが、クレジットカードを作らなければならなかった。私は時代遅れだったので、その様なカードは持っていなかった。その高校の担任の先生が言うには、ビザかマスターにしておいた方がいいという。JCBはアメリカではほとんど使い物にならないそうだ。作るのに時間がかかるかもしれないので早めに動いた方がいいとアドバイスしてくれ、次の日に銀行へ行って、早速作ることに。急ぎで作ってほしいということを頼んだのだが、3週間はかかるかもしれないという。これはまずいと思いながら帰りの途中に本屋さんに行っているときに、さっきの銀行の方から電話がかかってきて、LOFTのカードならすぐに作ってくれるかもしれないと教えてくれた。これもさっそくLOFTに行き、すぐに作れるかどうか聞いてみた。即日発効はできないが、1週間でできるという。それならばと思い、お願いをした。
 なぜカードが急ぎで必要であったかというと、ホテルを予約するのにカード番号が必要だったからだ。つまりカードが無ければホテルの予約ができないのである。本当はホテルの予約をしないで行き当たりばったりのホテルかユースホステル、ドミトリーにしようと思っていたが、ニューヨークは年中ホテルがいっぱいだというので、泊るところが見つけられず、ニューヨークの夜を外で過ごすのは、初めての私にとって不可能であったのでホテルは予約してから行くことにした。高校の担任の先生は、ドミトリーなら世界中から若い人が集まってくるぞ、と言ったので、宿泊費もかなり安いので、私もそれにしようと思ったのだが、ドミトリーでの貴重品の管理は極めて厳重にしておかなければならないのだそうだ。どこへ行くにも必ず肌に話さず持ち歩かなければならない。風呂に入るときもビニール袋に入れて自分のそばに置いておかなければならない。それを聞いて私はもう少し気を使わないところにしておこうと、安いホテルを探した。できるだけ、地下鉄の駅に近いところを探した。先生が言うには、チャイナタウン周辺、アッパーウエストサイド、そしてマンハッタン州の近くのブロンクス、クイーンズはやめておいた方がいいと言う。わたしはグラマシーの一泊7500円くらいのホテルにした。このホテルは、ペンシルバニア駅から歩いて15分くらいのところで、かなり便利な所に立っている。ワシントンDCのホテルは、安いところがなかなか見つけられず、一泊1万3千円のところにした。これでも安い方だ。ワシントンDCに行くときはかなり疲れているだろうから、思いっきり休める方がいいかなとも思ったりし、あまり高いとも思わなくなった。
 その前に、航空チケットも買わなければならなかった。チケットを買わなければホテルの予約もできない。インターネットで「格安航空券」と検索し、様々なサイトから探した。安いと思って、詳細を見てみると、燃油サーチャージや何種類かの税がかかり、結局10万円を超えるのがほとんどであった。大韓航空を使うと、いったん韓国に行ってからアメリカに向かうというのもある。それは知っていたし、安いということもあったが、何といっても初めての海外旅行。しかも飛行機に乗るのも初めてであったので、直行便が良い。それを探した。行き先は、ニューヨークとワシントンDCであったので、どちらから先に行ってもよかったのだが、航空券の値段としてはワシントンDCのダレス空港に行く方が1万円ほど安かったので、ワシントンDCのダレス空港着の往復航空券を買うことにした。やっと旅が見えてきた。

(本当は東海岸ならワシントンDCだけに行くことにしていたが、高校の担任の先生は、「もったいない」と言い、ニューヨークにも行って来いと言われたので、ニューヨークにも行くことにした。)
(クレジットカードはビザにした。結局、LOFTカードと銀行のカードと2枚作ってしまった。)

2011年6月14日火曜日

アメリカまでの道のり

 今日も今月末のボランティア報告会の宣伝のお願いをしに、A中央大学に行ってきた。私のお願いに乗ってくれ、大変うれしかった。明日も行かなければいけなくなった。その報告会に参加してくれるように、こちらとしても頑張らなければならない。
 今日の朝は雨が降っていた。久しぶりに寒いくらいの気温であった。これで体調を崩す人がいるのは確かだろう。季節の変わり目は体調を崩しやすいので気を付けたい。


 授業が終わった後、『深夜特急』のシリーズをすべてそろえようと思い、買いに行ってきた。すべてそろったのだが、『旅する力』という「深夜特急ノート」という形まとめとして出版されているので、それも今度買いに行きたいと思う。しかし、この本を読んでいると、この前私がアメリカに行った時のことをよく思い出す。ということで、私のアメリカ一人旅のことを、数日かけて書いていきたいと思う。
 なぜ私がアメリカから帰ってきてすぐに書かなかったのか。その理由は震災の影響がある。日本に帰ってきてまず思ったことは、その災害の状況はどうなっているのかが一番気になっていた。もちろんすぐに書きたい気持ちもあったが、それどころではなかった。すぐにボランティア探しに走った。もちろん今も震災の影響は続いている。常に支援する気持ちは忘れないでいたい。
 
 まずは、そのアメリカ一人旅に行くまでの経緯を書いていきたい。さかのぼればどこまで行くのかわからないが、まずは簡単に中学校の話でもしようか。私が中学校で一番成績が良かったのは英語だ。とにかく英語はよく勉強したのを覚えている。3年間同じ先生であったし、私が今まで出会った先生の中で一番面白い先生でもある。中学校の先生で、卒業後何度もお会いしている先生だ。その先生の言葉が今も胸の中にある。「英語ができれば、人生2倍3倍にもなる」
 中学校の時は、アメリカンイングリッシュとブリティッシュイングリッシュの違いにも興味があった。何がどう違うのか、どう発音が違うのか。アメリカンイングリッシュが使われているのはこのエリア、ブリティッシュイングリッシュが使われているのはこのエリア、と世界地図を見るようになった。そこから世界に興味がわいてきた。日本は何て小さい国なんだろう、と。
 私は中学校卒業後、英語科のある高校に進学した。英語を勉強したかった。親父は理系に進学させようと必死であったが、私には興味があまりなかった。中学校から数学が苦手になっていた(笑)。英語科にはやはり英語が得意な人ばかりが集まり、私は下の方であった。正直、高校に入ってからは英語の成績は伸びなかった。しかし、成績は悪かったが、英語はなぜか嫌いにならなかった。毎日英語の授業があり、英語理解、英語表現、異文化理解、時事英語、イングリッシュコミュニケーション、その他にもたくさんの英語の授業があった。イングリッシュコミュニケーションの授業では、各10人に分かれて、一人のALT,そして英語の先生とひたすら英会話の授業があった。今思えばこの授業は素晴らしい授業であった。英語を話すのが自然になってくる。私は高校生の時は英語をある程度話せていた。私が今通っている大学の英語の授業よりもはるかにレベルが高いし、質も良い。ここに来てからは英語をめっきり話さなくなった。そしてそのコミュニケーションの授業では、英語でディベートもした。お題は様々。国際結婚に賛成か反対か、人工妊娠中絶に賛成か反対か、嘘をついていいか悪いか、などなど日本語でも難しい内容だが、それを英語で会話していた。
 高校生の時のあまりいい思い出ではなかったことがある。それが今回のアメリカ一人旅につながってくる。私の高校では研修旅行というのがある。行き先は毎年交互に、アメリカ、オーストラリアに行くことになっている。私の年はアメリカであった。アメリカとオーストラリアに姉妹校があるのだ。そのアメリカの姉妹校の生徒のところにホームステイしに行くというのがこの研修旅行だ。私も楽しみにしていたイベントだ。しかし、研修旅行前、自然気胸という病気になり、参加できなかった。海外に行っていないのは私だけとなってしまった。
 私はその日から必ずどこかへ行こうと考えてきた。そして今回、行こうと決心した。行き先はかなり迷った。もちろん研修旅行で行ったシカゴでもよかったのだが、西海岸と東海岸に焦点を当てた。
 3か月前、私の高校の時の担任の先生のところへ相談に。本当はこの担任の先生と一緒にアメリカに行っていたのだが。当時、この先生とともに涙を流していたのを思い出す。そして相談の結果、行き先は決まった。東海岸!!

(今日の写真は、大阪にいるとき私がよく行く駅の出口を出た所からの景色です。)

2011年6月13日月曜日

報告会の宣伝

 今日の朝から夕方にかけて晴れていたが、急に雨が降り出してきた。どうやら夕立みたいであった。明日は少し寒くなるみたいだ。
 
 昨日自転車で少し遠くまで足を運んだ。駅前を超えて15分くらいのところまで出かけた。もちろん買い物だ。友達と朝から出かけた。土曜日のバイトの疲れが少し残っていた。筋肉痛になっていたし、少し歩いただけですぐに腰が痛くなってしまった。私はそれほど用事はなかったのだが、本だけは買いたかった。この前のブログでも書いた『深夜特急1』の続きが読みたかったので、2,3,4と購入した。全部ほしかったが、お金の関係でまたの機会に全部そろえることにした。
 それにしても疲れが残っている。私の休日の過ごし方は、二日あるなら一日は部屋にいることにしている。体を休めるためだ。しかし今回の休日は休むどころか、平日よりも働き、寝る時間が少なくなり、買い物にも行かなければならなかった。休む時間が無く、体がだるい。今日は早く寝るようにしたい。

 授業が終わってから、近くのA大学まで行き、今度6月末に駅前で行われる報告会の宣伝に協力をしてもらえるようにお願いに行ってきた。チラシを持って行き、すぐに宣伝しますとのことで、大変うれしかった。明日はまた違う大学に宣伝に行かなければならない。

2011年6月12日日曜日

コンサートスタッフ

 一昨日のブログで昨日用事ができたと書いたが、その用事とはコンサートスタッフなのだ。友達から金曜日にバイトに出られなくなったから、代わりに出てほしいと前日に頼まれたのだ。朝7時30分に集合で、解散が夜中の1時と書いてあり、特に用事が無かったので、引き受けることにした。それにしても集合時間が7時30分とは早い。
 昨日、朝5時30分に起きて、6時30分過ぎに下宿を出た。まず最初の仕事は、椅子の上にチラシを置いていくことであった。その後、コードの上からテープを張ったりする仕事をした。コンサートが始まるまではそれほどきつい仕事はなかった。コンサート開演と開演中はロビーで待機する事であった。開演前はロビーでお客さんを案内する仕事をした。今までコンサートに何度も足を運んでいるが、今回は迎える側だったので、不思議な感じがした。よく聞かれたのは、「トイレはどこですか」であった。始まる前にトイレを済まさなければならない。しかし女性のトイレにはかなりの列ができていた。それはどこへ行っても同じ光景を見るが大変そうだ。
 開演中はロビーで待機であったが、中の様子も見たかったので、入口付近にも行ったりし、ちょうど入口の仕事を任され、かなり中の様子を見ることができ、コンサートに行った気分になった。やはりコンサートは素晴らしい。私はよく「生きた音楽」と表現する。そう、コンサートは生きた音楽だ。CDで聴くのとは全く違うのだ。音もすさまじい。体が揺れる。地面が揺れる。音の破壊光線だ。
 コンサート終了後、バラシという仕事があったのだが、ステージを解体する作業だ。私は照明の仕事を任された。これが大変な作業で、体力と時間との勝負であった。専門の方について、やることを指示される。間違えればすぐに檄が飛ぶ。私も何度か怒鳴られた。どれも重いものばかり、しかも慎重に扱わなければならないものばかり。休む時間もなく次から次へと仕事がある。照明の仕事であったが、気が付けば違う仕事していた(笑)。それだけやることばかりで、考えている時間はなかった。私は朝から来ていたので、22時で終了であった。昼から来た人はまだ仕事をしていた。それにしても辛い作業であった。私たちに指示を出す人の中に、男性だけでなく、女性も何人かいた。かなり偉そうに指示をしたり、私のようなバイトの人たちを役立たずみたいに扱ってくるので、こっちもやる気がなくなってしまう。まぁ、彼らも時間との勝負で、切羽詰まっていたのはわかるが、もう少し気持ちのいい表現の仕方はないのかと思ってしまう。コンサートを見ることができたので、プラマイゼロというところかな。

2011年6月10日金曜日

調子悪いパソコン

 昨日の夕方から今日の朝にかけて雨が降っていたが、私が大学へ行く頃には止み、だんだん晴れてきた。昨日のブログでも書いたが、やはり今日の教室もクーラーで、少し寒かった。どうにかならないものか。私が高校の時は、これ以上温度を下げれなく設定してあったのだが。ここではしていないのが残念である。

 最近パソコンの調子が悪いみたいで、文字を打つたびに音が出る。文字も一定の量を書いたらすべて消えてしまうのだ。今日は半分も書けない。申し訳ないが、今日はこのくらいにしておきたい。明日は用事ができてしまい、おそらく更新できないと思うので、日曜日にまた更新したい。

2011年6月9日木曜日

節電

 今日は夕方前くらいまでは晴れていたのだが、そこから天気が急に悪くなり、雨が激しく降ってきた。雨が降り出したときは、教室の中にいたので、大丈夫であった。この季節のなると、夕立が多くなってくるので、天気の変化に気をつけるようにしたい。
 最近暑くなったが、もうすでにクーラーがついている。少し早過ぎると私は思う。確かに教室の中は風通しが悪く、暑い。窓を開ければ虫が入ってくるので、窓を閉めておいた方が良いかもしれない。しかし、震災の影響で節電するように心がけなければならない。今日は寒いくらいクーラーがついていたので、少しくらい協力しようという人はいないのだろうか。ニュースを見たのだが、福島県の小学校、中学校では放射能の関係で半袖を着たくても、長袖を着なければならないのだそうだ。その様に止むを得ず長袖を着なければならないところなどでクーラーをつけるのであれば何も言うことはない。むしろ快適に過ごせるようにしてほしい。しかし私たちはもう少し気をつけなければならない。何もクーラーをつけるなと言っていない。設定温度を高くすればいい。クーラーは電気をよく食う。寒いくらいつける必要は全くない。廊下や階段の電気は付いていたら消すようにしている。暗くなったらつけるのは当たり前だが、朝から電機は必要ない。一人ひとりが心掛けなければならないことだ。私だけがやっていてもあまり意味が無い。
 おそらく自分からそういうことをやらない人は、自分の代わりに、「誰かがやってくれるだろう」と思っているのではないか。自分と無関係に考えている人がいるはずだ。この例が当てはまるかどうかはわからないが、昔の戦争の例を出してみたい。戦争は終わりたくても終われなかった。それはなぜか。私が当時の一個人として存在していたら、「誰かがこの戦争を止めてくれるだろう。」と思っていたであろう。しかし残念なことに、当時の人々みんながそう思っていた。「誰かが止めてくれるだろう」と。そのため戦争が続いてしまうことになった。
 周りがやらないから私もやらないのではなく、自分だけでも意思を持って動けばいい。自ら風になればいい。そうすれば周りも動いてくるはずだ。節電、少し気をつければできることだ。少しの我慢でできることだ。私がやらねば誰がやる。この節電も復興のお手伝いになるはずだ。


 今日の写真は、東京のお台場で撮った写真である。フジテレビだ。有名人には会えず少し残念。このフジテレビの下で、震災のチャリティーコンサートのようなイベントが行われていた。

2011年6月8日水曜日

メンバー集合

 今日も暑い一日となった。春になったかと思えば気が付けばもう夏になろうとしている。そんなに急がなくてもいいのに、と言いたくなるのは私だけだろうか。季節は巡る。置いていかれないようにしなければならない。

 今日はボランティア団体のメンバーが集まる日であった。全員が集まるというのは不可能なので、2回に分けて集合した。結局全員で、16人となった。今先ほどメールで、協力したいというメールが届いたので、17人となった。最初は私を入れて、5人も集まればいい方かなと思っていたが、これほどの人数になり、嬉しい。
 まずは自己紹介から始めた。全員が集まるのはこれが最初なので、みんな誰か誰だかわからない。自己紹介に時間をかけてみた。学年、学科、出身地、ニックネーム、サークル、アルバイト、趣味、特技、将来の夢、はまっていること、やってみたいこと、挑戦したいこと、自慢話などといろんなことについて話をしてもらった。思わぬところで話が盛り上がったり、共通点が見つかったり、地元の話で盛り上がったりなどと、大変面白かった。もっとメンバーのことを知りたかったが、時間が無かったので、このくらいで切り上げた。役員を決めたり、業務のことについて説明したり、今度の報告会のことについての説明をしたり、と話す内容はたくさんあった。私もすべて把握しているわけではないので、話が詰まったりするときはあったが、とりあえず何とかなった。本格的に活動が始まった感じである。一日でも早く復興に取り組めたらと思う。
 
 今日はそのほかにも、就職に関しての説明会のようなイベントもあった。パソコンを使って情報を送ってくれるところに登録するものであった。もうこの6月は就職に備えるための準備期間に入ってしまっている。そのこれからのスケジュール表を見れば、焦ってきてしまう。夏休み明けまでに、SPIの問題集をしなければならないという。もうそんな時期に来ているのか。まだまだ学生をして、自分のやりたいことに挑戦していたいのにと考えてしまう。しかし時間は待ってはくれない。就職はすぐそこまで来ている。

 今日の写真は、一昨日のブログでも書いた慶応義塾大学の写真である。

2011年6月7日火曜日

『深夜特急』

 今週は、春から夏になったという気候だ。昨日と今日は半袖でなければ暑い。夜になると少し寒くはなるのだが、昼間はもう夏である。まだたんすに長袖ばかりしかなく、朝起きて急いで半袖を取りだした。ついでに半ズボンも。衣替えをしなくてはならない。
 今日は授業が昼からなので、いつもなら昼近くまで寝てしまうのだが、今日は体が動き、布団を干そうと思って柵を雑巾で拭いて布団を広げた。私の部屋は東向きなので、朝しか太陽の光が当たらないので、布団を干すときはいつも早く起きなければならないのだ。その後顔を洗うなど身支度をし、昼ご飯までは時間がある。いつもならパソコンをいじるか音楽を聴くかだ。しかし今日はその二つはしたくなかった。最近本を読んでいないなと思い、本棚から本を探し、これを読もうと取りだしたのが『深夜特急』だ。この本の作者は、このブログでも出てきているが、沢木耕太郎氏だ。この『深夜特急』は1~6まであり、シリーズとなっている。バックパッカーのバイブルと言われ、バックパッカーは必ず読むと言う。まだ少ししか読んでいないが、かなり面白い。インドのデリーから話が始まったのだが、私が旅したのとでは天と地の差があるほどの内容だ。というのも、この『深夜特急』の旅は今の私には到底出来るものではない。この旅には憧れる。私もいつかこのようなことができたらと感じる。まだ旅は始まったばかりなのだが、もうそこまで感じさせてくれるものだ。
 インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗合バスで行くという不可能に近い旅なのだが、作者はそれが成功するのかどうかはまだ分からない。まだ1冊目しか持っていないので、残りの5冊を買うことにしよう。
 世界を旅する人は多いが、一体どれくらいのお金がかかるのだろうか。私もいつか世界を旅したいと思っているが、やはりお金が必要になってくるので、誰かわかる方がいたら教えてほしい。
 やはり一人旅は良いものだ。今日も友達にアメリカの話をした。この前もしたのだが(笑)。5泊7日の短い旅であったが、かなり話ができるのではないだろうか。大学の講義の時間90分で考えれば、2,3回はできそうだ。この本を読んでいると、またどこかへ行きたくなった。もちろん海外にだ。同じ所でも良い。そういえばパスポートの期限が今年の8月で切れる。初めて作るときは5年のパスポートしか作れない。夏休みに大阪に帰った時、10年のパスポートを作ることにしよう。

2011年6月6日月曜日

六本木、赤坂、大江戸温泉

 昨日の続きのゴールデンウィークの東京の話を書きたい。5月4日、六本木に向かった。またまた六本木である。いつも六本木駅から、地下を歩いて東京ミッドタウンや六本木ヒルズに行っていたので、今回は地上を歩くことにした。東京ミッドタウンを訪れた。台所雑貨店やコンピュータの店、家具などいろいろな店を回った。私は六本木ヒルズよりも東京ミッドタウンの方が気に入っている。六本木は昔大名屋敷であった。ちょうどミッドタウンの辺りだ。そして時代が変わり、アメリカが入って来て、「軍の街」となった。昔の人は六本木はちょっとした外国という雰囲気であったという。日本で最初にハンバーガーを売り出したのはこの六本木だ。今はその店はなくなっているが。六本木も昔、少し谷になっていたが、埋め立てて今ではヒルズ(丘)となっているのはなんだかおかしな話だ。
 その後歩いて赤坂の方へ向かった。赤坂を訪ねるのは生まれて初めてであったのでかなり嬉しかった。赤坂サカスなどよくテレビで見かけるところであった。そこでも面白い雑貨屋さんを見つけ、また行かなければと思った。昼ご飯はパスタを食べ、次にお台場へ向かった。
 お台場に行くのは、2年ぶりくらいだ。今回お台場を訪ねた目的は、大江戸温泉に行くことだ。東京で温泉とは珍しい感じがした。友達が行きたがっていたところである。そこに行く前に、フジテレビの周りを歩いたり、いろんな店を回ったりして時間をつぶした。とても天気が良く、レインボーブリッジが綺麗であった。最近アウトレットができたらしく、そこに行こうと思い、向かったのだが、これが思っていたのよりもかなり遠く、歩き疲れてしまった。人もたくさんいて、ゆっくり店を回ることができなかった。歩いて大江戸温泉に行くのは付けれるので、再びゆりかもめに乗った。
 ゴールデンウィークなのか、大江戸温泉も人の山で、並ばなければ入ることができなかった。入るかで迷ったが、せっかく来たので入ることに。中は昔の街を思い出させるかのような雰囲気で、映画のセットの中にいるようであった。まず温泉に入った。やはり中も人だらけ。体を洗う場所を探すのも一苦労であった。足湯にも行ったが、座るところがなく、あきらめた。少しお腹がすいたので何か食べることに。最初は東京まで来て温泉か、と思っていたが面白かったので来てよかった。
 大江戸温泉から歩いてまたフジテレビのある所まで。「自由の女神」のレプリカがあるのだが、知っているだろうか。レプリカといってもただのレプリカではない。フランス政府の公認により、パリの自由の女神像から型を取り、フランスの鋳造所で作られた本格的なレプリカだ。その写真を取り、東京駅方面に向かうことにした。新橋から歩いて東京駅に。ご飯を食べるところを探しながら歩いていたが、結局東京駅で食べることに。夜行バスが出発するのは22時だったので、その前に友達が明日から仕事があるので先に帰り、22時まで時間をつぶし、そのバスで帰った。
 これが今回の東京の話である。

2011年6月5日日曜日

ゴールデンウィーク、東京の話

 今日は晴れたり曇ったりの天気であった。昨日買い物に出かけたので、今日はどこへもいかなかった。そういえばゴールデンウィークに東京に出かけ、その続きを書くと言ってまだい書いていなかったので、今日はそれを書きたい。

 5月3日、友達と会うまで時間があったので、一人で渋谷を歩いた。その後、友達から電話がかかってき、昼ごろにこちらに来れるといたので、今回私が行きたいところが浜松町だったので、浜松町で待ち合わせをしようと言い、電話を切った。すぐに浜松町に行くのは時間が早すぎたので、スクランブル交差点でしばらく時間をつぶし、山手線に乗って浜松町に向かった。
 天気が悪く、雨が少し降ってきた。傘をさすほどではなかったが。浜松町は東京タワーがあるところである。駅の改札を出たらすぐに東京タワーが見えた。今回そこが行きたいところではなく、その近くに「増上寺」とういうお寺さんがある。そこが今回行きたい場所であった。昔増上寺は、展望台みたいな役目もあり、多くの人が訪れていたそうだ。そこから海も見えていたという。かなり大きな建物で、立派であった。
 そういえば東京タワーのてっぺんのアンテナが、今回の東日本大震災の影響で、曲がっているのを知っているだろうか。確かに曲がっていた。曲がっても影響はないそうだが、一体誰が修理するのだろうか。
 増上寺の後、昼ご飯を食べていなかったので、東京タワーでご飯を食べるところはないかと思い、東京タワーに向かった。人が多く、かなり込み合っていたので、違うところで食べることにした。歩いて食堂みたいなところがあったので、そこで食べた。その後、近くの駅に向かっている途中に慶応義塾大学の前を通った。慶応義塾は今まで見たことが無かったので、「ここか」と少し感動。立派な大学である。そういえば私の浪人友達がこの大学に通っていたっけ。元気だろうか。
 銀座に向かった。ビン・ラディン氏が殺害されたときであったので、大勢の警察が街をパトロールしていて、落ち着かない雰囲気であった。銀座に「伊東屋」の本店があり、そこに行くことに。ここに来るのは2回目で、やっぱり見るだけで終わってしまった。歩行者天国になっていて、道路の真ん中を歩いた。写真にある煉瓦は、上に電車が走るところなのだが、このレンガで造られている橋は、東京駅が開通したころからずっとここの橋を支えているものである。明治時代からだ。そして横のコンクリートが違う時代に作られたものなので、時代の境がわかるところだ。
 有楽町へ行き、私の行きたい店があったのだが、並んでいたのでやめることに。東京駅前の本屋さんへ行き、時間をつぶした。本屋といっても、本だけを売っているわけではない。文房具やその他、ビジネスで使うものがそろっている。ここはかなり面白かった。
 これが3日の話である。まだ5月4日の話があるので、また書きたいと思う。

2011年6月4日土曜日

メンバー集まる

 今日は朝のうちは太陽が出ていたが、昼になると雨がぱらついてきた。買い物に行く予定であったが、今日はやめようと思い、昼ご飯を食べ、ゆっくりしていたが、だんだん空が明るくなってきた。やっぱり出かけようと思い、自転車に乗った。駅前まで行く必要があったので、駅前まで自転車を走らせた。まずは本屋へ行き、買いたい本があったが、本を買う予定はなかったので、あきらめることにした。まだ読んでいない本がたくさんあるので、そっちを先に読まなければならない。その後、ジャムを買いに行った。日曜日の朝はパンを食べるようにしている。いろんな種類のジャムがあったが、食べたことが無いものにした。イチゴのジャムにシャンパンを混ぜてあるものだ。酔わないだろうか(笑)。その後百貨店の地下にあるパン屋へ行った。その後、スーパーでお菓子を買い、電気屋さんへ行き、DVDディスクを買った。少し雨が降ったりもしたが、帰るときは晴れていた。今日はこういう流れであった。

 ボランティア団体の話だが、最終的に集まったのは私を入れて12人だ。これほど集まるとは予想していなかった。本当にうれしい。みんなそれぞれの思いがあり、ここに集まって来てくれた。本格的な活動に入るまでに、まだまだやることがたくさんあるが、一つ一つ協力して活動できたらと思う。今月末くらいに、駅前で報告会を行う予定だ。その時の受け付けや司会者、会場の整備などの仕事もしなければならない。またホームページも作る予定だ。他の大学に宣伝に行ったりする仕事もある。会計の仕事もある。これらを私たちでやっていく。今度その役割などを決める予定だ。その前にみんなメンバーの顔がわからない。私も完全に把握しているわけではない。顔合わせの機会も設けなければならない。しかし、最初の関門、「メンバーを集める」はクリアできた。もう次の山が来ている。みんなをまとめ、責任ある行動を取れるようにしたい。
 このブログでも紹介したが、「責任ある行動」は私の高校の時の恩師(担任)の口癖の一つである。


 昼ごろに入院していた友達から電話がかかってきた。めでたく退院したそうだ。よかったよかった。100%元気になったとは言わないが、もう大丈夫だそうだ。今気がついた。退院祝いを用意するのを忘れていた。ゴメン。でもとりあえずよかった。何よりも健康が大切だ。まだまだ無理をせず、様子を見ながら過ごしてほしい。退院おめでとう。

2011年6月3日金曜日

臓器提供

 今日の朝は曇っていたが、昼になるにつれて晴れてきた。とても過ごしやすい気温であった。

 今日の授業で、「健康と医療」という授業があるのだが、臓器提供についての話があった。先生がドナーカード持っているかなどと話をしていた。私は持っている。もし私が脳死、または死亡が確認されたら臓器を提供しますか、という意思表示のカードである。自分が希望する臓器に印をつける。私はすべての臓器に印をつけている。「その他」、という書く欄があるのだが、何を書けばいいのかわからないので、その他すべての臓器と私は書いている。私は脳死、または死亡が確認されたら迷わず臓器を提供する。皆さんはどうであろうか。
 私は高校生の時に入院したことがある。その時から「医療」に興味を持ち始めた。一時期は看護師を真剣に目指したときもあった。入院中、女性看護師では、私が恥ずかしいと思ったことが何度もあったので、これは男性看護師も必要だ、と実感したからだ。また、ちょうどその退院してしばらくしてから、「医療のエキスポ」みたいなイベントが大阪で開かれた。このイベントは何年かに一度開催される大きなイベントなのだ。そこに参加してみた。実際に使われている内視鏡を触れるコーナーがあり、私も触ってみた。モニターを見ながら、両手で内視鏡を操る。中にある小さなブロックを掴んだり放したり、右から左に持ち替えてみたりと、かなり貴重な経験ができた。人工の心臓も展示してあった。心臓の血液を全身に送り出す力がすさまじいことを知っているだろうか。力比べができ、手で大きなスポイトのようなものを力いっぱい圧をかけてみても、その心臓の力の10分の1もいかないのだ。これはすごいと感動したのを覚えている。
 テレビで医療関係のニュースが流れると見てしまう。そこで見つけたのが、全国にはたくさんの臓器を待っている患者さんがいるということだ。その中には小さな子供もたくさんいる。今のその現状を見たとき、私は臓器提供をしようと思った。このお世話になった社会にできる最後のボランティアだ。私の体の一部を使って、一人でも多くの人が助けられるなら、迷わずそっちを選ぼう。最後の仕事だ。
 しかし日本では臓器提供をする人が、海外に比べてかなり少ないのが現状である。その理由はこの日本の文化、哲学、風土が影響している。死んでもそれはただのしたいではなく、れっきとした個人なのだ。家に帰り、お墓に埋葬されるまで体は必要なのだ。また日本の「死」は、キリスト教の考えである断絶ではなく、延長なのだ。死んでも、体が無ければ三途の川を渡ることができないと考えている。確かにその通りだ。
 しかし私は、自分のことよりも困っている人がいたら、どうにかしてあげたいと思う。もちろんできる範囲であるが。死んだらそのまま焼かれていしまうなら、私の臓器を使って病気が治るならその方がいい。私は臓器提供したいと思う。

時間稼ぎ

 今日、助成金の書類をほぼ完成させ、お世話になっている方にメールで送信した。締め切りが3日までなので、かなりギリギリである。この書類を作るのには苦労した。どのように書いていけばいいのか、どう表現すればいいのか、など書き直し続けてやっと完成に近づいてきた感じである。この助成金の申請が通ればいいのだが、心配している。

 今日はゼミがある日なのだが、宿題をするのをすっかり忘れてしまっていた。提出する宿題ではなく、教科書を読んで、調べてきて発表するというものであった。どうしようかと思っていたときに、そのゼミの先生と廊下で出会ってしまい、一緒にゼミ教室まで行く羽目になってしまった。沈黙が続いたので、これは何か言わないといけないと思い、私が春休みに、アメリカに行ってきたという話をすると、かなり食いついてきた。というのも、この先生のご家族がアメリカのシアトルに住んでいるのだ。詳しいことはそれ以上わからないが、どうやら国際結婚らしい。それで、授業で少しそのことについて発表してもらおうか、という話になった。私は、これで時間稼ぎができると思い、「わかりました」と元気よく答えた。
 そして授業が始まり、10分くらいしてから、私が発表を始めた。発表といっても、旅の行程を辿っただけなのだが。私がどこどこに行った、という話をするごとに、先生がそれに付け加え、話がそれたりしてかなり時間がたつ。発表が終わってからも、先生の話が続く。それで1時間は超えた。結局、その宿題の話は出てこなかったので、ラッキーであった。私もどうにかして時間を稼ごうと必死であった(笑)。

 入院している友達の詳しい結果がわかったらしい。病名は長くて本人もわからないと言う。とりあえずお腹の病気らしい。何が原因なのか。1か月以内に生肉を食べたかと質問されたという。私もそれでハっとなった。私とその友達ともう一人に友達で、ホルモンを食べたのを思い出した。その入院している友達がバイトをしている近くに、焼き肉屋さんがあり、そこで食べたのだ。ホルモンが100円ということで、そればかり食べていた。どうやらそれが悪かったらしいのだ。なら私も危ないのでは、と今かなり心配になっている。1カ月単位というから、あと2週間しないとその1カ月は過ぎない。彼みたいに疲れがたまってきたら悪くなるかもしれないので、規則正しい生活を心がけよう。といっても、熱も下がり、今週中には退院できるというので、少し安心だ。早く元気な顔が見たい。



どうやらパソコンの調子が悪いみたいだ。ログインできない。コメントの返答もできなかったので、ここで書きたいと思う。

コメント、ありがとうございます。
3回とも、数人の学生が参加してくれ、団体に入りたいという学生もいて、本当にうれしかったです。
「感動した」というコメントや、「嬉しかった」という言葉も頂きました。
実際の活動までは、もう少し時間がかかるかもしれませんが、1日でも早く活動できるようにしたいです。

2011年6月1日水曜日

被災された方の声

 今日も晴れたが、寒いのが少し残った。今入院している友達から先ほど電話がかかってきた。まだ詳しいことはわからないらしいが、今のところは胃腸炎の一種だと言われているらしい。明日詳しい検査をするのだそうだ。熱も40度から、37,8度にまで下がったという。うまくいけば今週には退院できるのだそうだ。早く元気になってほしい。
 今日、最後の災害ボランティアの報告会をした。毎回数人集まって来てくれて、本当にうれしい。この団体に参加するかしないかは別として、聞きに来てくれるだけでも意識が変わるのではないだろうか。
 さて、この報告会はだいたい30分弱で終わるくらいの長さにしてある。長すぎて、聞いている人の集中力が切れてしまってもいけないし、長いと参加自体おっくうになる人もいるかもしれないので、この30分に設定したのだ。いつもの流れで、最後に質問や要望、意見のコーナーを設けている。しかし今まで2回とも手を上げて質問などをする人はいなかった。個別に聞きにくれる人はいたのだが。しかし今日は一人に学生が質問で手を上げてくれた。女性で、私と同じ学年であった。彼女は質問というより、私に質問をした。「青森に住む人の、この災害に対する意識の低さを感じますか」というものであった。彼女も岩手県に住んでいて、被災したらしい。いきなりの質問に驚いたが、私は私の意見を述べてみた。答えになったかどうかはわからないが、とりあえず自分の意見を言ってみた。この質問は私に求めていたが、本当は青森県民に聞きたかったのではないだろうか。青森の災害に対する意識の低さを彼女は感じているそうだ。報告会の後、彼女と少し話をしたのだが、やはりそう感じているらしい。私も感じている。意識があれば、私たちがやろうとしているボランティア団体などは、もうとっくに誰か立ち上げているはずだ。春休みを経て、ここ青森に帰ってきたら、岩手県がすぐそばなので、ボランティア募集をしているだろうと思いながらここ青森に帰ってきた。しかしそのようなものはなかった。ショックだった。
 彼女の住んでいるところは、まだメディアに取り上げられていないような小さな町らしい。地元の人しかわからないようなところだと言う。地元の声が一番確かなのではないだろうか。やはりメディアにも限界がある。見えないところばかりだ。もしこの団体が立ち上がったらそこに行こう、という話をした。彼女もこの団体に入ってくれた。最後に、「このような話が聞けてうれしかった」と言ってもらった。私もうれしい。復興にほんの少しでもいい。協力できたら、これほどうれしいことはない。