2017年12月18日月曜日

宇都宮の少し先へ

 以前“遠くに行ってしまった友人”について書いたことがあるが、手紙のやり取りをしていると会えることがわかり、先日その友人に会いに行ってきたのである。その手紙のやり取りで会えるのが分かったのが夏くらいだったが、なかなかタイミングなどが合わず、やっと日程的に会えるようになったのである。今その友人がいるのは宇都宮の少し先にあるところである。東京からだとけっこう時間がかかるし、交通費もかかってしまうのだが、それを気にしてもしょうがないので、できるだけ早めに到着したかったので、始発に乗って家を出発したのである。新幹線もあったのだが、ここは交通費をできるだけ抑えたいということもあって在来線で向かったのである。片道3時間くらいはかかった。その友人がいる最寄り駅に到着し、そこからはバスかタクシーを利用しなければならなかった。歩いていくと2時間くらいの距離だった。バスの時刻表を確認してみると、ちょうど出発したところで、次に来るのが1時間半から2時間くらい後であった。都会を離れるとこういうところに不便を感じてしまうんだなぁー。時間がもったいないのでタクシーに乗って3600円かかった。ようやくその友人がいるところにたどり着いたのである。身分証を出して、書類を記入して、持ち物は紙とペンのみで、部屋番号を教えられて、金属探知機のゲートをくぐってその部屋の番号が書いてあるところまで行くと、ちょうどその友人もその部屋に入ってきたところで約10ヶ月ぶりの再会である。めちゃくちゃ元気そうで私もすごく安心したのである。そしてその友人もすごくうれしそうだったのではるばるここまで来てよかった。手紙のやり取りの情報から少し進展というのか変わったことがあり、いろいろ現状報告をしてもらったのである。そして私も現状報告をしたりして、剛の話や映画関係の話をしたりして、相変わらずくだらない話をして爆笑していたのである。その再会も束の間で、30分で打ち切られる。私は、年明けたらまた来るわ、と約束をしてそこを去ったのである。手紙のやり取りのときも元気そうだったのだが、実際に会ってみて本当に元気そうでなによりである。本当に来てよかった。
 その場所に行くときにタクシーの運転手にいろいろ話を聞いて、その友人がいるところから歩いて20分くらいのところに道の駅があり、そこから駅までの無料バスが出ていると聞いたので、さすがに帰りもタクシーを使うと交通費がかかるので、一応その運転手の名刺をもらっていたのだが、私は歩いて道の駅にむかったのである。そしてその道の駅に到着して、バスの時間を見てみると、30分後に出発するバスがあったので、それに乗ることにして、その道の駅内をプラプラ時間を潰していたのである。そしてバスに乗って出発したのだが、そのバスは駅直行ではなく、その地域には温泉の施設が2、3カ所あり、その温泉施設を回って駅に向かうバスだったので、予期せぬことにその地域をバスからいろいろ眺めることができたのである。そして駅に到着して東京を目指し、家に帰ってきたのが14時くらいだった。本当にその友人に会いに行くためだけに宇都宮の少し先に向かったのである。交通費はタクシー代も合わせて9000円弱であった。今度行くときは駅から出発するちょうどいいバスの時間に合わせて家を出発して、帰りはまたバスか道の駅の無料バスに乗れば交通費を抑えられるのでそれにしようと思う。そして、その後改めて手紙を書いて、それと一緒に本の差し入れを送ったのである。今日届いているはずである。雪が降ったらタクシーもつかまらないよ、とそのタクシーの運転手が言っていたので、今度行くときは天候を気にしながら、また会いに行きたい。写真はその友人がいるところから道の駅に向かう途中に撮ったものである。あと宇都宮駅にて。



2017年12月3日日曜日

東京コミックコンベンション2017

 12月2日に以前にも言ったのだが、東京コミックコンベンション(東京コミコン)2017に参加してきたのである。場所は幕張メッセにて行われ、去年が第1回目で今年が2回目ということである。去年もこのイベントがあることは知っていたのだが、仕事の都合上参加することができなかったのである。今年は日にちが分かった時点で、前売券を購入して、仕事の希望休を提出して、確実に参加できるようにしていたのである。まず、“コミコン”とはなんぞやということだが、公式サイトからそのまま転用させてもらうと、
「1970年、ゴールデン・ステート・コミック・ブック・コンベンションとしてシェル・ドルフを中心に開催されたのが原点で、テクノロジーとポップ・カルチャーのイベントです。アメリカのサンディエゴでは毎年7月上旬に開催され、海外コミック、アニメ、ゲーム、映画と内容も拡大され、 最大13万人が集まる大イベントに発展しています。さらに、コミコンはアメリカのみならず、フランス、イギリス、台湾などでも開催され、世界中で話題となっています。」
続いて“東京コミコン”とは、
「マーベルの名誉会長を務め、「スパイダーマン」や「X-メン」などのコミックの原作者としてアメリカコミック業界に変革をもたらした 「ポップ・カルチャーの父」スタン・リーと、アップル共同創業者の一人で「テクノロジーの王」と言われているスティーブ・ウォズニアックとの出会いが、 米国「シリコンバレー・コミコン」として結実し、ウォズニアックにより「東京コミコン」が提唱されました。 そして、ついに2016年12月山東昭子参議院議員を名誉実行委員会長に迎え、スタン・リーを名誉親善大使として招聘、 さらに第一回親善大使として、ダニエル・ローガン氏、日本からは竹内涼真さんが参加し「東京コミコン2016」として​実現し、大盛況の内に幕を閉じました。
ウォズニアックが開催する「シリコンバレーコミコン」と親しい関係にある「東京コミコン」は、アメリカン・スタイルをベースとしながらも、 日米ポップ・カルチャーの祭典として、既存のコミック・映画・アニメーション・あるいはゲームショーなどのイベントとは一線を画し、 革新性と楽しさを共有する空間を創出。老若男女問わず、全世代を通して楽しんでいただける知的好奇心を刺激するイベントです。」
ということである。マーベルの会長のスタン・リー氏も来ていたし、ハリウッドスターも何名か来ていたのである。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のヨンドゥ役のマイケル・ルーカーも来ていたのである。そのスターとサイン会や撮影会があるのだが、それは別のチケットが必要になり、高額なこともあって今回は行かないことにしたのである。来年は行ってみようかなと思っている。映画の撮影に使われた小道具であったり、車であったり、グッズの販売であったり、アーティストの個人ブースであったり、ステージでの様々なイベントであったり、コスプレ大会であったりと様々な催し物が用意されていて、映画好きにとってはサイコーの空間であった。人が多すぎるというのが難点だったが。でも普段見ることができない貴重なものばかりで、ものすごく充実した時間であった。今月に『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』が公開されるということもあってスター・ウォーズにかなり力を入れていた印象である。あとマーベル映画関連、そしてDC映画の『ジャスティスリーグ』がメインどころであった。私は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンや『ターミネーター』のT-800を見れてめちゃくちゃ興奮してしまった。あと、私は何名かの映画ライター、評論家の解説や評価を見ているのだが、その中の一人に今回お会いすることができたのである。昨年この方は個人ブースで参加していたのだが、今年は参加しないというのをコミコン開催前に知って落胆していたのだが、ほんの少しだけコミコン自体には顔を出すのでというのを知ったので、是非ともお会いしたいと思って会場をグルグル回っていたのである。人が多くて大混雑していて、見つけるのが予想よりかなり難しかった。探し方を変えようと思って2階からその方を探して、運良くみつけられたので、急いでその場所へ行き、話が終わるのを近くで待って話終わったので話かけたのである。思っていたよりすごく丁寧に対応してくださり、そのとき私はその方の書籍を持っていたのでサインをいただき、そこに私の名前も書いてくださったのである。あと一緒に写真も撮っていただき、そして握手していただいたのである。今年一番の感動と興奮である。その書籍は私の家宝の一つになった。私がその方にサインを書いていただいているときに、その周りを通る人たちは「誰?」みたいな感じで見ていたのだが、私にしてみればものすごく尊敬している方である。今回このコミコンに参加した一番の理由はその方にお会いすることだったので、それが叶って本当にうれしい限りである。本当は当日券みたいな感じで俳優の一人にサインと写真撮影ができたのだが、その方とお会いできたのでもうその後はどうでもよくなったのである(笑)。いやー本当にいろんな意味で貴重な時間であった。来年も参加したい。





2017年11月30日木曜日

カッコいいタバコシーン

 お歳暮時期ということで仕事がめちゃくちゃ忙しいなっている。仕事の量が一気に増えたので毎日忙しいのである。気がついたらもうこんな時期になっている。早いなー。
  ヤフーニュースの一覧みたいなところで記事を見たのだが、仕事中の喫煙に関してである。それを法律的に禁止にできないだろうかというものである。私は喫煙していないので、どうでもいい話だなとおもったのだが、いろいろ記事を読んでいると、喫煙者と禁煙者との間に就業時間に不公平が生じたり、タバコのために席を外して、そこに電話がかかってきたりして、その人の仕事がこっちにまわってきたりして迷惑だったりと、思っていたよりも身近な内容だった。確かに今までいろんなところを見てきたが、喫煙者はしょっちゅう「ちょっと1本吸ってくるわ」とか「ちょっと一服してくるわ」と言ってどこか行ってしまう。これはちょっとした休憩に見えてしまう。というか休憩だろう。喫煙者にはこういう休憩があって、禁煙者にはこういった休憩みたいなものがないのは確かにおかしい話である。もうすぐオリンピックが開催されるということもあり、世界基準に合わせて室内は完全禁煙みたいになるかもしれない。確かに喫煙者の肩身が狭くなってしまうのがわかる。日本の場合、特にそれを感じてしまう。日本でも少しずつ店内禁煙とかそういうふうになってきているが、外でも喫煙スペースが限られてしまっているのが難題である。私は何度かニューヨークに行っているが、ニューヨークも完全室内禁煙になっているが、みんな外でバンバン吸っている。歩きタバコなんて当たり前で、ポイ捨ても当たり前である。道にはタバコがいっぱい捨てられている。これだったらまだ喫煙者も、「タバコを吸いに外に出るか」となるが、日本は外に出ても吸えなくなってきているのである。喫煙者を擁護するわけではないが、これは少しかわいそうだなと思ってしまう。
 話は少し変わるが、私はタバコは吸わないし、タバコのニオイが服についたりするのもイヤである。これからも吸うことはないが、例えば映画なんか観ているとよく喫煙シーンが出てくるが、その吸っているシーンはすごくカッコいいなぁと思う。例えば、『ルパン三世/次元大介の墓標』のラストでルパンと次元が一緒にタバコを吸うシーンはめちゃくちゃカッコいい。またスタローンやシュワちゃんがプライベートでも葉巻を吸っているのだが、そういうのを見てもカッコいい。そういう喫煙シーンでやっぱり外せないのが『エスケープ・フロム・L.A.』のカート・ラッセルが演じているスネイクがラストでマッチでタバコに火をつけて吸うシーンはカッコ良すぎる。スネイクはアウトローなのだが、とあることから無理矢理任務につかされてしまう。その上?の人たちからいろいろ武器やら無線やら渡されるのだが、その中にマッチがあり、スネイクは何でマッチがあるんだみたいな雰囲気を出すのだが、上の人はいろいろと役に立つから、ということだった。映画の内容は省略するが、いろいろあってスネイクは地球上のありとあらゆる場所に電磁パルスを発することができる装置を手にするのである。その電磁パルスはものすごく狭い範囲から地球全土まで操ることができる装置なのだが、まあスネイクはいろいろ利用されてしまっていたので、俺をナメるなということでスネイクは地球全土に電磁パルスを放ったのである。これによって地球は石器時代に逆戻りしたわけだが、そこでスネイクは持っていたマッチでタバコに火をつけたのである。カッコ良すぎるぜスネイク!!『エスケープ・フロム・L.A.』は『ニューヨーク1997』の続編で、『ニューヨーク1997』でスネイクは釘バットで敵をブン殴るのだが、これを観たときに、世界で一番カッコいい武器は釘バットだなと確信したのである(笑)。私が世界一カッコいい男をあげるなら、007やタイラー・ダーデン、そしてこのスネイクをあげるだろう。今あげた3人は全然違うタイプだが、みんな魅力的でサイコーにカッコいいヤツらである。


気がつけばもう12月!
今年もなんだかんだであと1カ月!
やりたいことは今のうちにやっておけ!
他人の戯言なんかゴミ箱に捨てちまえ!
しんどくなったらヤケクソ笑いでブッ飛ばせ!
世間は冬だが地獄は夏だ!
夏といったらコーラがうまい!
コーラ片手にフューリー・ロードを爆走しよう!
これが今年最後の地獄の1カ月だ!
最後までがんばっていこう!
なにかをな!!!

2017年11月20日月曜日

パンフレット紹介

 ここで読者の方のリクエストにお応えして、長渕剛の“富士山麓オールナイトライブ”のメッセージをご紹介したい。部屋で撮っているので写りや角度はよくないが、ちゃんと見えているので許していただきたい。ついでに今まで集めたコンサートのパンフレットも載せてみた。1冊4千円するので、全部で15冊あるので合わせると6万円することに気がついた。すごいなー(笑)。


 これが富士山麓のパンフレットの最後のページのメッセージである。“ここまで来てくれてありがとう”というのを、私は“今まで俺についてきてくれてありがとう”と解釈してしまい、コンサートが始まる前から泣いてしまったのである。今回で最後になるかもしれないと思ったので私も全力で挑んだのである。でも最後に剛が、「これからもまだまだー、いくぞー!!」と言ってくれたときもまた泣いてしまったのである(笑)。久しぶりにパンフレットを出したので、いろいろ思い出してしまった。



2017年11月18日土曜日

増えていくDVD

 先日、映画館に行かなければならないと言ったのだが、なかなか行くことができない。休日になにかと用事が入ってしまったし、忙しくなる前に行っておこうと思っていたのだが、もう忙しくなってしまったので、休日はできるだけ家にいたいと思ってしまったのである。忙しくなると体調を崩してはいられないので、休日は休みたいのである。それにちょくちょくDVDを買っているので、やはりお金が予想以上に出ていってしまっているので、本当は我慢したくないのだが、さすがに限度というものがあるので、少し我慢しなければならいかもしれない。でも年明けの『キングスマン/ゴールデンサークル』は死んでも観に行かないといけないので、それまで力を溜めておこうとも思っている。この前やっと『ハクソー・リッジ』を手に入れたのである。ついでに『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』も手に入れた。両方とも新作ということで合わせて8千円くらいしてしまった。しょーがないのだが。まだ『パイレーツ・オブ・カリビアン』の方は観ていないのだが、『ハクソー・リッジ』は3回観たが、やはりすばらしい映画である。毎回泣いてしまうんだなぁ。その他にもいろいろ観ているのだがすばらしい作品ばかりで、ちょっと頭の整理ができていない状態である。最近はポール・ヴァーホーヴェンという監督の作品を観ているのだが、この監督の作品も本当にすばらしいものばかりである。スプラッター要素はもちろんのこと、みんなこうだよね、というのをなにも隠さずに描いてくれるところがすばらしい。決して美化しないところがいいのである。なのでこの監督の作品をキライな人も大勢いると思うが、私は大好きな監督の一人である。有名な作品だと『ロボコップ』が有名である。この映画ももちろんおもしろい。以前、映画のタイトルシーンについて書いたことがあったが、このタイトルシーンを最後に持ってくる映画はあまり好きではないと書いた。この『ロボコップ』も最後に持ってきているのだが、これは例外ですばらしいのである(笑)。最後に持ってくるのはもちろん意味があってのことだが、なんの工夫もしていない文字“ROBOCOP”と出るのだが、めちゃくちゃカッコいい。この他に最近観たのが、『ブラック・ブック』、『スペッターズ』、『スターシップ・トゥルーパーズ』を観たが全部おもしろい。まだそれぞれ一回ずつしか観ていないので、もう何回か観て感想を書いていけたらと思う。
 さっきも書いたのだが、DVDやら買い過ぎてもう本棚に入らない状態で、本棚をもう一つ買おうかなとも思っているのだが、これにまたお金がかかるのもヤダなぁ〜と思ってしまう。DVDが本棚に入らないので積んである状態だ。今使っている本棚が何年か前にLOFTで買ったもので、スライド付きの本棚である。それがけっこう気に入ってて、もし買うなら同じものがいいなーと思っているのだが、けっこう昔のものになるので、同じのがまだ置いてあるのか不安である。今度でかけたときにLOFTが近くにあったら探してみようと思う。あったら買ってしまいそうだが、もう一つ本棚が増えると部屋が狭くなってしまうので、それもヤダなぁ〜と思うのだ(笑)。どうしたらいいのかわからなくなってしまっている。ないと部屋の整理ができないのも困るのだが。もう少し考えてから決めようと思う。
 あとこの前『キングスマン/ゴールデンサークル』に登場するお酒を買ったと書いたが、その画像を載せてみようと思う。グーグル関係のアプリをダウンロードしたらなんとか載せれるようになったのだが、載せ方がパソコンよりはるかに難しいので、うまくできないが、許していただきたい。

 端の2本は『007 スペクター』の公開記念限定ボトルの“ヴェルヴェデール  ウォッカ”である。その隣が“オールドフォレスター ステイツマン”である。真ん中のはラムの“バカルディ スペリオール”である。バカルディはブランドマークがカッコいいから買ったのだが、よくよく調べてみると007映画に登場していたので、買ってよかったのである。それぞれ2本ずつあったので、“ヴェルヴェデール”は父に、“オールドフォレスター ステイツマン”は母にプレゼントしたのである。もちろん1本は自分に確保している。まだ飲めないのだが、『キングスマン/ゴールデンサークル』が公開されて、映画を観ながらこの“ステイツマン”を飲んでみたい(笑)。

2017年11月13日月曜日

長渕剛選曲第3弾

  長渕剛選曲第3弾といこう。本当は連続して投稿するべきだったのだが、そう簡単にはいかなかった(笑)。意味不明だが、今回満を持してという感じである。今回紹介する曲を聴けばある程度はカバーできるのではないかと勝手に思っているのだが、これもあくまで私の視点の考えなのである。私は過去も現在も両方好きなので、できるだけ偏りなく紹介しているのだが、やはり長渕剛が神がかっていた、まさに長渕剛の時代であった80年代後半から90年代前半のことを考えると、そこから少し外れてしまっているのかなぁとも思う。確かにその時代の長渕剛は本当にすごいのである。何がすごいのかというと、何をしでかすかわからない独特な緊張感、他人を寄せ付けないオーラ、孤独を背負って万人に立ち向かっていく姿がめちゃくちゃカッコいいのである。その時代があって今があるのだが。92年東京ドームJAPANというライブがあったのだが、センターステージで6万5千人を動員した伝説のライブの一つである。そのセットリストで“勇次”という曲があるのだが、後奏での拳上げを観るたびに涙が出てしまうのである。「そうだよな、そうなんだよな、これなんだよな」、となんと言えばいいのかわからないのだが、観ているとそんな気持ちになる。当時私は3歳くらいなので知る由もないのだが、往年のファンにしてみればそこから富士山麓に至ったの
かなぁとも思う。話がだいぶ逸れてしまったが、本題に入ろう。今回はクセのある曲ということで、これぞ長渕剛の真骨頂という曲を紹介したい。今回も前2回の投稿と被ってしまう曲も出てくるとは思うが、それは了承いただきたい。

2015年
『富士山麓 ALL NIGHT LIVE 2015』
・富士の国

2014年
『ALL TIME BEST 2014』
・カラス

2012年
『Stay Alive』
・日本に生まれた
・明日をくだせえ

2005年
『YAMATO』
・親知らず
・西新の親父の唄
・お家へ帰ろう

2004年
『ALL NIGHT LIVE IN 桜島』
・お家へ帰ろう'04
・Captain of the Ship 

1990年
『JEEP 』
・流れもの
・カラス
・しょっぱい三日月の夜

1989年
『昭和』
・明け方までにはケリがつく


とこういう感じになった。少し昔になると声が今の声と違ってくるので、少しそれに違和感を感じるかもしれないが、それが良さでもある。今回第3弾であったが、なかなか難しいものである。私は人から影響を受けやすいタイプなのかなと思っていたのだが、本当に心にのこっている、残る人はすごく少ないのである。1人はこの長渕剛なのである。ここまで好きになれるのもなかなかないので、そういうのを見つけられてよかったなぁと今更ながら思う。“好き”のレベル、次元が周りとは違うのである。周りの人が言う“好き”は、私にしたらまだまだなレベルである。好きだったらもっと命かけろ!と言いたくなるのだが、私は逆くにそこは反省しないといけないと思うときもある(笑)。案外ほどほどの方がいいのかなぁとも思う(笑)。でも私自身はこれでいいと思っている。ヤツに会うためならどこでもいく覚悟である。といいながら、その日は仕事やからライブ行けないなー、といっている自分がいる(笑)。それはそれ、である(笑)。本当に自分勝手なことしか言っていなくて申し訳ない(笑)。とまぁー、とりあえず3回にわたって私の独断と偏見による長渕剛オススメ曲をお送りしてみた。この中で気になった曲があれば是非聴いてもらいたい。その中にもしかしたら魂を揺さぶる一曲があるかもしれない。

2017年11月9日木曜日

奴隷制の悲劇

 少し前の投稿で、友達のひとりがハワイで結婚式をするという話をしたが、その友達が無事にハワイで式を挙げて帰ってきて、いつものメンバーでご飯を食べたのである。もちろん話は結婚式メインになり、いろいろ話をしていた。12月2日に披露宴とはいかないまでも1.5次会?(最近ではこういうのが流行っているみたい)をやる予定みたいだ。ずっとずっと前からそいうのは参加しないというのを伝えていたので、もちろん私は誘われていない。まだ間に合うよ、とは言われたが、行かん言うとるやろ!と何回も言ったのである(笑)。どっちみち12月2日は予定があって行けないのである。2日は東京コミックコンベンション2017(略して東京コミコン)という映画のお祭りがあって、それに参加しなければならないのである。その披露宴?に参加したくない理由はいくつかあるが、それも全部伝えてあるので、すべて了承済みである。参加しないので、それに代わるようなプレゼントを用意して、この前会ったときに渡したのである。披露宴の参加費以上になってしまったので、金銭的には披露宴に参加した方がよかったかもしれないが、まぁそれはいいやと思った(笑)。自分でもなかなかいいチョイスをしたのではないかと思う。当日にしか用意できないものだったので、待ち合わせ時間までに銀座と青山、渋谷を回っていたのである。会うときにはヘトヘトで疲れてしまっていた(笑)。よろこんでくれたので言うことはない。とりあえずよかった。
 その話の中に、その友達の旦那さんのお姉さんが今度結婚するみたいで、東京ディズニーランドで式を挙げるそうだ。お金もけっこうかかるそうだが、私はどんなにお金があっても絶対にディズニーランドでは式は挙げないなと思った(笑)。結婚という2人の間の誓いよりも、絶対にミッキーやらミニーやらのキャラクターと一緒に写真を撮ったり触れ合ったりして思い出作りをするのがメインになって肝心のものがそっちのけになるに決まっている。そりゃめちゃくちゃディズニーが好きで、憧れ?のキャラクターが目の前にいたらそっちに行ってしまうのは誰だってそうである。私も例えば大好きなハリウッドスターや長渕剛が私の結婚式にゲスト?できたらちょーハイになって握手や写真や話やらで結婚なんてどうでもよくなるよ(笑)。そりゃ(笑)。その話を友人から聞いて、ちょっとイタイなー、と自分の中で思ってしまったのである。まぁどこで式を挙げようと人の勝手なので、どうでもいいのだが。そもそもディズニーのキャラクターってそこまでかわいいのかなぁとも思う。私はそこまでかわいいとは思わないのである。スター・ウォーズに登場するイウォークだったり、チャイルド・プレイに登場するチャッキーのほうが絶対にかわいいと思う(笑)。イウォークもチャッキーもかわいいだけでなく、カッコいいし強いので、絶対にそっちの方がいいに決まっている(笑)。イウォークはともかくチャッキーをかわいいという人はそんなにいないと思うが(笑)。かわいいだけよりも強いとかカッコいいとかプラスαであるのなら、より魅力があるということなのでそっちがいいだろう、と私は勝手にそう思っている。と言いながらもまだ『チャイルド・プレイ』はまだ観ていないので、今度観てみようと思っている。

 今日は映画館に行こうと思っていたのだが、朝6時半に起きる予定が寝坊して7時半に目が覚めて、もう映画館に行く気が失せてしまったのである。寝坊もそうだが、何時なのかは覚えていないが、寝ているときに久しぶりに足が攣ってしまい、またまた激痛と戦っていたのである。そして朝起きたら足が痛くてしばらく歩けないということに。なので今日はおとなしく家にいることにしたのである。今日観に行こうと思っていたのが『ブレード・ランナー2049』で、その前哨戦ということで、YouTubeに3つの動画が配信されており、その『2049』に至るまでのストーリーが描かれており、それもちゃんとチェックしていたのに足が攣ったり寝坊したりで散々であった。今度の休みに行こうかなと思っている。以前にも言ったのだが、観たい映画が次々と公開されて、早く観に行きたいのは山々なのだが、DVDもけっこう購入していて、そっちにお金がいってしまっていたので、映画館に行くお金が・・・という状態になってしまっているのである。それに今月初めにあの『ハクソーリッジ』が発売されて、それも買わないといけないのである。というか買いに行ったのだが、私の家の最寄り駅の近くのタワーレコードに行ったのだが、売切れ?でなかったのである。発売されてすぐだったので、そんな訳がないと思って店員さんに聞いてみたのだが、全部予約している人に取り置きしているみたいで、手に入れることができなかったのである。それも今度買いに行かないといけない。本当は今日映画館に行った帰りに買いに行こうと思っていたのだが、寝坊した時点でスケジュールが一瞬にして消え去ったのでそれはまた今度、である。まぁ、まだ観ていない映画も何本かあり、それを今日観ていたのである。今日観たのはヤコペッティ監督の『残酷大陸』という18世紀のアメリカが舞台で、黒人奴隷の悲劇のすべてをさらけ出すというちょー強烈な映画であった。このDVD をずっと欲しかったのだが、もうほとんど販売されておらず、プレミア価格がついていて1万円前後していたのでなかなか手が出せなかったのである。やっぱり買おうと決めたときにはAmazonでも楽天でももう取り扱いがなく、それ以外のサイトで探しても存在しなかったので泣きそうになったのだ。そして久しぶりに探してみると販売されていたので迷わずに購入したのである。値段は9千円くらいであったが、その価値はある。というかそれ以上の価値がある。今これほどの恐ろしく強烈な映像はどこに行っても見ることができないからである。しかし、これが現実に行われていたというのを知るとものすごく恐怖を覚えてしまう。これが人間なのかと。人間がやることなのかと。私の好きな監督のひとりのクエンティン・タランティーノの作品で、『ジャンゴ/繋がれざる者』というこれも黒人奴隷の話があるのだが、今回の『残酷大陸』を観てみると、『ジャンゴ』の怒りなんて当然のことである。黒人奴隷をやっている人たち、それを正当化している人たちなんて本当に全員ブッ殺したくなる。それくらい恐ろしいのである。私はまだ観ていないが、『ルーツ』という黒人奴隷の内容のドラマがあるのだが、このラストは白人も黒人も和解?して終わるみたいだが、これにタランティーノ監督は反感を覚えたのである。あれだけのことをされといて許せる訳がないと。それで『ジャンゴ/繋がれざる者』ができた。映画の中でなら復讐できるということで、もちろん白人全員皆殺しである。それに付随していた黒人ももちろんブッ殺す。本当に想像できない世界があってコトバが見つからない。その名残が現代でも残っているのが本当に悲しい。偶然かもしれないが、私がニューヨークに行ったときに助けてくれたほとんどが黒人の方々である。優しく迎えてくれて握手してくれたし、サムズアップもしてくれたし、道に迷っている私に向こうから声をかけてきてくれたし、カッコよくクールに地下鉄の乗り方を教えてくれたし、“You're very cool!!!”と褒めてくれたし、黒人のドアマンにいつも人間のぬくもりを感じたのである。だから私は差別とかそんなのは絶対に許さない。そんなことがあっていいわけがない。絶対に人間は平等である。アメリカの黒歴史の一つであるこの黒人奴隷だが、やはりアメリカでもタブーの一つであるみたいだ。『残酷大陸』の中で、優等生の博士が出てくるのだが、黒人は人間ではないというのをいろいろ説明してくるのだが、取材班がその博士に出自は?と聞くとその博士はユダヤ系だと言う。このセリフがどれだけ皮肉で強烈なメッセージであるか。奴隷制のような残酷なことはいつでもどこでよ起こりうるという、本当に人間ってクズなんだと思ってしまうシーンだ。しかし、こういうのを自分の目で見てみないとわからないのである、その恐ろしさが。だからそういう映像というのは貴重なものなのだ。その“残酷”な映像を目の当たりにする瞬間、それがどれほどの価値を自分に与えてくれるのか。だから必要なのである。

2017年11月6日月曜日

究極のタブー

 長渕剛の選曲第3弾をやらなければならないのだが、その前にものすごい映画を観てしまったのでそれについて少し書きたい。今回はおそらくこの世で最もタブーに挑んだ作品である。戦争や殺人も最もタブーなことの一つだが、今回は“食人”である。『グリーン・インフェルノ』という映画を観たのだが、これはものすごく残酷映画である。といっても笑えるところもあるので、コメディホラー映画である。この映画の監督は、イーライ・ロスという人で、ホラー映画の若きカリスマと呼ばれている。簡単に映画の説明をすると、過激な慈善活動をしている学生団体が飛行機トラブルでアマゾンの奥地に墜落して、その場所は人を食べるという食人族がいた、というなんとも在り来たりは内容である。といっても現実世界では、人間は歴史的にもよく人を食べていた。なので、食人族にしてみれば人間も動物と同じなので、我々の感覚からしてみれば残酷に見えてしまうが、彼らの視点からみると至って普通なことである。そうは思っても、やはり仲間が次々と食べられていくのをみると恐怖を感じてしまう。こういったカニバルイズムは究極のタブーであるが、違う作品の『野火』であったり、そういった状況だと自分はどうするだろう、と考える。食べるか食べないか。もちろん他に食糧がないので、食べなかったら死んでしまう状況である。自分だったら食べちゃうんだろうな、と思ってしまう。
 映画を観ていて思ったのが、食人族よりも、慈善活動をしていた学生団体である。主人公の女学生は自分もそういった活動をしておいた方がいいのかな、といった感じで活動に参加するのである。ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアーということばがあるが、まさにそれである。ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアーというのは、インターネット上でお手軽な正義感に基づいて他人を弾劾したり糾弾したりするひとたちのことをいうのだが、普段全然考えてもいないのに、2分前に拡散されてきたニュースに関して、「これは許せない!」といきなり言いだしたりする。それにこのイーライ・ロス監督はウンザリしていたのだ。そういうひとたちを、どうしたらいいのかと考えていたら、そうだ!食人族に食われてしまえばいいんだ!となった(笑)。それで作られた作品が『グリーン・インフェルノ』である。最近ネットでも炎上とかあるが、これは責任者が誰だかわからないし、本人に責任があるのか周りが悪いのか。とあることに関していろんな考え方があるのに、正義的なものの見方以外は全部アウトになってしまうのがソーシャル・ジャスティス・ウォーリアーの特徴である。これは日本だけでなく世界中にこういうひとがいるのではないかと思う。ネット上だとどうしてもメタな視点でいろんなことをなんでも書けてしまう。それがSNSの特徴でもある。確かに監督の言う通り、ウンザリしてしまうよなぁと思ってしまう。私もそういうのがイヤなので、そういうのはほとんどやらない。メタな視点だと誰でも無敵になれる。全部他人ごとで外野から「バーカ」って言ってられるのだから。こういったことも、前回の投稿のハロウィンなんかのイベントの投稿であったり、なんかある種の共通点があるように思える。そのことに関して肯定するか否定するかの違いだけで、やっていること自体は同じように見える。私もよく思うのだが、“利口である”ことと“利口ぶること”は全然違うということだ。浅はかな考えであったりそもそも普段考えていなかったり、その場のノリであったり、周りに合わせてみたり、とどれも全部無責任というのか主体性がないというのか、それにプラスしてネットやSNSが拍車をかけているのでなんでもアリ状態である。それってどうなの?となってしまうのは当たり前である。その状態に自分がいるのかどうか。本当に残酷なのはそういった人たちなのではないかと考えてしまう。

2017年11月3日金曜日

ハロウィンに思うこと

 少しご無沙汰してしまった。ここ数日いろんな意味で忙しい日が続いていたのである。台風の影響でスケジュール的に少しダメージも受けて思うようにいかない日もあり、しばらくバタバタしていたのである。
 今年のハロウィンはその台風とかの影響があって、結果的にはどれほどの賑わいがあったのだろうか。ニュースを見ていないので、今年の様子を知らないのだが、仮装して歩いている人は何人か見かけたので、ある程度はやっていたのだろう。よく渋谷のクランブル交差点周辺で、こういうイベントごとが行われている。今回のハロウィンであったり、年末のカウントダウン、サッカーのワールドカップを決めた瞬間?など、大勢の人が集まって賑わっているのをニュースで聞くことがある。以前にも書いたことがあるのだが、大勢の人が集まって知らない人と喜びを分かち合ったり、ハグしたり、ハイタッチしたり、写真を撮ったりするのには私は反対とかするつもりはない。世の中としては経済効果とかあって、こういうイベントは大歓迎というのもあるだろう。もちろん、ゴミの問題であったり、事件であったり、近所迷惑だったり、そういうのは当然あるだろが、ここ最近のこういう日本独特に変化した“イベント”に関していつも違和感を感じている。その違和感を文章で表現するのは難しいのだが、できる範囲で書いていきたい。
 そもそもこういうのがニュースになり始めたのは本当に最近の話だと思う。私が気になり始めたといった方がいいかもしれない(笑)。日本にハロウィンが本格的に入ってきたのはディズニーランドが始めたことにより、日本に広まっていったらしい。ディズニーランドはハロウィンの季節になるとコスプレして来場する人が多いが、そのコスプレする範囲が決められているらしく、ディズニー関係のキャラクターのコスプレのみ許されているみたいだ。これは詳しいことはわからないが。一方大阪のUSJはなんでもオッケーみたいだ。話がそれたが、このテーマパークがハロウィンを広めたのはほぼ間違いないだろう。それに拍車をかけていったのがSNSの発達が多いに関係していると思う。リア充であったり、自撮りであったり、そういうコトバができてからなんだかみんなそういうのをやり始めたような気がする。いってしまえば、SNSに投稿するがための行動である。なにもしないよりかはいいのかなぁとは思うのだが、それってどうなの?と疑問もある。ハロウィンは自分を表現する機会、という人もいた。それも逆なのでは?と思ってしまう。コスプレって違う自分になれるからいいのでは?あとはやはり、自分はひとりではないという安心感を得たいからではないだろうか。みんないろんな格好をしているし、みんなしているから自分もできると思っているだろう。そもそもハロウィンを楽しんでいるわけではなく、ハロウィンというイベントを利用して、自分の生活を楽しんでいるように装っている、もしくは知らない人とその瞬間だけ時間を共有している仲間?と楽しんでいる、楽しめているんだという感覚に浸っている。もちろんハロウィン自体を楽しんでいる人もたくさんいると思うし、これらは私のひねくれた歪んだ考えである。しかし、私には渋谷のスクランブル交差点に集結した者たちをみるとそう見えてしまうのである。カウントダウンでもそうだし、サッカーのハイタッチもそうである。そのイベント自体はどうでもいいことである。楽しんでいる自分に浸っている感覚になりたいのだろう。それはそれでいいと思うのだが、私はその場所にはいたくないと思ってしまう。そういうイベントに積極的に参加している人は元気だなぁと見えてしまうかもしれないが、私は全然そう思わない。読者の方からのコメントの返信で、少し書いたことがあるが、外国の人はものすごく元気なのである。普通に話をするときでもそうだし、話をしながらいろんなジェスチャーもするし、スキンシップも多い。日本では見ることがない光景がどこでも広がっているのである。私はそういうのを元気のあると見ているので、スクランブル交差点に集結しているひとたちをそう見えることはない。そういう機会でないとそうなれないのか、とそう感じてしまうのである。感覚が違うんだなぁ。なんかちょっと違うんだなぁ。

2017年10月23日月曜日

選曲第2弾

 先週金曜日、以前言っていた私が最近履いているデニムのデザイナーの方のオフィスの方へ、お邪魔させていただいたのである。キンチョーして行ったのだが、ものすごく充実した時間で、本当に貴重な時間であった。普段見ることができないような資料、動画などを見せていただいたのである。長渕剛関係の話もたくさん聞くことができだし、私も話をすることができた。1時間半くらい、お話をさせていただいたのである。普段経験することができないことをやったので、ものすごく刺激になった。今まで何度も厚かましいお願いをしてしまっているのだが、それにいつも応えていただいており、感謝の言葉しかない。7月に受注会があったが、そのときもいろいろお願いをして、無理を聞いてくださったのである。ありがたいことである。

 昨日の投稿で、剛オススメ曲を選曲したのだが、1日たって改めて見てみたのだが、完全に私視点で考えていたのがわかる。往年のファンからしてみれば私が選曲したものを見ると激怒するのではないか。入れなければならない曲が入っていないのが多いということである。そして、わざわざ入れなくてもいいのでは?というのが入っているのだ。これぞ長渕剛の真骨頂、というのが少ないということである。つまりめちゃくちゃクセのある唄が少ないのである。しかしそれでこそ剛であって、剛にしか唄うことができないモノなのだ。それが少ないというのは剛のよさを半分も理解できないことになってしまう。これもよくないので、静かな曲の次はクセのある曲(これぞ長渕剛)というのも紹介しようかなと思う。昨日は選曲において、見逃してはいけないので、全アルバム、全シングルの収録曲を調べて選曲したのである。そして悩みながらの選曲になるので予想以上に時間がかかってしまった(笑)。その悩むというのが自分では楽しかったのだが(笑)。これはどうやろう?、これはいれるか?、これはいいんちゃう?、などなど自問自答しながら、途中からは自分との戦いであった(笑)。今回は第2弾ということで、静かな曲を中心に紹介したい。前回と被る曲もあるかもしれないが、それは気にしないでいただきたい。

アルバム
2014年
『ALL TIME BEST 2014』
・ひまわり
・しあわせになろうよ
・CLOSE YOUR EYES 
・二人歩記
・ひとつ

2012年
『Stay Alive』
・ガーベラ
・六月の鯉のぼり
・愛おしき死者たちよ

2009年
『FRIENDS 』
・FRIENDS 

2008年
『LOVE』
・何の矛盾もない
・夕焼けの歌
・交差点

『SONGS 』
・DON'T CRY MY LOVE 』
・君は雨の日に
・いつものより道もどり道
・花菱にて
・祈り
・12色のクレパス

2007年
『Come on Stand up!』
・Tomorrow

2002年
『BEST 〜風〜』
・俺らの旅はハイウェイ

1985 年
『BEST NOW 長渕剛 1978年〜1981年』
・夏の恋人
・さようならの唄

1980年
『乾杯』
・乾杯

シングル
『ひとつ』
・STAY DREAM 2012』

ライブアルバム
2016年
『富士山麓 ALL NIGHT LIVE 2015』
・愛してるのに
・THANK YOU WOMAN 
・乾杯

2004年
『ALL NIGHT LIVE IN 桜島』
・逆流
・俺らの家まで
・Myself 
・乾杯
・何の矛盾もない

 と紹介してみたが、前回の投稿と被る曲が数曲あるので、前回と合わせても実質それほど増えていないかもしれないが、前回と今回だけでもメインどころは網羅していると勝手に自分で思っている(笑)。あとはクセのある曲だが、これはまた第3弾で紹介したい。


2017年10月20日金曜日

選曲は難しい(笑)

 今回は長渕剛のオススメの曲を紹介していきたい。まずここで言っておきたいことは、ここに挙げられていない曲はオススメではないの?という疑問が生まれるかもしれないが、そんなことは当然ない。そんなもの全部オススメに決まっている。むしろ「好きな曲は?」という質問自体が愚問である。全部好きに決まっている。今回は初めて長渕剛を聴くというテーマで紹介したいと思う。しかし、どうやって紹介したらいいのかわからないというのもまた事実である。デビュー当時からさかのぼって時系列にオススメを紹介したらいいのか、ヒット曲や有名曲を紹介したらいいのか、とかいろいろ悩むのだが、今回は時代に合わせて現代から過去にさかのぼっていこうかなと思う。声がなるべく今の声に近いものを選ぶ。ないものは過去のものになってしまうが。メインはアルバムを紹介して、その中のオススメを挙げていこうかなと思う。アルバムにない曲、アルバムに入っているのよりもライブ音源の方がいいというのもあるので、それも合わせながら紹介していきたい。

アルバム
2017年
『BLACK TRAIN 』
・Black Train
・Loser

2014年
『ALL TIME BEST 2014』
・しゃぼん玉
・しあわせになろうよ
・CLOSE YOUR EYES
・二人歩記
・ひとつ
・TRY AGAIN For JAPAN
・日本に生まれた
・逆流
・明日をくだせえ

2012年
『STAY ALIVE 』
・六月の鯉のぼり

2010年
『TRY AGAIN 』
・俺たちのニライカナイ

2009年
『FRIENDS 』
・SAMURAI

2008年
『LOVE 』
・交差点

『SONGS』
・DON'T CRY MY LOVE 

2007年
『Come on stand up!』
・夕焼けの歌

1980年
『乾杯』
・乾杯

シングル
2013年
『未来』
・未来

2012年
『ひとつ』
・STAY DREAM 2012

ライブ音源
2016年
『富士山麓 ALL NIGHT LIVE 2015』
・JAPAN
・裸足のまんまで
・SUPER STAR 
・富士の国

2004年
『ALL NIGHT LIVE IN 桜島 2004』
・とんぼ
・春待気流
・Myself 
・巡恋歌
・Captain of the Ship

1996年
『LIVE COMPLETE '95-'96』
・HOLD YOUR LAST CHANCE 
・友よ

 と紹介してみたのだが、私の詳しい友人からしてみれば、なんでこれが入っててあれが入ってないねん!!と抗議の電話がきそうだが、私も紹介していて途中から訳がわからなくなってしまったのである。しかし、途中で書き直しても結局また途中でわけがわからなくなるだろうから、そのまま書き続けたのである。今回はテンポのいい曲が多いのかな、という印象である。自分が挙げといて、自分でいうのもあれなんだが(笑)。比較的ウケがよさそうなのをメインに入れ、それだけでは長渕剛そのものの魅力が伝わらないかもしれないので、“攻めて”いる曲も数曲入れさせてもらった。静かな曲もたくさんあるのだが、それはまた別で紹介しようかなと思う。第2弾ということになるだろう。できるだけいろんな種類、ジャンルのを入れてみたのだが、選曲というのは難しいものだなぁ。今思えば、テンポのいい曲と静かな曲でわけて紹介してもよかったかもしれない。いやー難しい。もっともっと紹介したい曲がたくさんあるのだが、挙げ過ぎると選曲の意味がなくなってしまうので、自分でも苦しみながらの選曲である。第2弾を今考え始めているところである。

2017年10月16日月曜日

『キングスマン』と『007』

 最近天気が悪い日が続いている。かなり寒くなってきた。冬はもうすぐだなぁ。しばらく天気がよくないみたいである。

 この前言っていた『キングスマン/ザ・ゴールデン・サークル』に登場するお酒、“オールド・フォレスター・ステイツマン”が予想以上に早く到着したのである。一気にテンションが上がってしまった(笑)。2本購入したのである。1本は飲む用で、もう1本は保存用である(笑)。みたらアルコール度数40もある。調べてみるとだいたいのお酒は40度なので普通である。しばらくは2本とも鑑賞用として部屋に飾っておこうと思う(笑)。いざ手元に届くとビビって飲めない(笑)。普段お酒を飲まないから、というのではなく、珍しいお酒だから飲めないのである。ビンと一緒に紙の札がついていたのだが、みてみると、ステイツマンからキングスマンへの贈り物みたいになっている。そしてちゃんと映画のタイトル、『Kingsman/THE GOLDEN CIRCLE』と書いてあり、キングスマンのロゴマークも入っている。めちゃくちゃカッコいい。すごすぎる。もちろんビンには“STATESMAN ”の名前も入っている。2本買ったとはいえ飲めないな、これは(笑)。来年1月に公開されたときに日本でも発売されることを祈ろう。発売されたら改めて飲む用にもう1本購入したい(笑)。予想以上に早く到着して、めちゃくちゃカッコよかったので、このノリで『007』に登場していたウォッカも調べてみた。調べてみると通常版のは販売していたのだが、私が欲しかったのはやはり限定版で“007”のロゴマークが入っているものである。どうやら日本では売り切れになってしまったようだ。それもそうである。2年前のボトルなので、そういうものはすぐになくなってしまうんだなぁ。ということでこの前買ったのと同じサイトで調べてみると、あるではないか(笑)。さすがである。今回も飲む用と保存用で2本購入したのである。『ベルヴェデール 007 コレクターズ エディションボトル』という名前である。今回はウォッカ。バーボンもウォッカもリキュールもラムもジンもどれがどれだがさっぱりだが、もうそんなことはどうでもいいのである。カッコいいから買うんだよ!!(笑)ということでまた到着するのが楽しみである。
 ここでお酒の話をしているので少し続けたい。今紹介している『キングスマン』も『007』も両方スパイ映画である。007は1962年公開の『ドクター・ノオ』が映画として始まったのである。もともとは長編小説がある。そして『キングスマン』はアメコミが原作である。007もそうだしキングスマンもそうだが、様々なお酒が登場するのだ。おそらくちょー有名なセリフが007の、“Vodka Martini, shaken not stirred”である。ウォッカ・マティーニを、ステアではなくシェイクで。と言うセリフだ。映画では定番中の定番である。これがものすごく有名になり、スパイ映画ときたらマティーニだ、という印象になったのである。もちろん007のジェームズ・ボンドはマティーニだけでなく、いろんなお酒を飲む。そこで『キングスマン』に登場するお酒を見てみたい。まずはスコッチ・ウィスキーの“ダルモア62”である。調べてみると、正規販売品としては世界最高額のスコッチ・ウィスキーだそうだ。2006年にシンガポールのチャンギ空港で12本限定販売され、最初の1本は約650万円で販売され、2011年に最後の1本が売れたときは、1500万円で売れたというちょーヤバイお酒である。一滴でもこぼしたら死刑である。そしてワインの“シャトー・ラフィット・ロートシルト 1945年”、ブランデーの“ナポレオン 1815年”が登場する。もちろんこれらもちょー高級酒である。そしてこの映画でも“マティーニ”が登場する。マティーニはジンベースで作られ、“カクテルの王様”と呼ばれているのだ。007のジェームズ・ボンドはベースをジンではなく、ウォッカに変えて“ウォッカ・マティーニ”を注文する。もちろんジェームズ・ボンドはプロ中のプロなので、さらに細かい注文もするという高騰テクニックを披露するのだ。「ジンとウォッカを3:1、キナリレを1/2をシェイクして、シャンパングラスに注ぎ、レモンピールを入れてくれ」と。素人が言うとちょーダサくなる(笑)。そこで今回の『キングスマン』で、マティーニを注文するときに、主人公のエグジーが、“Martini, Gin, not Vodka, Obviously.”と言う。「マティーニを。もちろんウォッカではなくジンで。」と言うのだ。これは明らかに007への対抗意識がある。そしてさらに「ベルモットは入れず、ボトルを10秒間、かすめ見ながらステアで」と注文するのだ。シェイクではなくステアで、と念押しをして、ボンドのウォッカ・マティーニを否定している。すごすぎる。007のジェームズ・ボンドもカッコいいが、キングスマンのエグジーもカッコいい。そして最初にあげた“ダルモア62”だが、敵の部下は62年物のダルモアと言い、キングスマンのメンバーの一人ランスロットは1962年のダルモアと言うのだが、62年間熟成されたものと、1962年に熟成を始めたものは全く別のものになるので、どちらかが間違っている。しかしランスロットがそう言った直後、敵に真っ二つに斬られて殺されるので、1962年のダルモアと言ったランスロットが間違っていたということである。つまり中身は62年物のダルモアで、1962年のダルモアではないと一蹴されてしまう。1962年といえば、最初にいった007の映画『ドクター・ノオ』が公開された年で、007のジェームズ・ボンドを叩き斬ったことになる。この説が本当かどうかはわかはないが、これが本当だったら監督はものすごく考えている。これもすごい。こうやって書いているとお酒の世界も奥が深いんだなぁ。

勝ち負け、ではない

 天気が悪かったので今日は部屋で映画を観ていたのである。天気がよくても観てただろ!と言われるかもしれないがその通りである(笑)。『ペイン&ゲイン/史上最低の一攫千金』という映画を観ていたのだが、フィットネスジムにトレーナーとして働いている主人公が、金持ちのジジイに筋トレのやり方を教えるだけの毎日にウンザリして、ボディビル仲間と一緒に金持ちを誘拐して財産を奪い取るというストーリー。題名をみたらわかるかもしれないが、“No pain, No gain(努力なしに得るものはない)”という言葉を短縮したもので、“Pain &Gain(努力したんだから、よこせ)”という意味になっているのである。アメリカでは“強くて大きいものがいいに決まっている”というマッチョ信仰が根強く、彼らにはそれなりの理屈があっての行動なのだ。俺たちはスーパーマンのようなすばらしい肉体の持ち主なのに、この程度の生活しかできないのはおかしい、というものだ。俺たちは今までさんざんやってきたからセレブみたいな生活をしていて当然なのに、それに見合うだけの金がもらえていないから、金持ちから奪うべきだ、という信念に基づいて行動するのだ。これは実話で、本編でも、“これは実話である”といあテロップが出るのだが、話が進んでいくらなんでもこんなことあるか?と思うタイミングでまた、“これでもまだ実話である”というテロップが出るのでついつい笑ってしまうのだ。当たり前だがどんどん悲惨なことが彼らを襲ってくるのだが、ここで少し言いたいのは、“人生の、成功、失敗、とは”ということである。彼らは“成功”というものに取り憑かれて行動していくのだが、彼らのように人生を、“成功”、“失敗”と分けて考える人が多いのではないだろうか。つまり人生を“勝ち”、“負け”で判断しているということである。人生の勝ち負けなんてどうやったら判断、判定できるのか。金持ちになったら人生は勝ちなのか。結婚して子どもがいれば人生は勝ちになるのか。働いていると金持ちらしき人をたくさん見ることがある。中には偉そうに口をきいてくる人がいる。なぜそんな口がきけるのか。客だからか。客だから偉いのか。金を持っているから偉いのか。休みの日に買い物をしていると、ベビーカーを押して堂々と突っ込んでくる人がいる。なんでそんな偉そうなんだ。偉いのか。そんなわけないだろ。人生を“勝ち”、“負け”でしか判断できない人の人生は本当に乏しいし貧しいと思う。人生は過程の連続である。勝ち負けでしか判断できない人は、過程に価値を見出すことができない人である。人生は過程の連続なのに、過程に目を向けない“勝ち負け主義”の人がたくさんいる。そんなものFUCK OFFである。偉そうにしているヤツを見ると本当にブッ飛ばしたくなるくらいイライラしてしまう。お前はバカかと。そいつの人生なので私には一切関係ないが。どうしてそういう風に考えてしまうのだろうか。人間って何かと比較したがるのだろうな。そんなことになんの意味が価値があるのだろうか。勝ちとか負けとか、優れているとか劣っているとか。そいつがどう思うか考えるかは知ったことないが、周りの人には関係ないことだ。そう考えている、判断している時点でそいつの人生終わっているよ。人生そんなものではない。そんな低レベルなことで語れるわけがない。こんな私だってそうである。楽しいことばっかりが続けばいいと思うが、そんなことはない。いろんな苦労をしてきた。死にたくなる日もあった。人知れず泣いた日もあった。人に裏切られたこともあった。利用されたこともあった。騙されたこともあった。踏みにじられたこともあった。バカにされたこともあった。笑い者にされたこともあった。蹴落とされたこともあった。邪魔されたこともあった。それでも、生きててよかったて。生きててよかったんだって。そう思える。そしてこれからも。勝ち負けとかそんなことどうでもいい。自分は勝ち組だって判断不可能なのに勝手に思い込んでいるカン違いしてる貧しいヤツ、本当にくだらないな。

2017年10月12日木曜日

久しぶりにキンチョー

 ここ数年履いているデニムがあるのだが、私の好きな長渕剛も履いているデニムの一ブランドで、そのデザイナーの方とは年に2回、とあるセレクトショップのそのブランドの受注会でお会いしているのだが、その方から東京オフィスにご招待をしていただいたのである。先日、長渕剛のライブが大阪で行われ、それが剛のバースデイライブで、そのときのバンドメンバーとそのデザイナーの方で、剛にプレゼントととしてデニムをプレゼントしたみたいで、そのプレゼントしたデニムを今回一サイズにつき一本ずつ作成することになったみたいで、そのときにそのデザイナーの方が私に直接メールにてご連絡をいただいたのである。そのデニムと一緒に靴もご紹介いただいたのだが、金銭的に厳しいものがあり、今回はデニムだけのお願いをしたのである。本当は靴もほしかったのだが、現実問題がかなり大きかった。受注会のときに、いろいろお話させていただいていて、直筆メッセージもいただいたことがあるし、そのときも東京オフィスに遊びにきてください、と声をかけていただいていたのだが、じゃあ行きますと言うと厚かましく思われたらイヤだったので、なかなかお伺いする機会がなかったのだが、今回メールにてご連絡いただいたときに、遊びにきてくださいとのことだったので、今回お言葉に甘えることにして、来週その東京オフィスにお邪魔することになった。まさか現実になるとは思っていなかったのでビックリしているところである。そのデザイナーの方とは2年ほど前に、そのセレクトショップにてお会いしたのが初めてだった。富士山麓のオールナイトライブ前だったので、よく覚えている。そのデニムの受注会は夏と冬の年に2回あるのだが、毎回お会いしているのである。そのときにいろんなお話をしていただいているし、デザイナーの方が直接今回のラインを紹介していただいたり、オススメをしていただいたりしているのである。本当にありがたいことだし、感動するし、うれしいし、光栄なことである。そしてメールも返信していただいたりとすばらしい方である。長渕剛とのメールのやりとりや写真なども見せていただいたりと貴重なお話ばかりで毎回感動しているのである。最初は長渕剛が履いているからという理由でそのブランドを買っていたが、今はそのブランドの良さを知っているので、ただ単純にそのブランドがいいと思って選んでいるのである。大変お忙しい方なので、オフィスにお伺いするときは邪魔にならないように気をつけたい。久しぶりにキンチョーしているのである(笑)。

楽しく飲んで

 体調はもうほとんどよくなってきた。そこまで長引かなくてよかったという感じである。最近また少し暑くなってきているが、また寒くなるみたいだ。もう10月も中旬ということでどんどん冬に近づいていっている。早いなー。

 前回、ほんの少しだけだが映画の紹介をしたのだが、今回はこれから公開する映画で、映画館に行って観てみようという作品を紹介したい。とりあえずざっと並べてみると、『バリー・シール/アメリカをはめた男』、『アトミックブロンド』、『ブレードランナー2049』、『スターウォーズ/最後のジェダイ』、『キングスマン/ザ・ゴールデン・サークル』、『パシフィックリム/アップライジング』である。この10月後半から公開されていくので、また楽しみが増えてくる。最近はあまり映画館に行っていなかったので、というよりもそこまで「行こう」というような作品があまりなく、家でも観ないといけない映画もたくさんあったので、今月後半からは少し映画館に通わなければならないだろう。この中で一番楽しみにしている映画が、『キングスマン/ザ・ゴールデン・サークル』である。これは2作品目で、『キングスマン/ザ・シークレットサービス』の続編である。一言で言えばスパイ映画である。『キックアス』と同じ監督で、この映画もものすごくおもしろい作品である。もうイギリス、アメリカでは公開がさ」ており、日本は遅れて来年の1月5日公開なので、もっと早く公開しろ!と言いたくなるのだが、これはしょーがない。簡単に紹介すると、イギリスのスパイ組織“キングスマン”がアメリカのスパイ組織“ステイツマン”と手を組み、共通の敵“ゴールデン・サークル”に立ち向かうというストーリー。簡単すぎてすみません(笑)。最近『007』シリーズがダニエル・クレイグになってから、作風が大きく変わってしまい、私が求めている007ではなくなってしまい、それに苦言しているが、その逆行としてこの『キングスマン』がそのわだかまりをブッ壊してくれたのである。作中でも007をネタにしてニヤッとさせてくれるシーンがある。“キングスマン”というのは表向きは高級テーラーの店で、“ステイツマン”は表向きは最高級バーボン・ウイスキーの店を経営しているのである。そしてこの映画で登場する“ステイツマン”の名を冠したバーボン“オールド・フォレスター・ステイツマン”が実際の商品として製品化されたのである。今回の製品は映画のプロモーションのためにラベルを張り替えたような製品ではなく、本物のバーボンを追求したバーボンということでかなり力作みたいだ。作中でも登場し、主人公らも堪能しているお酒である。これはなんとしてでもてにいれないといけないと“勝手に”思い込んでいろいろ調べていたのだが、日本ではまだ取り扱いがないみたいである。“FUCK YOU!!!”ということで、その程度の理由ではあきらめられないので、US版AmazonやeBayでしらべてみたがダメであった。日本公開に合わせて販売開始されるかもしれないと思ったのだが、それまで待てない。アメリカのお酒のサイトを調べてみたら取り扱いがあったので、ここで購入しようと思ったら配送がアメリカ国内だけというのがわかり、またまた“FUCK YOU!!!”ということで、さらに調べ、イギリスのサイトで取り扱いがあったので、ここは全世界に配送できるみたいだったので、ここで買うことにした。今回もまた全て英語のやり取りで、何を書いてあるのかさっぱりわからなかったが、関西のノリ?でなんとか乗り切った(笑)。いつ届くのだろうか(笑)。配送料だけで$48もかかってしまった。“FUCK YOU!!!”(笑)。またまたくだらないものに命をかけてしまったが、なぜか私はこういうものには敏感に反応してしまうんだなあ。ヒットガールのナンバープレートといい、ファイト・クラブの石鹸といい、今回のお酒といい。自分でも不思議になってしまう。でもこういうのが私の楽しみの一つなんだなあ。私はお酒はあまり飲まないので、こういうお酒を買っても味の違いや良さははっきり言ってわからない。時々ホテルのバーで飲んだりするが、カッコつけて飲んでるだけである。まあでも飲んだことある!くらいでいいのである。ソムリエになりたいわけでもないし。キライなお酒もあるし。この料理にはこのお酒が合う、となんか知らないがそういうのがあるみたいだが、そういうのは私にしたらどうでもいい。合うか合わないのかは自分で決めればいいし、飲みたいお酒を飲めばいいだけの話。こういえば、味の良さ、とか、料理との相性がわかってないな、と言われるだろうが、その通りである(笑)。私は味オンチだし、なにがいいのか悪いのか全くわからないし、お腹いっぱいになればうれしいことこの上なし。ホテルのバーで一杯2、3千円のお酒を何度も飲んだことがあるが、次の日には味なんて忘れている。私の場合はそんなものである。仲間と楽しく飲むことが私の中の“お酒”に対する思い、考えである。楽しく飲んで、“Fuck Yeah!!!”である。それにしても注文したバーボンが届くのが楽しみである。本当に届くのかわからないが(笑)。

2017年10月9日月曜日

とりあえずの紹介

 休日に映画を観るときに、今日はこれを観よう、っていうのは意外に少ない。そういうのよりも、今日はどれを観ようかなぁ、とDVDが並んである本棚をボーっと眺めて決めている。今までどういう映画を紹介してきたのか、全く覚えていないのだが、今ボーっと棚を眺めているので、少しこれはオススメという作品をいくつか紹介したい。もちろんこの紹介する作品は私の独断と偏見によるものである(笑)。全部は紹介できないし、ありきたりなものはそういうサイトで調べればいくらでも出てくるので、とりあえずの紹介といったところである。

 とりあえず万人受けしそうな、いろんな意味で安心して観られる映画。
『プラダを着た悪魔』
『マイインターン』
『天使にラブソングを』シリーズ
かな(笑)。これらの作品は観た後、ものすごく元気になる。どれも安心して観ることができる作品である。

私が好きで、比較的受けがよさそうな映画。
『ターミネーター』特に2作品目。1もすばらしいが。
『キックアス』シリーズ
『キングスマン』
『ロッキー』シリーズ
『オーシャンズ11』シリーズ
『007』シリーズ
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ


ハマればヤバイ、おもしろさがわかればヤバイ、映画(笑)。理解できない人も大勢いる。おもしろくなければ観るのが苦痛になる映画(笑)。
『マッドマックス  怒りのデスロード』
『ファイト・クラブ』
『ウォッチメン』
『パルプフィクション』
かな(笑)。

戦争映画。
『プライベートライアン』
『アメリカンスナイパー』
『ハクソーリッジ』
である。


他にも山ほどあるのだが、とりあえずこんなところだろう。途中からどれを紹介したらいいのかわからなくなるし、キリがないのである。もちろんここで紹介していないのはおもしろくないというわけではない。当たり前だが。前回の投稿の『オデッセイ』もちょーサイコーな作品だ。『ダイハード』シリーズも大好きだし、『ミッションインポッシブル』シリーズも大好きだし、そうなったら終わりが見えなくなってしまう。気が向いたらちょくちょくいろんなものを簡単にだが紹介していきたい。今回はとりあえず思いついた私はこれがおもしろかった作品である。

科学の知識

 体調を崩していたのだが、やっと少しずつ回復してきている。あとは喉だけが悪いくらいだ。2、3日前まではおそらくヘルファイアを身に纏っていた(熱があった)。この前の休日の夜に体調が悪くなってきて、そこからの6連勤だったので、けっこう大変であった。仕事は休めないので、フラフラになりながら出勤していたのである。最初の方はただ喉が痛く、めちゃくちゃ痛かったので唾を飲み込むだけで一苦労でなかなか眠れなかった。それが2日間くらい続いた。そうしていたら今度は咳が出てくるようになり、布団に入ったら酷くなって、そこからずっと咳が出てこれもまた眠れないのである。これが2日間続き、今回の6連勤はほとんど眠れないで仕事をしていたのである。ただでさえ睡眠不足なのに、それに拍車をかけて寝れなかった。今日は休みで、久しぶりにゆっくりしていたのである。

 今日は『オデッセイ』という最近の映画を観ていたのである。これもすばらしい映画である。火星で一人取り残された絶体絶命の状況で、主人公がどうやってサバイバルするかという内容である。ものすごく暗そうな感じがするが、この映画はものすごく明るい映画である。なぜなら主人公がどんなときでもユーモアのセンスを忘れないからである。本当にヤバイ絶体絶命な状況なのに、主人公はそれに臆することなく、その状況と戦うのだ。自分を取り巻く状況をユーモアを交えて語れる人というのは自分も含めて、その状況を客観的に見れるということである。それは深刻な状況になればなるほどその能力は重要になってくる。私は自分を客観的に見れる方だと思っている。周りが自分をどういう風に見ているのか、そういうのはすぐにわかるというのか、それを踏まえての発言であったり、行動をしている。話は戻るが、その深刻な状況を主人公のセンスだけでなく、同じ乗組員だった船長がディスコ音楽が大好きで、その船長の私物にディスコ音楽の音源がたくさん残っていて、他に聴く音楽がなかったので、ずっと主人公はそのディスコ音楽を聞いていたのである。なので映画全体を通して、ずっと70年代のディスコ音楽が流れているのである。ものすごくノリのいい、テンポのいいストーリーになっているのだ。その中でデヴィッド・ボウイの『Starman』がかかるシーンは本当にすばらしいところで、毎回観るたびに涙が溢れてしまう。また、『Hot Stuff』という曲も流れるのだが、この曲の意味は“熱いモノ”というので、映画を観ればその“熱いモノ”の意味がわかるのである。このシーンもなんかグッときてしまう。ディスコ音楽が主人公の気持ちを表現しているのである。そして、この映画の最大の特徴は最近では珍しく、家族、恋人、友達といった絆や愛といったものがほとんど描かれないところである。なぜなら火星に取り残さ、どうやって生き延びるかという状況において、主人公にとってそういうものはなんの役にも立たないからである。そういう絶体絶命の状況で、宗教や根性、絆や愛、そういうものは火星でなくともサバイバル生活ではなんの役にも立たない。そんなことよりも、いかに酸素を確保するか、食料を確保するか、そっちの方が大切なのである。いるかいないかわからない神や仏に祈りを捧げても、水や食料が降ってくるわけではない。助けてくれるのは科学的な方法で切り抜けるしかないのである。主人公は現実的な選択をしていく。すばらしい、としか言いようがない。
 この映画は日本では、文部科学省の選定映画になっているのだが、科学振興費、国立大学の予算をどんどん減らしている。『オデッセイ』を観ろ、と言っておきながら、そういう科学や教育、研究にかけるお金を減らしているというのは矛盾している。ハッキリ言ってバカだろう。そういうところからなんとかしてほしいものである。もっと小さいときにこの映画を観ていたらもっと科学に興味を持っていただろう。そう考えたら、本当にいろんな人に観てもらいたい映画である。特に小さい子供たちには是非とも観てほしい。もし身近な人で、そういう年頃の子供がいればこの映画をプレゼントしたい。科学の知識とユーモアのセンスが自分の命を助けるというのがわかるから。どういう人間が生き残れるのか。それは現実的な選択ができる人である。

2017年10月4日水曜日

ラスベガス銃乱射事件に思う

 またアメリカで悲しい事件が起こってしまった。59人が死亡するというアメリカ史上最悪の銃乱射事件となった。容疑者の動機はまだわかっていないみたいだが、どんな動機があろうと決して許されない。ホテルの32階から屋外コンサート会場に向けて乱射したそうだが、まさかそんなところから狙撃されているなんて誰も思わないだろう。「伏せろ!」という声が響いていたみたいだが、そんな上空から狙撃されていたら伏せても逆効果になっていたかもしれない。アメリカでは銃に関する事件が後を絶えないが、今回の事件でアメリカ政府はどういった対応をしていくのか。今のところ銃の規制の動きはない。今みでにも何度か書いてきているが、我々日本人の感覚からすれ、何故銃の規制を厳しくしないのかと大勢の日本人は思う。しかし、アメリカはそうではないのだ。おそらく、今アメリカの多くの人が銃を購入しているだろう。銃に関する事件が起きればそういう動きになる。日本人の感覚とは次元が違い過ぎる。そもそもアメリカは“自由の国”である。そしてその“自由”とはお上から与えられるものではなく、自ら戦って勝ち取るものなのだ。アメリカ政府がもし自分たちの自由を奪おうとしたり、侵略しようとしたときに、彼らは銃を持って戦わなければならない。だから彼らには銃が必要なのだ。その“自由”を守るために。これがアメリカの抵抗権である。
 最近も暴力や殺人など、そういったものを書いているが、リアルタイムにこれほどの事件が起こってしまうとは思わなかった。ラスベガスは訪れてみたい街の一つである。ギャング映画をはじめ、『オーシャンズ』シリーズで、オーシャンと仲間たちがホテルの噴水の前に並んでみんなで噴水を見ている後ろ姿に涙が出る。私もそこへ行くだろう。ラスベガスは砂漠の中にある都市。私の恩師が言っていたことだが、砂漠から遠くに見るラスベガスの街は今まで見た人工物の中で一番美しいと。そう言われたら見に行きたくなる。もちろん行くに決まっている。そこに悲しい事件が起きてしまった。
 まず最初に言っておくが人を殺してはいけない。その理由は、誰かが考えた倫理的判断に従う可能性のある人に、人を殺してもいいということは極めて危険だからである。他人に、なぜ人を殺してはいけないのか?と尋ねるということは、納得できる理由を「他人から」提示されたらそれに従う(可能性がある)ということである。つまり、自分の内面の倫理の尺度に確信が持てないでいる状態にある。そういう「自分の倫理の尺度に自信が持てない人」に対して「わからない」とか「殺してもいい」ということは無責任を通り越して犯罪的だと思う。だから絶対に人を殺してはいけない。しかし、この理由は人を殺してはいけない明確な理由について言っていないと思われる。確かにそれは言っていない。なぜならそれは回答が出ない問題だからだ。個々のケースでは答えが出るだろう。カッとなったり、相手の命に価値がないと個人的に判断したか。という理由で人を殺してはいけないのは(一般的に)当たり前として、では正当防衛はどうする、軍隊はどうする、肉親を殺そうとしている相手、あるいは殺してしまった相手に対してらどうする、と、単に「人を殺す」といってもその状況らおそろしくまちまちである。勧善懲悪が成り立っていれば殺人は許される、という考えの人も大勢いる。逆に、どういう状況下であっても殺人は許されない、という人もいる。だから、すべてのケースに当てはまるような、絶対的な、どうしても殺人が許されないという理由が欲しいならばそれは答えられない。なぜかというと、「絶対的な理由」に従うということは、自分の頭で考えるということを放棄することと同義だからである。「誰か(権力者とか神とか)にやるな、と言われたから、やらない」というのであれば、それはロボット人間に成り果てるということである。
「(権力者や神に)やるな」と言われたらから、という理由で思いとどまる人は、「(権力者や神に)やれ」と言われたらやってしまう。そういう愚かさの上に、多くの殺人や虐殺が正当化されてきた事実を考える必要がある。こういう倫理の問題に関しては、過去数百年、もっと永きに渡って多くの学者が頭を悩ませてきた。いっときまでは宗教の力が強かったので、「ダメと書いてあるものはダメ」という横暴がまかり通っていたが、「誰が、何の権威で、どういう根拠に基づいてダメなのか?」という疑問に、宗教は、「信仰」とかいうあやふやなものでしか答えることができない。ではどうしたらいいのか・・・と、沢山の頭のいい人たちが考え続けている間にも戦争は起こり、虐殺が起こり、アウシュビッツがあって、原爆が落とされ、そして今回の事件のようなことが起こり続けている。といって、頭のいい人たち、学者たちが考えに考えてきたことは決して無駄ではない。彼らはそのときどきの状況の中、一体どうしたらこうした難問に答えられるのか、少なくともその糸口を見つけることがでかるのか考えてきたし、その成果は、例えば基本的人権であるとか、人間が生来持つ違いに基づく差別は許されない、とする国際的な合意、というような形で身を結んでいる。また、人を殺してはいけない、というものに重大な空白がある。それは「誰を?」という部分である。「どうして誰々を殺してはいけないのか?」というと、それは具体的な質問になる。しかし、「どうして人を殺してはいけないのか?」というと、それは一種の抽象的な質問のように聞こえる。ものごとを抽象化して考えることができるのは人間の能力の中でもとくに重要なものの一つだが、殺人というようなことを考えるにあたって、これを抽象化してしまうこと自体が果たして「倫理的」なのか?という問いが生まれてくる。ユダヤ人が600万人殺された、というのと、誰々さんと誰々さんが・・・と無限に続く名前を考えることとはまったく別のことである。だからホロコーストの記念碑やアメリカ軍の慰霊碑などには個々人の名前が延々と刻まれている。ちなみに、日本は国家として殺人を認めている。死刑がそうである。正当防衛は必ずしも殺人に至らないので殺しのライセンスとは言いがたいが、死刑は大臣の名の下に「合法的に」人を殺せる唯一の機会である。いかなる殺人も許されるべきではない、と考える人たちは死刑制度に反対する。当然だが、一切殺人がダメだと言っているのに、国家が人を殺すのがオッケーなわけがない。これはしかし、逆に考えると「非常に限定的な形であれ、国家が殺人を許可しているということは、すなわち正当化され得る殺人はあるのだ」という考えにもつなかる。そう考える、ことは、拡大解釈の仕方「よってはリンチを正当化してしまうので、少し危険な考え方ではないかと思っている。とはいえ、赤ん坊も含めた一家を皆殺しにするような鬼畜、あるいは、とある人種をまるごと世界から抹殺しようとするような人間は殺されても仕方がないのではないか?という考えには、やはり一理あるようにも思えてしまう。「誰か特定の人」を殺していい理由はいくつ思いつくのか。その「誰か特定の人」にはなるべくバリエーションをもたせ、例えば、親類や友人、先生、近所の人、政治家、芸術家、会ったことのない異国の人々、とんでもない殺人鬼、有名な犯罪者、・・・。そうやって考えていくと、きっとどこかで「殺してもいいライン」と「殺してはダメなライン」が自分の中にあることに気がつく。しかし、ここで考えてをストップしてはいけない。ではそのラインは絶対的なものなのか。そこで「殺してもよい」「殺してはいけない」というふるい分け作業をしている自分に、その「ふるい分けをする権限」は一体どこから与えられていると自分は考えているのか。また、同時に、いろんな世界中の人が自分を「ふるい分け」にかけたときに、果たして自分はどちらに分類されてしまうのか。それも考えなければならない。私は、今、倫理というものの入口に立っているのだと思う。答えの出ない問題に対して、誰かが「これこれこうだから」と単純な理由を示して、「だからダメ」「だからいい」と言ってくれたら、自分でかんがえなくてよくなるのでラクかもしれない。しかし、そこで自分で考えなくなると、あとでとんでもない結末になることは歴史上いくらでもあった。以前にも書いたが、ナチのアイヒマンであったり。「言われたことをやっただけです」と胸を張ったが、世界は「言われたからやった」というだけで、どれだけ人間が残酷になれるのかを知って衝撃を受けた。のちのち、ひどいことになっても「でも、自分で考えてやったことだから」と思えれば、それはまだマシである。「よく考えてなかったけど、人に言われたからやった(あるいは、人がそういうことをやってもいいと言ったからやった)」ことについて、重大な責任を問われるのは最悪の事態である。もちろん「自分の考え」をもつためには、これまでに同じ問題についてよく考えた人たちの書物を読んだりして、どういう思考がなされてきたのか、を知る必要もある。そうやっていろいろ学んだり、自分でああでもない、こうでもないと考えたり、専門家や学者に意見を聞くのもいいだろう。そうやって悩み続けること、その行動自体が答えになるのではないか。そして悩んでいる間はもちろん、結論が出ていないわけだから、そんなあやふやな状態のまま人を殺したりしてはいけないのは理の当然である。だから、やはり人を殺してはいけない。映画や小説の中であればいくらでも殺していい。でもやっぱり現実は違う。私が生きている間にこの空っぽな頭でこの問題に対する自分の答えを出せるのかは、はなはだ自信はない。でも、答えがない、だからといって考えをストップすることはできない。いろんな事象が頭の中をグルグル回ってただただしんどくなる。でも、それでも考え続けようと思う。自分の頭で。

2017年10月2日月曜日

ダークサイドに堕ちてはならん?

 以前の投稿で、友人の一人がクロスバイクを買った話をしたが、先日やっと納車されたみたいで、写真を送ってくれたのである。いやーカッコよかった。さすがである。六本木のお店に納車されたので、そこからは自分でその自転車に乗って家まで帰らなければならないので、聞いたところによると家まで2時間ほどかかったみたいである。慣れていない道を走ったので、余計に時間をとられたみたいだ。でも、サイコーの自転車なので、乗っているだけで楽しいので、その2時間は有意義な2時間だろう。私も欲しくなっている(笑)。高校時代から大学時代まで、ほとんど毎日自転車に乗っていた。自転車が好きであったし、苦痛ではなかった。大学時代は大体の学生は自分の車を持っていたし、なければ不便だというのはわかるが、私は車を欲しいと思ったことはない。もちろん欲しい車はあるのだが、高過ぎて貯金しても意味がないレベルなのでその欲しい車のために貯金はしない(笑)。話を戻すが、自転車は車と違って、自分の体を使わないといけない。体力が必要なものなのである。車とは全然違うんだなあ。自転車の旅みたいなのもしてみたい。風を切りながらどこまでも走ってみたい。ロマンがあるなー。今度その友人の自転車を見に行ってみたい。

 今日は休みだったのだが、体調が悪い、いや体調が悪いような気がするのでずっと家にいたのである。悪くなくても家にいただろうが(笑)。前回の投稿では頭が痛くて途中から何を書いているのかわからなくなった(笑)。今もそうだが。日に日に酷くなっている、いや酷くなっているような気がする。喉が痛過ぎて寝れないのである。気のせいと言えないレベルだ(笑)。そろそろ認めざるを得ないのかもしれないが、まだ認めていない(笑)。気合いと根性で正常を取り戻そう(笑)。ここは体育会系のノリである(笑)。

 今日は『ゴーストライダー2』を観ていたのである。これはアメコミ原作の作品だが、アメコミは主にマーベル、DCがあるが本当にいろんなキャラクターが登場する。その中で、どのキャラクターが一番強いのか、を討論しているちょーヒマな人たち、いや、ちょーサイコーな人たちがいる。いろんなサイトでいろんな人たちが独自の考えで書いているので、その強さのランキングであったり、ランク分けが、その人によって全然違うのである。でも読んでいるだけですごくおもしろいのである。そもそもいろんなキャラクターがありすぎるのもあるし、ランキングそのものが不可能に近い。いろんな能力や力があるので、どれがどう影響するのかは全くわからない。そしてコミックと実写版映画とは違うというのもある。私は全キャラクターのコミックや映画を観たことがないので、討論はできないが、私はアメコミのキャラクターで一番好きなキャラクターの一人であるのが『ゴーストライダー』である。ちなみにこのゴーストライダーのランキングは最強に近い。そもそもゴーストライダーとは、悪魔との契約により魔術的な力があり、パワーの根源が科学的、超宇宙的なものではない。なので異次元の強さを誇る。地獄の炎(ヘルファイア)を全身に纏い、この炎に触れたものは一瞬で炭化してしまう。そして目を合わせるだけで相手が生まれてから犯したすべての悪事、他人へ与えたすべての苦痛を本人に舞い戻らせ苦しませることができる“贖罪の目(ペナンス・ステア)”がある。魂があるものに対しては無敵なのだ。そして私の大好きなコミックで映画である、『ウォッチメン』に登場するキャラクターの一人、“Dr.マンハッタン”も最強の一人である。ちなみに『ウォッチメン』に登場するキャラクターの一人の“ロールシャッハ”がアメコミで一番好きなキャラクターの一人である。このDr.マンハッタンは量子力学的ヒーローで、原子そのものである。あらゆる原子を分解、再構築することができる。つまり原子で構成された敵であれば瞬時に分解、消滅させることができる。さらに無から物体を作り出すことが可能で、この世に原子、どんな種類でも一つでも残っていれば、そこから自身を再構築できる。原子一つひとつがDr.マンハッタンになりうる。神を超えた存在、創造者で、アメコミ世界のパワーバランスをブッ壊した存在である。他にもこの2キャラクター以外にも最強キャラクターが山ほど存在するのだが、私がよく知っているのはこの2キャラクターなので、どっちがどうだろうか、という話しかできない。私が思うに、もしこの2キャラクターが戦って、決着をつけるのであれば、Dr.マンハッタンに魂があるのかどうかということになるだろう。そこでしか決着はつけられないのではないか。もしくはゴーストライダーが繰り出した技でDr.マンハッタンを炭化させたとしても、Dr.マンハッタンは再び自らを再構築させるだろうが、この炭化させるのはただ炭化させるのではなく、地獄への入り口を開いてそのまま地獄に落とし、地獄の業火で焼き尽くすことができるので、これは原子とかそういう話ではなく、地獄という異次元に叩き落とされるので、再構築は不可能ではないだろうか。なんだかゴーストライダー優勢みたいに書いているが、私はゴーストライダーの方が大好きなのでそういうふうに書いている(笑)。おそらくまともに戦ったらあっさりDr.マンハッタンの方が勝つんじゃないかなーと心のどこかで思っている。戦うことはないが。とにかゴーストライダーがカッコいいし大好きなのでそういうふうに書いたのである。地獄の炎で悪を滅せ、というカッコよすぎるキャラクターだ。多くのひとはこういうダークサイドの存在を好まない傾向があるが、私はダークサイドが大好きである。そういえば『スターウォーズ』でヨーダ先生が何十回と口をすっぱくして言っていたが、「ダークサイドに堕ちてはならん」と。ジェダイになるにはそういうダークサイドを断ち切らなければならないのだ。私なんか速攻ダークサイドに堕ちるに決まっている(笑)。いやー、ダークサイドサイコーである(笑)。欲望のままに生きていこう。あれはダメ、これもダメ、そんなんじゃストレスが溜まるだけである。節制ではなく放逸である。自分の好きなこと、楽しいことは他人に迷惑がかからないように、どんどん追求していこう。楽しいものは楽しい、いいものはいい、のだから。全速力で、地獄のハイウェイを突っ走ろう!ゴーストライダーのように。自分らしく。楽しく。イヤなこと、しんどいこと、つらいこと、鬱陶しいこと、思い通りにいかないこと、悲しいこと、苦しいこと、泣きたくなること、死にたくなること、体調崩すこと?、そんなことばっかりだが、がんばっていこう!なにかをな!!

地獄の底にて。

取捨選択できるなら

 季節の変わり目ということで、寒くなったり暑くなったりしているが、3、4日前くらいから体調を崩してしまったのである。いや、そういうのは認めないことにしているので、体が怠いと言っておこう。こうなるのは久しぶりである。そういえば去年は7月の最初に体が怠かったのを覚えている。なぜ覚えているかというと、7月の最初に新宿で映画関連のイベントがあったので、そもそも前売券を購入していたので、やめようかとも思ったのだが、せっかくだったのでフラフラになりながら参加したのを覚えている。さすがに最後までいると遅くなってしまうし、何時までやるかわからなかったが、2時間ほどで退席したのである。頭痛と喉の痛みがある、あ、いや、あるような気がする。気のせいだ、うん、絶対気のせいである。仕事があるときはどうしても睡眠時間が短くなってしまうので、それが原因だろう。寝れるときにちゃんと寝たいのだが、そういう寝れるときは普段できないことをやって結局寝不足になってしまうのだなあ。最低限の睡眠時間は確保するようにしたい。

 気がつけば10月になっている。早いものである。このままいくと、気がつけば死んでいるということにもなりかねないくらい時の流れが早い。生きている間にいろんな人と交流する。すごくいい人もいれば鬱陶しい人ももちろんいる。時間というのは期限、制限がある。今この時期で考えると、先は長いと見えがちだが、そんなことはない。無限にあると錯覚しがちだが、そう思っているだけである。その中でいろんなことをやらなければならない。自分の好きなこと、趣味もそうだろう。もちろんしたくないこともしないといけないときもあるだろう。それが自分でコントロールできればいいのだが、そう思い通りにならないのもまた事実。人生は無駄なことの方が多いのだと思っている。しかし、自分のやりたいことをやるがために無駄なこともしないといけないのなら、それの無駄なことをやらなければならない。遠回りしないといけないのなら遠回りしなければならない。人とのつきあいはどうだろうか。私は何度も言っているが、好き嫌いが激しいので、好きなひととはとことん遊んだりコミュニケーションをとったりと時間を気にせず惜しみなくそれに費やすが、嫌いな人とはつきあいたくない。当たり前だが。中途半端な存在もそうである。私は中途半端なのも面倒なので、それも付き合わないことにしている。中途半端なものに時間もそうだしお金も使いたくないからである。ひと付き合いにもどうしても多少のお金は必要になってくる。自分が使いたくないものに使うお金が一番苦痛だろう。それはしたくないからである。私の感覚だと、お金を捨てるようなものだ。そういうと、人付き合いはこの先どうなるかわからないから、そういうのもちゃんとしておかないと、大切にしておかないと、後悔することになるよ、と言われるかもしれない。確かにその先のことは当たり前だがわからない。後悔するよと言われても、後悔する人は何をやってもどういう決断をしても後悔するだろう。後悔する理由を見つけようと思えばいくらでも見つけられる。そうではなくてこれでよかった、これがよかったと思えるようにしていかなければならない。先ほども言ったが、時間は有限である。嫌いなこと、イヤなことには時間もお金も使いたくない。そんなことをしている時間がもったいない。そんなことをしているヒマはない。そんなことに時間やお金を使うのであれば、自分の好きなことに使う。誰だってそう思うだろう。もしかしたら明日には死んでいるかもしれない。もしかしたら明日交通事故で死んでしまうかもしれない。いつ、自分の人生の持ち時間がゼロになるかわからない。でもいつかは必ずゼロになる。そう思ったらイヤなことや嫌いなこと、嫌いなヤツ、イヤなヤツ、そういうものに時間をとっていられない。その先に自分の希望しているものがあれば、そのイヤなことをしないといけないのなら、やらないといけないが。私は不器用なので、いろんなことができないし、多くの人とコミュニケーションがとれないのである。なので無理せずに自分に合った生き方をしているだけであるし、これからもそうしていく。無理をすればいつかはストレスになるので。なので人付き合いに関して言えば、すごく良く見えるし、残酷でもあるということだ。ハッキリしているから。今みですごく仲が良かったのに、自分の醜態を晒したり、裏切られたり、敵とみなされたり、利用されていたり、そういうことになると当たり前だが縁を切る。ダラダラ中途半端なことに時間を費やしたくないからである。人からいいことや親身になってくれたり、ナイスなことをしてくれると、当たり前だがちゃんとお返しというのかそれに当然応える。当たり前である。そうじゃないと生きている意味がない。でも誰だろうと応えてくれなかったり裏切られたりしたら身を引く。相手側にも言い分があるだろうが、当たり前だがこちら側にも言い分がある。それは言ってもしょーがないので言わないが。言っても時間の無駄なので言わないが。そうやって面倒なことが山ほどつきまとう。だから、できるだけ自分の思っていることを選択していかなければならない。人付き合いならば、自分にとってプラスになる人、自分のためになる人と仲良くしていかなければならない。もしそれが、時間の無駄であったり、中途半端であったり、マイナスになっていたり、イヤだけどしゃーなしで一緒にいたり、一方通行の意思であったり、そういうものは時間の無駄になる。そういうを自分で取捨選択できるならやった方がいい。ダラダラするのはなにもかもが無駄である。何度も言うが時間は有限である。その時間というのは思っているよりも短いかもしれない。最初の方にも書いたが、気がつけば死んでいるかもしれない。そう思ったら、自分が望んでいるものを、好きなことを、価値あるものを、意味があるものを、そういうものを求めていった方がいいのではないか。

2017年9月24日日曜日

暴力にも意味、価値が

 引き続きスターウォーズショックが続いているが、少しスターウォーズの時系列を紹介しておこう。まず最初に公開されたのが
『スターウォーズ/エピソード4 新たなる希望』(1977)
『スターウォーズ/エピソード5 帝国の逆襲』(1980)
『スターウォーズ/エピソード6 ジェダイの帰還』(1983)
である。これがオリジナル三部作である。その後、
『スターウォーズ/エピソード1 ファントム・メナス』(1999)
『スターウォーズ/エピソード2 クローンの攻撃』(2002)
『スターウォーズ/エピソード3 シスの復讐』(2005)
である。これがプリクエル三部作である。その後、
『スターウォーズ/フォースの覚醒(エピソード7)』(2015)
『スターウォーズ/最後のジェダイ(エピソード8)』(2017)
その続編が2019年公開予定とされていて、これがシークエル三部作である。そしてスピンオフのオリジナル三部作1話目エピソード4の直前を描いた『ローグワン/スターウォーズ・ストーリー』(2016)、登場人物の一人のハン・ソロを描いた作品が2018年公開予定とされている。もちろんこれら以外にも、イウォーク二部作、アニメのクローン大戦、クローンウォーズ、反乱者たち、や関連映像がたくさんある。スターウォーズを語るにはこれらも見ないといけないが、私はまだまだそこまで追いついていない。簡単に紹介するとこんな感じである。

 以前も表現について投稿したが、ひとによって表現の受け取り方が全然違うと投稿した後に思ったのだが、映画『マッドマックス/怒りのデスロード』はマジでチョーヤバイ!と何度も言っているが、1年くらい前にこの映画がリバイバル上映され、私が少し大阪に戻ったときに母を連れてこの映画を観に行ったのである。観終わった後、私が「すごかったやろ!」と自信満々に聞いたのだが、母は「何がすごいか全然わからんかった」、と。ボコボコにシバいてやろうと思ったのだが、その表現の受け取り方はひとによって全然違うんだなと思った次第。おそらく事前知識がないと理解できなかったらいけないので映画を観る前に、そのマッドマックスシリーズのおさらい、そして今回のストーリーの前哨戦を登場するキャラクター一人ひとり解説し、ジョージ・ミラー監督のこだわりや作風、隠された意味などを事細かに説明していたのだが、あの爆走劇には着いていけなかったようだ。ひとによって心の動きようは全然違うんだなー。
 『マッドマックス/怒りのデスロード』は大ヒットしているが、これもやはり賛否あり、すごいというひともいれば、母みたく何がすごいかわからないという人もいる。熱狂的なファンがいるということでこの映画はカルト映画の一作品である。カルト映画と呼ばれる作品はものすごく好きなひともいれば嫌いなひともいる。それだけ角が立った表現だからである。残酷表現を非難するひともたくさんいるし嫌いなひともたくさんいるが、その裏側ではその表現によってどれだけ多くのひとが救われていることか。最近は角をどんどん丸くしていこうという傾向にある。尖ったところをなくしてしまったらそれは表現としての価値が消え失せるのと同じことである。暴力シーンを取った『時計じかけのオレンジ』に意味が、価値があるのかといったらゼロである。当たり前だが、それでしか伝えられないもの、伝わらないものがある。もちろん暴力がいいと言っているわけではない。明日からすれ違うひとを片っ端から殴っていけ!と言っているわけではない。当たり前だが。でも表現としてそれに意味が、価値がある。話が脱線するが、コミック版の『キックアス』のラストで、ヒットガールは全悪党どもをブッ殺した後、主人公のキックアスはヒットガールと会うことは二度となかった。しかし、テロリストやギャング集団が皆殺しにされているというニュースを聞く度にヒットガールの活躍を知る。そして話が変わり、描かれていたのはとある少年が自分の部屋で涙を流しているシーン。少年は学校の友人からいじめられているのだ。少年はいう。
“一晩でもいい・・・
楽しい気持ちで眠りたい。
一日でもいい・・・
泣きながら目覚めることのない朝を迎えたいんだ。”
そしたらすぐ横にヒットガールがいる。そしてその少年に向かっていうのだ。
“シャキッとしな、短小野郎!
根性見せてみなさいよ!
明日の朝9時から特訓開始よ!”
これで『キックアス』は完結する。ヒットガールがいう“特訓”とはもちろん暴力による人との戦い方である。ヒットガールはキックアスにも特訓していたが殺人術は教えていなかった。というよりもキックアスが望んでいるヒーロー像がクリーンであったため、殺人はしたくないということであった。実際は殺しているのだが。おそらくその少年には、イジメをしているヤツらに立ち向かえるように訓練するのだろう。そこで用いられるのはやはり暴力である。暴力に対して暴力で立ち向かうのはどうか、という話になるのだが、例えばミサイルを撃ち込まれたからといって戦争を始めるとかそういう話をしているのではない。この場合の暴力は、“自分に自信を持てるように”とか“自分だって強くなれるんだ”というのを知るための訓練である。国と国との
話であればまた違ってくるが、個人と個人の話なので、小さい頃はケンカして当然である。殴ったり蹴られたりするのはしょっちゅうだろう。そのレベルの話である。その中で立ち向かえるようにということだ。暴力はよくない。確かにそうだろう。しかし、目の前で大切な人がヒドイことをされている、されそうになったとき、周りには誰もいない、そんなときにその大切なひとを守れるのか?自分を守るために、友だちを守るために、愛するものを守るために、人間って戦わないといけない、戦うこともほんの少しだけ必要になってくるんじゃないだろうか。

『スターウォーズ』ショック

 昨日といっても日が変わって明け方の4時くらいまで私はあの『スターウォーズ』を観ていたのである。先日の休みにオリジナル三部作、そして昨日プリクエル三部作、シークエル三部作となる1話目の『フォースの覚醒』、そしてスピンオフの『ローグ・ワン/スターウォーズ・ストーリー』を観た。この『スターウォーズ』シリーズを観はじめてこのほんの数日間、感情の起伏がものすごい状態になってしまい、今もなかなか落ち着かない状態なのである。自分でもどうしたらいいのかわからないくらいだ。私は以前のブログでも書いたのだが、ついに私も『スターウォーズ』に手を出したと。遅いといわれたら遅いのかもしれないが、今もストーリーは進行形である。なので私もあの超巨大なビッグウェーブに乗れるかもしれない、そう思っていたのだ。そして最初のオリジナル三部作を観たとき、その願いが叶った、そう思った。そう確信したのだ。やっぱり『スターウォーズ』はすごい、スゴすぎる。なんでもっと早く観ておかなかったんだ、私はバカか、頭が悪過ぎる、そう思わせるほどのインパクト、感動があった。このままこの巨大な波に飲み込まれよう、身を任せよう、そう思いながら、興奮状態のままプリクエル三部作に臨んだのである。そしてこのプリクエルを観終えたとき、心のどこかで“?”という感情があった。しかしその“?”を隠そうというか、なかったことにしようというのか、認めたくなかった。なぜなら『スターウォーズ』はすごいと思っているからである。好きになれば嫌いなところも許せてしまうように。やっぱり『スターウォーズ』はすごいと自分に納得させながら『フォースの覚醒』を観た。やっぱりすごいじゃないか。プリクエルを観終えたあとの“?”を打ち消すかのように。やっぱりあの“?”は自分の勘違いだった、間違いだった、そう思わせてくれたのだ。『フォースの覚醒』は希望をもたせてくれた。これを観終えた時間が午前2時。この希望を持ったまま私はスピンオフの『ローグワン/スターウォーズ・ストーリー』を観た。まさか自分がこれほどのショックを受けることになるとは知らずに。そして観終えた。ショックというのか絶望というのか、そういう自分でもどうしたらいいのかわからない状態になってしまった。しかし、『ローグワン』の最後の戦闘はよかったんじゃないか、自分でもそう思いたかった。そう思い込ませようとした。調べてみると、最後の戦闘は完璧過ぎる、とこれ以上ない褒め言葉が並び、絶賛されているコメントが溢れかえっていた。しかし、私にはそれにも限界があった。ちょっと無理になってしまった。私はこの『スターウォーズ』に期待し過ぎてしまったのか。いや期待以上、期待をはるかに超えるのものをみせてくれたのは事実だ。しかし、プリクエルからの流れに自分がついていけなかったのも事実。それでも“すばらしい作品だ”と思い込ませようとしてしまった自分を許せなくなってしまった。もう今自分でも何を書いているのか、何を書いたらいいのかもわからなくなってしまった。オリジナル三部作が始まったとき、『スターウォーズ』は快楽原則に基づき、ありとあらゆる快楽をブチ込んだ過去に例をみないサイコーの作品なのである。世界中にこの『スターウォーズ』ファンが溢れた。世界を熱狂の渦に巻き込んだのだ。そして監督のジョージ・ルーカスはそのオリジナル三部作の話をもっと広げようとして挑戦したのがプリクエル三部作である。しかし、この三部作が順番に公開されるごとにファンが減っていってしまった。そしてルーカスフィルムをディズニーに売却し、『フォースの覚醒』が作られた。そのときにルーカスとディズニー側との意見が合わず、ルーカスは「奴隷業者に売ってしまった」と発言し、これが問題となって後にルーカスはディズニーに対し謝罪するのだが。でも確かにルーカスの言いたいことはわかる。これでいいんだったら誰も苦労しないよ、ということだ。『フォースの覚醒』からルーカスは一切手を引いている。そして『ローグワン/スターウォーズ・ストーリー』である。確かにこの『ローグワン』は大ヒットした作品だ。興行的には大成功だ。いや、評価をみてもすばらしい作品だし、ファンもこういうのを求めていた、待っていた作品だ。しかしちょっと待ってもらいたい。ファンが求めているものを、ファンの思い描いている範疇のものを、しかもそれが『スターウォーズ』という巨大な怪物を使ってこの世に放ってもいいのか。つまりこの映画が、先に進むのをやめた、挑戦するのをやめた、作品になってしまったのである。一回こういうのを放ってしまうとファンはよりそういうのを求めてしまう。もっと、を要求してしまう。しかも『スターウォーズ』は超巨大なので今後のありとあらゆる映画に影響を及ぼしてしまうのは目に見えている。私はディズニーを全否定しているわけではない。ディズニーの傘下であるマーベルは挑戦的な作品を世に放ってくれているのも事実。私の大好きな『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズなどである。どんどんおもしろいことをやるぞというのがわかって本当にすばらしくおもしろい作品だ。映画を作るというのはギャンブルみたいなものである。映画一本作るのにものすごい大きなお金が必要になる。なので当たるか当たらないかわからない映画を作るよりも、過去にヒットした作品の続編を作ったり、マーベルコミックを映画化する方が、制作側としては内容が理解されやすいので、ゴーサインも出易いのである。しかし、リスクがあっても新しいものにどんどんチャレンジしてほしいのだ。そして『スターウォーズ』は当たり前だがマーケティングが巨大なので、そのグッズをバカ売れしている。作品が売れているからグッズを作るのか、それともグッズが売れるから作品を作るのか、それももうわからなくなってしまっている。今年の末に『フォースの覚醒』の続編である、『最後のジェダイ』が公開される。私はこの年末に間に合わせようと思い、『スターウォーズ』に挑戦した。オリジナル三部作は夢を持たせてくれた。ビッグウェーブに乗ることができた。あの純粋な気持ちでこれからもオリジナル三部作を観ていくだろう。もちろん公開する『最後のジェダイ』は観に行こうと思っている。しかし、『ローグワン』の次作ということでなにかしら影響があるのは目に見えている。あの映画を観に行くというどういう映画か楽しみだ、という純粋な気持ちで映画館に行くことはできないたろう。『ローグワン』は一度完成したときにディズニー側は撮り直しをさせ、最終的には40%撮り直しをさせている。表現者であれば半分も撮り直しさせられたらもう自分の表現ですらなくなってしまう。それだったら全部撮り直しした方がマシである。まあいろいろと事情がだろうが。そしてスピンオフの次回作が2年後に公開予定だが、何人もの監督が降板している。理由はわからないがおそらくディズニー側との意見が合わないのだろう。悲しくなってしまった。いろいろと(笑)。この感情をどうしたらいいものか。一旦『スターウォーズ』との付き合いに折り合いを付けなければならない。感情に流されず、もう少し気楽な感じで楽しんでいこうかなと思う。もちろんだがこれからもどんどん観ていくことには違いない。もっともっと『スターウォーズ』を知りたいし勉強していきたい。とりあえず気持ちを落ち着かせたい。

2017年9月20日水曜日

いずれかになる表現

 この前、台風の影響かは知らないが0時を回ったくらいから、風と雨の音がうるさくなり、せっかく寝ようと思ったのにうるさくて眠れなかったのである。寝たり起きたりの繰り返しで、気が付けば5時になり、起きる時間になってしまった。出かける時間には太陽が出ていて、夜中の嵐はなんだったんだろう、という感じである。気がつけば、9月ももう後半である。早いものである。暑いといってももうそれほどでもない。このまま涼しくなるんだろう。そしたら冬だなぁ。寒いのは好きではないので、できればまだ暑い日が続いてほしい。

  以前から映画関係の話とかの中で表現について何回か話をしているが、やはり表現が強ければ強いほどインパクトがあるのは確かである。この前にも書いたが、そういうインパクトが強いものは悪影響を及ぼすから見せない方がいいとか、フタをしてしまえという流れになってしまいがちである。しかし、表現は良くも悪くも何かしらの影響がなければそれは表現として成り立たなくなってしまう。表現はいろいろある。誰かと話をすることも表現の一つだし、こうやってブログを書くことも表現の一つである。それによって周りに何かしらの影響を与えているはずなので、これも立派な表現の一つである。私はあえてそうしているわけではないが、いちいち極端な表現を用いている。友人などはよく知っているし、このブログでもそんな感じであるが、なにかしら言うことは汚いことばである(笑)。その方が内容に凹凸ができるから?、ある意味笑いにつながる?、など自分で良いように解釈しているが、どうせ表現するならおもしろく、心に残るように、インパクトがあるように、など考える。表現とはやはり良い意味でも悪い意味でも影響を与えないといけないので、その表現が激しければ激しいほど熱狂的になるし、反対にアンチが増加するし問題にもなる。私はそれはいいことと思っている。毒にも薬にもならないようなことであれば意味がないからである。そもそもそれは表現ですらないからである。そして毒にもなるか薬になるかはその人次第である。こういうのは予定調和が好きな人にはなかなか受け入れられないかもしれない。本当は言いたいのになかなか言えないこと、心の隅では思っていても口にできないこと、本当はそういうことなのにそうとは言わないこと、などなどそういうのを私は声を大にして言いたい。なぜならみんなどこかでそう思っているから、代わりというつもりではないが言ってみよう、そんな感じである。自然体が一番いいに決まっている。例えば、こういう仕事をしているからこういうことはできない、こういうことを言ってはいけない、など。もちろん言ってはいけないところなどTPOを配慮してのことを前提だが。無理してまで言いたいこと表現したいことを我慢してもそれはかえって自分によくない。健康的にも。演技していたっていずれその演技している自分に疲れてしまい、それがストレスになってくる。人間なのでなにかしら思うことは当たり前のことである。それを仲のいい友人でいいから、遠慮せずに言えばいいし表現すればいい。こんなこと言ったら周りはどう思うかな、とかそんなこと考えなくていい。大丈夫、みんなそう思っているから(笑)。最初は激辛ラーメンを作りたいと思っていたら、これだったら子どもが食べれないからもう少し甘くしようとか、ラーメンだけだったらラーメン嫌いな人は食べれないからお寿司も用意しよう、とか気が付けば最初思っていたものとは全然違うものになっていた、というのがよくある。こんなんでは意味がない。万人に受けることなんてこの世には存在しない。自分を受け入れてくれるひともいれば拒絶するひともいる。そんなの当然である。誰からも好かれようとしてもそれは最初から無理な話なのである。拒絶するひとがいれば、「うるせーよボケブッ殺すぞアホンダラ」と言って忘れたらいいのである。そんなことでいちいち気にしてもしょうがない。表現を抑えたとしてもそれは常に付きまとう。だから気にせず生活すればいいのである。そして言いたいこと、表現したいことをやったらいいのである。表現して薬になればいいかもしれないが、なにもならないより毒になった方がよっぽどマシである。

2017年9月17日日曜日

“人生ほど重いパンチはない”

 最近私の数少ない友人と会っているが、一番いいのはやはり気にせずにバカ笑いできるとこだろう(笑)。中途半端な存在だと何かしらいちいち気にしなければならないが、そんなものはお構いなしである。まあ私は笑えればなんでもいい感じなので(笑)。くだらないことで笑えるのはいいことである。もっともっとくだらない感じでいこう!!(笑)

 昨日、『ロッキー・ザ・ファイナル』を観なおしていた。何度も言っているが(言ってしまうが)本当にすばらしい作品である。年を重ねたロッキーだからこそ、響いてくるものがある。全セリフを載せたいくらいだがそれは厳しいので、中でもよかったところを紹介したい。
ロッキーには息子がいるのだが、その息子に相談ということでまたボクシングをやろうと思っているのを伝えるシーンで、息子はもう年なんだからやめた方がいいよ、笑いものだよエゴだよ、世間に何を証明したいの?と言う。

ロッキー:“人生は一度きり”って。ボクシングをやろうと思う。年だからって挑戦をやめることはないだろう。胸を張って挑戦して何がおかしい?世間を気にするのはやめた。自分で考えるものだ。


ライセンスを発行してもらいに役所へ行って話を聞くのだが、ライセンスを発行してもらえなかったシーン。

ロッキー:俺の権利はどうなる?街でよくみかける“しあわせを追い求める”とか。俺の幸福の追求の邪魔をしている。人を呼びつけて散々審査して、やっぱりダメはないだろ?人の仕事の邪魔をしないでくれ。自ら挑戦しようとする人間を止める権利が誰にある?あんたたちにも胸に秘めた夢ってものがあるだろ。やることだけやらせて断る権利なんてない!夢を追い求める権利があるならその心意気を尊重すべきだ。年をとるほど失うものも多い。残ったわずかなものまで奪わないでくれ。


ロッキーのレストランで働くようになったリトル・マリーと俺はなぜボクシングをしたがるのだろうと相談しているシーンでリトル・マリーのことば。

リトル・マリー:あなたは人生の活力に満ちあふれている。みんな情熱をもっていても、その炎を燃やせるひとは少ない。でもあなたはその機会を得た。燃やすべきよ。昔もこれからもそれがあなたよ。他人に惑わされる人じゃない。世間にどう映るかより、自分の信じる道かどうかよ。これは自分の信じる道?自分がそうしたくてそうするべきならやらなくちゃ。戦うのがボクサーよ。


ロッキーの息子が父の存在を恨んでいると、みんな自分を見れば父を思い出すと、そんなの最悪だと言っているシーンでロッキーのことば。

ロッキー:お前はどこかで変わってしまった。人にバカにされても、平気な人間になり下がった。自分のふがいなさを“影にかすむ”せいにした。世の中バラ色じゃない。厳しくてつらいところだ。油断したらどん底から抜け出せなくなる。人生ほど重いパンチはない。だが大切なのは、どんなに強く打ちのめされても、こらえて前に進み続けることだ。そうすれば勝てる。自分の価値を信じるならパンチを恐れるな。他人を指さして自分の弱さをそいつのせいにするな。それは卑怯者のすることだ。お前は違う!自分を信じなきゃ人生じゃないぞ。


こんなことを言えるのは本当にいろんなことを経験して、苦しいこともつらいことも大変なことも自分で乗り越えてきたひとなんだなぁ。私がひとに何か言うことは、テキトーでいいって、である。チョー薄っぺらい!(笑)人ごと!(笑)この差はなんなんだ!(笑)自分の中身のなさが今明白になった(笑)。生きているのが恥ずかしくなってきた(笑)。笑いごとではない!!でも、ロッキーのことばを書いているだけで涙が出るんだなぁ。“人生ほど重いパンチはない”、この一言の意味の深さ、広さ。“人生”を乗り越えてきたひとだからこそ言える一言なんだなぁ。やっぱりロッキーは偉大なひとである。