2017年11月6日月曜日

究極のタブー

 長渕剛の選曲第3弾をやらなければならないのだが、その前にものすごい映画を観てしまったのでそれについて少し書きたい。今回はおそらくこの世で最もタブーに挑んだ作品である。戦争や殺人も最もタブーなことの一つだが、今回は“食人”である。『グリーン・インフェルノ』という映画を観たのだが、これはものすごく残酷映画である。といっても笑えるところもあるので、コメディホラー映画である。この映画の監督は、イーライ・ロスという人で、ホラー映画の若きカリスマと呼ばれている。簡単に映画の説明をすると、過激な慈善活動をしている学生団体が飛行機トラブルでアマゾンの奥地に墜落して、その場所は人を食べるという食人族がいた、というなんとも在り来たりは内容である。といっても現実世界では、人間は歴史的にもよく人を食べていた。なので、食人族にしてみれば人間も動物と同じなので、我々の感覚からしてみれば残酷に見えてしまうが、彼らの視点からみると至って普通なことである。そうは思っても、やはり仲間が次々と食べられていくのをみると恐怖を感じてしまう。こういったカニバルイズムは究極のタブーであるが、違う作品の『野火』であったり、そういった状況だと自分はどうするだろう、と考える。食べるか食べないか。もちろん他に食糧がないので、食べなかったら死んでしまう状況である。自分だったら食べちゃうんだろうな、と思ってしまう。
 映画を観ていて思ったのが、食人族よりも、慈善活動をしていた学生団体である。主人公の女学生は自分もそういった活動をしておいた方がいいのかな、といった感じで活動に参加するのである。ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアーということばがあるが、まさにそれである。ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアーというのは、インターネット上でお手軽な正義感に基づいて他人を弾劾したり糾弾したりするひとたちのことをいうのだが、普段全然考えてもいないのに、2分前に拡散されてきたニュースに関して、「これは許せない!」といきなり言いだしたりする。それにこのイーライ・ロス監督はウンザリしていたのだ。そういうひとたちを、どうしたらいいのかと考えていたら、そうだ!食人族に食われてしまえばいいんだ!となった(笑)。それで作られた作品が『グリーン・インフェルノ』である。最近ネットでも炎上とかあるが、これは責任者が誰だかわからないし、本人に責任があるのか周りが悪いのか。とあることに関していろんな考え方があるのに、正義的なものの見方以外は全部アウトになってしまうのがソーシャル・ジャスティス・ウォーリアーの特徴である。これは日本だけでなく世界中にこういうひとがいるのではないかと思う。ネット上だとどうしてもメタな視点でいろんなことをなんでも書けてしまう。それがSNSの特徴でもある。確かに監督の言う通り、ウンザリしてしまうよなぁと思ってしまう。私もそういうのがイヤなので、そういうのはほとんどやらない。メタな視点だと誰でも無敵になれる。全部他人ごとで外野から「バーカ」って言ってられるのだから。こういったことも、前回の投稿のハロウィンなんかのイベントの投稿であったり、なんかある種の共通点があるように思える。そのことに関して肯定するか否定するかの違いだけで、やっていること自体は同じように見える。私もよく思うのだが、“利口である”ことと“利口ぶること”は全然違うということだ。浅はかな考えであったりそもそも普段考えていなかったり、その場のノリであったり、周りに合わせてみたり、とどれも全部無責任というのか主体性がないというのか、それにプラスしてネットやSNSが拍車をかけているのでなんでもアリ状態である。それってどうなの?となってしまうのは当たり前である。その状態に自分がいるのかどうか。本当に残酷なのはそういった人たちなのではないかと考えてしまう。

2 件のコメント:

  1. お疲れ様です。

    『グリーン・インフェルノ』ですが、もちろん私は観たことがないのでネットで調べてみましたが、これもまた何というか非常に気持ち悪そうな映画ですね(笑)
    でも、そう思いながらもネットの紹介動画を結局最後まできちんと観た私も私ですが…

    今回の論点は、ネット上で無責任に外野から批判するソーシャル・ジャスティス・ウォーリアーについて、ということでした。
    しかし、私はどちらかというと「食人族にしてみれば人間も動物と同じなので、我々の感覚からしてみれば残酷に見えてしまうが、彼らの視点からみると至って普通なことである。」という箇所のほうを取り上げさせていただきたいと思います。
    人が人を食べることは残酷だが、はたして人が他の動物を食べることは残酷ではないのか?と思いますね。
    一般的な話では、人と動物を区別するのは理性があるかどうかだと考えられているようですが、この論理を使ってみると、サバンナでライオンがシマウマをつかまえて食べるのは残酷ではない、ということになります。同様に、サバンナに不用心にも観光にきた人間をライオンが襲ったとしても、それは残酷ではないということになります。理性のない動物が自然の法則に沿って他の動物を襲うことは残酷ではない、ということです。
    しかし、人間の場合はたとえ食人族であっても理性によって成立している社会生活を送っている以上は理性はあるとみなされますから、人が人を食べることは残酷だ、ということになります。
    で、ここで理性ある人間が他の動物を食べることも残酷なのか、という問いになります。
    たいていの日本人は、スーパーでパック詰めされた肉を何の抵抗もなく消費していますが、世界のどこかでは自ら狩猟し動物の首を切って日々の食物を得ている人々もいるわけです。
    でも、それらの活動自体をすぐに残酷だとはみなされてはいないはずです。理由はよくわかりませんが。
    なぜ人間が他の動物を食べることは残酷ではない、と“特別扱い”されるのでしょうか?
    そう思っちゃいますね。おもいっきり普段から残酷なことをしてるじゃないか、と。
    大学1年の時、必修ではなく選択だった「生物学実験」という科目をとったのですが、簡単に言うと要はラットを解剖をするというものでした。
    倫理的配慮として(まぁ実際は人間側の身勝手な言い訳に過ぎないと思いますが)ケタミンという麻酔の一種の薬剤をラットの大腿部に筋注してから行ったり、動物実験に関してかなり倫理的にいろいろ勉強してから実施するのですが、いくらいろいろやったとはいえ、つまるところこんなのは残酷の極みみたいなものです。(と、私は今でもそう思います)
    自分で首を切ったわけでもない動物の肉を、それを全く意識せずに湯水のごとく消費する現代社会のことも残酷の極みであり、自然の中から自分で捕まえて自分で殺して肉をとったほうが何だかよっぽどマシなような気がしますね。食人族は、相手は人間とはいえ、自分で捕まえて自分で殺して肉を取っているわけですし、「彼らの視点から見れば至って普通」なのですから。

    …こんなことを考えていると何だかこっちのほうが明らかに健康に良くないので、もう切り上げて寝ようかと思います(笑)

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    1. Abbyさん、コメントありがとうございます。
      すみません、11月9日投稿の記事にコメントをいだいておりましたが、その返信させていただいたのですが、少し訂正があります。
      「タランティーノ監督がここ最近の3作品は“復讐”がテーマ」、とお伝えしましたが、最近の3作品だけが復讐がテーマになっているわけではないんです。
      タランティーノ監督はデビューから現在までにいろんな作品をつくっておりますが、そのほとんどが“復讐”をテーマにしてつくっているんですね。
      なので最近の3作品だけが復讐がテーマではないということです。
      すみません、言葉足らずでした。
      自分の中でタランティーノ作品を前期、中期、後期みたいな感じでわけてみていたというのがあり、後期にあたるのがここ最近の3作品で、それでついそう書いてしまいました。
      申し訳ありませんでした。

      『グリーン・インフェルノ』はものすごい映画でしたね(笑)。
      題名がカッコいいから観てみたいと思って観てみました。
      この作品のイーライ・ロス監督は、タランティーノ監督作品の『イングロリアス・バスターズ』に登場する“ユダヤの熊”と言われているナチからも恐れられているキャラクターが登場するのですが、この俳優がイーライ・ロス監督なんですね。
      また、イーライ・ロス監督作品の『ホステル』では、私はまだ観たことがないんですが、とあるシーンでタランティーノ監督の『パルプ・フィクション』がテレビで流れているというシーンがあるみたいです。
      そしてこの『ホステル』の製作総指揮がタランティーノなんですね。
      イーライ・ロス監督とタランティーノ監督は仲がいいんですね。

      Abbyさんのおっしゃる通りだと思います。
      実はAbbyさんからいただいたコメントの内容についても少し詳しく書こうと思っていたのですが、ヤコペッティ監督デビュー作の『世界残酷物語』ではその内容に触れているんですね。
      黒人奴隷の『残酷大陸』で、『世界残酷物語』では地球上における未開社会であったり、奇妙な風習、そして我々の生活にお行われていることと反対にことが行われている地域のことなどを紹介している作品です。
      今日その『世界残酷物語』を観ました。
      この作品を観てから今回いただいたコメントの返信をさせていただこうと思っていたので、返信が遅れてしまいました。
      すみません。
      その作品のワンシーンで“犬”が扱われているのですが、
      私たちがよく知っているのは、ペットとして飼われ、もはや家族の一人になっているというのがあり、それを写しだすのですが、そのあとに“犬”を食として扱われている地域が紹介されます。
      文明社会のほとんどの国では食料、肉は製品化されて、コマ切れ状態で販売され、それを買って家庭にやってきます。
      屠殺とそれにまつわる情報はタブーになっています。
      牛の首きりであったり、アフリカの奥地では豚殺しのお祭りがあります。
      これらの残酷に私たちが眉をひそめる権利なんて一切ないんですね。
      ほとんどの人が日常的に食べている牛や豚など、同じように殺されて食品になるので、これらの残酷シーンには「残酷だなどとは言わせない!」というヤコペッティ監督の強いメッセージが込められています。
      確かにそれを観ると、私たちに反論できる余地なんてないんですね。
      本当にその通りだよなぁーとうなずいてしまいます。

      私は大学にはAbbyさんのような授業はありませんでしたが、高校のときに生物の授業で、ニワトリの頭を半分に切って神経が交差しているところを見てみよう、というすばらしい授業がありました(笑)。
      その実験で使うニワトリはラーメンなどの出汁におるためのもので、もうすでに頭だけになって冷凍されている状態でしたね。
      もう一人の生徒と組んでペアで実験をしましたが、もう一人の生徒は自分は切りたくないといっていましたね(笑)。
      私はこういうめったにできない経験はやった方がいいと思っていたので、自分からすすんで頭を切りました。
      頭を縦に切るペアと横に切るペアがあったのですが、私たちのペアは横に切る側でした。
      確かに神経が交差しているのを確認しましたね。
      その後は自由だったので、私は続けて解剖していました。
      周りの生徒は自分はできないというのか、自分たちではやらないんですね。
      でもどうなっているのか見たいんでしょうね。
      ずっと私の解剖を見ていました。
      私も本当に残酷だと思います。
      今はいろいろ考えることがあって同じことができないと思います。
      こういうことを考えていると、何がまともでどれが残酷なのか、全然分からなくなってきますね。
      全部自分視点でしか物事を見ておらず、自分の範疇意外は“異常”だと勝手に決め付けているだけなんですね。
      そしてそれを排除しようとするんですね。
      それはよくないことだと思います。
      “残酷”なものを観るというのはそういうのを考えさせてくれる、教えてくれるのがあるから私は貴重な、価値のある行為だと思います。
      その行為をこの世の中は隠そうとしていることに疑問を抱いてしまいます。

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