2017年10月4日水曜日

ラスベガス銃乱射事件に思う

 またアメリカで悲しい事件が起こってしまった。59人が死亡するというアメリカ史上最悪の銃乱射事件となった。容疑者の動機はまだわかっていないみたいだが、どんな動機があろうと決して許されない。ホテルの32階から屋外コンサート会場に向けて乱射したそうだが、まさかそんなところから狙撃されているなんて誰も思わないだろう。「伏せろ!」という声が響いていたみたいだが、そんな上空から狙撃されていたら伏せても逆効果になっていたかもしれない。アメリカでは銃に関する事件が後を絶えないが、今回の事件でアメリカ政府はどういった対応をしていくのか。今のところ銃の規制の動きはない。今みでにも何度か書いてきているが、我々日本人の感覚からすれ、何故銃の規制を厳しくしないのかと大勢の日本人は思う。しかし、アメリカはそうではないのだ。おそらく、今アメリカの多くの人が銃を購入しているだろう。銃に関する事件が起きればそういう動きになる。日本人の感覚とは次元が違い過ぎる。そもそもアメリカは“自由の国”である。そしてその“自由”とはお上から与えられるものではなく、自ら戦って勝ち取るものなのだ。アメリカ政府がもし自分たちの自由を奪おうとしたり、侵略しようとしたときに、彼らは銃を持って戦わなければならない。だから彼らには銃が必要なのだ。その“自由”を守るために。これがアメリカの抵抗権である。
 最近も暴力や殺人など、そういったものを書いているが、リアルタイムにこれほどの事件が起こってしまうとは思わなかった。ラスベガスは訪れてみたい街の一つである。ギャング映画をはじめ、『オーシャンズ』シリーズで、オーシャンと仲間たちがホテルの噴水の前に並んでみんなで噴水を見ている後ろ姿に涙が出る。私もそこへ行くだろう。ラスベガスは砂漠の中にある都市。私の恩師が言っていたことだが、砂漠から遠くに見るラスベガスの街は今まで見た人工物の中で一番美しいと。そう言われたら見に行きたくなる。もちろん行くに決まっている。そこに悲しい事件が起きてしまった。
 まず最初に言っておくが人を殺してはいけない。その理由は、誰かが考えた倫理的判断に従う可能性のある人に、人を殺してもいいということは極めて危険だからである。他人に、なぜ人を殺してはいけないのか?と尋ねるということは、納得できる理由を「他人から」提示されたらそれに従う(可能性がある)ということである。つまり、自分の内面の倫理の尺度に確信が持てないでいる状態にある。そういう「自分の倫理の尺度に自信が持てない人」に対して「わからない」とか「殺してもいい」ということは無責任を通り越して犯罪的だと思う。だから絶対に人を殺してはいけない。しかし、この理由は人を殺してはいけない明確な理由について言っていないと思われる。確かにそれは言っていない。なぜならそれは回答が出ない問題だからだ。個々のケースでは答えが出るだろう。カッとなったり、相手の命に価値がないと個人的に判断したか。という理由で人を殺してはいけないのは(一般的に)当たり前として、では正当防衛はどうする、軍隊はどうする、肉親を殺そうとしている相手、あるいは殺してしまった相手に対してらどうする、と、単に「人を殺す」といってもその状況らおそろしくまちまちである。勧善懲悪が成り立っていれば殺人は許される、という考えの人も大勢いる。逆に、どういう状況下であっても殺人は許されない、という人もいる。だから、すべてのケースに当てはまるような、絶対的な、どうしても殺人が許されないという理由が欲しいならばそれは答えられない。なぜかというと、「絶対的な理由」に従うということは、自分の頭で考えるということを放棄することと同義だからである。「誰か(権力者とか神とか)にやるな、と言われたから、やらない」というのであれば、それはロボット人間に成り果てるということである。
「(権力者や神に)やるな」と言われたらから、という理由で思いとどまる人は、「(権力者や神に)やれ」と言われたらやってしまう。そういう愚かさの上に、多くの殺人や虐殺が正当化されてきた事実を考える必要がある。こういう倫理の問題に関しては、過去数百年、もっと永きに渡って多くの学者が頭を悩ませてきた。いっときまでは宗教の力が強かったので、「ダメと書いてあるものはダメ」という横暴がまかり通っていたが、「誰が、何の権威で、どういう根拠に基づいてダメなのか?」という疑問に、宗教は、「信仰」とかいうあやふやなものでしか答えることができない。ではどうしたらいいのか・・・と、沢山の頭のいい人たちが考え続けている間にも戦争は起こり、虐殺が起こり、アウシュビッツがあって、原爆が落とされ、そして今回の事件のようなことが起こり続けている。といって、頭のいい人たち、学者たちが考えに考えてきたことは決して無駄ではない。彼らはそのときどきの状況の中、一体どうしたらこうした難問に答えられるのか、少なくともその糸口を見つけることがでかるのか考えてきたし、その成果は、例えば基本的人権であるとか、人間が生来持つ違いに基づく差別は許されない、とする国際的な合意、というような形で身を結んでいる。また、人を殺してはいけない、というものに重大な空白がある。それは「誰を?」という部分である。「どうして誰々を殺してはいけないのか?」というと、それは具体的な質問になる。しかし、「どうして人を殺してはいけないのか?」というと、それは一種の抽象的な質問のように聞こえる。ものごとを抽象化して考えることができるのは人間の能力の中でもとくに重要なものの一つだが、殺人というようなことを考えるにあたって、これを抽象化してしまうこと自体が果たして「倫理的」なのか?という問いが生まれてくる。ユダヤ人が600万人殺された、というのと、誰々さんと誰々さんが・・・と無限に続く名前を考えることとはまったく別のことである。だからホロコーストの記念碑やアメリカ軍の慰霊碑などには個々人の名前が延々と刻まれている。ちなみに、日本は国家として殺人を認めている。死刑がそうである。正当防衛は必ずしも殺人に至らないので殺しのライセンスとは言いがたいが、死刑は大臣の名の下に「合法的に」人を殺せる唯一の機会である。いかなる殺人も許されるべきではない、と考える人たちは死刑制度に反対する。当然だが、一切殺人がダメだと言っているのに、国家が人を殺すのがオッケーなわけがない。これはしかし、逆に考えると「非常に限定的な形であれ、国家が殺人を許可しているということは、すなわち正当化され得る殺人はあるのだ」という考えにもつなかる。そう考える、ことは、拡大解釈の仕方「よってはリンチを正当化してしまうので、少し危険な考え方ではないかと思っている。とはいえ、赤ん坊も含めた一家を皆殺しにするような鬼畜、あるいは、とある人種をまるごと世界から抹殺しようとするような人間は殺されても仕方がないのではないか?という考えには、やはり一理あるようにも思えてしまう。「誰か特定の人」を殺していい理由はいくつ思いつくのか。その「誰か特定の人」にはなるべくバリエーションをもたせ、例えば、親類や友人、先生、近所の人、政治家、芸術家、会ったことのない異国の人々、とんでもない殺人鬼、有名な犯罪者、・・・。そうやって考えていくと、きっとどこかで「殺してもいいライン」と「殺してはダメなライン」が自分の中にあることに気がつく。しかし、ここで考えてをストップしてはいけない。ではそのラインは絶対的なものなのか。そこで「殺してもよい」「殺してはいけない」というふるい分け作業をしている自分に、その「ふるい分けをする権限」は一体どこから与えられていると自分は考えているのか。また、同時に、いろんな世界中の人が自分を「ふるい分け」にかけたときに、果たして自分はどちらに分類されてしまうのか。それも考えなければならない。私は、今、倫理というものの入口に立っているのだと思う。答えの出ない問題に対して、誰かが「これこれこうだから」と単純な理由を示して、「だからダメ」「だからいい」と言ってくれたら、自分でかんがえなくてよくなるのでラクかもしれない。しかし、そこで自分で考えなくなると、あとでとんでもない結末になることは歴史上いくらでもあった。以前にも書いたが、ナチのアイヒマンであったり。「言われたことをやっただけです」と胸を張ったが、世界は「言われたからやった」というだけで、どれだけ人間が残酷になれるのかを知って衝撃を受けた。のちのち、ひどいことになっても「でも、自分で考えてやったことだから」と思えれば、それはまだマシである。「よく考えてなかったけど、人に言われたからやった(あるいは、人がそういうことをやってもいいと言ったからやった)」ことについて、重大な責任を問われるのは最悪の事態である。もちろん「自分の考え」をもつためには、これまでに同じ問題についてよく考えた人たちの書物を読んだりして、どういう思考がなされてきたのか、を知る必要もある。そうやっていろいろ学んだり、自分でああでもない、こうでもないと考えたり、専門家や学者に意見を聞くのもいいだろう。そうやって悩み続けること、その行動自体が答えになるのではないか。そして悩んでいる間はもちろん、結論が出ていないわけだから、そんなあやふやな状態のまま人を殺したりしてはいけないのは理の当然である。だから、やはり人を殺してはいけない。映画や小説の中であればいくらでも殺していい。でもやっぱり現実は違う。私が生きている間にこの空っぽな頭でこの問題に対する自分の答えを出せるのかは、はなはだ自信はない。でも、答えがない、だからといって考えをストップすることはできない。いろんな事象が頭の中をグルグル回ってただただしんどくなる。でも、それでも考え続けようと思う。自分の頭で。

2 件のコメント:

  1. お疲れ様です。
    ラスベガスの銃乱射事件には驚きました。
    何万人も集まっているところに建物の高いところから発砲したらしいですね。
    何が起きているのかも分からず、しかもライブの大音量にかき消されて、逃げるどころではなかったようです。
    たくさんの人が無残にも殺害されてしまいました。
    9.11も、欧州で繰り返されているテロも、一体いつになったらこういう暴力がない世界がくるのでしょうか。
    こういう事件をTVでみると、本当にむなしい気持ちになります。犠牲になってしまった方には、それぞれに大切な家族や友人がいたはずで、その方々の心境を思うと、全く言葉になりませんね。
    一方で、多くの人が亡くなった凄惨な事件を、どこそこの芸能人が浮気して週刊誌に載ったというようなどうでもいいような話題とともに放送している日本のTVに対しても、どこか違うんじゃないかと思いました。犠牲者に対しても、アメリカに対しても、極めて失礼なのではないかと思いました。
    東日本大震災のときには、あんなに朝から晩までずっと震災関係の報道であったのに。
    震災当時、間違っても震災関係の報道の間にそういう低俗な話題など挟まなかったはずです。
    国内に対してはできたのに、他国に対してそういった敬意を払うことをなぜしないのでしょうか。

    「アメリカは“自由の国”である。そしてその“自由”とはお上から与えられるものではなく、自ら戦って勝ち取るものなのだ。」とありました。アメリカの歴史からみて、自由は自ら努力して維持するものであって、日本のように誰かがどこかでたぶん守ってくれているはずとぼんやりしているようなものではないのでしょう。
    しかし、自由を勝ち取るためになぜ、人を殺す能力がある銃が必要なのでしょうか。
    ペンや言葉では、銃の代わりにはなり得ないのでしょうか。
    自分の自由を守るために、なぜ他の人を傷つける必要があるのでしょうか。

    核兵器についても、なぜ各国のトップが集まって、「せーの」で一緒に無くすという話ができないのでしょうか。
    貧富の差など国によって立場の違いは確かにあるとは思います。残念ながら有史以来ずっと、世界は平等ではないのだから。
    でもそれを解決するのに、なぜ核が必要なのでしょうか。
    なぜ、武器なのでしょうか。
    どうしてもケンカしたいのであれば、それはそれは仕方がないのでしょうが、その時はハリセンでも使っていたら良いのです。核や銃ではなくて。
    どうしても手に何かを持ちたいのであれば、ビートたけしが所ジョージにツッコむときに使う、あのおもちゃのハンマーを使って、会議室できちんと椅子に座って、各国の首脳が納得のいくまでとことん話し合えばいいのです。
    軍備増強にあてるお金を会議室のレンタル代にあてて、残りのお金は医療や教育・国際支援にまわせばいいのです。日本が誇る最高級のお茶菓子を出したとしても、何千億円もずっと安上がりです。

    なぜそんな簡単なことが、日本も含めてどの国のリーダーもできないのでしょうか。

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    1. Abbyさん、コメントありがとうございます。
      ニュースを聞いたときはびっくりしましたね。
      またかー、とただただ悲しくなります。
      日本は島国というのが一番の理由で、そういうのはやはり人ごと何だと思います。
      そういう感覚は日本人はかなりレベルが低いと思います。
      単一民族国家を気取っている時点で、そういう人種問題であったり、ナチ問題であったり、そういうのはかなり後れを取っているように思います。

      例えばコンビニ強盗や銀行強盗を考えたときに、何も持たない人がいきなりやってきて、「金を出せ!!」と言っても誰も相手にしないと思うんです。
      みんな「頭のおかしい奴が来た」とくらいしか思わないはずです。
      でもその人が何かしらの武器をもっていたら話は違います。
      みんなその人の言うとおりにお金を出すと思います。
      なぜなら言うことを聞かなかったら自分の命、周りにいる人の命が危険にさらされる可能性があるからです。
      この感覚と同じだと思います。
      いざ戦わなければならない状態になったとき、何も持っていなかったら一瞬で鎮圧されて話が終わってしまいます。
      だからまともに戦える銃が必要になるんだと思います。
      だから政府もいろんな意味で必死になります。
      自分の命を守ることもそうですし、彼らの意見に耳を傾けるようになります。
      真剣になるんだと思います。
      自分もそうだしいろんな人の命がかかっていますから。

      おそらく世界中の大勢の人が私も含めてですが核兵器をなくしたいと思っているはずです。
      しかし、「なくしたい」というのと「なくす」「なくせる」というのとは全く別の話になってくるんですね。
      今、世界で大きな戦争がないのは“核”のおかげである、と言ってもいいくらいだという人もいます。
      抑止力ですね。
      核の傘の下で、今の平和が保たれていると言ってもいいくらいです。
      世界中の人が知っているんです、核を使えば世界が滅亡することを。
      だから核を使いたくても使えないんだと思います。
      人間というのは私も含めてバカなんです。
      自分が一番になりたい、上に立ちたい、人のいいなりにはなりたくない、世界を自分のものにしたい、金が欲しい、資源がほしい、よりいい生活がしたい、・・・。人間の欲望ですね。
      そして人間というものは、自分が傷つけられるくらいなら他人を傷つける側でいたい、と思うはずです。
      この感情の上に人間は抑圧、虐殺、戦争を繰り返してきました。
      もしかしたら自分が誰かに支配されるかもしれない、そうであるなら自分が誰かを支配していたい、そう思ってしまいます。
      支配されるのが怖いんです。
      だから核を持とうとします。
      あいつを怒らせたらヤバいぞ、と周りを脅しています。
      人間はバカです。
      欲望がなくならない限り、平等な世界はやってきません。
      なのでとことん話し合ったとしても自分の欲求が先行してしまうんだと思います。
      以前ブログでも書いたことがありますが、人間は緩やかではありますが、確実にまともになってきていると思います。
      そうはいっても人種問題は女性差別問題などついこの間まで大っぴらにありました。
      それを表面上ではありますがなくしていこうという動きがあります。
      でもそういう動きがあったのは何百年、何千年、何万年とあったのについ最近の話なんですね。
      1万年先、もしかしたら人間はもう少しまともになって争い事がもっと減っているのかもしれません。
      そういう時代、世界になるにはおそらくそれくらいの時間が必要になると思います。
      そこまでのレベルには至っていないのだと思います。
      本当はみんなそうしたいと願っていますが、それでは納得しないという人も大勢いるということです。
      人間は自ら墓穴を掘ります。
      本当に狂っていると思います。
      人間がもう少し“まとも”になるにはまだまだ時間がかかりそうです。

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