2011年1月12日水曜日

世界平和

 今日は久しぶりに太陽が顔をのぞかせ、気持ちの良い日となった。太陽の光が雪に反射し、上からも下からも光が来るので余計に眩しい。しかしそれは昼過ぎくらいまでであって、夕方近くになってくると風が強くなってきた。近くの町で暴風警報が出ていたそうだ。外を歩く時は気をつけたい。


 
 冬休み、大阪にいるとき、「MEN'S館」という男性ファッションばかりを集めた建物がある。そこに買い物に行ったとき、Yoko Ono主催の自分の夢を書く木があった。そこには様々な夢が書いてあった。自らの幸せの願ったものや、試験に合格できるようになどと、見ていると心温まるものばかりであった。私も書いてみようと思った。私が書いた夢はこうだ。『世界平和』。
 最近めっきり涙もろくなた。といっても昔からの様な気がするが。映画を見ては泣き、小説を読んでは泣き、音楽を聴いては泣き、 人の話を聞いては泣いている。挙句の果てに、お涙ちょうだいのバラエティー番組を見ても泣く始末。くだらないと思いながら泣く姿には、我ながらあきれてしまう。どうにかならないものかと悩んでいるところだ。「年をとった証拠だ」と人は言う。それは間違いないだろう。ではなぜ人は年をとると涙もろくなるのだろうか。
 自分は人の気持ちがわかる人間だ、なんて大言壮語する気はない。しかし私だって数少ないながらも悲しい、痛い経験をしながら生きてきたのだ。当時は理解できなかった人の気持ちも思い返すと理解でき、今なら言えることもあるだろう。経験が涙もろさと関係しているのだとしたら、涙線の緩さもなんだか誇れるものだと思えてくる。
 そこでふと考える。この涙に何らかの成長を感じられるとしたら、何かもっと大きなことの役に立たないかと。世界中の人が隣人の悲しみを理解できたなら、ひょっとして世界平和は可能ではないかと。「それは甘い」と人は言う。実際、そこには涙を流す余地はないかもしれない。先進国の人間は涙を流すだけで終わる、という厳しい批判も聞こえてくる。しかし政治的権力では真の平和は得られないと思い知った今、誰がこのセンチメンタリズムを責められるだろうか。
 「世界平和」といっても何も構えることはない。誰も地球の裏側で起こっていることなんて想像できないだろう。ほんの小さなことでいい。右にいる人の悲しみを自分のこととして想像してほしい。左にいる人の痛みを自分の立場で想像してほしい。それを世界中の人がしたら、とこのセンチメンタルな心の持ち主は期待してしまう。「それでも甘い」と人は言うだろう。それならまず、自分でするしかない。よし、この涙、惜しみなく出してやろう!!

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