2011年1月11日火曜日

私の死生観

 相変わらず、今日も寒かった。寒いのが当たり前なのだが、大阪育ちの私には、この青森の冬がこたえる。
 今日は授業の合間に、友人の車に乗って買い物をすることにした。3連休どこにも行かなかったので、久しぶりに山をおりることになった。今度、いつ買い物に行けるかわからないので、とりあえず3週間分の買い物をした。ほとんどお菓子であったが。電気屋にも寄り、以前からコンポがほしかったので、その値段を見に行った。同じもので大阪で1番安かったのが、29000円くらいだったものが、ここでは43000円くらいしていたので驚いた。これは少し高すぎると思い、ここで買うのをあきらめた。また安く販売しているところを探したい。
 昨日、今日提出するレポートと中間レポートのやりなをしをし、今日それを提出したのだ。中間レポートを教授に見てもらい、その時は一応合格をもらったのだが、授業の後、提出しに行くと今度はもう一度やり直しと言われ、どっちやねん!と叫びそうになった。なかなかいい加減なものだ。次提出するのは来週なので、それまでじっくり考えたい。
 今回のレポートのお題が「私の死生観」というものだ。今回書いたものの一部を載せてみようと思う。


 今社会問題となっているが、自殺する人が増加している。このような人たちは生きることや死ぬことをどういうふうに思っているのだろうか。私も今まで生きてきた中で、死のうと思ったことはある。しかしそう考えると死ぬのが怖くなってしまう。生物の中で自殺できるのは人間だけだ。犬や猫、昆虫、木や花は自殺などできない。死のうと思うことができないのだ。なぜ人間だけが自殺するのであろうか。それは人間にしか苦しみ悩むことができないからだ。なぜ生きているのかを考えてしまうからだ。その答えを探そうとするが、見つからない。自分には生きる資格が無い、必要とされていない、そう思いながら自殺していくのかもしれない。周りにいる人はみんな敵に見え、孤独になっていく。周りにいる人は加害者かまたは傍観者である。
ブッダは瞑想することによって、認識の転換が起こり、自分の見方が変わってくると言っている。自分の根源は海でもあり水しぶきでもあることが分かってくる。自分がそうだとわかった時、他社も同じようにそうだと理解する。つまり共生しているのだ。他社も自分のことのように理解できるようになる。だから助け合いながら生きていかなければならない、と言ったのだ。
 このブッダの考えは私も共感できる。その被害にあっている人のことを自分のことのように考えてみると、自殺に追い込むようなことはできないはずだ。この考えは今の生きている人すべてに知ってほしいことだ。もちろん他人のことを自分のこととして考えるのは簡単なことではない。ブッダのように認識の転換が起こるまで瞑想することはできないが、この世に生きるすべてのものは共生しているんだということを常に肝に銘じておかなければならない。
 自殺する側にしても、死というものを軽く見ているように思われる。もちろん彼らは悩み苦しんでいる。生きている実感がない、いいことが一つもない、そう考えている。なぜ死んではいけないのか、そう質問されたら私たちはどう答えるのだろうか。親が悲しむ、貴方はこの世にたった一人しかいかけがえのない人間なのだ、生きていればそのうちいいことある、それぐらいしか答えることができないだろう。この不安ばかりの世の中であと何十年も生きていたくない、そう思っている人もいるだろう。確かにそう言われてみるとそうだ。しかしだからと言って死ぬという選択肢が出てくるのは理解できない。世界には生きたくても生きることができない人がたくさんいる戦場や貧困の中、毎日を命懸けで生きようとしている人たちがいる。病気で生きたくても生きることができない人がいる。それを忘れないでほしい。あるニュースで聞いたことだ。病気の人が叫んでいた。「そんな粗末な命なら私に下さい」と。
 苦しみの中でも、自分の生きる意味を探し出さなければならない。ほんの小さな楽しいことでもいいから見つけなければならない。いずれわかるはずだ。自分の生きる意味を。

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