2011年9月25日日曜日

友達の「死」から

 今日も青森は晴れであったが、今日はどこへも行かずに部屋でゆっくりとしていた。


 今ある本を読んでいるのだが、それはいくつかの短編に分かれていて、そのうちのまだ1作しか読んでいないのだが、それは友達同士の約束について書かれていた。二人の子供が登場するのだが、その二人は親友で仲良しであった。しかし、そのうちの一人がその親友が眼の前で、通り魔によって刺されて死んでしまったのだ。残された一人は、苦悩の日々が続き、最終的には自殺しようと決める。しかし、そこに死んだ一人が現れ、生きてくれと励ますのだ。
 私は今まで友達を二人失っている。一人は事故、もう一人は自殺である。事故で死んだ友達は、私が小学生の時でその友達は中学1年生であった。同じ塾に通い、一緒に遊んだり、一緒に帰ったりしていて本当に仲が良かった。ある日私が家で一人で遊んでいるときに、電話がかかってきて母がその電話を取る。母の反応で、何かが起こったことはすぐに分かった。電話が終わり、内容が話される。最初は何を言っているのか正直わからなかった。昨日まで一緒に遊んでいた友達がいなくなってしまった。中学校のプールの時間に事故があったそうだ。
 自殺した友達は、同じ年の女の子で、同じ中学に通っていた子である。卒業して、私が高校生の時に、友達からメールが入り、亡くなったということを知らされた。その子とはあまり話をしなかったが、同じ塾に通い、私の学年は私とその子の二人だけがそこの塾の生徒だった。とてもおとなしい子で、文化祭の合唱の時にはピアノを弾いて活躍していた子である。なぜ自殺を・・・。そのことしか頭になかった。何で死ななくちゃいけないのか、怒りがわいてきた。
 悲しみよりも怒りの方が強かったかもしれない。おじいちゃんが死んだときと、二人の友達が死んだときの気持ちは明らかに違う。もっと続いていたはずの命だからであろうか、何でお前が死ぬんだよ・・・、そんな気持ちが強い。死んでもいい命というのはないと人は言う。しかし、彼らが死んだとき、私はもっと他に死んでもいい奴いっぱいいるよ、そう思っていた。それは誰かはわからないが、殺人鬼かテロリストかそれはわからない。当時はそんな気持ちで、今もそのような気持ちがあるかもしれない。
 命は比較するものではなく、すべては平等である。確かにそうであろう。誰かが死ねば誰かが悲しむ。たとえそれが殺人鬼やテロリストであっても。そう考えれば当時、「他に死んでもいい奴いっぱいいるよ」と思ったことは間違っていたかもしれない。こんなことを言えば、なんて不謹慎な奴だと言われても仕方がない。しかし、間違いなくそう思ったのだ。暗い話になってしまったが、命というのは本当にわからないものである。

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