2011年9月7日水曜日

手で書く手紙

今日も大阪は快晴。部屋にいては嫌になってしまうほどの青空が広がっていた。ということで,午後から母と一緒に,京都市美術館に行くことにした。今,京都市美術館では『フェルメールからのラブレター展』が行われていた。母が以前から行きたいといっていたので,私がいつも自分が行きたいところばかりついてきてもらっていたので,今日は母が行きたいところに行くことにした。
京阪電車に乗り,三条駅で降りる。そこから歩いて京都市美術館へ向かう。京都市美術館の近くには平安神宮,コンサートがよくおこなわれる京都会館(私も行ったことがある),などがある。
私はそもそも絵画にはあまり興味がない。高校の時や浪人の時は世界史の授業で文化史のところで学習したことを思い出す。世界史の授業ではフェルメールはあまり出てこないが,おそらくほとんどの人はこのフェルメールを知っているだろう。17世紀オランダ絵画を代表するヨハネス・フェルメール。私が小学生の時にもフェルメール展をしていたのを思い出した。小学校の遠足で行ったような気がする。その時は,『青いターバンの少女』が展示されていた。今回は,『手紙を書く女』『手紙を書く女と召使』『手紙を読む青衣の女』が展示されていた。今回のテーマは,「コミュニケーション」ということで,17世紀オランダ絵画から読み解く人々のメッセージというものであった。
オランダは17世紀のヨーロッパでもっとも識字率の高い国で,出版の主要な中心地であるとともに,手紙のやり取りが急速に増えた地域であったらしい。ちょうどそのころ,公的な布告や単なる商業上の情報を発するのとは対照的に,手紙を書くことは,個人の気持ちや強い感情を伝えることができるという考え方が一般的となり,個人間の文字によるコミュニケーションのあり方を一変させたというのだ。
最近は手紙を書くことはほとんどない。年賀状でさえも携帯のメールで済ませてしまう時代である。私はできるだけ年賀状を出すようにしている。すべて手書きではないのだが。途中まではパソコンで作り,相手のことを考えながら最後に一言書く。すべてパソコンで作ってしまえば年賀状を出す意味もあまりなくなってしまう気になる。私が年賀状をもらった時に,すべてパソコンで作られたものと何か一言でも手書きのところがあるものと比較してみると,明らかに一言手書きのある年賀状をもらった方がうれしい。「手書き」の大切さというものを認識させられる。
パソコンや携帯がなかった時代は手書きが当たり前だったが,今は当たり前ではない時代である。そんな時こそ,「手書き」の意味が大きくなる。もちろん手間と時間がかかる。しかし,その手紙をもらったとき,どういう気持ちでこの手紙を書いてくれたのか,一言一言を噛みしめながら読み進めていく。下書きの跡が胸ににしみてくる。そして,その手紙が一生の宝物となる。私も今まで手紙をもらったことがあるが,それはすべて大切にしまってある。今の時代だからこそ手書きで書く手紙が一層心にしみてくるのではないだろうか。

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