2011年9月30日金曜日

母に電話

 今日は9月の最終日である。明日から10月だ。本当に月日が流れるのが早い。気が付けばもう年末年始ということだろう。そうなれば就職活動が始まっているではないか。大変大変。もうちょっと待ってほしいものである。
 今日久しぶりに母に電話した。銀行振り込みについて電話したのだが、その他にも私が悩んでいることだったり、兄のことだったり、と1時間以上話をしてしまった。「年末までに1回大阪に帰るかもしれない」、というと「あんた、ホームシックになったんか」と笑われてしまった。そうかもしれない。なんとなく帰りたくなっているのだ。長期休暇以外で帰ったことは今まで一度もない。ゴールデンウィークも帰ったことがない。とりあえず気晴らしがほしいのだろう。帰ったらバカにされるので、帰らないかもしれないが(笑)。とりあえず、帰るかもしれないといっただけで気分がすっきりした気がする。それにしても母の声を聞くと、どうしてこれほどまでに落ち着くのだろうか。
大阪 「スカイビル」
 母も私がこちら青森に帰った後、あまり出掛けなくなったという。私がいれば毎日どこかへ遊びに行っていた。一人では行かなくなるのだろう。それもわかる気がする。母にこちらでは手に入れにくいものを買っておいてくれと頼んでおいた。母には、「もっと気い楽にしてやり」と言われた。
 兄のことだが、今日ボウリング大会に行っているらしい。兄は今大学院で何かの研究をしているのだが、違う大学院で兄と同じ研究をしている人がいるという情報を聞きつけたらしく、兄の教授が「それならばその人よりも早く論文を発表しろ」と言われ、今奮闘中らしい。それもそうだ。後で発表するよりも初めて発表する方が評価されるに決まっている。頑張ってほしい。人に言える立場ではないが(笑)。
 そして、兄が海外旅行したいと言っているらしい。それを聞いて私もびっくりした。兄は私と違い、趣味やファッションなど、全く違うと言っていい。やることもやりたいことも違う。兄は海外には興味がないといっていたが、兄の友達がアメリカに行ってきたらしく、その話が大変面白かったそうだ。それを聞いて行きたくなったのだという。私がアメリカから帰ってきたときはお土産を渡しただけで、あまり詳しい話はしていない。兄がどこへ行きたいかは知らないが、ニューヨークとワシントンDCなら少しは紹介できる。是非兄にも世界を見てきてほしい。それも一人旅で(笑)。兄はおそらく友達と一緒に行くだろう。
 とにもかくにも母と話ができてよかった。兄も元気そうで何よりだ。よかったよかった。

2011年9月29日木曜日

疲れているみたい

 今日もボランティア関係で集まった。来週の文化祭やこれからこの団体がどう活動していくのかを考えた。2時間をほど話をしたのだが、ある程度計画を立てることができた。10月はかなり忙しくなりそうである。申し訳ないが、かなり疲れているようだ。頭がなかなか回らない。今日はこの辺で終わらせていただきたい。申し訳ない。

2011年9月28日水曜日

力不足の私

 今日、ボランティアの件で集まりがあった。この前の感想と、文化祭をどのようなモノにするかということについて話し合った。やはり私の力不足ということもあってなかなか話が進まなかった。毎度毎度メンバーには申し訳ないことをしている。私のやり方がまずいのだろう。これは自分でもわかっている。情けない話だ。その他についてもまるでなっていない。夏休みに大阪に帰っているときでも、どうしたらいいのか、様々な人に相談に乗ってもらった。友達や先生や母・・・。今お世話になっている先生の話もよくわかるし、その通りだと思うが、どうもやりにくいというのが私の感想である。もちろんその先生がいなければ今の団体はないのだが。ならばお前の好きにやってみろと言われたら、できる自信もないので文句の一つも私には言う資格がない。しかし、話を聞いて、「よし、そうしよう」という、すがすがしさがないのだ。
大阪
 東京の友達二人に言われたのだが、「自信持って!」、である。悩んでくよくよしている私には、とてつもなく嬉しい言葉であった。しかし、いざ戻ってくるとまったく自信がなくなってしまった。どうしよう、どうしようばかりである。おそらく私がメンバーで、私のようなリーダーであったらならば、「こいつには任しとかれへんわ」、「はっきりせーや!」そう言っているだろう。言わなくても心の中ではそう思うだろう。
 正直なところ、私の仕事はこの団体を立ち上げることであって、それ以外の仕事は私がやるべきことではないような気持ちになるときがある。弱気になっているからそう思うのかもしれない。私では明らかに役不足である。できてないし、やってない。周囲から感じるプレッシャーや追いつかない自分の能力。力の出し惜しみなどしていないのに…。やっぱり私には無理だったのか、そう思うときがある。それでも、夏休みにボランティアに行ってきた後、メンバーから「ありがとう」と言われた。私は素直にその言葉を受け取ることができない。何故なら私がメンバーに言わなければならない、「ごめんなさい」と。
 「助けてくれ」なんてそんなこと言えるはずもない。自分から言い出したことだ。私が引っ張っていかなければならないこの団体。正しいと思ってやったことが間違いだった時、私は許されるのだろうか。私は今ままで何度も頭を下げてきた。また今度も頭を下げるのか。“頭を下げれば済むと思っているリーダー”と後ろ指を指されるだろうか。それでもいい。もっと自分に自信を持って行こう。間違いを恐れていては何もできやしない。あの二人に言われた言葉、「自信持って」。もう一度自分自身に言い聞かせてみよう。そうすればもう一歩、踏み出せるかもしれない。

2011年9月27日火曜日

ワンガリ・マータイさん

 最近晴れの天気が続き、とても過ごしやすい。これを秋晴れというのだろう。やっぱり晴れている方がいい。



 授業ではないのだが、論文の書き方についてお世話になっている教授からわざわざ時間を作っていただき、90分だけであったが教えていただいた。私も含めて学生は3人だけであった。人口減少社会について800字で書けというのがテーマであった。私はいつものようにインターネットで調べて資料を集め、まとめた感じである。自分では中身を理解しながら書いたつもりなのだが、教授がこの言葉の意味は、と質問されるとなかなか答えられないのである。しかもそれがたくさんあるのだ。自分としては、わかっているつもりになっていたのだ。私がいつも使っている日本語なのだが、今日の授業で、本当はほとんど理解していないまま使っているのかもしれない。日本語を改めて学びなおさなければならない気持ちになった。私の論文から始めたのだが、半分もいかないうちに時間になってしまった。続きはまた次回ということになったが、かなり充実した90分であった。


 ワンガリ・マータイさんという方をご存じだろうか。“MOTTAINAI”を世界中に広めた方で、ノーベル平和賞を受賞された方だ。その方が昨日亡くなられた。私はかなりショックを受けている。2年前、私が春休みに大阪に帰った時に、マータイさんの講演会に参加してきたのだ。マータイさんの講演会が兵庫県の関西学院大学で行われるという話を母から連絡を受けて、その講演会には抽選で選ばれた人しか参加できないというものだったので、母に申し込んでくれ、と伝えて幸運にも参加できることになった。当日、母と二人で関西学院大学に向かい、席に着く。同時日本語通訳をしてくれるということで、耳にイヤホンを突っ込みながら話を聞いた。マータイさんは英語を話されていたが、さすがにすべて英語で聞くのは無理があったので、日本語通訳に頼ってしまった。話の内容は、もちろん環境のこと。私はノートにメモを取りながら話に聞き入った。あっという間に講演会が終わってしまった。入場と退場の時には、私が座っているすぐ横を通った。とても優しそうな方で、オーラで包まれているというのが印象的だった。その日からますますマータイさんを好きになった。マータイさんが、今学生がすべきこと、という質問に答えてくださったが、私はそのおっしゃったことを真剣に取り組んでいこうと思いながら生きてきている。そのマータイさんが亡くなってしまった。この時代に最も大切な方の一人を失ってしまった。私が見た時はあれほど元気であったのに。信じられない。もし機会があるなら、貴重な話をもっとお聞きしたかったのだが、もうかなわぬ夢となってしまった。しかし、マータイさんが今まで築いてきたことをこれからも続けていき、さらなる発展をしていかなければならない。
 謹んで冥福をお祈りしたい。

2011年9月26日月曜日

文化祭で展示を

 今日もサークル活動を行ったのだが、この前着て頂いた先輩方も再び来ていただいた。今日も3人来ていただいたのだが、そのうちの一人は今週の土曜日から2ヵ月間、警察の寮に入らなければならないらしい。その2カ月というのは話によるとすさまじいものである。2か月の生活はひたすら運動と勉強らしい。しかも携帯電話が取り上げられるというのだ。外出も禁止らしい。ゲームもできないという。外部との連絡は公衆電話を使うというのだ。初めて聞いた話だったので、私もびっくりしているところである。ということでその先輩は毎日泣きそうになると言っていた。私もおそらく同じような気持ちになるだろう。「先輩、頑張ってください」


 あさってにボランティアの件で集まることになった。この前の夏休みに活動した時の感想などまだメンバーから聞いていなかったので、そのことについて話し合ったり、来週には文化祭があるので、そこで展示のようなものをしようと思っている。どのような展示にするかなど考えなければならないので、そのことについても話し合う予定だ。
 去年は友達のESSサークルのお手伝いをしたが、今年はボランティアのことをやらなければならない。初めてのことなので、何をどうやればいいのか今考えているところだ。写真はみんないっぱい取ってきているそうなので、そこは心配なさそうだ。今日サークル活動から帰るときに、授業で何度かお世話になった先生とすれ違ったので少しお話したが、そのボランティアの件について心配されていたので、夏休みに活動してきたことを伝え、文化祭では何かするのか聞かれたので、展示みたいなものをする予定ですと答えたら、それは良いですね、頑張ってくださいと大変喜んでおられた。私はそれほど学内で宣伝した覚えはないが、なぜか広まっている(笑)。そう言っていただけると私もうれしかった。その期待に答えられるようにしたい。

2011年9月25日日曜日

友達の「死」から

 今日も青森は晴れであったが、今日はどこへも行かずに部屋でゆっくりとしていた。


 今ある本を読んでいるのだが、それはいくつかの短編に分かれていて、そのうちのまだ1作しか読んでいないのだが、それは友達同士の約束について書かれていた。二人の子供が登場するのだが、その二人は親友で仲良しであった。しかし、そのうちの一人がその親友が眼の前で、通り魔によって刺されて死んでしまったのだ。残された一人は、苦悩の日々が続き、最終的には自殺しようと決める。しかし、そこに死んだ一人が現れ、生きてくれと励ますのだ。
 私は今まで友達を二人失っている。一人は事故、もう一人は自殺である。事故で死んだ友達は、私が小学生の時でその友達は中学1年生であった。同じ塾に通い、一緒に遊んだり、一緒に帰ったりしていて本当に仲が良かった。ある日私が家で一人で遊んでいるときに、電話がかかってきて母がその電話を取る。母の反応で、何かが起こったことはすぐに分かった。電話が終わり、内容が話される。最初は何を言っているのか正直わからなかった。昨日まで一緒に遊んでいた友達がいなくなってしまった。中学校のプールの時間に事故があったそうだ。
 自殺した友達は、同じ年の女の子で、同じ中学に通っていた子である。卒業して、私が高校生の時に、友達からメールが入り、亡くなったということを知らされた。その子とはあまり話をしなかったが、同じ塾に通い、私の学年は私とその子の二人だけがそこの塾の生徒だった。とてもおとなしい子で、文化祭の合唱の時にはピアノを弾いて活躍していた子である。なぜ自殺を・・・。そのことしか頭になかった。何で死ななくちゃいけないのか、怒りがわいてきた。
 悲しみよりも怒りの方が強かったかもしれない。おじいちゃんが死んだときと、二人の友達が死んだときの気持ちは明らかに違う。もっと続いていたはずの命だからであろうか、何でお前が死ぬんだよ・・・、そんな気持ちが強い。死んでもいい命というのはないと人は言う。しかし、彼らが死んだとき、私はもっと他に死んでもいい奴いっぱいいるよ、そう思っていた。それは誰かはわからないが、殺人鬼かテロリストかそれはわからない。当時はそんな気持ちで、今もそのような気持ちがあるかもしれない。
 命は比較するものではなく、すべては平等である。確かにそうであろう。誰かが死ねば誰かが悲しむ。たとえそれが殺人鬼やテロリストであっても。そう考えれば当時、「他に死んでもいい奴いっぱいいるよ」と思ったことは間違っていたかもしれない。こんなことを言えば、なんて不謹慎な奴だと言われても仕方がない。しかし、間違いなくそう思ったのだ。暗い話になってしまったが、命というのは本当にわからないものである。

2011年9月24日土曜日

青森へ来て

 今日青森は快晴。ずっと太陽が出ていた。午前中は部屋の掃除をし、午後からは自転車で買い物に出かけた。駅前まで行き、本屋でずっと立ち読みをしていた。なかなか平日に本屋に行くことができないので、休日に1週間分楽しんでおかなければならない。その後、買い物をし、下宿に戻った。



大阪城
  今日本屋で、関東人と関西人の違い、というような本があったので、興味本位に少しだけだが開いてみた。なるほどというようなものがたくさんあり、関西人のことについて書かれてあればついつい笑ってしまうようなこともあり、そんなことがあったのかというような発見もあった。たまたま目に着いて面白そうと思って開いてみたが、今思えば私が大阪ないし関西を離れていなければ、その本が目についても面白そうと感じないはずだ。
 大阪を離れて3年半になる(時々帰っているが)。青森と大阪どっちが好きと言われたら私はどうこたえるだろうか。私は大阪と答える。これは青森が嫌いと言っているわけではない。もちろん青森も大好きである。なぜ大阪の方が好きと答えるのか。それは夏休みや冬休み、春休みなど長期休暇が近づいてくると大阪に帰るのが楽しみになるのだ。いざ帰る時期となり、段ボールに荷物を詰めて送るという作業をしなければならないのだが、面倒といえばかなり面倒だ。しかし、それを楽しみながら段ボールに荷物を詰めている。逆に青森に戻らなければならないときは、なかなか気が進まない。いつも母に、「あんた帰る用意せんでええの」と言われてしまう。帰る準備が全く進まないのだ。
 大阪と青森は全く違う環境である。都会と地方の違いの大きさに今更ながら苦労を感じるようになった。これは青森大阪を行き来するたびごとにその思いが強くなっている。最初は新鮮である意味それを楽しんでいた。しかし、それにも慣れ、ただただその「違い」に悩まされる時がある。「合う」「合わない」はやっぱりあるのかもしれない。しかし、それは大阪を出て、ここ青森に住んでみないとわからなかったことだ。住んでみて初めて分かったことだ。これは私にとって大きなかけがえのない財産となった。関東から青森に来るのはまだわかるが、大阪から青森に来るのはそういない。我ながら「よう来たもんや」と感心してしまう。周りの人が驚くように、自分自身さえも驚くように、半端な気持ちでここへは来ていない。相当の覚悟を決めてここ青森へ来た。はなっから覚悟が違う。ここへ来て何回も泣いた。苦しんだ。“涙の数だけ強くなれるよ・・・・・”そんな歌があったが、それは確かだと思う。うまく言葉では説明できないが、強くなっている。そんなことをその本を読んでいて感じた。

2011年9月23日金曜日

平凡な一日

 今日は久しぶりに晴れとなった。昼間は暑いくらいであったが、やはり夕方になると寒くなってくる。風邪がはやっているそうだ。季節の変わり目は注意したい。

 今日久しぶりにサークル活動をした。まだ時間割がはっきりと決まっていなかったので、活動するのはもう少し先にしようと思っていたが、先輩方がやりたいというので、急きょやることにした。もう卒業された先輩が一人と、4年生の先輩が2人来て下さった。先輩方3人は青森県警の警察の試験に見事合格したそうだ。素晴らしい。夏休み前にお会いした時は、あまりできが良くなかったと残念そうな顔をしていたが、今日はとてもうれしそうな様子で、私もうれしかった。卒業された先輩は、一度失敗して、今回再挑戦だった。浪人の苦しみというのはよくわかる。しかも就職がかかっているとなればそれはさらに苦しかっただろう。とにかく、おめでとうございます。


 こちら青森に帰ってくると、生活が単純になってしまうので、なかなかネタを探すのが難しい。今日も何を書こうか迷っているところだ。小さな話題でも、何か気付いたことでも文章にできるように練習しているのだが、本当に平凡な生活が続いてしまう。仕方のないことかもしれないが、これはブログ的にも厄介である。書くことがないことに気付いたので、今日はそのことについて書いているが、これが続けば大変だ。まあ、こんな平凡な日も必要だが。毎日刺激的な一日だとその刺激に慣れてしまい、さらに強い刺激を求めようとしてそちらの方が大変なことになる。大学の帰りにどこかへ行くこともできないし(下宿が大学の近くにあり、しかも山の上にある)、見える景色が単一的だ。明日は何か面白いことがあるといいが。

2011年9月22日木曜日

首相演説、自然災害

 今日は少しだけだが、太陽が顔を出した。雨は少しだけで、ほぼ曇りの天気であった。明日は晴れるだろうか。



 つい先ほど、野田首相がニューヨークの国連本部で演説を行った。主に原発事故についての話であった。私はそれを見ていて、野田首相の演説よりも、その演説している場所、国連本部に私も今年の3月にいたのだなということを思い出していた。重要な機関を訪れていたのだなということが今頃になって実感がわいてきた。
 それにしても日本は首相がコロコロ変わり過ぎである。アメリカのニューヨークタイムズ紙はこのことを「回転ドア」と例えているらしい。オバマ大統領が就任してから日本の首相は3回も変わっている。個人的な友好関係を築く前に首相が変わってしまうため、日本の信用度はかなり落ちてしまうことだろう。外交ではやはり友好関係を築くことは大切である。外交に限ったことではないが、仕事にしても、私たちのような学生生活にしてもだ。外交をうまく進めるには、友好関係を築くことが一番の近道なのかもしれない。

 ニュースばかりになってしまうが、台風15号が日本を通過した。そしてまた深い傷跡を残した。東京では再び「帰宅困難者」が。私がついこの間訪れた渋谷駅にも人であふれていた。その様子を見ていて、恐ろしいと思うほどだ。さらに、東日本大震災で被災した方々が避難している仮設住宅にも台風が襲い、川が氾濫し、再び被害を受けている。逃げても逃げても自然は逃がしてくれない。ボランティア活動をしている私だが、人間の「無力さ」というのを感じてしまう。自然に勝つことなど不可能である。地震が起きて当たり前、台風がきて当たり前、大雨が降って当たり前・・・、その中に私たち人間が生きているのである。自然災害が起きないことの方がおかしい。最近では、「防災」から「減災」という思想に変わりつつある。もちろん両方を行えば効果は拡大する。被災を防ぐにはどうしたらいいのかというよりも、どうやって被害を最小限にするのか。そのことが重要になってくる。

 私も次のボランティア活動に向けて今考え中である。来週にはメンバーを集めて会議を行う予定である。自然災害のニュースばかりを聞いていて、どうしたらいいのかと困惑してきそうである。とにかく目の前のことに全力を傾けていきたい。

2011年9月21日水曜日

広島2日目

 今日も朝から強い雨で、雨が降る音で目が覚めてしまうほどだ。青森では大雨警報が出ている。一体いつ晴れるのだろうか。土砂降りでは大学に行く気がしない。少しでもましになってほしいものである。



 広島の二日目である。二日目は曇りで、時々小雨が降った。まずは路面電車に乗り、原爆ドームと平和記念公園に向かった。ここは私が一番行きたかった場所である。原爆ドームはやはり生々しい。崩れた瓦礫がまだ残っている。近くに千羽鶴がたくさん置かれていた。そこで祈りをささげる。ここで一体何が起きたのか、まるで想像がつかない私である。
 平和記念公園を歩く。美しいところだが、ここは原爆によって何もかもがなくなってしまったところなのだ。そんなことがあったということは微塵も感じさせない。本当に「平和」なところだと思った。
 原爆の博物館に入った。被ばくした三輪車、髪の毛、火傷した人の写真、などが展示されてある。原爆の恐ろしさ、今まではなかなか想像できなかったが、それらの展示物により、少しイメージできるようになった。外国人も来ていた。話をすることはできなかったが、外国人(特にアメリカ人)はこの原爆投下についてどう思っているのだろうか。聞くところによると、原爆投下は正しかったと答える人が多いのだそうだ。原爆投下により、少しでも早く戦争終結させることができたということらしい。そう言われればそうなのかもしれない。正直、何が正しいのかは私にはわからない。戦争中、日本も多くの人々を殺してきた。一概にアメリカが悪いとは言えない。しかし、核兵器を使う必要があったのだろうか。しかも2回も。
 午後からは呉市というところに行き、ここは戦艦大和が創られた場所である。戦艦大和のプラモデルを作ったことはあるが、本当はどれほど巨大なモノだったのだろうか。世界初の46センチ砲を積んだ船体。アメリカは最大でも40センチ砲までしか積めなかったそうだ。それより大きな大砲を積むとパナマ運河を通れなくなってしまったのだそうだ。戦艦大和は沖縄に向かう途中にアメリカ軍の魚雷によって沈没。今も海の底で眠っている。
 戦争について考えさせられる二日目であった。ここ広島は一度は訪れなければならないところである。私は、アメリカ、オバマ大統領の「プラハ演説」を思い出す。
“20世紀に自由のために戦ったのとちょうど同じように、私たちは21世紀にも世界中の人々が恐怖のない日々を送る権利のために共に戦わなければならない。核保有国として・・・・・一核保有国として、核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として、アメリカには行動する道義的責任がある。”
 「戦争」とは・・・。「平和」とは・・・。

2011年9月20日火曜日

広島旅行1日目

 今日もあいにくの雨であった。吐く息が白くなるほどの寒さであった。明日も雨らしく、しかも台風が近づいている。予報だと青森にも台風が来るそうだが、早く晴れてほしいものである。



 今日はあまり書くことがないので、先月の夏休み中に広島に行ってきたことでも書こうか。
 8月17,18日に広島に行ってきた。父が働いて30年になったということで、会社から10万円の旅行券が送られてきたのだ。せっかくいただいたものだということで、久しぶりに家族旅行することになり、行き先は広島になった。
 朝8時30分くらいの新幹線に乗り、約1時間半で広島に到着した。しかし、天気は最悪。土砂降りの雨であった。まず荷物をホテルに預け、厳島神社に向かった。フェリーに乗り、宮島に行く。雨は収まる気配がなく、雷が2回すぐそばに落ちた。あれほどの爆音を聞いたのは生まれて初めてだ。待っていても時間がもったいなかったので、厳島神社に向かうことにした。シカがいて、シカも雨がうっとうしそうだった。神社に到着するころに雨がましになってきた。
 世界遺産ということで、多くの観光客でにぎわっていた。お守りを買い、お参りした。この神社もそうだが、その周辺も大変美しい場所で、とても楽しかった。やはりもみじまんじゅうが有名なのか、神社に行く道で、多くの店がもみじまんじゅうを売っていた。
 その後、山口県の錦帯橋に行くことにした。ここは父が行きたいといったところである。電車に乗り、駅から少し歩かなければならなかった。先ほどの雨は何だったんだろうというくらいに晴れてきて、気温も高くなってきた。錦帯橋に到着し、橋を渡るのに通行料が必要であった。美しい橋だったが、階段を下りたり上ったりするのが結構大変であった。ここは佐々木小次郎のゆかりのある土地らしく、銅像が建っていた。兄と傘で決闘している写真を撮ったりしながら遊んでいた。
 広島に戻り、晩御飯はお好み焼きを食べた。広島焼きではない(笑)。ホテルは4人部屋がなかったので、二人二人に分かれ、私は兄と一緒の部屋になった。私はボランティア関係のことでメンバーにメールをしなければならなかったので、それを済ませ、疲れていたのですぐに寝ることにした。兄はしばらく携帯で何かしていたが。これが広島旅行に1日目である。

2011年9月19日月曜日

『明日のマーチ』

 やはり、今日もあいにくの雨であった。しかもかなり寒い。半袖では過ごせないくらいである。
 

 最近、『明日のマーチ』という石田衣良さんの本を読んだ。4人の派遣社員が仕事をやめさせられ、仕事場の山形県から東京まで徒歩で行くロードノベルだ。この前は就職活動の本を読んだが、今回は派遣切りの本を読み、なんだかせわしなくなってしまった。
 派遣切りという現実を突き付けられ、4人のうちの一人が東京まで歩いて行くというので、他の3人も付いて行くことに。歩くことに意味がないと思っていたが、彼らは気が付く。そこからの内容は書くことができないが、迷いを吹き飛ばすすがすがしい作品である。
 私も学生のうちに、青森から大阪まで自転車で帰ろうと思っている。この前は日本縦断と書いたが、青森から大阪でも良いだろう。この前ボランティアに行ったときに、自転車に乗った二人組の若い人に出会った。いかにも自転車で旅をしている様子で、私もそれに憧れていたので、話しかけてみた。東京の学生で、鹿児島から北海道まで自転車で旅をするらしい。8月の頭から始めて、出会ったのが中旬過ぎくらいで、もう日本の半分以上を自転車で走っている。同じ年の学生であったが、とても同じ年とは思えないくらいのたくましさがあった。あまり時間がなく話ができなかったが、「気を付けて行って来てください」と私が言うと、「ありがとう」と言い、握手をして彼らと別れた。
 彼らと出会い、そしてこの『明日のマーチ』の本を読んで、私もやってやろうという気持ちが強くなった。もちろんまだできるかわからないが、是非挑戦してみたい。私は最近、大阪まで帰るとなると、東京までは夜行バスを使い、そして東海道新幹線で大阪まで行く。夜行バスなので、景色を見ることはできない。新幹線も速過ぎるので、ゆっくりと景色を見ることができない。22年間日本で生まれ育ってきたが、この国のことはほとんど知らない。もちろん歴史、政治、現代社会・・・、ほとんど知らないと言っていい。完璧にこの国を知るということは不可能かもしれないが、せめてこの国がどんな街、村、山、河、自然、そして人が存在しているのかは知っておきたい。歴史や政治などは勉強しなければならないので、なかなか気が進まないところもあるが、徒歩とはいわないが、自転車でもいいからゆっくりこの国を旅するのもいい。海外、海外、と言っていたが、やはりこの国を知ることは何よりも大切だと思う。もちろん政治や歴史も知っておかなければならないのだが。新幹線なら2時間半もあれば東京、大阪間を行くことができる。しかし、その2時間半で得られるものはほとんどない。寝るか、本を読むかだ。しかし、何日もかけて旅をしながら前に進んでいくと、何かわかるかもしれない。何か発見するかもしれない。今まで思ってもみなかったことを思うようになるかもしれない。自分の人生が変わるかもしれない。そんなことを期待しながら、いつか私も挑戦してみたい。

2011年9月18日日曜日

1年経過

 今日も朝から雨が激しく降っている。今週は天気が悪いらしい。台風も接近しているそうだ。地震もかなり頻発している。夜中に少し激しく揺れることもある。一昨日は夜中に4回ほど地震があった。気を付けるようにしたい。
 今日も朝から部屋の片付けに追われ、やっと片付けられたという感じだ。まだ残っているが(笑)。明日からまた授業だ。天気が悪いのが気になるが、気合を入れていきたい。


 
 何とこのブログを始めて1年が経過したのだ。自分でも驚いている。ちょうど去年、このブログを始めた。どうやれば自分のブログを作れるのか、そこから始まった。そういえば、ブログを作る際に、どこかへ電話もしなければならなかったような気がする。その電話から番号が教えられるのだが、その電話の声がなかなか聞き取れなくて、かなり苦労したのを思い出す。
 1年がたった。最初は、キーボードをたたく練習、文章を書く練習、と思い始めた。今もそれは続いているのだが、ブログを続ける理由が増えてきている。私がこの学生生活で何をしてきたか、を残したいという気持ちがある。私の気持ちを分かってもらいたいという気持ちがある。私の意見と違う意見を教えてもらいたい気持ちがある。そして、日々自分が成長しているのかを実感したい気持ちがある。
 私は過去のブログは今までほとんど読まなかった。過去を振り返るのが何よりも嫌いだからだ。過去の自分は嫌いだ。次だ。今だ。今日だ。明日だ。そう思ってきた。でも、1年がたった今、過去のブログを改めて読んでみる。よくもまあこんな文章が書けるな、というような文章もたくさんある。そういえばこんなこともあったっけ、と思いだされる記憶もある。当時はこんな気持ちでいたのかと、今とは違う気持ちの部分も発見する。確かにあの時とは違う自分が見えてくる。少しでも進化、変化している自分がわかる。たまには過去を振り返るというのも良いことかもしれない。今、振り返ることができた。そして、今度はまた新たなページをめくろう。前へ前へ突き進んできたい。

 なかなか更新できない日もたくさんあった。短い文章で、書かない方がましだと言われるような日もたくさんあった。自分中心で、周りのことが見えていない自己中心の意見もたくさん書いてしまった。読者に不愉快な思いをさせてしまった文章もあるかもしれない。間違ったことを書いていることもある。本当に申し訳ないと思っている。しかし、それでも私はこのブログを続けていこうと思う。私が書くことによって、誰かが何かしら動いてくれると信じているからだ。それは何でもいい。たまに私が読んだ本を紹介するが、「面白そう、私も読んでみよう」とか、「このブログを書いている人は、今こういう気持ちでいるんだ、私と同じだ」とか、その反対に「私はこう思うけどな」と、何かしら次に動くものがあることを信じながら私はこれからも書き続けていきたい。そして何より、自分のためにブログを書いていきたい。これからもよろしくお付き合い願いたい。

2011年9月17日土曜日

ハンガーを取りに

 今日は土曜日であったが、朝から授業があり、昼まで大学で講義を受けていた。その後部屋を片付けなければならなかったので、どこへも行かず、片づけをしていた。しかし、まだ終わらない(笑)。明日にもつれそうな勢いである。
 夕方近くになると雨が降り出し、今かなり激しく降っている。かなり気温も低くなっている。明日も雨の予報で、せっかくの休日がもったいない。まあ、仕方のないことなのだが。


 青森に帰ってくる途中に、今回も東京で少しだけだったが寄り道をした。19時少し前に品川に着き、渋谷に向かった。この前、革ジャンを買ったという話をしたが、その時本当はその店のハンガーもくれるのだったが、ハンガーは持って帰れなかったので、今回そのハンガーを取りに行った。この前お世話になった店員さんもいたので、すぐに用意してくれた。少しだけ話をして、店を出た。今思えば夜の東京を一人で歩くのは久しぶりであった。夜行バスを待っている間、東京駅周辺を歩くのはよくあるが、原宿、渋谷は始めてかもしれない。夜もなかなか楽しいものだ。渋谷のスクランブル交差点は昼よりも多い感じがした。
 バスが東京駅22時出発だったので、それまでoazoで時間を潰していた。今回はハンガーを取りに行くために東京に来たみたいであった。

 部屋の片づけの続きをしよう。

青森到着

 更新できずに申し訳ない。青森に帰ってきた。やはりこちらは涼しい。快適である。大阪と青森の気候の激変に体調を崩さないようにしたい。青森の友達もみんな元気で何よりであった。
 授業が始まる前のオリエンテーションが昨日会ったのだが、はやり話は就職活動についての話であった。「もうわかっているよ」と言いたいところだが、全く分かっていないのが私である。そろそろ準備して行かなければならない。早速今日(昨日)から授業が始まり、教職課程の授業を受けてきた。エンジンがかからないのか、教授の話が頭に入ってこない。いかん、と思いながらも気が付けば授業が終わっていた。授業モードに切り替えなければならない。

 今私の部屋が最高に散らかっていて、足の踏み場がない。寝る場所を確保するのも一苦労する状態である。自分の部屋というのに休むことができない。落ち着かない。まずは自分の部屋を片付けなければならない。そう言ってなかなかやらないのが私であるが、休日を使って片付けるようにしたい。
 
 まとまった文章が書けなくて申し訳ない。部屋が片付いたら書けると思う(笑)。

2011年9月14日水曜日

夏休み終了

 昨日も更新できなかった。申し訳ない。
今日青森に帰らなければならない。昼すぎに東海道新幹線に乗り,22時の夜行バスに乗って明日の朝8時30分くらいに青森に到着予定だ。もう夏休みの終わりである。気合を入れなおさなければ。
昨日は荷物の整理とあいさつ回りで忙しかった。相変わらず自転車でそこらじゅうを走り回っている。今から出かける準備をしなければならない。大阪からブログを書くのはいったん今日で終了である。今度は青森から投稿する。
申し訳ないが今日のところはこれで終わりにしたいと思う。夏休みはなかなか投稿できなかった。また青森から毎日更新できるように努力したい。

2011年9月12日月曜日

読書の夏休み

 土曜日と日曜日は,あまり詳しくは書かないが,ある方のお通夜に行ってきた。土曜日に行ってきたのだが,あまりにも突然のことだったのでブログには手が回らなかった。申し訳ない。


今週青森に帰らなければならない。もう夏休みも終わりである。木曜日から始まるのだが,あまり行きたくないのが本音である(笑)。だがそうも言ってられない。
昨日,石田衣良さんの本,『シューカツ』という本を読んだ。私も就活前だったので,一度読んでおこうと思い,母のおススメでもあったので読んでみた。おもしろかったが,大変そうだなというのがわかった。そう簡単にうまくはいかない。やっぱりそうなのかと焦ってしまう。私も就活に向けて準備しなければならない。なかなか気が進まないが。

9月に入ってから読書ばかりしていた。これほど集中して本を読んだのは初めてかもしれない。いったんはまればしばらく読むのだが,一度それが切れてしまうとなかなか次を読まなくなってしまう。しかし,今回は次から次へと本を読んでいる。読み終わるたびに思うことだが,読書をすると自分の世界が広がる。今のこの教育制度の中に,読書の1年というのを作ってほしいくらいだ。それほど本を読むことは重要なことだと思う。今頃になって本ばかり読んでしまっている。もっと早くそれをしておけばよかった。できるだけ本は読み続けることにしよう。

2011年9月9日金曜日

高校担任の先生のところへ

 今日は天候が崩れるという予報であったが,昨日と変わらず晴れであった。


今日は,高校の時の担任の先生のところに会いに行くことになっていた。その担任の先生は,私の高校から転勤されて,今は違う高校H高校で教えている。ということで,H高校まで行くことにした。H高校は私が高校生の時に,クラブ活動の関係で何度かお邪魔させてもらったことがあったので,訪れるのは初めてではなかった。しかし,晴れていたということで自転車で行くことにした。自転車で行くのは初めてである。何もなしにいきなりH高校に行くのはあまりにも無謀であり,迷って約束に時間に遅れてしまってはいけないので,おおざっぱに地図を見て向うことにした。
何度か迷いながら無地にH高校にたどり着くことができた。正門で待っていると,先生が現れ,手を振ってくれた。先生と会うのは半年ぶりである。そのまま喫茶店へ行き,先生が忙しいので,1時間話をした。先生もやっとこのH高校に慣れてきたらしく,めちゃくちゃ楽しいと笑顔で話をしていたので,私も安心した。私もこれからどうしていくのか,の話をした。先生が言うには大阪で教員をやるのはやめておいた方がいいというのだ。大阪の教育は崩れていくという話をされた。今大阪が行っている教育方針は間違っていることを説かれた。私もなるほどと思いながら話に聞き入った。私は大学を卒業してそのまま大阪に帰る予定はないので,そこまで重要視はしていないのだが,今大阪の教育現場がそのような方向に向かっていることに不安を感じた。
今ボランティア活動をしていることもお伝えした。私がこれからどうしていくべきか話をしていると,学生ならば学生同士で討論すればいいという。それは答えが出なくても全く構わないという。学生なのだから議論するだけでもいい。先生も昔,学生のころ,下宿に共産主義の学生がいたそうだが,その学生と朝まで日本の政治について語り明かしたそうだ。結局答えも何も出なかったそうだが,それが学生なのだという。私もそう思うところがある。私が浪人していた時の倫理の先生が言っていたことだが,今の学生はおとなし過ぎると。学生紛争とは言わないが,自分が思う道,考えを持ち続けることが大切と言っていた。私がこうしよう,ああしようといって,メンバーが何も言わずついてくるのはおもしろくない。徹底的に話し合えばいいという。一度メンバーと話し合ってみようか。
私の高校の同級生は今みんなどうしているのか先生に聞いてみたら,みんな活躍しているらしい。アフリカに行った人もいる。大学院に行く人もいる。フランスから帰ってきた人もいる。結婚した人もいる(笑)。これには私も驚いた。国際結婚らしいい。とにかくみんな頑張っているらしい。私も頑張らなければ。みんな元気そうで何よりであった。
1時間しか話ができなかったが,先生の元気な顔が見ることができてよかった。また春,会いに行きたい。

2011年9月8日木曜日

「母」の存在

快晴が続く大阪。明日は天気が崩れる予報である。

昨日まで,『東京タワー -オカンとボクと,時々,オトン-』というリリー・フランキー著の本を読んでいた。1週間で読み終えたのだが,昨日の夜は涙,涙,涙で大変であった。だいぶ前からこの本は持っていたが,なかなか読む機会がなく,やっと読むことができた。内容には触れないが,この本を読むことにより,「母」の存在をもう一度考えさせられた。私にとって「母」とはどういう存在なのだろうか。そして,その「母」が今いなってしまえば,私はどうなるだろうか。
以前のブログでも書いたことがあるが,この世で一番大切な人は迷わず「お母さんです」と答える。私はなぜだかわからないが,幼稚園の時からそれは思っていた(記憶があったのは幼稚園から)。幼稚園のとき,私は母の横で寝ていた。幼稚園のときの私の将来の夢は医師になることであった。ある夜,私は泣きながら母にこう言った。「母さんが病気になったら,僕が絶対に治してあげるから・・・」。
私にとって「母」というのは,とてつもなく大きな存在で,最も大切な人である。しかし,いつの日かこの「大きな存在で最も大切な人」がいなくなる時が来る。それが今私が最も恐れていることだ。自分が死ぬことよりも恐れていることだ。どれほどあがいても,どんなに良いことをしても,「その日」は必ずやってくる。それは30年後なのか,10年後なのか,1年後なのか,それとも明日なのか。できることなら私は母の死ぬところは見たくない。母が死ぬ前に私が死のうか。いや,そんなことはできない。私が死んで,母が悲しむ姿は見たくない。死ぬことに順番はあるのか,年功序列はあるのか。ないとしても,親より先に死ぬのは私は絶対にしない。なぜならそれがこの世で最も親不孝なことだからと思っているからだ。
母親がいなくなること,今の私には想像できない。恐ろしくて,怖くて。今までどれほどの苦労をかけてきただろうか。何度も頭をたたかれ,怒られ,時には家を追い出されたこともある。母と話をするのが嫌で,ほっといてほしくなる時もあった。母の気持ちを知らず,言ってはいけないことも言ったことがある。そういえば,謝ったっけ・・・。
高校受験では,第一志望校に受からなかった。大学受験でもそうだ。しかもそれが2回も。母を安心させてやることなど今まで一度もない。「今度こそは」と思うが,それもどうかわからない。今までどれほどの苦労をかけ,そしてこれからどれほどの苦労をかけ続けていくのだろう。恩返しなんて私にできるのだろうか。何が母にとって恩返しになるのだろうか。
あまり面と向かって「ゴメン」や「ありがとう」は恥ずかしくて言えない。何が母にとっての恩返しかわからないが,これだけは事実だ。今まで苦労をかけてきて,そしてこれからも苦労をかけ続けていく。今までどれほどの愛情を私に注いでくれ,そしてこれからも変わらずどれほど私に愛情を注いでくれるのか。面と向かって言うのはもう少ししてからでいいかな。言わないといけないのは分かっているけど,やっぱり恥ずかしいや。でもここでは言うよ。「母さん,ごめんなさい。そして,ありがとう。」今度は私の言葉で伝えるから。

2011年9月7日水曜日

手で書く手紙

今日も大阪は快晴。部屋にいては嫌になってしまうほどの青空が広がっていた。ということで,午後から母と一緒に,京都市美術館に行くことにした。今,京都市美術館では『フェルメールからのラブレター展』が行われていた。母が以前から行きたいといっていたので,私がいつも自分が行きたいところばかりついてきてもらっていたので,今日は母が行きたいところに行くことにした。
京阪電車に乗り,三条駅で降りる。そこから歩いて京都市美術館へ向かう。京都市美術館の近くには平安神宮,コンサートがよくおこなわれる京都会館(私も行ったことがある),などがある。
私はそもそも絵画にはあまり興味がない。高校の時や浪人の時は世界史の授業で文化史のところで学習したことを思い出す。世界史の授業ではフェルメールはあまり出てこないが,おそらくほとんどの人はこのフェルメールを知っているだろう。17世紀オランダ絵画を代表するヨハネス・フェルメール。私が小学生の時にもフェルメール展をしていたのを思い出した。小学校の遠足で行ったような気がする。その時は,『青いターバンの少女』が展示されていた。今回は,『手紙を書く女』『手紙を書く女と召使』『手紙を読む青衣の女』が展示されていた。今回のテーマは,「コミュニケーション」ということで,17世紀オランダ絵画から読み解く人々のメッセージというものであった。
オランダは17世紀のヨーロッパでもっとも識字率の高い国で,出版の主要な中心地であるとともに,手紙のやり取りが急速に増えた地域であったらしい。ちょうどそのころ,公的な布告や単なる商業上の情報を発するのとは対照的に,手紙を書くことは,個人の気持ちや強い感情を伝えることができるという考え方が一般的となり,個人間の文字によるコミュニケーションのあり方を一変させたというのだ。
最近は手紙を書くことはほとんどない。年賀状でさえも携帯のメールで済ませてしまう時代である。私はできるだけ年賀状を出すようにしている。すべて手書きではないのだが。途中まではパソコンで作り,相手のことを考えながら最後に一言書く。すべてパソコンで作ってしまえば年賀状を出す意味もあまりなくなってしまう気になる。私が年賀状をもらった時に,すべてパソコンで作られたものと何か一言でも手書きのところがあるものと比較してみると,明らかに一言手書きのある年賀状をもらった方がうれしい。「手書き」の大切さというものを認識させられる。
パソコンや携帯がなかった時代は手書きが当たり前だったが,今は当たり前ではない時代である。そんな時こそ,「手書き」の意味が大きくなる。もちろん手間と時間がかかる。しかし,その手紙をもらったとき,どういう気持ちでこの手紙を書いてくれたのか,一言一言を噛みしめながら読み進めていく。下書きの跡が胸ににしみてくる。そして,その手紙が一生の宝物となる。私も今まで手紙をもらったことがあるが,それはすべて大切にしまってある。今の時代だからこそ手書きで書く手紙が一層心にしみてくるのではないだろうか。

2011年9月6日火曜日

尊敬できる人

 今日は久しぶりの大阪は快晴であった。暑いといったら暑かったのだが,それほどでもなく,もう秋を思わせる気配がしていた。夏も終わりかと少し寂しい気持ちになる。来週からまた大学が始まる。やっぱりあっという間に夏休みが終わってしまう。それほど充実していた証拠なのだろうか。それならうれしい。一日一日を大切に過ごしていきたい。

夏休みが終わるということで,ここ大阪でお世話になっている方々にあいさつ回りをしなければならない。これは長期休暇になると毎回行っていることなのだが,私もこれをしなければ落ち着かない。私の大切な行事の一つだ。
一年に何度も会うことができない。多くて3,4回くらいだ。次に会うときは数カ月開いてしまう。その数カ月の間にどのようなことが起きたか,何か変わったことはないか,などといろいろと話をして楽しむのだ。もちろん私もこの数カ月の間に何をしていたか,そしてこれからどうしていくかなどと話をする。お世話になっている方々の元気な顔を見ると私も元気になる。そして私も元気を与えに行く・・・,つもりなのだが,そこは不明である(笑)。
会いに行く方の人数が多く,周りの人から見れば大変そうに見えるかもしれないが,私は大変とも何とも思わない。むしろ楽しい。私はいつのころからか忘れたが,「出会い」を大切にしてきた。これは以前のブログにも書いたかもしれない。運命を信じるか信じないかは別にして,ある人と出会えたことは何かの縁である。その縁をどうしていくかは自分次第である。切ってしまおうと思えばすぎにでも切れる。一生続けようと思えば一生続けられる。
これはあまり大きな声では言えないのだが,私にももう会いたくない人はたくさんいる。嫌いな人もたくさんいる。たくさんではないかもしれないが,確かにいる。私はそんな人たちはすぐに縁を切ってきた。それはダメだといわれるかもしれないが,そうやって生きてきた。そして,私にとって「尊敬できる」と思った人はとことん大切にしてきた。それは先生でも年上の人でも同じ年でも年下でもだ。一生付き合っていきたいと思った人は,どこにいようと会いに行く。私にしたらもうそれは当たり前になっている。会いに行くにはお金がかかるときもある。しかし,私にとってそのお金は喜んで出すお金だ。なぜならその人の笑顔が見られるなら,お金に代え難いものが私に返ってくるからだ。
もっともっとその「尊敬できる人」から,いろいろなことを学んでいきたい。なかなか時間が取れずに会えない時もある。もちろん相手も忙しく,時間が合わない時もある。それが面倒で付き合いがどんどん薄れてしまい,結局縁が切れてしまう人もいるだろう。私はそんなことはしたくない。ある方から「出会いを大切に」という言葉を頂いたことがあるが,その意味を理解したかどうかは分からないが,なんとなくだがわかるような気がする。「一生の付き合い」をするのは本当に難しいことかもしれない。私は100人のそれきっりの友達か,たった一人の一生の友達かを選ぶとしたら,迷わずたった一人の一生の友達を選ぶだろう。「本当の仲間」とはそういうものを言うのではないだろうか。これは私が思っていることだが,生きている間に「一生の友達」の数は10人もいないと思う。5人いれば多い方ではないだろうか。心の底から「こいつは俺の親友だ」と言えるのは。
もちろん友達でなくてもいい。先輩後輩の関係でもいい,教師と教え子の関係でもいい。とにかく「一生」というのは本当に難しいことだと思う。難しいけど,私は出会いを大切にし,それからの縁も大切にしていきたい。どこまでも「尊敬できる人」を追いかけていきたい。

2011年9月5日月曜日

和歌山白浜旅行

 昨日と一昨日は,中学生の時の友達4人と和歌山県の白浜に旅行に行っていたため,更新できなかった。申し訳ない。
その友達の一人が,内定が決まり,来年から社会人になる。そのお祝いとして旅行に行くことになったのだ。旅行といってもかなり災難であった。台風がちょうど来ているときで,バスで移動していたのだが,シャワーのように雨が叩きつけ,しかも風が強い。こんな時に旅行する私たちも私たちなのだが,予定されていた白浜行の高速道路は通行止めになってしまう。道の途中には,木が倒れていて危険であった。無地にたどり着けるのか心配であった。高速道路は走れないので,一般道を走ることに。予定到着時刻よりもかなり遅くなるというアナウンスがあったが,実際到着した時刻は予定されていた時間とあまり変わらなかった(笑)。
ここ白浜に来て何をしたかというと,卓球,カラオケ,ダーツ,温泉である。白浜に来なくてもできるものばかりであった。プールもあったが,屋外ということで閉鎖されていた。正直それほど楽しい旅行ではなかった。時期が悪かったということで済ませておきたい。

 中学生の時からの友達であるが,あれからもう働く時期になってしまったのかと時の流れを感じてしまう。私も就職活動が始まる。「頑張ってくれ」と言葉をくれたが,どうしたらいいのかわからない状態だ。まだまだ学生の時にやっておきたいこともたくさんある。その中で就職活動もしなければならない。もちろん学業もしなければならない。大学1,2年生の時は,ただ時が過ぎていっただけで,正直これといった思い出もほとんどない。今年2011年になり,このままではいけないという気持ちが湧きあがってき,積極的に行動し始めたのだが,もう少しそれに早く気が付くべきであった。
学生の時にしておきたいことは,富士山に登る,自転車で日本を縦断する,海外の一人旅,などなど。今度青森から大阪まで自転車で帰って来ようかとも思っている。ヒッチハイクでもいいかな。とりあえず何か面白いことをしたい。それと学業ももう少し力を入れよう(笑)。今学期,単位を一つ落としてしまった。これは笑い事ではない。
とにもかくにも,今どうしたらいいのか,何をしたらいいのか,わからない状態だ。目の前にあることに全力で取り組む,そう言われても,目の前にあるのが何かさえもわからない。就職活動と学業なのかな。残りの学生生活を見据えて,行動していきたい。

2011年9月2日金曜日

宮城県でのボランティア

台風が接近している。風もかなり強くなっている。今日の朝,雨が降っていなかったので,自転車で病院に行っていたのだが,やはり風が強くて少し危ないと感じた。昼からもどこか出かけようかとも思ったが,雨も降っていたし,傘をさしても危険だろうと思い,今日も家でじっとしていることにした。


今回参加してきたボランティアについて書きたい。8月21日から27日の1週間,宮城県登米市でボランティア活動をしてきた。今回は,私が青森で呼びかけた学生12人(私も含む)で,手配したバスに乗り,片道5時間弱ほどかけて登米市に向かった。今回のメンバー12人は,私が大学で報告会をしたときに集まってきてくれたメンバーである。本格的に活動するまでにかなりの時間がかかった。とりあえずメンバーには災害ボランティアとはどういうものなのか,実際に被災地へ行って活動してもらわなければならなかった。ボランティアというのを知らずには私の団体としても前に進めないからだ。
今回のボランティア団体は,宮城県登米市に本部のセンターを置き,その他に唐桑,小泉,歌津,河北にもセンターを置いているボランティア団体である。被災地での活動に関しては,登米市の本部が唐桑,小泉,歌津,河北に応援を回すという形で動いている。登米市本部では,地域支援,キッチン,フロア,総務,中瀬,番頭,メモっこ,女性支援,社協ヘルプという活動をしている。キッチンや番頭,総務に関しては,ボランティアする人たちを助けるボランティアで,ボランティアしている人を支える活動をしている。
私は,一日目は歌津,二,三,四日目は唐桑,五日目は総務の仕事をした。最終日以外現場の作業であった。一日目歌津では,ガレキ撤去が予定されていたが,天候が雨ということで,天井のあるところで,漁師さんが使う網のクリーニングというのを行った。網には綿ホコリがたくさんついているので,それを手で取っていく作業であった。思ったよりも網が大きく,地道な作業でかなり大変であった。雨が降っていたのでかなり寒く,あまり体を動かす作業ではなかったので,寒さに震えながら活動していた。朝の9時くらいから始めて,終了したのが午後3時くらいであった。仕上げられた網の枚数は5枚であった。10名ほどで活動していたが,たった5枚しかきれいにできなかった。まだまだ網はたくさん残っていた。
 二~四日目は唐桑というところでガレキ撤去を行った。二日目は,民家に残っているゴミの搬出と家の周りのガレキ撤去を行い,三日目は物置小屋のガレキ撤去を行い,四日目はほとんど手が付けられていない民家のガレキ撤去作業を行った。この唐桑というところは75センチメートルほど地盤沈下しており,昼過ぎになると海水が溢れてくる。気が付けばそこらじゅうが水浸しになってしまうところであった。ゴミの分別がかなり大変であった。プラスチック,木,金属,陶器,燃えるゴミなど分けなければならなかった。その分けたゴミをトラックの荷台に乗せ,集積場まで運んで捨てるという作業であった。今回はかなりの人数で30~40名ほどで活動していたため,作業がどんどん進んでいく。しかし,四日目のほとんど手が付けられていない民家に関しては,さすがに一日では終えることができなかった。いや,ほとんど整理できなかった。最終日の明日もここへ来て,この民家をきれいにしようと思ったが,その日のミーティングで明日はこの唐桑のガレキ撤去の募集がなかったのだ。そのことに「なんでだよ」という感情が湧きあがってしまった。「まだ始めたばかりなのに・・・」。次の日は下記の種付け作業に人を回さなければならなかったらしい。それにしても残念であった。
民家の周りや家の中をきれいにしていたが,これは解体するためにきれいにしているのである。家を壊すためにきれいにしていたのだ。その説明は最初から聞かされていたが,なんだか不思議な気持ちで作業をしていた。地割れも起こっており,「元」からやり直さなければ住めないらしい。なるほどと思う。壊すためにきれいにする・・・,それでも不思議な気持ちは残る。
最終日は先ほども書いたが,唐桑に行きたかったが,募集がなかったので,センターの総務という仕事をやることにした。いわば「受付」だ。ボランティア活動をしに来た方に説明をしたり,センター内部の案内をしたり,他のセンターからの電話に対応したり,質問に答えたり,という仕事であった。もちろん初めてで,作業が思うようにできなかった。
作業というのは,何度も繰り返しているうちに手際が良くなってくるものである。効率よく作業をしようと思えば,何度も繰り返す必要がある。今回,私はガレキ撤去中心に活動したが,毎日違う仕事をしようと思えば,できたのだがそうしなかった。様々な仕事をすることにより,自分のスキルアップにつながるかもしれないが,私は自分のためにボランティアしているわけではない。あくまで被災された方のためにボランティア活動をしている。そうなれば少しでも被災された方のためにと思うと,私はどうもガレキ撤去ばかりになってしまった。もちろんこれは私の個人的な意見である。せっかく覚えた仕事も次の日には違う仕事をしていては,もったいないような気がしてしまうのだ。自分でもガレキ撤去をしていて,効率よく活動できているのが実感できる。一日目よりも二日目,二日目よりも三日目というふうに。
ここでは様々な人との出会いがあった。活動いかんは人によって様ざまである。学生もいれば,高校生もいる,年配の方もいる。毎日出会いがあり,別れがあった。それはそれで本当に素晴らしい経験をさせてもらった。私が初めて災害ボランティアに参加した時では,学生10人が「チーム」として被災地に行く形をとっていた。被災地に行く前に東京で「チームビルディング」というのを行っていた。自己紹介をしたり,なぜこのボランティアに参加したのか,このチームの目標はなどというようなものをみんなで話し合い,被災地に向かう。5日間とも作業は同じであった。しかし,この「チーム」として活動することは,効率的にかなり良かったと私は思っている。テンポ良く作業が進む。見知らぬ人と作業をするのは少し気を使ってしまうこともある。しかし,チームでは気を使うこともほとんどない。今回,活動してみて思ったことである。
他のメンバーはそれぞれ自分のやりたい仕事をしていて,積極的に活動していたので安心して見守っていた。様々な人が来ていたので,あえて私はメンバーには話しかけなかった。様々な人の考えを学んでほしいと思ていた。というか私がたくさんの人と話をしていた。出会った人の数だけ人生が広がる。今回,素晴らしい方との出会いがあり,本当に来てよかった。
これから私たちの団体がどう活動するのかが次の課題である。やっとメンバーがスタートラインに立つことができた。活動の輪を広げていくにはどうしたらいいのか。いくつかアイデアは考えているが,もっともっとアイデアを出していきたい。ここからさらに一歩踏み出さなければならない。

2011年9月1日木曜日

「旅」という学校

大阪に台風が近づいているため,風がかなり強い。雨も降ったり止んだりの繰り返しである。今日はどこへも行かず,家でゆっくりしていた。洗濯物を外に干すかどうかで迷ったりしていたが,外に干すことにし,雨が降ってきたり,風で洗濯物が飛ばないように見張っていた。たまにはこういうのもいいか(笑)。



最近,『旅する力』という沢木耕太郎氏が書いた本を読み終えたのだが,これも素晴らしい本であった。私が興味を持っているから余計におもしろく感じたかもしれないが,「旅」について教えてもらった。
私が気に入ったところを紹介したい。
“しかし,そうした旅を気軽にできるようになった若者たちに対して,私が微かに危惧を抱く点があるとすれば,旅の目的が単に「行く」ことだけになってしまっているのではないかということです。大事なのは「行く」過程で,何を「感じ」られるかということであるはずだからです。目的地に着くことよりも,そこに吹いている風を,流れている水を,降りそそいでいる光を,そして行き交う人をどう感受できたかということの方がはるかに大切なのです。”

私がこの前の旅で一番印象に残っているのは,アメリカの「街」と「人」である。もちろん訪れた場所はすべて強烈な印象を残しているが,それよりも歩いた街並みやそこで出会った人々が一番心に残っている。

“ もしあなたが旅をどうしようか迷っているとすれば,私はたぶんこう言うでしょう。
「恐れずに」
それと同時にこう付け加えるはずです。
「しかし,気をつけて」
異国はもちろんのこと,自国においてさえ,未知の土地というのは危険なものです。まったく予期しない落とし穴がそこここにあります。しかし,旅の危険を察知する能力も,旅をする中でしか身につかないものなのです。旅は,自分が人間としていかに小さいかを教えてくれる場であるとともに,大きくなるための力をつけてくれる場所でもあるのです。つまり,旅はもう一つの学校でもあるのです。
入るのも自由なら出るのも自由な学校。大きなものを得ることもできるが失うこともある学校。教師は世界中の人々であり,教室は世界そのものであるという学校。
もし,いま,あなたがそうした学校としての旅に出ようとしているなら,もうひとつ言葉を贈りたいと思います。
「旅に教科書はない。教科書を作るのはあなたなのだ。」”

旅は今の自分の力を教えてくれる。何ができて何ができないのか。まったく知らないところで放り出され,さぁここからどうしようか,と暗闇の中をさまよっていく。右も左もわからないところで,怖いことには変わりないが,その先にある景色を自分でも見てみたい。誰も教えてくれはしない。最後に決めるのは私自身なのだから。「旅」という学校,素晴らしいところではないか。