2011年10月13日木曜日

私の力、器

 最近青森では快晴が続いている。とても気持ちがいい天気である。夜になると寒くなる。風邪をひいたかもしれないといったが、それはもう治りそうである。よかったよかった。
 ボランティア募集の宣伝を他大学にしているのだが、今日でとりあえず青森市内はすべて回った。すべての大学でその宣伝をしておきますとのことで、宣伝は完了した。明日は私の大学で最後の報告会を行うのだが、誰か来てくれるだろうか。誰も来ないとなるとこれもまた大変なことになる。祈るしかないようだ。



 「しあわせ」とはどういうことを言うのだろうか。今日そのことについて考えていた。皆さんはこの「しあわせ」をどういう時に感じるだろうか。家族といるときだろうか、テストで100点を取ったときだろうか、空腹を腹いっぱいに満たしたときだろうか、あったかい布団にくるまっているときだろうか。人それぞれあるだろうが、私がこの「しあわせ」を感じるときはどういうときだろうかと考えた。私にとっての「しあわせ」は、他人をしあわせにしたとき、他人がしあわせになったとき、私は「しあわせ」を感じるのではないかと思っている。
 今まで私は誰かをしあわせにしたことがあるだろうか。それは自分ではわからない。私と関わった人に聞かなければならない。家族はもちろん、友達や先生、その他にも私と出会った人には、しあわせにはできなくても、「私」という人間に出会えてよかった、そう思ってくれるだけでもいい。そういえばこういう人いたな、と何年後かに思い出してくれるだけでもいい。そう思ってくれるように今まで生きてきている。
 できるならばアーティストのように、何千人、何万人もの人間をしあわせにできるのならこれほどうれしいことはない。私の好きな長渕剛も何万人もの人間をしあわせにしてくれている。私もそのうちの一人だ。彼がいるから生きようと思う。彼がいるから頑張ろうと思う。彼がいるから恐れずに前に踏み出せる。彼が生きる力を与えてくれている。それならば私も・・・・・。
 私は何万人もの人間をしあわせにできる力も器もない。それならば一人の人間でもいい。たった一人、たった一人の人間を私はしあわせにできるだろうか。たった一人の人間をしあわせにできる強さ、優しさを私は持っているだろうか。その答えはもちろんわからない。もしかしたらそれすらも私にはないのかもしれない。それが答えなら、これほど恐ろしく、怖いことはない。しかし、弱い私にも、一人の人間をしあわせにはできなくても、この両手で強く守ることぐらいはできるはず。そう信じている。そう信じなければ前に進めない。そうだ。私にもできる。

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