2010年11月30日火曜日

土方歳三

 今日は昨日降った雪が残っていた。太陽の光が雪で反射してまぶしく見える。今日で11月も終わりとなる。明日からは12月。今年もあと1カ月だ。今年、最後まで楽しまなければ。


 ついこの間の日曜日、大河ドラマ『龍馬伝』が最終回となった。私は見ていないが。坂本龍馬は日本を変えた重要な人物の一人だ。彼にしかできない仕事であった。私も彼のしたことには脱帽だ。しかしその坂本龍馬に敵対視していたのが、幕府側だ。
 私は新鮮組に興味があり、以前から資料集を読んでみたり、司馬遼太郎著『燃えよ剣』を読んでみたりなどと自ら進んでよく新選組について調べたものだった。新選組と言ったらどのような印象を持つだろうか。おそらく今回の『龍馬伝』を見ていた人なら、なんてひどい奴らだ、龍馬に何をするんだ、などと良い印象を持たなかったはずだ。それもそのはずだ。当時最強の人斬り集団として、京都を巡回していた。有名なのは「池田屋事件」がそうだろう。当時、幕府に反するものは斬って斬って斬りまくっていた。
 なぜ私が新選組が好きなのか。もちろん坂本龍馬のおかげで、新たな日本へと踏み出せたことは私も称賛している。しかしそのようなことではなく、新選組としての生きざまが好きなのである。例えば、新選組の隊の規律を見てみよう。それは戦国時代の規律よりも厳しかったのだ。士道に背くと切腹。敵を逃がすと切腹。脱走すると切腹。などとかなり厳しい規律であった。これらはすべて、新選組副長、土方歳三が考案したものだ。彼は「鬼の副長」、とも呼ばれ、敵からも見方からも恐れられていた。
 土方は局長の近藤勇が処刑されてから、死に場所を求めていた。鳥羽伏見の戦いから敗戦を続けて、最終的には榎本武揚とともに、函館新政府をつくった。最後は孤軍となった新選組を助けに向かっている途中で、敵の流れ弾に当たり戦死した。なぜ彼がそこまで戦うのか。おそらく、悪名としてまかり通っている新選組隊士の汚名返上のためだ。死んでいった彼らのためにも戦わなければならなかった。そして何よりも近藤勇の名誉挽回するためだ。自ら正しいと思った道を選び、そこに命を懸ける。たとえ時代が彼を選ばなかったとしても。

2010年11月29日月曜日

至上の幸福の元へと

 今日は何と雪が積もってしまった。すぐに止むだろうと思っていたのだが、降り続き、10センチくらい積もってしまった。しかも11月というのにとんでもないくらい寒かった。今の気温は氷点下になっている。急に本格的な冬となってしまった。体調を崩さないようにしたい。


 江戸城を舞台として繰り広げられる、壮絶な人間模様と愛憎劇描いたドラマ―「大奥」。徳川幕府の繁栄と波乱を、将軍の妻たちを通して描いた物語だ。豪華絢爛な着物を身にまとった奥方たち。彼女たちは殿の訪れを今か今かと待ちわび、同時に、ライバルの側室らと恋の火花を散らす。そんな彼女らにとっての“幸せ”。それは将軍から受ける寵愛だった。だが極端に言ってしまえば、「ただそれだけ」である。
 ひとつ打ち明けよう。現代を生きる私がかつて、大奥の彼女らにひそかに同情心を寄せていたことを。「彼女たちは“カゴの中に入れられた鳥”でしかない」。「自由を失い、身を置く世界がすべてだと思い込んでいる」、というふうに。
 大政奉還から140余年の歳月が経過した。女性が感じる幸せの形は今や、当時よりも確実に多様化の一途を辿っていると言える。恋愛、結婚、妊娠、そして趣味や仕事…。時代の変遷とともに獲得したものも数多く、挙げればキリがない。では選択肢が増えた現在、私たちは幸せを勝ち取っただろうか。満たされているだろうか。
 私の答えは、はっきりと「ノー」だ。むしろ幸せの幅が広まったことで、何を得ても絶対的確信で「これが至上のもの」だと言えなくなった。空を掴むように、「物足りない、まだ欲しい」、そう感じるのである。大奥の彼女たちの方が、「よっぽど確実な幸せを手にしている」。そう気付いた。「それだけ」ではない。「それだけですでに十分」なのだ。
 カゴの中に閉じ込められていたのは私自身だった。幸福とは無常だ。また世間のしがらみに縛られ、脆い。個々の感じる幸せは、他者によって見下されるべきではない。今こそ、目に見えない篭城から自らを解放する時がきた。大きく羽ばたけるだろうか。時代の潮流に呑まれず、私が求める至上の幸福の元へと。

日記

 今日はやはり朝から雨となり、どこへも行けなかった。朝9時に起き、毎週日曜日見ているニュース番組を見て、二度寝した。ちょうど12時くらいに配達に来た人のノックで目を覚ました。そこから行動を開始した。最近の休日の過ごし方というのは、このようなだらしない感じとなっているので何とかしたいものだ。

 さて今週の水曜日から12月となる。もう11月も終わりである。本当に1年というのは早いものだ。ということは2年生もあと2カ月を切ったということになる。12月中旬に冬休となり、後は1月いっぱいで春休みとなる。うかうかしている暇などない、と焦りが出てくる。もっと1日1日を大切にしなければならない。

 今週の土曜日には新青森駅が開通するという青森にとっては大きなイベントがある。私にも関係していることだが。やっとこの日が来たという感じだ。これで故郷大阪との距離が近くなる。

 今日は申し訳ないがこの辺で休みたいと思う。このような日記みたいなものを書いても仕方が無いという気持ちもするが、書かないよりはいい。それでは明日、書こうと思う。

2010年11月28日日曜日

北朝鮮、砲撃

 今日は午前中に掃除を済ませ、昼から買い物に出かけた。もうすぐ冬休みなので、大阪に帰るための切符も買った。本屋に行き、一時間半くらい時間をつぶした。ほしい本がまたまた見つからなかったので少し残念であった。雑誌を3冊買い、旅行に本など見たりした。晴れていたが寒かった。明日は雨なので、部屋にいるようになりそうだ。


 今週、北朝鮮が韓国にミサイルを撃ち込んだニュースで持ちきりとなった。今北朝鮮と韓国は休戦状態である。つまりまだ朝鮮戦争は続いているのだ。この事実を知ったのは正確な時期は覚えていないが(小学校中学年くらいだったか)、かなり驚いたことは覚えている。中東問題などで紛争が起こっていることは何となくわかっていたが、まさかこんな近いところでまだ戦争が続いているとは思ってもいなかった。
 いきなりの出来事で、最初このニュースを聞いたときは、本当に怖くなった。戦争が起こるんじゃないかと。もちろん戦争になれば韓国についているアメリカも介入し、日本も協力しなければならなくなる。民間人2人を含む計4人が犠牲となった。韓国国内では北朝鮮に対する批判であふれている。砲撃されたときに、韓国側も北朝鮮に対して反撃したのだが、その反撃は北朝鮮の半分以下だった。韓国政府に国民は、情けないと批判を浴びせている。これを見ているといつ戦争が起こっても不思議ではない状態だ。つい最近イラク戦争が終わったところで、今度は朝鮮戦争なのか。
 韓国側としては怒るのは当然だ。しかし戦争をしてもよいのか。戦争に道などありはしない。罪のない人を何百人、何千人、何万人と殺すことにより、この問題が解決されるというのか。今まで戦争を繰り返してきたが、何かいいこと一つでもあったのか。あるのは悲しみだけだ。この緊張の中、注意して見守りたい。最悪の事態にならないことを祈るばかりだ。歴史は繰り返されるのか。

2010年11月26日金曜日

生き続けるもの

 テスト後も、いろいろレポートとか何とかで忙しくてブログが書けなかった。今日は久しぶりに書ける。
 忙しかったから書けなかった、と言えば嘘になる。というのも、書こうと思えば書けたのだが、他のことが頭にあり、ろくなものが書けないと思い、書かなかったのだ。あまりに低レベルな文章で、低レベルな内容だったら書く意味が無い。こういう理由で書かなかった。申し訳ない。
 もう早いもので11月も終わりに近づいてきた。そう思えば冬休み、クリスマス、お正月、と楽しい行事が連続する。やはりクリスマスは恋人と過ごすという人が多いのではないだろうか。残念ながら私は一人で過ごすことになるだろうが…。しかし私にはそれよりも?楽しいことがあるので、なんとか大丈夫だ(笑)。
 ブログが書けなかった間で、冬が進み、かなり寒くなった。来週は雪が続きそうな予報が出ていた。寒いのはあまり好きではない。雪が積もればなおさらだ。私は昼食を食べるために、いちいち下宿に戻っているのだが、今は自転車ですぐなので何の問題もないのだが、雪が積もれば徒歩になり、時間もかかるし寒いというのが難題だ。雪が積もらないことを祈るしかない。無理だが…。


 今日は久しぶりに時間が取れたので、映画を観ることにした。ちょうどテレビで金曜ロードショウが入っていたのでそれを観た。今日は『ゴースト ニューヨークの幻』という少し昔の映画だった。私はこの映画が大好きで、何回も観たことがある。内容は簡単に言うと、主人公が殺され、その恋人に危険が迫り、その恋人を守るためにこの世に残った、という話である。一番心打たれるのは、死んでも自分の愛しい人を守り続ける主人公の優しさ、強さ、であろう。
 以前にもこのブログで書いたが、死んだ後のことは死んだ人にしかわからない。生まれ変わるのか、神の元へと帰っていくのか、天国か地獄に行くのかなど、私にはわからない。今まで生きてきた中で何度か、家族や親しい友人との永久の別れをしてきた。死別というのは言葉では言い表せないほどの悲しみ、辛さがある。親しければ親しいほど辛くなる。生あるものは死から逃れられない。いつか死ぬ。私も死ぬ。しかし私がここで言っている死は肉体が滅びることであって、魂が滅びることではない。人間は二度死ぬ。一度目は肉体が滅びること。二度目は魂が滅びること。魂が滅びることと言ったどういうことなのか。それは人々の心の中から、自分に対する思い出が消えたときである。その時初めて人は死ぬのだ。つまり人々の心から自分の思い出が消えなければ、自分は生き続けられる。愛は消えない。永久に生き続ける。愛は何よりも強い。この映画は私にそう教えてくれた。

2010年11月21日日曜日

 今日もいい天気となったが、部屋でレポート作成をしていた。あまり寒くなかったので、夕方まで窓を開けていた。虫が入らないように注意しながら。


 昨日もそうだが、空がとてもきれいだ。私の好きなことに、空を眺めたり、海を見たり、美しい景色を見たり、などと自然を満喫するのがある。おそらく時間が許す限り、何時間でも見ていられるくらいである。その中でも空を見るのが好きだ。これはいつから好きになったであろうか、小学生高学年のときにはいつしか空を見上げていた。夜の星空よりも明るい空がいい。朝焼けの空、真っ青な空、白い雲が浮かんでいる空、そして夕方。このブログでも写真を載せているが、空の写真が多いと思われている方もいるだろう。その通り。空が多い。空は毎日違う顔を見せてくれる。同じ顔は二度と見せてくれない。それがいい。どれも美しい。何か悔やんでいたり、悲しいことがあったり、悩んでいたりする時に、ふと空を見上げてみると、それらの悩みや悲しさがちっぽけに見えてくる。おそらく関心を持って空を見ているのは私だけかもしれない。何歳やねん、とつっこまれそうだ。これはある意味私にとってのストレス解消法だ。なかなか自然に触れる機会が無いので、空はいつでもどこでも触れられる自然だ。ここ青森はまだ空が広い方だと思うが、大阪は空が狭い。高層ビルばかりなので空が見えない。それでも大阪に帰った時は、ビルの隙間から空を見上げているが。
 この私のストレス解消法をすすめる気はないが、もし悩んでいたり悔やんでいる人がいれば空を見てほしい。空を見れば心が空っぽになる。悩んでいる自分がちっぽけに見えてくる。数分でもいい、数秒でもいい。空が何か教えてくれるはずだ。目を下し、前を見てみると、また新たな一歩が踏み出せるかもしれない。

 テストが終わったところだが、今度はレポートをしなければならない。それも3つもあるのだ。なかなか大変だ。休んでいる暇はない。
 今日は本を買いに行きたいと思い、出かけたのだが売っていなかったので残念であった。昼過ぎに出発したのだがその時は晴れていたが、雨が少しぱらついた。しかし虹が出ていて、と綺麗であった。久しぶりに見た虹であった。ところがそんな時に限って、デジカメを持っていなかった。本当に残念。めったに出会えないチャンスを逃してしまった。チャンスはどこに転がっているかわからない。常に準備万端でなければ。

 その買いたかった本というのが、大学の図書館に置いてあったものをたまたま開いてみたものなのだが、大学生たちが自分の夢を描いたものである。学生たちがそれぞれの夢を直筆であったりなどと個性が出ている大変興味深いものだ。私もほんの少ししか読んでいないので何とも言えないのだが、この本に登場している学生たちの夢はとても大きい。同じ学生なのにここまで違うのか、と本を読んでいる自分が恥ずかしくなった。
 夢、と一言で言うが何を夢と言うのだろうか。将来なりたい職業を言うのだろうか、それとも実現できるかどうかわからないような果てしないものを言うのだろうか。私はどうせ描くならとんでもなく大きいことを描く。その夢を語ればバカにされるかもしれない。そんなことよりも現実を見ろ、と軽くあしらわれてしまいそうだ。大きな夢を描いて、何が悪いのだ。すばらしいことだ。私が今まで数多くの人と出会ってきたが、心を動かされたのは夢を持っている人だ。もちろん若い人だけでなく、中年の方もいる。しかしその人たちには夢がある。ある恩師から頂いた言葉がある。それは「理想に生きることをやめたとき、青春は終わる」である。夢を持っている人は、輝いている人だ。それは大きければ大きいほど輝きは増す。かなえられない夢はない。沈んでいくなら追いかけるのが当たり前だ。夢があるから走れる。頑張れる。夢があるから楽しいんだ。

2010年11月19日金曜日

竹岡先生の言葉

 昨日で中間テストが終了した。今はほっと一息ついているところだ。昨日はかなり天気が良く、少し寒かったが気持ちの良い一日となった。今日は雲の多い日だったが、それほど寒くはなかった。

 一応テストが終わったということで、前からずっと見ようと思っていたDVDを見ることにした。大学の図書館に置いてあるものなのだが、私がこのブログでも紹介したNHKの番組『プロフェッショナル・仕事の流儀』の過去に放送したものだ。今日見たものは、マンガ『ドラゴン桜』のイメージキャラクターとなった竹岡広信という人気予備校教師の話だ。私も浪人時代、この先生に教わったことがある。もちろんこの竹岡先生が出版した参考書も持っている。竹岡先生に教わった生徒たちは、人生をたたきこまれた、と言う人が多い。私の場合は、夏期講習、冬期講習くらいでしかお世話にならなかったのでそこまで詳しいというわけではない。予備校なのに、人生をたたきこまれた、というのはどういうことなのだろうか。
 番組内で竹岡先生が言っていた言葉にいくつも共感できるところがあった。
「遠回りこそ近道」
「困難から逃げるな」
今頃になって、もしかするとあの頃逃げていたところがあったかもしれない、と反省してしまいそうだ。近道をしよう、楽に点数を取れるようにしよう、などと誰もが考えることだ。しかしそんなものはこの世には存在しない。近道しようとしてもそれは無駄に終わる。点数にはつながらない。近道は最初から存在しないのだから。
「一つのことを深く考える」
「一問一問を大切にする」
これも先ほど述べたことを意味している。ただ単に問題を解き、答え合わせをし、正解したら次の問題へ、間違えればそこに書いてあることだけを復習する、これは頭の悪い人がやることだ。頭のいい人は、一つの問題から、百も千もの事を学ぼうとするのだ。これが決定的な差だ。
「きっかけをつかめば自ら伸びる」
「好きだから身につく」
好きなことに関しては誰もが素直に心の中に入ってくる。もちろん私も実感している。好きになればいいのだ。そのきっかけを与えるのがここで言う竹岡先生だ。ある日突然あるものに衝撃を受け、のめり込んでいったという人もいるだろう。ある人との出会いで、人生が変わった、というのもきっかけだ。このきっかけを与えれば、人は自ら進んで行動していくのだ。
そして竹岡先生の言うプロフェッショナルとは
「失敗に失敗を重ねても、それを絶対に忘れないで、次につなげていく人」
だ。なるほど。失敗が確実に成功に近づいて行くのだ。失敗を次に生かすこと、たやすいことではない。しかし努力は絶対に報われる。無駄だと思っていることが成功への道を切り開く。無駄ではない。何故なら人生に、近道など存在しないのだから。

2010年11月17日水曜日

目標

 今日は久しぶりに、ブログが書ける。今はテスト期間なのだ。今日で山場は過ぎたので、ちょっと一息入れることができる。ブログが書けなかった数日の間で、一気に寒くなった。雪も降るようになった。今日買い物に行ったのだが、温度計を見ると3度だった。手袋なしでは自転車に乗れない。今年もこの季節がやってきたかという感じである。

 今日は今回のテストのことでも書こうと思う。今までの私の成績ははっきり言って悪い。理解せず、丸覚えして試験に臨もうとしているのだ。これでは点数が取れるわけがない。しかし私はこれを続けてきたのだが。今回も難しい教科がいくつかあった。とりあえず一通り目を通して、わからないところを見つけ出し、友達に質問しようと思い、質問しに行った。ところがその友達もまだ勉強していないということで、一緒に勉強していくこととなった。その友達は成績がいい。一までもその友達の教えてもらっていたのだ。今回もそうだが問題を解いて、わからないところは解説してもらい、理解できるまでになった。理解すると、今まで難しくて手がつけられないものも簡単に見えてくる。その日は22時くらいから3時まで勉強した。次の日は、11時から12時、13時30分から18時、19時から5時30分まで勉強した。正に勉強合宿である。このおかげでおそらく点数は取れているだろう。久しぶりに達成感を味わえた。しかしまだ試験が残っているので油断は禁物だ。
 夏休みと春休みに毎回成績表が送られてくるのだが、いつも恐れている。当然成績が悪いからだ。なぜ成績が悪いか。勉強していないからであろう。自分でも勉強しなければ、と成績表を見るたびに思うのだが、なかなか勉強に本腰が入らない。単位を落とさなかったらいいだろう、という気持ちがある。私には1番になってやろうというハングリー精神が足りない。好きなことに関しては別だが。今の私に1番大切なことは学業だ。それで1番になろうとしない私はただの怠け者だ。中には公務員になるから大学の勉強は必要ない、と言う人もいる。確かにその通りかもしれない。だがそれはただの言い訳だと思う。何故なら私もそう言って言い訳したいところがあるからだ。そういう人は両方できない人だ。やる人はそんなこと関係ない。いつだって全力で取り組み、1番を勝ち取ってくる。しかし全力で取り組んだが、1番を取れなかったということもある。しかしそれは1番に向かって全力を尽くしたということが大切なことだ。ただの怠け者とは天と地の差がある。結果が出ないのなら意味が無い、それも言い訳だ、と言う人がいるかもしれない。もちろん結果は大切だ。だが結果論ではない。その結果にたどり着くまでの過程も大切なのだ。
 なぜ怠けてしまうのか。それは目標が無いからだ。目指すもの無しに、行動に移すことは極めて難しい。霧の中を走るようなものだ。しかし目標を立てればそこを目指し、走ることができる。目標があれば、人は頑張れるんだ。まずは目標を立ててみよう。どんな小さなことでもいい。そこら始まる。

2010年11月11日木曜日

故郷

 昨日は英語のレポートをしなければならず、ブログが書けなかった。それにテストも近づいてきているので、書けない日があるが許してもらいたい。今日もテスト勉強があるので短めに。

 今日はとても寒い日となった。吐く息が真白である。明日は雨だそうだ。

 この前は長渕剛のことについて書いたが、今日も少しだけ書きたいと思う。一昨日買ったアルバムの中に、『俺たちのニライカナイ』という唄がある。これは沖縄をテーマにしたものだ。今沖縄はアメリカ軍基地の問題で揺れている。そういう時こそ、みんなで手をつないで走って行こう、というメッセージが込められている。この唄には社会的メッセージはない。優しい唄だ。この唄の中に、心にしみる歌詞がある。

 どうか忘れないで
 心が傷ついたら
 いつでも帰っておいで
 この島へ
 あなたを抱きしめるのが
 この島さ
 
 もちろん私は大阪出身で沖縄とは何の関わりもない。しかしこれを自分に関係するものとして置き換えている。大阪の家を出て、一人暮らしだ。その中で辛い経験もした。何度も帰りたいと思った。しかしそれは自分でも許せない。自分で選んだ道だからだ。しかしそれでも辛い時はある。そんな時に、歌詞ではないが、心が傷ついたら、いつでも帰っておいで、と言ってくれるとどれほどうれしいことか。それだけで十分だ。もちろん帰ることはない。しかしそれだけで頑張ろう、という気持にさしてくれる。私には帰る場所があるのだ。それは故郷だ。何年たっても故郷は、優しく迎え入れてくれる。忘れないでほしい。いつでも故郷は必ず、あなたを抱きしめてくれることを。

2010年11月9日火曜日

『TRY AGAIN』

 今日は雨であった。少しだけ太陽が顔をのぞかせたが、ほぼずっと雨が降っていた。暗くなるとかなり寒くなった。明日も雨だそうだ。

 今日は私の好きなアーティスト、長渕剛のニューアルバム『TRY AGAIN』の発売日で、早速買いに行った。授業の合間を縫って買いに行ったのですぐ聴くというわけにはいかなかった。授業が終わり、家に帰って聴いてみた。さらに進化=深化したような感じであった。今年からバンドメンバーがすべて変わり、新たな道を歩みだしたのだ。変わり続けることが彼のテーマである。1年3カ月ぶりとなるアルバムだが、彼にとっては早いペースで次のアルバムを出した。
 彼の唄の魅力は真っ直ぐな言葉である。どのアーティストも言わないようなことを言うのだ。おそらく彼にしかできないであろう。言うなら社会的メッセージだ。個人名もたくさん出てくる。何年か前にNHK紅白歌合戦に出場し、その社会的メッセージの唄を歌い、NHK出入り禁止となっている。しかし某有名作家からは、よくぞやった、と伝えられたそうだが。みんなが嫌がることを彼がやったまでだ。中学校や高校の時もいたと思うが、生活指導の先生である。朝から制服が乱れている生徒には怒鳴り散らかす。朝からうるせーよ、と言いたくなるくらいだ。しかしその先生も好きでやっているわけではないと思う。嫌われる仕事をその先生がたまたましているだけだ。それと同じである。誰かがやらなければいけないことを、彼がしているだけだ。今回のアルバムでは『知らんふり』がそれである。秋葉原の無差別殺傷事件のことについて歌っている。先ほどそれを聴いたが、背中に寒気が走った。私でも恐くなった。
 長渕剛のファンはかなり熱烈である。中途半端はない。しかしアンチもかなり多い。両極端である。彼は私たちファンに命を懸けてくれている。私も彼に命を懸けている。もう少ししたらコンサートが始まる。彼のコンサートはただのコンサートではない。決起集会だ。絆を確かめ合う場所だ。喜怒哀楽の感情がすべて存在している。そしてファンと共に作り上げるコンサートだ。まさに「戦争」である。おそらく世界一の迫力である。よかったら聴いてもらいたい。

自分を好きになることから始めようか

 朝は晴れていたが、午後から曇ってきて雨と変わった。寒さはそれほどでもなかったが。

 年末へと近づいてきた。もう1年も終わりかと思うと、焦る気持ちもあるのが正直なところだ。もう2年生も終わりになる。ということは大学生活の半分が終わるということになる。本当に早いものだ。冬休みまで1日1日を大切にしたい。


 「自分はたいしたことが無い人間なんて思ってはならない。それは、自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうようなことだからだ。
 そうではなく、最初に自分を尊敬する事から始めよう。まだ何もしていない自分を、まだ実績のない自分を、人間として尊敬するんだ。
 自分を尊敬すれば、悪いことなんてできなくなる。人間として軽蔑されるような行為をしなくなるものだ。
 そういうふうに生き方が変わって、理想に近い自分、他の人も見習いたくなるような人間になっていくことができる。
 それは自分の可能性を大きく開拓し、それをなしとげるにふさわしい力を与えることになる。自分の人生をまっとうさせるために、まずは自分を尊敬しよう。」

 これは『ニーチェの言葉』の中にあるうちの一つだ。哲学書を読むのはなかなか難しいことだが、この作品ならすぐに読むことができる。なるほど、と思うような言葉がたくさん集約されている。これもその一つだ。自分を尊敬するようなことなどほとんどない。それは良くないと言っている。私は今まで悪いこともたくさんしてきた。その理由がここにあった。それは自分を尊敬していなかったからということだ。他人から、自分を尊敬していますかと聞かれたら、おそらく、いいえと答えるだろう。もし、はい、と答えたらナルシストだとか、言われてしまうかもしれない。しかし間違っているのはその反論した人かもしれない。自分を尊敬する、自分を好きになるということは、理想の自分になるための第一歩なのだ。難しことかもしれない。だがまず、自分に嘘をつかないようにすればいい。まずは自分に素直になってみよう。こそこそせず、堂々としていよう。いつしか理想に自分に出会えるはずだ。生まれ変わるのは死んでから、と言う人がいる。それは違う。人は何度でも生まれ変われる。ならば生きているうちに生まれ変わった方がよさそうだ。それじゃあまず、自分を好きになることから始めようか。

2010年11月7日日曜日

勉強

 今日もいい天気となり、過ごしやすい一日となった。今日も外には行かず部屋で過ごした。天気は良かったのだが、少し困っていることがある。それはテントウムシが大量発生していることだ。私のベランダから見える景色は木しかない。きれいと言えばきれいなのだが、春、夏、秋、は様々な昆虫に悩まされるのだ。カメムシ、クモ、そしてテントウムシだ。1匹や2匹くらいならまだ可愛いものだ。しかし10匹以上いるので気持ち悪いくらいだ。死骸もたくさんある。勝手に死なないでほしい。掃除するのは誰だ。私だ。知らないうちに部屋に侵入している。困ったものだ。網戸の意味をなしていない。もっと寒くなればいなくなるのでそれまでの我慢だ。

 昆虫と言って思い出したのだが、私は昔、カマキリを飼っていたのだ。昆虫が好きでしょっちゅう虫かごをしょって出かけたものだ。特にカマキリは大好きだ。バッタを捕まえる瞬間は最高である。まさに瞬殺。一瞬の出来事である。飼っているときはいつも観察ばかりしていた。餌のバッタは兄が捕まえるのを手伝ってくれた。家の中でそのバッタが逃げ出して飛び回ったこともあった。
 今思えば貴重な体験だった。現代では昆虫と触れ合う機会は激減していると思う。外で遊ぶことすら減ってきている。これはあくまで私個人としての意見であるが、子供の仕事は遊ぶことである。遊ぶとは部屋にこもってゲームをすることではない。外で走りまわることだ。人と触れ合い、動植物と触れ合い、風を感じるのだ。五感をすべて使うことによって成長していくのだ。今はそれが無い。昔は社会問題にならなかった、いじめなんかもそうである。遊んだり喧嘩したりしていく中で、限度というものを学んでいくのである。今は殺してしまうという始末だ。一体どうなっているのか。受験の早期化や習い事などで「ヒマ」がなくなっている。こういう時代にしてきた最大の犠牲者は私たちだ。机の上の勉強も大切だ。しかしそれだけでは良くない。外で遊ぶことも勉強だ。
 これからの時代、どうなっていくのだろうか。心配しすぎなのは私だけなのだろうか。

2010年11月6日土曜日

新幹線

 今日は小春日和となり、気持ちのいい一日となった。出かけようか、と思ったが、掃除や何とかで出かけなかった。夕方くらいまで少し寒かったが、窓を開けて過ごした。新鮮な空気を入れようと思った。空気の入れ替えは重要である。寒いからと言ってそのままでいるのは良くない。菌が繁殖してしまう。これからもっと寒くなり、窓を開ける機会が少なくなると思うが、できるだけ空気の入れ替えは心掛けたい。

 昨日、12月4日、東京行きの切符を購入した。12月4日と言えば新青森駅が開通する日である。一昨日のニュースでは、12月4日東京行き始発の切符がわずか30秒で完売したというニュースを聞いた。これには驚いた。私はとある理由で東京に行かなければならないのだが、切符が取れなかったら大問題になるのだ。開通初日だから乗る、という鉄道マニアが言うような理由ではない。本当に必要としているのだ。そのニュースを聞いた時、かなり動揺した。
 そして昨日、以前に一応予約と言うのだろうか、その様なものをしていたのだが、5日に確認に行かなければならなかったのだ。第3希望まで予約しておいた。取れなかったら午前中に電話しますということだったので、電話がかかってこなかった。少し安心して青森駅に行ったのだ。きっちり取れていた。往復で予約し、どちらも取れていた。心配事が吹き飛んだ。
 新青森駅が開通すると初めて聞いたのは去年の春だったような気がする。その当時はあと1年以上もあるやんけ、とまだまだ先のことだなと思っていたが、もう1カ月を切った。早いものだ。現在は八戸駅まで特急電車に乗り、そこで乗り換えをしなければならなかったのだが、新青森駅が開通すると、乗り換えなしで東京まで行くことができる。4時間以上かかっていたのが、3時間15分くらいで行けるようになるのだ。こう思うと今まで遠いと思っていた東京も近くなった。
 私が青森まで来るのに、まず利用した交通手段は寝台列車である。大阪駅発青森行きである。約15時間ほど乗り続ける。大阪を夕方、出発するので、青森に到着するのは次の日の朝である。走っているときは、夜なので景色も見ることができない。消灯時間になると廊下の電気が消える。ベッドの電気が付いてあるのだが、あまりにも暗すぎるので本も読めない。寝るしかないのだ。良く揺れるので寝るといっても、ぐっすりとはいかない。目が覚めると、だいたい秋田か青森に入ったくらいである。弘前に着くと降りる用意をする。初めて青森に来た時は雪景色であった。
 あれから1年以上経つ。もうおそらく寝台列車は利用しなくなるであろう。次からは新幹線にお世話になる。遠かった故郷も少しは近くなるだろう。うれしい。
 しかし開通当日にたまたま乗れるというのはラッキーだ。もしかしたらカメラマンたちがたくさんいるかもしれない。テレビに出たらさらにラッキーだ。

2010年11月5日金曜日

揺るぎないアイデンティティ

 今日は昨日に引き続き、大学でキャリア形成講座が行われた。就活の進め方や、しゃべり方、電話、メールの仕方など具体的に説明してもらい、かなり参考になった。

 私は来年から本格的に就職活動が始まるのだが、私の兄は今就職活動の真っただ中である。兄は大学院1回生である。
 私と兄は中学校まで同じ学校に通っていた。小学校では同じ委員会に入り、同じクラブ活動に入るなどと兄と同じように過ごしていた。中学校でも同じクラブ活動(剣道部)に入り、ともに汗を流した。兄とは二つ違いなので兄が中学3年生になった時に、私が中学1年生になった。なので一緒に過ごしたのはたったの1年だったが最高の1年でもあった。試合の時では兄が大将、私が先鋒という黄金時代?を築き上げることができた。おそらく、我が中学校歴代最強のチームの様な気がする。兄が卒業してからは部員も少なくなり、衰退していったが。
 高校に進学するとき、私は何も考えず、ただ兄と同じ高校へ行きたいと思っていた。しかし不合格になってしまった。気が付けば、いつしか私はいつも兄と比べられるようになっていた。今までは何の違和感もなく、話を聞いてきたが、その不合格になった日以来、兄と比べられることをたまらなく嫌になった。違う人間なのに、どうして同じ道へと進まなければならないのか。兄は兄の進むべき道がある。それはあくまで兄の進む道である。私の道ではない。私の道は自分で切り拓くべきだ。
 兄は成績が良く、理系である。私は頭が悪く、文系である。兄は理系の高校、大学へと進学した。私は文系の道に進むと決めた。私の父は兄と同じ道に行かせようとした。私は断固として拒否した。兄がこちらの道に進むのなら、私はあちらの道に進もう。全く別の道に進もう、そう心に誓った。劣等感におびえ、兄がいない世界へ逃げたかった。一人の私として存在できる場所を求めていた。
 しかし私は突然気がついた。物事を同じ角度から見ているだけだということを。もっと違う角度から見ればいいのだ。それに気付いたとき、今まで背負っていた劣等感から一気に解放された。私は私。見方や見る人によって全く違うように映る。同じ角度から常に兄と自分を比較していたのは、誰でもない私自身だったのだ。
 私が守らなければならないのは、揺るぎないアイデンティティ。私は私らしく、劣等感におびえることなく生きていこう。この世で私は一人しかいないのだから。

あこがれの「ナンバー1」

 今日は晴れたが、夕方くらいに少し雨が降った。寒さもそれほどではなく、過ごしやすかった。

 授業はなく、その代わりにキャリア形成がいダンスという就職のための説明会があった。これは主に3年生が対象なのだが、もうそろそろ就職の準備を始めようと思い、参加してみた。就職のためには何をしたらいいかなどは具体的にはわからない。しかし雰囲気を味わうことができた。4人の就職内定者が体験談などを詳しく話してくれた。生の声を聞くのは大切なことである。だんだんと就職が目の前に近づいてきた。

 しかし私が今日一つ疑問に思ったことがある。4人の就職内定者が話をしていたし、司会者の方も言っていたことだが、「自分らしさ」ということである。
 「もっともっと特別なオンリー1ー」このフレーズが頭をよぎった。心地よい歌詞に励まされそうになる自分が悔しかった。私は「オンリー1」なんかには頼らないと決めていたからだ。
 就職活動について考えるとき、次々にダメな自分が浮き彫りになってくる。そんな時、「オンリー1」という言葉はとても都合がいい。しかし現実はそうではない。こんな個性があるんです、と私が主張する一方で、何万人もの同級生たちも私と同じ様に主張する。すると、結局自分の個性を主張する事が最もオリジナリティーのない行為であることに、気づかされる。個性を語るよりも、私は1番です、そんな風に言えるものが1つでもあれば、どんなに面倒くさくなくて、楽なことであろうか。
 思えば、私は今まで1番になったことが無い。1番どころか負けた思いでならたくさんある。ちょうど「世界に一つだけの花」がはやった中学生の時、剣道部だった私は、最後の試合前に、左手首を捻挫し、動かせる状態ではなかった。もちろん試合も負けてしまった。私がケガをしていなかったら、と思うと仲間に申し訳なかった。しかし、そんな私に声を掛けてくれた仲間の優しい言葉を今でも鮮明に覚えている。「お前がいたからここまでこれたんやで。気にすんな。」
 振り返ると、ケガをした私は幸せだったかもしれない。中学生の私は、まだ見ぬ「1番」に向かって勝負していた。ならば今の自分はどうだろうか。今のこの生活に満足しているのか、胸を張って勝負したと言えるのだろうか。本当なら、大きなことで「1番」になってみたいが、こんな自分の器なら小さな事でもいいだろう。だから残りの大学生活、そして社会に出ても何か勝負してやろう。私にとっては「オンリー1」より「もっともっと特別なナンバー1」にあこがれて。

2010年11月4日木曜日

死、ということ

 昨日もいろいろあってブログが書けなかった。あぁ忙しい(笑)。

 雨が続き、だんだんと寒くなってきた。先ほど、夜空を見てみるとオリオン座が見えるではないか。もう冬なのだ。しかし美しかった。

 昨日、大学の講義で東洋の思想という講義があったのだが、ブッダのことについてのビデオを見た。最後までは見ていないが、印象に残っていることは輪廻転生ということである。輪廻転生というのは、詳しくは語れないがわかりやすく言えば死んでも何かに生まれ変わるということである。ビデオの冒頭部でヤギが飼っている人に殺されるときに、突然笑い出したのだ。その人はなぜ笑うのかとそのヤギに聞いた。そのヤギは言った、499回ヤギとして生まれ変わってきたが、今度死んだら人間に生まれ変われる、言うのである。言った後、ヤギは涙を流し始めた。どうして泣くのかと聞いてみた。ヤギになる前は私もヤギを殺す人だった、とそのヤギはいい、その飼っていた人も泣きだした。輪廻転生とは仏教思想である。キリスト教の考えは、死ねば神のもとに帰ってゆくのである。つまりキリスト教から見れば、死は断絶的な考えになる。しかし仏教はいわば通過点みたいなものになる。死んだあとのことは死んだ人にしかわからないことだが。おそらくすべての人は死について真剣に考えたことがあると思う。私も考えたことがある。まだ小さい時に考えたこともある。その時は本当に怖くなった。死、って何だろう。どこへ行くのか。すべての生き物に死は常に付きまとっている。みんな死ぬ。お母さんも、兄も、友達も、いつか死ぬ。もちろん私もだ。それがいつなのか。あと50年後か。30年後か、それとも明日なのか。生と死は表裏一体である。死について考えた時、恐怖に打ちのめされそうになる。死ぬのは怖い。だからといって逃げているわけではない。死について話し合うことはまず無い。生きることだけを考えようと、言われるかもしれない。うん、その通りかもしれない。しかし、死から目を背けてはいけない。なぜなら死はいつもそばにいるのだから。何歳まで生きたい、とかどんな死に方がいいとか、聞かれたことがある。私の考えは、自分の人生のパーツがそろえばいつ死んでもいい、というものだ。長生きすることはいいことかもしれない。しかし私は長生きするだけなら良くないと思っている。死ぬときに、生きていてよかったと、胸を張って言えるようでなければ。死は何なのか、その答えが出るのはいつなのか、どうしたら答えが出るのか。それは今を常に精一杯生きている人が見つけることができるのだろう。
 全力で生きること、私にもできるはずだ。

2010年11月2日火曜日

地球市民

 今日から11月になった。今年もあと2カ月である。本当に一年は早いものだ。今やるべきことを確実にこなしていきたい。
 あいにくの雨であったが、あまり寒くはなかった。それだけでも救いである。朝起きるのがだんだん億劫になってきた。蒲団がこの上なく気持ちいい。目覚ましが鳴っても、もう少し、と二度寝してしまいそうだ。

 
 新聞に目を通すと、毎日のように発展途上国への募金の知らせが載っている。これをどのように見ているのだろうか。私は高校の時、持続可能な開発やJICA、地球市民など常に地球のこと考えながら生活するということを担任の先生から教わった。この担任の先生とは今でも交流があり、長期休暇には必ず会いに行く。先生もブログを書いていて、その内容はもちろん世界のことについて書いている。とくにアフリカが多い。私もこの先生に影響され、世界のことについて、常にアンテナを張るようにしている。日本は豊かな国だ。食べることにも飲むことにも困ることはない。着る服だってそうだ。毎日学校で授業を受けていられることもそうだ。それがこの国では当たり前だ。しかしそれが当たり前ではない国がたくさんある。いつ死ぬかわからない。一日一日が命懸けである。これは決して言いすぎではない。同じ空の下で生きているとは思えないほど過酷な状況の中で生きている。それをテレビで見ている私たちは何を感じているのだろうか。銃を持った子供たちが映し出されている。わが子を亡くし、泣き崩れる母親の姿が映し出される。面白くないから、と言ってチャンネルを変えるのか。バラエティー番組を見て、低俗な笑いで一日を終えるのか。それで一生過ごすのも有りだ。私にはあり得ないことだが。昨日も書いたが、感じるというのは難しいことだ。その人の気持ちを100%理解するというのは不可能だ。ましてや外国の全く知らない人ならなおさらだ。しかし難しいからと言ってそれで終わってしまうのか。理解できないのは当たり前だ。そうではなく、理解しようとすることが大切なのだ。目を背けるのではなく、真っ直ぐ見詰めてほしい。何かしなければ、という気持ちになるはずだ。
 ならば私たちには何ができるのだろうか。もちろん現地に行って、直接手を差し伸べるのが一番いいことだろう。しかしそれはなかなか難しい。私がしていることはまず今の状況がどうなっているか知るために本を読んでいる。雑誌と言ってもいいかもしれない。それにいつも目を通すようにしている。その次にしていることは募金だ。募金を呼び掛けている人たちを見ると、できるだけ募金するようにしている。直接ではないが、間接的に支援できていると思う。たった100円で5人の子供にワクチンを与えることができるのだ。100円で人の命を救うことができるのだ。素晴らしいことだ。缶ジュースをあきらめて募金すれば命を救うことができる。私は募金箱の前を素通りすることはしたくない。一番いけないことは、この事実を知っているのに何もしないことだ。死にそうな人がいる。それをただ見ている。応急処置の仕方がわからなかった、と言い訳でもするのか。それを何と言うか知っているか。見殺し、というのである。私に言わせれば、募金箱の前を素通りしている人は彼らを見殺しにしている。
 言いすぎたかもしれないが、できるだけ世界に目を向けてほしい。自分には関係ない、と言って目を背けないでほしい。自分のことのように考えてほしい。すべての人が地球市民であってほしい。