その映画だけでなく、『ロッキー』の一つ目と二つ目を観た。これも改めて観ると本当に感動する映画である。ロッキーは街のボクシングジムに通う三流ボクサーなのであるが、世界チャンピオンの対戦相手が出場できなくなり、そこでチャンプは無名の選手にチャンスを与えようということで、チャンプがこのロッキーを指名するのである。そこからロッキーの壮絶なトレーニングが始まるのだ。ロッキーを観ればどんなイヤなことがあっても、辛いことがあっても、悲しいことがあっても、苦しいことがあっても、また立ち上がろう、俺もがんばろう、やってやるか、そう思えるのだ。前にも書いたが、ロッキーをキライなヤツは人間ではない。本当に人間の力、希望、そして夢を与えてくれる。中でも一番感動、心を動かされるところがある。ロッキーは言う。“俺は自分に勝ちたいんだ。こんなクズな俺でも、最後のラウンドまで立つことができたらそれでいいんだ。頭も悪くて生活もボロボロだけど、最後まで立ってられたら少なくとも俺は人間としてなにか一つ成し遂げられたことの証明になるんだ”。私はここに心を打たれる。今このセリフを書いているだけで涙が出てきてしまった。ハッキリいって私は自分のことを偉いとか真面目とかすごいとかそういうなんて言ったらいいのかわからないが、みんなが自分自身のことをこれでいいと思っていることは、私は思っていないのである。最近ずっと書いているが、私も今まで無駄に生きてきているような気がする。そしてなにかあれば逃げ道を作っている。なんか人には大口を開けて偉そうなことをグダグダ言っているだけで、結局自分も同じなのである。そう思ったら今にでも死にたくなってくる。だからこのロッキーのことばが心に突き刺さってくるし、救われるし、がんばってみようかと思えるんだ。スコセッシ監督の『タクシードライバー』や『キングオブコメディ』はそれが悪い方へ向かっていくのだが、彼らの言いたいことは私は痛いほどにわかる。悪いことはもちろんダメだが、でもそれが人間性の主張であり、生きた証であり、それが自分自身なのである。私は自分のことしかわからないが、なぜここまで自分のことや自分の存在、意味、価値、そして当たり前かのように行われているもの、風潮、生活、について考え、悩み続けているのだろうか。みんなはそういうことは考えていないのだろうか。考えていたとしても、そこまで深く考えていないのだろうか。そこまで考えるのが私の性格だからか。まあそう言いながらも私も考えていないといったら考えていないかもしれない。毎日チョーテキトーって言ってバカ笑いしてHAPPY MAXで地獄のハイウェイを突っ走っているので(笑)。ふとしたときにそう考えてしまうんだな。さっきのロッキーのことばを聞いたときにそう思ってしまうんだな。自分に喝を入れてくれたり、または怒ってもらったり、ケリを入れてくれたり、ショックをもらったり、希望をもらったり、背中を押されたり、手を引いてくれたり、夢を見せてくれたり、そんなたくさんのことをやってくれるのは生活していて本を読んだり映画を観たりするくらいしかない。いいところばっかりじゃダメなんだな。人生はこの先長いように見えるが、本当は短いんだと思う。宇宙規模、時間規模で考えたら自分の存在なんて無いに等しいレベル。そう思えたら私は気分がラクになる。なぜなら無いに等しいのならそれこそ周りに合わせる必要がないから。気にしてもしょーがないから。楽しめるときに思いっきり楽しもうと思えるから。世の中どんどん悪くなる。こんな萎えた時代でも、こんな腐った時代でも、自分はいいこと楽しいことやりたいことで暴れてやろう、そう思えてくる。すべてのことにおいて人の意見があるが、それはすべて見方による。そんなこと自分で判断すればいい。
ここ数日は、こうあるべきと(勝手に)思う理想の読者になるべく?(笑)、読者道に励んでいました。
返信削除『LUPIN THE ⅢRD 血煙の石川五ェ門』
感想の一言目は、やっぱり五ェ門はかっこいいなーということでした。
「助けるつもりなど毛頭ない」
シビレるセリフでしたね。
ブラックな五ェ門、と以前私は書きましたが、ブラックどころか実は究極のホワイトでした。見えないものが見える仏の境地の五ェ門。よかったです。
最後のほうで、五ェ門と銭形が対峙するシーン。
あの至近距離から発砲されてなぜ間に合うのか、不思議です。でもそれがいい。
「抜きたくても抜けねーんだろ。居合を見切られた悪いイメージが頭の中にこびりついてんだよ」
「あきれた。男ってどーしてそうバカなのかしら。つきあいきれないわ」
「バカもバカ。大馬鹿ヤローだ」
「男なんてみんなそんなもんだろ」
このルパンの世界観を象徴する会話だと思いました。次元と不二子には大賛成です(笑)
『ゴースト ニューヨークの幻』
ガーディアンズのロケットのように、最新の技術を駆使した映画のあとに見ると、どうしても特殊効果が古い映画だなとは思いましたが、逆にそれがかえって新鮮で、これも印象的な作品でした。
ストーリーそのものが美しい映画でした。
オダ・メイが400万ドルを寄付するときの、あのひきつった笑顔となかなかシスターに小切手を渡さない手。よかったです。
私なら速攻で持ち逃げですね。
モリーがサムの声を聴くことができるようになったとたん、白い光の粒がサムを迎えにくるシーン。
「あんたがいなくなるとさみしいよ」
「元気で」
日本人にはたぶんできない、かっこいい別れ方でした。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』
きちんと順番通りに見ればよかったな、と後悔しました(笑)
ガモーラがドラックスをひっぱってきて、クイルがロケットを介抱するシーン。
グルートが両手を広げて枝を伸ばし、みんなを守るシーン。
エンドゥがすりかえられたオーブの中身を見るシーン。
小枝になったグルートを握りしめて泣いているロケットのそばにドラックスが座り、そっと頭をなでるシーン。ロケットはわずかにドラックスに視線を向け、しっぽの緊張がゆっくりと抜けていく。
「たった一人の家族だ」
「いいえ、それは違うわ」
家族じゃなくて、仲間ができたシーン。
クイルのお母さんのミックステープは、ダンスとは縁がなかったガモーラだけでなくグルートまで笑顔に、そして元気にしてくれました。愛にあふれたすてきなお母様でした。
Abbyさん、コメントありがとうございます。
削除『ルパン三世 血煙の石川五ェ門』、『ゴースト ニューヨークの幻』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』、ご覧になられたのですね。
すばらしいです。
『ルパン三世』はアニメなので余計にツッコミどころがありますが、それはそれで楽しめるものですね。
大人向けの作品になっているので、最近のテレビシリーズを観ても物足りないように感じると思います。
それくらい今回の作品はすばらしいと思います。
みんなそれぞれキャラクター、個性があるのでそれがおもしろいですね。
1時間とは思えないくらい内容のある作品だったともいます。
今回は五ェ門にスポットが当てられていましたが、次元大介にスポットを当てている作品、『次元大介の墓標』という作品もあります。
これも同じような作風なのでこちらもおススメです。
しかし、この作品では五ェ門は登場しませんが。
でもこれを観れば次元大介も好きになると思います。
次元もルパンもめちゃくちゃカッコイイです。
『ゴースト ニューヨークの幻』は少し昔の映画ですね。
確かに現代の映像美と比べてしまうと少し違和感があるかもしれませんが、でもすばらしい作品でものすごく響いてくる作品です。
脇役のオダ・メイがなかなかいい役をしています。
インチキババアみたいな感じですが、二人ともこのオダ・メイに助けられるんですね。
最後の別れは、涙なしでは観れませんね。
美しいです。
地獄へ引っ張られていくシーンはおもしろいですが(笑)。
もしこれが本当なら間違いなく私は地獄へ引っ張られていきます(笑)。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』はすごくおもしろかったと思います。
この映画に無駄な時間は1分もありません。
それくらい完成された映画だと思っています。
『リミックス』ももちろんすばらしい映画ですが、中盤少し減速してしまう印象がありますが、これはまったくそんなことはありません。
『リミックス』もそうですが、流れてくる音楽もサイコーです。
この流れてくる音楽だけで生活がより楽しくなります。
文句やイヤミばっかり言うロケットが私は大好きなのですが、そのロケットが涙を流すシーンは『リミックス』も含めて心を打たれます。
ピーターのお母さんからの手紙を読み、プレゼントを開け、二つ目のカセットを流し、『Ain't No Mountain High Enough』が流れるところはいつも号泣です(笑)。
そしてめちゃくちゃ元気が出ます。
このガーディアンズの世界は宇宙人であったり、人間であったり、アンドロイドであったりもういろんなものが混じって生活していますが、私たちが住んでいるこの世界ではたかだか人種が違うだけの話なのに、差別があったりとものすごく低レベルだと思います。
これを観るたびにもっと広い心を持っていたいと思ってしまいます。
本当にこの映画はすばらしい作品だと思います。