2017年9月4日月曜日

シリーズもの

 先日映画のDVDを30本ほど買ったといったが、そのうち半分くらいは見終わったのだが、残り半分はシリーズものの映画なので、ちょっと気合いを入れなければならないのである。まず1つ目は『ゴッドファーザー』である。今だに名映画として君臨しているコッポラ監督のマフィア映画である。いいものは古いか新しいかなんて関係ないということである。これを観ずに死ねない映画である。次は、ついに私も『スターウォーズ』に手を出したのである。これも観ずに死ねない映画だが、これはなぜか避けてきたような気がする。やはり有名過ぎるからかもしれないが、映画を語る上でこの『スターウォーズ』何をやったって外せないのである。まずは最初の三部作を気合いを入れて観たい。次のシリーズはシルヴェスター・スタローンの『ロッキー』である。この『ロッキー』は観たことはあるのだが、どれが何個目の作品かとかそこまで詳しく観れていないので、今回そこをキッチリ詰めていこうと思い、まとめ買いをしたのである。スタローンを語るには『ロッキー』と『ランボー』は絶対に必要である。『ロッキー』がスタローンの光ならば、『ランボー』はスタローンの影である。『ロッキー』を嫌いな人は聞いたことがない。もし嫌いというヤツがいたらそいつは人間じゃない(笑)。それくらい熱くなれるし元気が出る映画なのである。この3シリーズはどれも凄まじいで、これを観る休日は体調を整えて万全の態勢で臨まなければならない。恐怖すらおぼえるレベルである(笑)。とまあ大げさにいったのだが、一つ一つ楽しみたい。今『ロッキー』が出てきたが、スタローンはこの作品で一躍有名になったのである。もともと映画少年だったが、滑舌が悪いのがネックになりなかなか本格的にデビューできなかったのだが、この『ロッキー』でようやく花が咲いたのだ。年齢としては遅いデビューであったが、そこでスタローンはそのときに一言残している。“Age ain't nothing.”と。年齢なんて関係ないぜ、といったのである。スタローンが言うその一言で涙が出てしまう。そして彼は70歳を過ぎても今だに活躍しているハリウッドスターである。本当に年齢なんて関係ないんだなと痛感してしまう。ハリウッドの3強として君臨している、トム・クルーズ、ジョニー・デップ、ブラッド・ピットがやはり今だに勢いがあるが、その上にこのスタローンとシュワルツェネッガーがいるだろう。映画の世界を変えた存在である。『エクスペンダブルズ』シリーズは映画の内容というより、スターたちのやり取りの方が気になるというかおもしろいのである。昔はこのスターたちが共演することはありえなかったが、今は尊敬し合う仲として交流しているのをよく見る。誕生日にはお互いに祝福し合っているのを見るとジーンとくるのがある。本当に彼らはすごい存在なんだなあ。そして夢を見せてくれるんだなあ。

4 件のコメント:

  1. お疲れ様です。

    『エクスペンダブルズ3』をようやく最後までみました。
    これも前2作と同様に面白かったですね。
    PG指定にするために行った過程についてスタローンは後悔している、とのことでしたが、これはこれでいい感じに仕上がっているのではないかと思いましたが…
    ご指摘の通り、前2作と比較するとたしかに3は全体的にマイルドな印象になっていました。
    でも、仲間とのつながりだったり、年齢を重ねてもいつまでも情熱は持ち続けられることだったり、そういうスタローンが伝えたかったメッセージは、暴力的表現の有無・軽重に関わらず映画をみた人へ届いているのではないでしょうか。
    3で最も重要なシーンは、エクスペンダブルズの解散を仲間に告げたバーニーをクリスマスが追いかけ、本気でキレるところだと思います。あの時バーニーを追いかけるのは、トールでもガンナーでもドクでもダメで、クリスマスでなければならないんですよね。
    「ふざけるな!」
    「何度も乗り越えて、何度も助けてやったろ」
    「シーザーの敵を取って借りを返せ」
    「とことん、つき合う覚悟だった」

    …いや~やっぱりクリスマスはカッコいいですねー。
    ストーンバンクスを討ちに行く際、操縦席の右側にクリスマスが来るからさっさと空けろとガルゴに言うシーン。バーニーの“右”であるあの席には、クリスマス以外は座ってはいけません。ものすごい信頼関係です。


    SAMURAIさんの以前の投稿で、過激な表現を含む映画のほうが印象に残るという理由として、
    “現実よりもはるかに過酷な状況でもあきらめずに立ち向かう主人公に励まされる”という、いわば「陽」の理由と、逆に
    “平和な生活の中で、現実にはありえない残虐的なシーンをあえて自分から見ることで、恐いとかヤバいといった正常な感情が自分の中にきちんと湧き上がってくるかどうか確かめたい”といった「陰」の理由について述べておられたかと思います。
    エクスペンダブルズシリーズや怒りのデスロードは、この「陽」「陰」が見事に調和して混ざったような作品なのかなと思いますね。だからたとえ表現としては残虐・残忍の極みであっても、見た人の印象に残って、何度も“号泣”しながら(笑)繰り返したくなるほど魅力的なのかもしれません。
    『マイ・インターン』とか『ゴースト ニューヨークの幻』といった「いろんな意味で安心して見ることができる映画」についても以前の投稿等でオススメ映画としてピックアップしていただきました。もちろん、これらについては「陰と陽」の分類はあてはまりませんが、普段の人間関係の中でとりわけ美しい理想的な側面を取り上げて私たちに見せてくれますよね。こういった映画を見ると、普段の自分の行動を振り返りもっと周囲に対して優しく穏やかであろうとするような、本当によい意味での印象・影響を受けることができます。これは、マッドマックス等過激な映画をみる理由と比較しても決して劣ることはないと思います。


    私が勝手に思いつき頼まれもしていないのに勝手に始め、人様が長年大切に積み重ねてこられたブログに長々と遠慮なしに駄文を投稿させてもらっていますが、最近は深夜にも関わらずコメントや返信を書いていただいたり、たくさんあるDVDの枚数をわざわざ数えてもらったり、“awesome mix”にもちゃんと気づいてもらったりするなど、普通ならありえないぐらいに非常に丁寧におつきあいいただき、本当にありがとうございます。読者として受け入れていただき、大変感謝しております。
    もちろん、現時点でご紹介いただいた作品のなかでビミョーだったのは1本もありません(笑)
    仕事は毎日例外なく残業ですし、当たり前ですが仕事中は映画のことなど考えているヒマは1mmもありません。普段は、ボロ雑巾のようになって仕事から帰ってきてから1本の映画をNHKの朝ドラぐらいの長さに分割して見るのがやっとですし、私の場合は借りてから1週間以内に返却しなくてはならないという制限があるため、“読者業”としての感想はいつもDVDが手元にない状態で書いています。そもそも映画については全くの素人ですし、映画を見終わった後の余韻というか後味だけを書く材料としていますので、間違っていたり勘違いしていたりする部分もあると思いますが、その場合はどうかご容赦ください。

    マッドマックスにはじまりロケット、ブラック五ェ門、挙句の果てにミノホドもわきまえずついには長渕剛にまで手を出してしまいました。このブログを読んでいなかったら絶対に自分からは接近しなかったことをやるようになって、もうすぐ1か月になろうとしています。
    「考えの引き出しがどんどん増えていく」とのコメントをいただきましたが、私もそう思いますね。1か月前よりは、凝り固まっていた自分の普段の生活からすこーしだけ足を出して、自分の考えの幅みたいなのが少しは広げられたのかもしれません。自分でやってみて、それが自分にとってどうなのかを自分の頭で考えることは、やっぱり大切ですね。
    以前、SAMURAIさんの、「日本は広い。世界は、もっと広い」というフレーズを引用させていただきましたが、映画ひとつをとってみても世の中には自分のまだ知らないことがあふれているんだなぁと思います。

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    1. Abbyさん、コメントありがとうございます。
      返信遅くなってしまい、大変申し訳ありません。
      最近いろんなことですごく忙しくなってしまい、頭が全然動いていませんでした。
      頭が動いていないのはいつもかもしれませんが(笑)。
      気がついたら11月になっていましたね(笑)。

      『エクスペンダブルズ』シリーズ完結してよかったです。
      3作目は敵が銃で撃たれても血が出なかったと思います。
      血が噴き出る描写などがあるとR指定がついてしまうんですね。
      なので3作目を観ていてもそういうのはなかったと思います。
      でもおもしろいことには変わりありませんけどね。
      私は3作全部大好きです。
      エクスペンダブルズシリーズは一言でいえば、“男祭り”ですかね(笑)。
      そういう男らしさが至る所で表現されていると思います。
      ベタなんですが、それがカッコいいんですね。
      ステイサムのクリスマスはバーニーの“右腕”ですからね。
      あの席はクリスマス専用です(笑)。
      あっ、バンデラスのガルゴも大好きですよ(笑)。
      そもそもあの中でキライなキャラクターはいませんね。
      どの作目も最後はみんなで酒飲んで打ち上げ、ですね(笑)。
      みんなカッコいいです。
      あんなオッサンになれればいいですね(笑)。

      やはり多くの人は“美しいもの”を求めるように思います。
      それはそれでいいのですが、見たくないものにはフタをしてしまう、人がほとんどだと思います。
      私はそれはよくないと思っているんですね。
      このブログでも何度か書いておりますが、時々でもいいので、その“危険”な感情を叩き起こさないと、目覚めさせないといけないと思うんです。
      見たいものしか見たくない、というのは本当に幼稚的だし危険だと思います。
      それだとどんどんバカになっていくんですね。
      それしか求めていないし、だんだんそれしか知らないようになっていきますからね。
      それはよくないと思います。
      絶えず私はショックを求めているんだと思います。
      そういう表現だからこそ救われている人が世の中にはたくさんいるんですね。
      もちろん私もその一人ですが。

      『マイ・インターン』や『ゴースト』はまた全然違うタイプの映画ですね。
      もちろんこれはこれでものすごく感動しますし、学ぶところもたくさんあります。
      私はなんでも楽しんで観るので、『マイ・インターン』を映画館で観たときは泣きましたからね(笑)。
      『ゴースト』も泣きますよ(笑)。

      こちらこそいつもコメントをいただいて、すこくうれしいです。
      私も楽しんでやっているので今まで苦になったことは一度もありません。
      『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を観たら“awesome mix”は自然と頭に入ってきますね。
      重要キーワードです(笑)。
      『ガーディアンズ』を観て“awesome mix”を知らない人がいたらその人は死んだ方がいいですね(笑)。

      お忙しい中、分割して映画をご覧になり、時間を有効活用していらっしゃり、
      私としてもそこまでして観てくださっているので、本当にうれしい限りであります。
      映画は表現の一つなので、その表現に対してどう感じるか、どう思うかは我々の判断に委ねられておりますので、自由に感じていただいて大丈夫だと思います。
      いろんな人の捉え方がありますからね。
      私も自由にその表現に対して受け取っているので、他の人とは違う感想もたくさんあります。

      映画一つをとってみても、本当に奥が深いです。
      映画も本当にたくさんのジャンルがあって、いろんな表現があって、メッセージがあって、感動があって、喜びがあって、共感があって、涙があって、ショックがあって、恐怖があって、とそれほどまでの多彩な感情の起伏があるのは映画しかないと思います。
      本当に果てしなく広く深い世界がそこにはあるんですね。
      実生活では決して見ることのできないモノを見せてくれるんです。
      それがいいところです。
      生きている内にどれだけすばらしい映画に出会えるのか、それが楽しみですね。
      そういうのを観て、自分はどう考えるのか、感じるのか。
      いろんな経験をしている、知識がある、その方がいろんな見方で物事を判断できるようになるので、映画を観ることねものすごく勉強になっていますね。
      映画って本当にすばらしいものです。

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  2. お疲れ様です。

    エクスペンダブルズのコメントでスタローンの『ランボー 最後の戦場』をとくにご紹介いただきました。相変わらず、いったんみじん切りにしたものを後になってもう一度寄せ集めるような工程で観ていました。

    読者業のコメントを投稿させてもらってから、後日その映画についてSAMURAIさんからいただく返信を拝見すると、ブログ本体で紹介された以上の情報を得ることができます。スタローンシリーズや今回のタランティーノ監督の作品シリーズについてはとくに、「なるほどそういう意味や背景があったのかー」と思うところがたくさんあり、こちらの都合でみじん切ってあちこちに散逸してしまったため本来の質量からどうしても少なくなってしまったものが、コメントで補完していただくことで少しは自分の中で破片が集まってくるのかな、という感じがしております。今回もそうですが、素人相手にコメント情報の訂正までご配慮いただき、いつもありがとうございます。シリーズものだったり、同じ監督の作品を連続で観たりする場合ではとくに、“全体の中でのこの作品の位置づけは何か”という点についてもきちんと踏まえたうえで映画を観ることが、理解を深める上での一助となるのであろうと思います。『キングスマン』『ファイト・クラブ』『パルプフィクション』『ウォッチメン』等につきましては、先日のコメントでかなり詳細な説明を追加していただきましたので、今後大いに参考にさせていただくつもりです。

    ところで、先日行った横浜のカマボコホテルのそばにアウディがあったのですが、新モデルらしき車が屋外展示されていました。通行人の男性のグループがスマホで写真を撮っていましたが、商品を説明する小さな看板?みたいなのものに、V10エンジン搭載といった記述がありました。この読者業をする前までは、“V+数字”という表現は、心電図の胸部誘導ぐらいしか知りませんでしたが、今となってはVと言えばもうあれしかない、という感じです(笑)9月下旬から始めた読者業の成果がここにきてようやく出てきました。
    今、ちらっとアウディのサイトを覗いてみますと、あの車は2500万近くするらしいですし、V8はすでに古いもの扱いですね。
    歩道のそばにマッドマックスを超えるエンジンを搭載した2500万の車がフツーに置いてあるとは… 都会とは恐ろしいところです。
    眺めるだけじゃなくて、ちょっと触ってくればよかった(笑)


    で、本題ですが、Keyとなるフレーズを挙げてみたいと思います。
    「毎年この時期に医薬品や聖書をカレン族に届けている。病人がいればその場で治療もして彼らに感謝されている」
    「…それで村人の暮らしを変えられる」
    「武器も支給するのか」
    「するわけない」
    「じゃ何も変わらない」
    「いいや、世界中で争いが絶えないのは武器のせいだ」
    「勝手にほざいてろ。家に帰れ」

    「どうしても村人たちを助けたい。世界を変えていきたいの。命はみんな尊いものよ」
    「そうでない命もある」
    「誰もがそう考えたら世界は何も変わらない」
    「事実変わらない」
    「いえ変わるわ。変えようとさえすれば」
    「…でもまだ何か信じるものはあるはず。何か大切なものがあるはずよ。世界は変えられないかもしれない。でも人の命を救うことは決して無意味じゃないはず、違う?」

    「殺しをやめさせにきたんだぞ。何様のつもりだ」
    「女は死ぬまで犯しつくされ、お前らは首を切られた。いい子ぶるな平和ボケども!引き返すぞ」

    「どんな事情でも人を殺すことは絶対に許されない」
    「…何て言えばいいか…」
    「いや何も言わなくていい。気をつけて」

    「みんな偉いよな。ボランティアだ。丸腰で本だの薬だのを届けてる」
    「おめでたいやつらだ。頼まれもしないのにこんなところにやってきて、汝の隣人を愛せよなんてたわごとをほざいてやがる。挙句に俺たちワルに神の仕事をさせる。皮肉なもんだぜ」

    「ムダに生きるか、何かのために死ぬか。お前が決めろ」

    「助けたのは神じゃねぇ! 俺たちだ!四の五の言わずにさっさと立て!」
    「ボート屋がまだだ」

    「なぜ残ってた」
    「アンタこそ」

    クロークベロー村の襲撃シーンは、何て言ったらいいか、本当に凄惨でした。実際はこれなんかよりももっと酷いとのことですが、もう言葉になりませんね。現実にあんな目に遭っている人がいるなんて信じられないですが、信じられない時点で私も平和ボケしているのですよね。
    ハエがたかる放置された死体、頭や胴体・手や足が吹き飛ぶシーンなど、一体どうやって撮影したんだろうと思います。まさか本当に銃撃したり刀で腕や足を切り落として撮影しているわけではないでしょうから。

    最後の戦場をみて、10月上旬のラスベガス銃撃事件のことを思い出していました。
    「自由は自ら戦って勝ち取るものだ」というSAMURAIさんの投稿に対し私は、「なぜ勝ち取るために銃でなければならないのか」と書きました。
    今これを見て思うのは、ジョンの言葉そのままですね。「いい子ぶるな平和ボケども!」
    非常に残念ですし、悲しすぎることですが、理不尽な暴力というのは人間社会からは決してなくならないものなのかもしれません。
    残念すぎることですが、自分と自分の大切な人を守るためには武器をとって戦わなければならない、どうあがいてもこれが真実なのかもしれません。

    「世界で争いが絶えないのは武器のせいだ」というマイケルの言葉がありました。
    一方で、「今、世界で大きな戦争がないのは核のおかげだといってもいいくらいだという人もいる」とのSAMURAIさんのコメントもありました。
    皮肉すぎますが、サラとマイケルの命を助けたのは結局武器をもって敵を殺したから、でした。命の危機にさらされている人に対して、本や薬も確かに必要かもしれませんが、武器を持って戦えるようにすることのほうが根本的に必要なんですよね。女子供関係なく。
    キレイゴトばかりでは、すぐに殺されて終わりですから。
    悲しいことですが、これが事実なんですね。きっと。認めざるを得ない、打ちのめされたような気持ちです。そういえば長渕さんにも、SAMURAIの中で「力無き正義などくそっくらえ!」という歌詞がありましたね。彼の正義に対するスタンスが推測できる一文ですが、
    “力”と“正義”というのはやはり切り離すことができないものなのかもしれません。もっとも、ここで彼が言う“力”というのは、必ずしも武器によるものではなくて、もっと精神的で崇高な心の動きのことを指す可能性もありますが。

    でもそれでもやはり、争いのない平和な社会を願わずにはいられないという気持ちもあります。
    今、こうしている間にも、故郷を失い欧州に逃れ、様々な迫害を受けながら冬を迎えようとしている人々もいるわけです。最近はこの報道も減ってきましたね。問題が解決したから減ってきた、というわけではないはずですが。でもだからといって何もできませんね、できていませんね、私は。
    世界を変えるには、エクスペンダブルズの言葉を借りるならば、「乾くことのない人間としての大切な何か」と、(本当に悲しいけれども)武器と力がやはり必要なのかもしれません。
    スクールボーイのように、「みんな偉いよな。ボランティアだ」と自然に思える心、サラのように「人の命を救いたい」と信じる心、マイケルのように甘っちょろい理想をもつことなのかもしれません。

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    1. Abbyさん、コメントありがとうございます。
      『ランボー/最後の戦場』をご覧いただきまして、ありがとうございます。
      タランティーノ監督の件は失礼致しました。
      本来はブログ本編の方で、より詳しく記載しなければならないと思っているのですが、なんせ何も考えずにバンバカバンバカ書いていっているので、書き終わって投稿した後に、「あれを書くのを忘れた」とかそういうのばかりなんです(笑)。
      もっとうまくまとめて書きあげることができたらいいのですが、なかなかそのレベルまでは厳しいですね。
      しかし、本投稿に書くときと、Abbyさんからいただいたコメントの返信を書くときとの頭というのか思考回路が少し違うというのかそれもあり、違う書き方であったり、違う解説の仕方であったり、全然頭の中での作業が違うんですね。
      なので、本投稿の方とは違った内容の話ができるのかもしれません。

      アウディはV10エンジンなんですね(笑)。
      “V”ときたらあれしかありませんからね(笑)。
      そういうときは迷わず“V8お祈りポーズ”ですよ(笑)。
      『怒りのデス・ロード』で登場するイモータン・ジョーの愛車の名前が“ギガ・ホース”という名前なんですが、キャデラックを2台重ねてV8エンジンも2つ積んでおり、V8エンジンが2つだからV16だー!!とかいっているちょーブッ飛んだ車ですね(笑)。
      資源が枯渇した世界ということで、存在するモノが最後の一つという世界で、キャデラックを2台重ねるというのはそれだけの権力、力の持ち主であるということを意味しているんですね。
      すみません、余談でした(笑)。

      『ランボー/最後の戦場』もものすごい残酷描写の映画だったと思います。
      しかし、これは現実に本当に起きていることなんですね。
      スタローンが、最後にランボーをやるなら何か意義のあるものにしたかった、と言っていました。
      犯罪やドラッグや宝石泥棒ではなく、人間性についての映画にしたかったのだと。
      それでスタローンは「ソルジャー・オブ・フォーチュン」誌や「国連」に電話して聞いて回ったそうです。
      “地球上で最も報告されず、生々しく衝撃的な人権侵害は何か”と。
      答えはビルマ(ミャンマー)だったみたいです。
      “理想”と“現実”との差を私たちにこれでもかというくらい残酷描写を叩きつけてきます。
      今までのランボーでは、ランボーを“ヒーロー”として描いていたのですが、今回の『最後の戦場』ではそのヒーロー的な要素を極力抑えています。
      それにはスタローンが伝えたいことがあり、実際やっていることはこういうことをやっているんだ、それでもヒーローと呼べるのか、ということなんです。
      確かにAbbyさんがおっしゃるように、キレイごとだけでは何の役にも立たない、意味のないことかもしれません。
      人間って醜い、汚い、ゴミ以下だ、そう見えてしまいます。
      しかし、スタローンはこの映画に込めた本当のメッセージがあります。
      “「孤立すると人は凶暴になる」とランボーは言う。
      観客は彼がその凶暴な世界に下りていく姿をみる。
      だがその暗闇への旅路には、ほのかな希望の光と荘厳さがある。
      荘厳さと言ったが、それは人間が絶望感を超えて立ち上がることなんだ。
      彼女を助け、使節団を助けることで、彼は自分自身も救うことになる。”
      こんな醜い世界でも、絶望的な世界でも、それでもかすかではあるがまだ希望が残されている、ということなんだと思います。
      どれだけ残酷な世界でも、それでも信じていたいとランボーはそう言っているのかもしれません。

      話が変わりますが、コミック版『キックアス』のワンシーンをご紹介します。
      これは三冊目になります。
      映画の『キックアス/ジャスティス・フォーエバー』でもヒーローたちとマザーファッカーたちと全面戦争に突入しますが、このコミック版でも全面戦争に突入するのですが、映画よりも規模が大きいです。
      そしてヒーローたちが、警察が来るまで一般市民を守るんだ!ということで必死の抵抗をします。
      しかし警察が来ると、ヒーローたちもマザーファッカ―たちも見た目はみんなそれぞれのスーツを着ているので誰がヒーローで誰が悪いヤツらかが区別がつかないので、とりあえず全員逮捕するぞ、ということになってしまったのですが、そこで主人公デイヴ(キックアス)を逃がすために、ヒットガール自ら犠牲になっておとりになるシーンがあるんですね。
      そのヒットガールの姿を見て、デイヴが気がついたことがあるんです。
      “僕のために・・・
      本当のヒーローみたいだ。
      僕を逃がすために。
      自分を犠牲にした彼女を見て、僕はこのとき、理解できた・・・
      こんな暗い時代に、どうしてヒーロー映画が受けるのか。
      ヒーロー・キャラが作られたそもそもの理由も・・・
      僕らは人生に彩りを必要としている。
      絶対確実なハッピーエンドも。
      だって・・・
      現実はそんなふうにいかないから・・・”
      というシーンがあります。
      『ランボー』とは少し話が違いますが、だからわたしたちはせめて映画の世界だけでもそういうのを求めているんでしょうね。
      せめて映画の中だけでもいいから悪いヤツらをぶちのめしてほしい、そう多くの人が思っているのかもしれません。
      デイヴの言う通り、現実はそうはいかないからなんだと思います。
      ということはみんなが争いのない世界を求めているということでもあります。
      “現実”を知るということは“理想”へ向かう第一歩だからです。
      絶望するのはまだ早いですね。
      ランボーも、ヒットガールも、もしかしたらそれを伝えようとしているのかもしれません。

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