2017年9月24日日曜日

暴力にも意味、価値が

 引き続きスターウォーズショックが続いているが、少しスターウォーズの時系列を紹介しておこう。まず最初に公開されたのが
『スターウォーズ/エピソード4 新たなる希望』(1977)
『スターウォーズ/エピソード5 帝国の逆襲』(1980)
『スターウォーズ/エピソード6 ジェダイの帰還』(1983)
である。これがオリジナル三部作である。その後、
『スターウォーズ/エピソード1 ファントム・メナス』(1999)
『スターウォーズ/エピソード2 クローンの攻撃』(2002)
『スターウォーズ/エピソード3 シスの復讐』(2005)
である。これがプリクエル三部作である。その後、
『スターウォーズ/フォースの覚醒(エピソード7)』(2015)
『スターウォーズ/最後のジェダイ(エピソード8)』(2017)
その続編が2019年公開予定とされていて、これがシークエル三部作である。そしてスピンオフのオリジナル三部作1話目エピソード4の直前を描いた『ローグワン/スターウォーズ・ストーリー』(2016)、登場人物の一人のハン・ソロを描いた作品が2018年公開予定とされている。もちろんこれら以外にも、イウォーク二部作、アニメのクローン大戦、クローンウォーズ、反乱者たち、や関連映像がたくさんある。スターウォーズを語るにはこれらも見ないといけないが、私はまだまだそこまで追いついていない。簡単に紹介するとこんな感じである。

 以前も表現について投稿したが、ひとによって表現の受け取り方が全然違うと投稿した後に思ったのだが、映画『マッドマックス/怒りのデスロード』はマジでチョーヤバイ!と何度も言っているが、1年くらい前にこの映画がリバイバル上映され、私が少し大阪に戻ったときに母を連れてこの映画を観に行ったのである。観終わった後、私が「すごかったやろ!」と自信満々に聞いたのだが、母は「何がすごいか全然わからんかった」、と。ボコボコにシバいてやろうと思ったのだが、その表現の受け取り方はひとによって全然違うんだなと思った次第。おそらく事前知識がないと理解できなかったらいけないので映画を観る前に、そのマッドマックスシリーズのおさらい、そして今回のストーリーの前哨戦を登場するキャラクター一人ひとり解説し、ジョージ・ミラー監督のこだわりや作風、隠された意味などを事細かに説明していたのだが、あの爆走劇には着いていけなかったようだ。ひとによって心の動きようは全然違うんだなー。
 『マッドマックス/怒りのデスロード』は大ヒットしているが、これもやはり賛否あり、すごいというひともいれば、母みたく何がすごいかわからないという人もいる。熱狂的なファンがいるということでこの映画はカルト映画の一作品である。カルト映画と呼ばれる作品はものすごく好きなひともいれば嫌いなひともいる。それだけ角が立った表現だからである。残酷表現を非難するひともたくさんいるし嫌いなひともたくさんいるが、その裏側ではその表現によってどれだけ多くのひとが救われていることか。最近は角をどんどん丸くしていこうという傾向にある。尖ったところをなくしてしまったらそれは表現としての価値が消え失せるのと同じことである。暴力シーンを取った『時計じかけのオレンジ』に意味が、価値があるのかといったらゼロである。当たり前だが、それでしか伝えられないもの、伝わらないものがある。もちろん暴力がいいと言っているわけではない。明日からすれ違うひとを片っ端から殴っていけ!と言っているわけではない。当たり前だが。でも表現としてそれに意味が、価値がある。話が脱線するが、コミック版の『キックアス』のラストで、ヒットガールは全悪党どもをブッ殺した後、主人公のキックアスはヒットガールと会うことは二度となかった。しかし、テロリストやギャング集団が皆殺しにされているというニュースを聞く度にヒットガールの活躍を知る。そして話が変わり、描かれていたのはとある少年が自分の部屋で涙を流しているシーン。少年は学校の友人からいじめられているのだ。少年はいう。
“一晩でもいい・・・
楽しい気持ちで眠りたい。
一日でもいい・・・
泣きながら目覚めることのない朝を迎えたいんだ。”
そしたらすぐ横にヒットガールがいる。そしてその少年に向かっていうのだ。
“シャキッとしな、短小野郎!
根性見せてみなさいよ!
明日の朝9時から特訓開始よ!”
これで『キックアス』は完結する。ヒットガールがいう“特訓”とはもちろん暴力による人との戦い方である。ヒットガールはキックアスにも特訓していたが殺人術は教えていなかった。というよりもキックアスが望んでいるヒーロー像がクリーンであったため、殺人はしたくないということであった。実際は殺しているのだが。おそらくその少年には、イジメをしているヤツらに立ち向かえるように訓練するのだろう。そこで用いられるのはやはり暴力である。暴力に対して暴力で立ち向かうのはどうか、という話になるのだが、例えばミサイルを撃ち込まれたからといって戦争を始めるとかそういう話をしているのではない。この場合の暴力は、“自分に自信を持てるように”とか“自分だって強くなれるんだ”というのを知るための訓練である。国と国との
話であればまた違ってくるが、個人と個人の話なので、小さい頃はケンカして当然である。殴ったり蹴られたりするのはしょっちゅうだろう。そのレベルの話である。その中で立ち向かえるようにということだ。暴力はよくない。確かにそうだろう。しかし、目の前で大切な人がヒドイことをされている、されそうになったとき、周りには誰もいない、そんなときにその大切なひとを守れるのか?自分を守るために、友だちを守るために、愛するものを守るために、人間って戦わないといけない、戦うこともほんの少しだけ必要になってくるんじゃないだろうか。

『スターウォーズ』ショック

 昨日といっても日が変わって明け方の4時くらいまで私はあの『スターウォーズ』を観ていたのである。先日の休みにオリジナル三部作、そして昨日プリクエル三部作、シークエル三部作となる1話目の『フォースの覚醒』、そしてスピンオフの『ローグ・ワン/スターウォーズ・ストーリー』を観た。この『スターウォーズ』シリーズを観はじめてこのほんの数日間、感情の起伏がものすごい状態になってしまい、今もなかなか落ち着かない状態なのである。自分でもどうしたらいいのかわからないくらいだ。私は以前のブログでも書いたのだが、ついに私も『スターウォーズ』に手を出したと。遅いといわれたら遅いのかもしれないが、今もストーリーは進行形である。なので私もあの超巨大なビッグウェーブに乗れるかもしれない、そう思っていたのだ。そして最初のオリジナル三部作を観たとき、その願いが叶った、そう思った。そう確信したのだ。やっぱり『スターウォーズ』はすごい、スゴすぎる。なんでもっと早く観ておかなかったんだ、私はバカか、頭が悪過ぎる、そう思わせるほどのインパクト、感動があった。このままこの巨大な波に飲み込まれよう、身を任せよう、そう思いながら、興奮状態のままプリクエル三部作に臨んだのである。そしてこのプリクエルを観終えたとき、心のどこかで“?”という感情があった。しかしその“?”を隠そうというか、なかったことにしようというのか、認めたくなかった。なぜなら『スターウォーズ』はすごいと思っているからである。好きになれば嫌いなところも許せてしまうように。やっぱり『スターウォーズ』はすごいと自分に納得させながら『フォースの覚醒』を観た。やっぱりすごいじゃないか。プリクエルを観終えたあとの“?”を打ち消すかのように。やっぱりあの“?”は自分の勘違いだった、間違いだった、そう思わせてくれたのだ。『フォースの覚醒』は希望をもたせてくれた。これを観終えた時間が午前2時。この希望を持ったまま私はスピンオフの『ローグワン/スターウォーズ・ストーリー』を観た。まさか自分がこれほどのショックを受けることになるとは知らずに。そして観終えた。ショックというのか絶望というのか、そういう自分でもどうしたらいいのかわからない状態になってしまった。しかし、『ローグワン』の最後の戦闘はよかったんじゃないか、自分でもそう思いたかった。そう思い込ませようとした。調べてみると、最後の戦闘は完璧過ぎる、とこれ以上ない褒め言葉が並び、絶賛されているコメントが溢れかえっていた。しかし、私にはそれにも限界があった。ちょっと無理になってしまった。私はこの『スターウォーズ』に期待し過ぎてしまったのか。いや期待以上、期待をはるかに超えるのものをみせてくれたのは事実だ。しかし、プリクエルからの流れに自分がついていけなかったのも事実。それでも“すばらしい作品だ”と思い込ませようとしてしまった自分を許せなくなってしまった。もう今自分でも何を書いているのか、何を書いたらいいのかもわからなくなってしまった。オリジナル三部作が始まったとき、『スターウォーズ』は快楽原則に基づき、ありとあらゆる快楽をブチ込んだ過去に例をみないサイコーの作品なのである。世界中にこの『スターウォーズ』ファンが溢れた。世界を熱狂の渦に巻き込んだのだ。そして監督のジョージ・ルーカスはそのオリジナル三部作の話をもっと広げようとして挑戦したのがプリクエル三部作である。しかし、この三部作が順番に公開されるごとにファンが減っていってしまった。そしてルーカスフィルムをディズニーに売却し、『フォースの覚醒』が作られた。そのときにルーカスとディズニー側との意見が合わず、ルーカスは「奴隷業者に売ってしまった」と発言し、これが問題となって後にルーカスはディズニーに対し謝罪するのだが。でも確かにルーカスの言いたいことはわかる。これでいいんだったら誰も苦労しないよ、ということだ。『フォースの覚醒』からルーカスは一切手を引いている。そして『ローグワン/スターウォーズ・ストーリー』である。確かにこの『ローグワン』は大ヒットした作品だ。興行的には大成功だ。いや、評価をみてもすばらしい作品だし、ファンもこういうのを求めていた、待っていた作品だ。しかしちょっと待ってもらいたい。ファンが求めているものを、ファンの思い描いている範疇のものを、しかもそれが『スターウォーズ』という巨大な怪物を使ってこの世に放ってもいいのか。つまりこの映画が、先に進むのをやめた、挑戦するのをやめた、作品になってしまったのである。一回こういうのを放ってしまうとファンはよりそういうのを求めてしまう。もっと、を要求してしまう。しかも『スターウォーズ』は超巨大なので今後のありとあらゆる映画に影響を及ぼしてしまうのは目に見えている。私はディズニーを全否定しているわけではない。ディズニーの傘下であるマーベルは挑戦的な作品を世に放ってくれているのも事実。私の大好きな『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズなどである。どんどんおもしろいことをやるぞというのがわかって本当にすばらしくおもしろい作品だ。映画を作るというのはギャンブルみたいなものである。映画一本作るのにものすごい大きなお金が必要になる。なので当たるか当たらないかわからない映画を作るよりも、過去にヒットした作品の続編を作ったり、マーベルコミックを映画化する方が、制作側としては内容が理解されやすいので、ゴーサインも出易いのである。しかし、リスクがあっても新しいものにどんどんチャレンジしてほしいのだ。そして『スターウォーズ』は当たり前だがマーケティングが巨大なので、そのグッズをバカ売れしている。作品が売れているからグッズを作るのか、それともグッズが売れるから作品を作るのか、それももうわからなくなってしまっている。今年の末に『フォースの覚醒』の続編である、『最後のジェダイ』が公開される。私はこの年末に間に合わせようと思い、『スターウォーズ』に挑戦した。オリジナル三部作は夢を持たせてくれた。ビッグウェーブに乗ることができた。あの純粋な気持ちでこれからもオリジナル三部作を観ていくだろう。もちろん公開する『最後のジェダイ』は観に行こうと思っている。しかし、『ローグワン』の次作ということでなにかしら影響があるのは目に見えている。あの映画を観に行くというどういう映画か楽しみだ、という純粋な気持ちで映画館に行くことはできないたろう。『ローグワン』は一度完成したときにディズニー側は撮り直しをさせ、最終的には40%撮り直しをさせている。表現者であれば半分も撮り直しさせられたらもう自分の表現ですらなくなってしまう。それだったら全部撮り直しした方がマシである。まあいろいろと事情がだろうが。そしてスピンオフの次回作が2年後に公開予定だが、何人もの監督が降板している。理由はわからないがおそらくディズニー側との意見が合わないのだろう。悲しくなってしまった。いろいろと(笑)。この感情をどうしたらいいものか。一旦『スターウォーズ』との付き合いに折り合いを付けなければならない。感情に流されず、もう少し気楽な感じで楽しんでいこうかなと思う。もちろんだがこれからもどんどん観ていくことには違いない。もっともっと『スターウォーズ』を知りたいし勉強していきたい。とりあえず気持ちを落ち着かせたい。

2017年9月20日水曜日

いずれかになる表現

 この前、台風の影響かは知らないが0時を回ったくらいから、風と雨の音がうるさくなり、せっかく寝ようと思ったのにうるさくて眠れなかったのである。寝たり起きたりの繰り返しで、気が付けば5時になり、起きる時間になってしまった。出かける時間には太陽が出ていて、夜中の嵐はなんだったんだろう、という感じである。気がつけば、9月ももう後半である。早いものである。暑いといってももうそれほどでもない。このまま涼しくなるんだろう。そしたら冬だなぁ。寒いのは好きではないので、できればまだ暑い日が続いてほしい。

  以前から映画関係の話とかの中で表現について何回か話をしているが、やはり表現が強ければ強いほどインパクトがあるのは確かである。この前にも書いたが、そういうインパクトが強いものは悪影響を及ぼすから見せない方がいいとか、フタをしてしまえという流れになってしまいがちである。しかし、表現は良くも悪くも何かしらの影響がなければそれは表現として成り立たなくなってしまう。表現はいろいろある。誰かと話をすることも表現の一つだし、こうやってブログを書くことも表現の一つである。それによって周りに何かしらの影響を与えているはずなので、これも立派な表現の一つである。私はあえてそうしているわけではないが、いちいち極端な表現を用いている。友人などはよく知っているし、このブログでもそんな感じであるが、なにかしら言うことは汚いことばである(笑)。その方が内容に凹凸ができるから?、ある意味笑いにつながる?、など自分で良いように解釈しているが、どうせ表現するならおもしろく、心に残るように、インパクトがあるように、など考える。表現とはやはり良い意味でも悪い意味でも影響を与えないといけないので、その表現が激しければ激しいほど熱狂的になるし、反対にアンチが増加するし問題にもなる。私はそれはいいことと思っている。毒にも薬にもならないようなことであれば意味がないからである。そもそもそれは表現ですらないからである。そして毒にもなるか薬になるかはその人次第である。こういうのは予定調和が好きな人にはなかなか受け入れられないかもしれない。本当は言いたいのになかなか言えないこと、心の隅では思っていても口にできないこと、本当はそういうことなのにそうとは言わないこと、などなどそういうのを私は声を大にして言いたい。なぜならみんなどこかでそう思っているから、代わりというつもりではないが言ってみよう、そんな感じである。自然体が一番いいに決まっている。例えば、こういう仕事をしているからこういうことはできない、こういうことを言ってはいけない、など。もちろん言ってはいけないところなどTPOを配慮してのことを前提だが。無理してまで言いたいこと表現したいことを我慢してもそれはかえって自分によくない。健康的にも。演技していたっていずれその演技している自分に疲れてしまい、それがストレスになってくる。人間なのでなにかしら思うことは当たり前のことである。それを仲のいい友人でいいから、遠慮せずに言えばいいし表現すればいい。こんなこと言ったら周りはどう思うかな、とかそんなこと考えなくていい。大丈夫、みんなそう思っているから(笑)。最初は激辛ラーメンを作りたいと思っていたら、これだったら子どもが食べれないからもう少し甘くしようとか、ラーメンだけだったらラーメン嫌いな人は食べれないからお寿司も用意しよう、とか気が付けば最初思っていたものとは全然違うものになっていた、というのがよくある。こんなんでは意味がない。万人に受けることなんてこの世には存在しない。自分を受け入れてくれるひともいれば拒絶するひともいる。そんなの当然である。誰からも好かれようとしてもそれは最初から無理な話なのである。拒絶するひとがいれば、「うるせーよボケブッ殺すぞアホンダラ」と言って忘れたらいいのである。そんなことでいちいち気にしてもしょうがない。表現を抑えたとしてもそれは常に付きまとう。だから気にせず生活すればいいのである。そして言いたいこと、表現したいことをやったらいいのである。表現して薬になればいいかもしれないが、なにもならないより毒になった方がよっぽどマシである。

2017年9月17日日曜日

“人生ほど重いパンチはない”

 最近私の数少ない友人と会っているが、一番いいのはやはり気にせずにバカ笑いできるとこだろう(笑)。中途半端な存在だと何かしらいちいち気にしなければならないが、そんなものはお構いなしである。まあ私は笑えればなんでもいい感じなので(笑)。くだらないことで笑えるのはいいことである。もっともっとくだらない感じでいこう!!(笑)

 昨日、『ロッキー・ザ・ファイナル』を観なおしていた。何度も言っているが(言ってしまうが)本当にすばらしい作品である。年を重ねたロッキーだからこそ、響いてくるものがある。全セリフを載せたいくらいだがそれは厳しいので、中でもよかったところを紹介したい。
ロッキーには息子がいるのだが、その息子に相談ということでまたボクシングをやろうと思っているのを伝えるシーンで、息子はもう年なんだからやめた方がいいよ、笑いものだよエゴだよ、世間に何を証明したいの?と言う。

ロッキー:“人生は一度きり”って。ボクシングをやろうと思う。年だからって挑戦をやめることはないだろう。胸を張って挑戦して何がおかしい?世間を気にするのはやめた。自分で考えるものだ。


ライセンスを発行してもらいに役所へ行って話を聞くのだが、ライセンスを発行してもらえなかったシーン。

ロッキー:俺の権利はどうなる?街でよくみかける“しあわせを追い求める”とか。俺の幸福の追求の邪魔をしている。人を呼びつけて散々審査して、やっぱりダメはないだろ?人の仕事の邪魔をしないでくれ。自ら挑戦しようとする人間を止める権利が誰にある?あんたたちにも胸に秘めた夢ってものがあるだろ。やることだけやらせて断る権利なんてない!夢を追い求める権利があるならその心意気を尊重すべきだ。年をとるほど失うものも多い。残ったわずかなものまで奪わないでくれ。


ロッキーのレストランで働くようになったリトル・マリーと俺はなぜボクシングをしたがるのだろうと相談しているシーンでリトル・マリーのことば。

リトル・マリー:あなたは人生の活力に満ちあふれている。みんな情熱をもっていても、その炎を燃やせるひとは少ない。でもあなたはその機会を得た。燃やすべきよ。昔もこれからもそれがあなたよ。他人に惑わされる人じゃない。世間にどう映るかより、自分の信じる道かどうかよ。これは自分の信じる道?自分がそうしたくてそうするべきならやらなくちゃ。戦うのがボクサーよ。


ロッキーの息子が父の存在を恨んでいると、みんな自分を見れば父を思い出すと、そんなの最悪だと言っているシーンでロッキーのことば。

ロッキー:お前はどこかで変わってしまった。人にバカにされても、平気な人間になり下がった。自分のふがいなさを“影にかすむ”せいにした。世の中バラ色じゃない。厳しくてつらいところだ。油断したらどん底から抜け出せなくなる。人生ほど重いパンチはない。だが大切なのは、どんなに強く打ちのめされても、こらえて前に進み続けることだ。そうすれば勝てる。自分の価値を信じるならパンチを恐れるな。他人を指さして自分の弱さをそいつのせいにするな。それは卑怯者のすることだ。お前は違う!自分を信じなきゃ人生じゃないぞ。


こんなことを言えるのは本当にいろんなことを経験して、苦しいこともつらいことも大変なことも自分で乗り越えてきたひとなんだなぁ。私がひとに何か言うことは、テキトーでいいって、である。チョー薄っぺらい!(笑)人ごと!(笑)この差はなんなんだ!(笑)自分の中身のなさが今明白になった(笑)。生きているのが恥ずかしくなってきた(笑)。笑いごとではない!!でも、ロッキーのことばを書いているだけで涙が出るんだなぁ。“人生ほど重いパンチはない”、この一言の意味の深さ、広さ。“人生”を乗り越えてきたひとだからこそ言える一言なんだなぁ。やっぱりロッキーは偉大なひとである。

2017年9月16日土曜日

友人が自転車を買いに

 昨日、大学時代の友人と久しぶりに遊んだのである。新宿で待ち合わせをし、昼ごはんを食べ、友人が自転車を見に行きたいということで新宿にある自転車屋さんに向かっていろいろ見ていたのである。六本木にもその自転車のブランドの店舗があるみたいだったので、そのまま六本木に向かって、まずはカフェに行ってカキ氷を食べて休憩したのである。カキ氷を食べたのは今年初めてであった。多分(笑)。その後にけやき坂にある自転車のお店に向かった。私もあまり知らなかったのだが、種類として、ロードバイク、マウンテンバイク、クロスバイクがあるみたいだ。ロードバイクが道用、マウンテンバイクが山用?、クロスバイクがその間みたいな感じである。そして友人はクロスバイクかロードバイクかでかなり迷っていた。値段もいろいろあり、5万円くらいのもあれば100万円を超えるものもある。100万円も出せば車も買えるくらいだ。まあそれだけすごくいいものなんだろう。いろいろ自転車を見ていると私も欲しくなってきた(笑)。私は高校時代から自転車で通学していた。本当は禁止されていたのだが(笑)。浪人時代も自転車であった。そして大学時代は歩いて行っていたし、時々自転車で大学に行っていたし、街に出るときは冬以外はほとんど自転車であった。高校時代から大学時代はすべてママチャリである。一番の一度の長距離走行は、青森市内の大学の近くに下宿していたのだが、その下宿から五所川原まで3時間半くらいかけて走ったことである。友人が土日になるとバイトをするため、実家の五所川原に帰っていたので、その友人を驚かせようと思い、下宿の友人と2人でママチャリに乗って朝早くからママチャリを爆走させたのである。当時私はまだiPhoneなどのスマホを持っていなかったので、地図を見ながら、車用の掲示板を見ながら、走って行ったのである。途中歩道がなくなって車道しかない危険な道があり、一旦戻っていろいろ確認したが、この道を通らなければならないみたいで、とりあえず歩道がある道まで急いで走ったのである。五所川原市内に入ったときはとりあえず安心した。そして友人がバイトをしているマクドに行って、案の定友人はビックリしていた。大成功である(笑)。その後友人の実家にも何度かお邪魔させていただいていたこともあるので、その友人のお父さんに迎えに来てもらったのである(笑)。手ぶらではよくないと思ったので、ケーキを買って(自分たち用も)家にまたお邪魔させてもらったのである。なんと厚かましい!(笑)。私の予定では少し休憩したらこゆどは青森市に帰らなければならないので、暗くなると危険だったので時間的に出発しなければならなかったが、友人のお父さんが車で送ってあげるということになり、お言葉に甘えさせてもらったのである。さらに厚かましい!(笑)。確かに青森市内にむけてまた3時間半自転車で帰るのは体力的に無理っぽかった。いやー助かった(笑)。いい思い出である。おそらく、そういうときにクロスバイクやロードバイクがあればもっと短い時間でラクに行けたのであろう。どれだけラクに走れるのか、同じ道をもう一度走ってみたい。話は戻るが、その迷っているクロスバイクとロードバイクを何度か試乗してみて、最終的にクロスバイクに決めたのである。その時はお金を持っていなかったので、また引き返そうということで、東京ミッドタウンをフラフラして、夜ごはんを食べて、そしてまた自転車屋さんにに戻ってお金を払ったのである。いい買い物をしたなーと思った。納車は9月末みたいで、その六本木のお店に届くので、そこから持って帰るには自分で乗って家まで帰らなければならないみたいだ。それもすごいなと思った。そして六本木でバイバイしたのである。自転車が届いたら写真を送ってくれるので、それを楽しみにしている。お金は使ってなんぼやなー(笑)。

2017年9月15日金曜日

ホットドッグとコーラ

 先日ヤフーメールが一週間より昔のメールが突如消えてしまったのである。ありえない。いろいろ調べてみたが、復活は厳しそうである。そもそもメールすべて消えたのだが、一週間分はなんとか復活させたのだが、それより前のものがどこにも見当たらないのである。いろいろ大事なメールがあったし、有料メルマガの記事もあったので、それがショックである。この現象は数年前にも一度起きている。ちょうどアメリカに行く準備をするため、飛行機やホテルの予約、イベントの参加のためのメールのやり取りをしていたときに突如消えたのである。FUCK!FUCK!!FUCK!!!である。消えてしまったものは仕方ない。本当に大切なものはどこか別の場所に保存しておいた方がいいと思った次第。

 最近ニューヨークの話をしたので、今回も少しだけ。私は3回ニューヨークを訪れているが、毎回どれだけお金をかけないようにするかを考えている。もちろん楽しむべきところには遠慮なくつかっているが、それをやり過ぎるとすぐに想像を絶する金額になってしまうし、そもそも持ち合わせのお金がそこまでなかったので、削れるところは削らなければならなかった。飛行機もいろんなサイトを検索し、スケジュールに合う一番安いものを探したし、ホテルも立地条件を考えてその中でも安いところを探したのである。そして私は食費は極力かけないようにしていた。そもそも食に対してそこまで興味がないので、毎日同じごはんでも全く問題ないし、少なくても我慢できる。ニューヨークに行ったときはほとんどホットドッグとコーラである。これはサイコーの組み合わせだ。贅沢過ぎるレベル。マンハッタンは山手線沿線内の面積に近いのだが、その中でも同じホットドッグでも値段が変わってくるのである。何度も行っているし、食べるのがホットドッグと決まっていたので、どこらへんが安いのかもう頭に入っているのである。ミッドタウンは高くて2ドル。マディソン・スクエア・パーク周辺は安く99セントである。なのでいつもこのマディソン・スクエア・パークでホットドッグとコーラを食べているのだ。そこにもベンチが置いてあり、そこに座って休憩も兼ねて日記を書いている。ホットドッグを買う屋台も決まっていて、その旅期間に何度か同じ屋台に行くことになるので、3回目くらいから顔を覚えてくれていて、ケチャップは入れるのかマスタードは入れるのかとか、そんな質問無しに作ってくれるようになる。そして何年かおきにニューヨークに行っているが、いつも同じおじさんがホットドッグを売っているのである。私にしたら、あのおじさんだ!という感じたが、さすがにおじさんは毎回覚えていない。でもなんか安心するのである。まだいるのかなー。
 コーラはニューヨーク旅の必需品である。なんせ日本のコーラの味と全然違うからである。調べてみるとやはりその通りみたいで、人によって意見は全然違うが、アメリカのコーラの方が絶対においしい!コーラはコカコーラである。味が濃いというのかパンチが効いているというのかそんな感じである。さすがにお腹いっぱい食べることができないので、コーラを飲んでごまかしているという状態である。2回目に行ったときはタクシーにぼったくられた上に、クレジット1枚が上限額オーバー、もう1枚のクレジットは磁気不良。現金もない、クレジットも使えないという先進国では絶体絶命の状況のときはホットドッグですら高いと思い、スーパーで箱のクッキーを買い、それを2日に分けて食べていた。なので一日数枚食べて丸2日と半日しのいだのである。助けを求めに日本総領事館へ向かったがその日は土曜日で、受付の人に声をかけたら、“Monday ”の一言だった。総領事館は土日は休みなのである。この2日は命懸けであった(笑)。やっと月曜日になって総領事館へ行き、奥の部屋に通され、まずはクレジット状況を調べたりしたのである。それで原因が発覚。上限額を上げてもらう申請をすぐにでもしたかったが、アメリカで朝ならば日本は夜なので、夜まで待たなければならなかった。無事に上限額を上げてもらえたのでよかった。もし無理だったら私はその後予定していたワシントンへは行けなかっただろう。日本へ強制帰国しなければならなかったかもしれない。今思えばマジでビビった。なんともなかったのでよかったが。一人で行くといろんなハプニングが付いてくるが、それも経験なんだなあ。誰を信用できて、誰を警戒すればいいのか、それも直感である。しかしそれは旅をしてその感覚を研ぎ澄ましていかなければならない。すべては経験だ。それにしてもまたコーラを飲みにアメリカへ行きたいなー。

2017年9月13日水曜日

ロッキー完結、そしてこれからも

 『ロッキー』シリーズをすべて観終えた。どれも本当にすばらしい作品であった。そしてどの作品も涙が出てしまった。どのシーンも心に突き刺さってくる。一つひとつのことばが重く伝わってくる。簡単にいってしまえば、どれもハングリー精神を取り戻さなければならない、初心に戻らなければならない、そういう作品なのである。そんな単純な内容なのだが、あれほどグッとくるものはないだろう。泣けて泣けてしょうがない(笑)。最初の作品からファイナルまで約30年あるが、時代の移り変わり、周りにいる人たちの移り変わり、そして自分自身の変化。そして最後まで決して変わらないもの。やりたいことを諦めたら、それは人生じゃないんだな。どれだけ苦しいこと、悲しいこと、辛いことがあっても、自分を信じ続け、少しでも前に突き進んで生きていかなければならない。戦い続けなければならない。人のせいにしていたってしょうがないんだ。それをロッキーは教えてくれるのである。ファイナルを観たとき、やっぱりロッキーは最初のときと全く変わっていないんだとそう思った。勝負ももちろん大切だし、勝ち負けも大切である。でももっと大切なものがある。それは自分に勝ちたいんだということである。世間がどういおうと、どれだけ笑いものにされようと、自分のやりたいこと、挑戦したいこと、自分の内に秘めたもの、それが人生だし、自分自身だし、それが大切なことなんだ。人生は楽しいこと、うれしいことばかりではない。むしろ、苦しいこと、悲しいこと、辛いことの方が多いだろう。そんなときに私はロッキーのように戦えるだろうか。打ち勝つ力を持っているだろうか。みんなそれがなかなかできないからロッキーに憧れるのだろう。そんな大きなことはもちろ私はできないが、もっと小さなところでは自分自身に正直でありたい。一つひとつのことばでもそうである。言うこと、言ったことに、嘘やその場しのぎのことば、一貫性のないこと、そういうのは言わないようにしたい。そういう人が多いから。ジョーダンを言ったりやったりするが。それが自分自身なのか、ウソで固めた自分なのか、私はそこは常に正直でありたい。悲しいこと、苦しいこと、辛いこと、悩んでいるとき、考え事をしているとき、私はロッキーを思い出すだろう。そして何度でも立ち上がってやろう、そう思えるだろう。ブチのめしてこい!!迷わず突き進もう、そう思える。他人なんかどうでもいい。周りの目なんかどうでもいい。私のことを浅はかな目で見ているヤツなんかどうでもいい。私のことをこういうヤツと決めつけているヤツ、影で悪口言っているヤツなんかどうでもいい。自分が自分であるために、私は正直であり続けたい。自分を失ってまで、偽ってまで、演技してまで、生きていくつもりはない。それは人生じゃないし、生きている意味がないから。そんなんで自分自身に勝てるはずもない。影で悪口言われたってそれがどうした。どっかで囀っているヤツらなんか自分と戦う以前の問題だ。そんな低レベルなヤツはFUCK OFFである。私も自分自身に勝ちたい。死ぬ一日前でもいい。自分に納得できればそれでいい。
 ファイナルのエンドクレジットでは、世界中からロッキーステップを訪れた人の映像が流れる。みんな両手を突き上げてロッキーの真似をしている。現実世界にそれだけ影響を与えているのだなあ。もちろん私にも。その中に、いつか私も入れる日を夢見ている。そして現実になる日を楽しみにしている。

いろんなところへ買い物に

 先日は休みであったが、朝からやることというか用事がたくさんあった。まず午前中にこの前サングラスのレンズの交換をお願いしていたのが完成していたので、それを取りに代官山へ向かった。その後、吉祥寺で友人と待ち合わせをし、チョー久しぶりの吉祥寺を散策した。といってもすぐ吉祥寺を脱出したが。その後自由ヶ丘に向かい、友人が行きたかったお店へ向かった。その後は渋谷に戻り、歩いて原宿へ。その途中に長渕剛がこの前使用した衣装についての質問をしに、いつも行くお店へ行き、アウトドアショップへ行き、私も靴がほしかったので原宿のプーマストアへ行き、その後は有楽町へ向かった。そこでも買い物をし、歩いて東京駅へ向かってoazoの本屋へ。そして八重洲方面でごはんを食べてバイバイしたのである。久しぶりにまともな買い物をしたのでいろいろスッキリした。友人もいろいろ買い物をしてスッキリしたようだ。お金は貯めてるだけではつまらないな。使い過ぎもよくないが(笑)。まあ明日交通事故で死ぬかもしれないと考えたら使っても気がラクである(笑)。私は常にそう思っている(笑)。お金を使うのはやはり自分が使いたいもの、ことに使えば気持ちのいいものだが、使いなくないものに使うと死にたくなる。できればそういうことには使いたくないものである。話は変わるが、昨日久しぶりに履いた靴だったのだが、靴が縮んだのか、私の足の形が変わったのか、以前は気にならなかったところが痛くなったのである。靴擦れは本当に苦痛なので、少しでもきになったら早目に処置するのだが、最後の方はそれでも痛かった。自分の最寄り駅に着いてからは一歩一歩が苦痛である。生きるか死ぬかの戦いであった。家に着いて靴下を脱いでみると小指が紫色に変色していたのである。これは痛いわ、となんか納得してしまったのである。そうならないようにちょくちょく履いて慣らしておいた方がいいと思った次第。長時間履き続けていたし、いろんなところに行って歩き過ぎたというのもあるかもしれない。それにしても靴擦れは耐えられないなー。

 昨日は9月11日ということで、ニューヨークでテロがあった日である。その跡地を見た者としては心苦しい日である。私が行ったときは整理券を手に入れないと跡地には入れなかったが、おそらく今は誰でも入れるようになっていると思う。マナー違反の人が多いみたいで、それに苛立ちを持っている人も当たり前だが多いみたいだ。あのエリアはロウアーマンハッタンというエリアで、世界中の金が動き回っているところである。マンハッタンには本当にいろんなエリアがあり、それぞれの雰囲気が全然違うのである。そしてこのロウアーマンハッタンも異色な場所で、ブロードウェイを歩いていてもその違いがすぐに分かる。ブロードウェイとウォールストリートの交差点に来たときは本当に興奮する。そしてその目の前にあるトリニティー教会。ブロードウェイの一番南から北を眺めると高層ビルがガンガン立っていて、空なんかほとんど見えない。ビルに圧迫される感じ。あの感覚はヤバイ。日本では高層ビルといったら新宿が思い当たるかもしれないが、そんなものとは比較にならないレベルである。それがいいんだなあ。ふとお店を覗けば靴屋さんで、ビジネスマンがデカい高い椅子に座って靴屋さんが靴を磨いている。朝のラッシュ時、スタテン島とマンハッタンを往復する無料フェリーがあり、マンハッタンに降りてくる人が大勢いるのだが、その人たちに無料のフリーペーパーを配る黒人女性。その近くに広場があり、いつもそこに座って日記を書く。マンハッタンにいれば途絶えることのない車のクラクション。もちろんロウアーマンハッタンでも。スタテン島からマンハッタンへ向かうフェリーでは必ず先頭に立ってマンハッタンに近づいてくるのをずっと見ている。ロウアーマンハッタンの高層ビル群が美しく見えると同時に、マンハッタンへ来たという高揚感が味わえるからだ。あれほど感情がブチ上がる街は少ないだろう。少なくとも日本ではあり得ない。ロウアーマンハッタンの思い出はそんな感じだ。そこでテロがあったとはどう考えたって想像できない。毎年この日になると旅したときのことを思い出してしまう。一人だからこそ考える時間があるし、一人だからこそ気がつくことがある。これから何度でもあの街へ行くだろう。今まで訪れた街で、唯一自分の存在を認めてくれたと感じた街だから。そしてなによりも、エネルギーに満ち溢れているあの空気が好きだからである。

2017年9月11日月曜日

夏の心残り

 また真夏日?くらいに戻ると思っていたのだが、暑いといってもそれほどでもなく、このまま涼しくなりそうな勢いである。夏ももう終わりである。早いなー。今年の夏はなんといっても長渕剛のライブに行けなかったのが何よりの心残りである、8月22日に日本武道館でライブが行われたのだが、もちろんチケットはトライしたのである。まずファンクラブ会員。落選して次はモバイル会員。それも落選して次はぴあのプレリザーブ先行販売。それも落選して最後の頼みの綱である一般販売。朝10時から販売開始で、先着順ということで、その販売日はちょうど休みだったので、オンボロパソコンとiPhoneの2丁拳銃で準備していたのだが、やはり回線はパンク状態で、10時30秒に繋がったと思ったら販売終了の死亡フラグ。パソコンとiPhoneを窓から投げ捨てようと思った(笑)。チケット流通サイトとかいろいろ転売していたが、高額ということもあったが、剛と会える機会はまだまだあるので、今回は諦めたのである。その後、9月5日に大阪城ホール、12月30日、31日は鹿児島でライブがあるのだが、大阪は急遽ライブが決定したこともあり行けず、年末は仕事上厳しいので、今年は行けそうもない。4回もチャンスがあってどれも行けないというのはどういうことか。自殺ものである。“Goddamn motherfucking sons of fucking bitches!!!!!”と誰に対して言っているのかわからないが思い出すとそう言っているのである(笑)。8月22日というのは思い出深い日で、ちょうど2年前に富士山麓でのオールナイトライブがあった日だ。あのとき、10万人が一緒になって、拳を上げながら、泣きながら、命を懸けて、太陽を引きずり出した。あのときの太陽を決して忘れることはない。一夜を共にし、具体的にはわからないが、なにかが変わったんだな。この先俺たちはどうなるかわからないが、ほんの少しだけでも、小さな希望が見えたような気がする。生涯、忘れられない日である。そしてあのコンサート以上のものはこの先存在しないだろう。それほどの凄まじさであった。あれから2年、早いものであるが、その2年の間に本当にいろんなことがあった。いいことも悪いこともうれしいこともイヤなことも楽しいことも悲しいことも。傷だらけで生きてきた。あいつの唄が私の心の支えだ。この先も生きて生きて生きまくろうと思う。どんな時代が訪れようとも。誰かに裏切られても、利用されても、蹴落とされても、踏みにじられても、笑われても、バカにされても、私は私を信じてやる。生くぞ。この野郎!!!
 秋になろうが冬になろうが春になろうが地獄は夏だ!夏といったらコーラ(コカコーラ)がうまい!立ち止まったらフュリオサ・ジョ・バッサ大隊長に半殺しにされるぞ!生き残りたければ走り続けろ!ヴァルハラの道を急げ!フューリー・ロードを爆走するぞ!!V8!V8!V8!V8!V8!

2017年9月9日土曜日

役に立たないもの

日本には販売していないもので欲しいものがあればそれは海外のサイトを調べる他ない。この前といってもかなり前だが、映画『キックアス』に出てくるヒットガールが乗っているバイクのナンバープレートを欲しいと思い、とりあえず国内サイトを調べてみるとヤフオクで出品されており、商品説明を見てみると日本未発売と書いてあったので、じゃあ海外では販売されてんねや、と思い、海外のサイトを調べてみるとやはり販売されていたのである。見ていたのはAmazonのUS版である。輸送料を足してもヤフオクで買うよりもはるかに安かったので、早速登録をして購入したのである。届いたナンバープレートは部屋の壁に飾ってあるのだ。そして今日、また欲しいものがあり、これも日本未発売というのか日本には取り扱いがないもので、またAmazonのUS版にお世話になるときがきたと思い、会計欄までいったのだが、なんと日本にはその商品は発送できないとのこと。“Fuckin' Asshole!!!”と叫び(叫んでいないが)、どうしようか迷っていたらそういえば“ebay”があったと思い、早速調べてみるとebayでも取り扱いがあり、そこで購入することにした。PayPalにも登録し、(というか登録しなければならなかった)、ミッション成功ということである。いつ着くかわからないし、確実にその商品が届くのかどうかもわからないが。とりあえずしばらく不安なのである(笑)。そういえばコミック版の『キックアス』でヒットガールが火炎放射器を使って敵を焼き殺すのだが、その火炎放射器はebayで購入したみたいだ。さすがヒットガールである。海外サイトを見ていると日本では見られないものが山ほどあるので、見ているだけで楽しいし、ついつい欲しくなってしまうのである。この前買ったヒットガールのナンバープレートも今回購入したものも、ハッキリ言って役に立たないものである(笑)。いつどこで使うんだとなってしまう(笑)。でも考え方を変えれば、役に立つものであれば、役に立ったらそれで終わりである。しかし、役に立たないものであれば役に立つことは一生ないので、永遠の寿命があるということだ。役に立たないものはすばらしいな。こういう役に立たないものが日常生活をより豊かにしてくれるんだなあ。ガラクタはサイコーである。

2017年9月8日金曜日

ロッキー・ステップ

 前回ロッキーについて少し書いたが、ロッキーの舞台はアメリカのフィラデルフィアである。フィラデルフィアには行ったことはないのだが、毎回このフィラデルフィアの街を通り過ぎている。今まで3回アメリカに行っているが、すべてニューヨークとワシントンDCである。ニューヨークからワシントンへ行くとき、いつもアムトラックという鉄道を利用してワシントンに向かうのだが、このフィラデルフィアはちょうどニューヨークとワシントンの中間地点になっている。映画『ナショナルトレジャー』でも登場するフィラデルフィアを毎回行きたいと思っているのだが、なんせ朝5時くらいのニューヨーク発のアムトラックに乗っているので、切符を買うときはめちゃくちゃ眠たいので、フィラデルフィアで途中下車しようと思える元気がないのである。なのでいつもワシントンまでの切符を買ってしまうのだ。映画ロッキーではほとんど登場するシーンがあるのだが、フィラデルフィア美術館の階段を上って両手を上げるシーンである。チョー有名なシーンである。みんなここに来たら絶対にそれをやるというくらいだ。ロッキーの二つ目ではロッキーが走っているのに周りにの人も一緒に走り出し、このフィラデルフィア美術館に向かうのだ。そしてロッキーは最後ダッシュをするのだが、涙無しでは観れない。そしてみんなはロッキーコールである。すごいんだなあ。そしてこのフィラデルフィア美術館の階段は、“ロッキー・ステップ”と呼ばれ、世界中からここを訪れる。次に行ったときは絶対に行こうと思う。調べたらフィラデルフィア駅から近いところに美術館があるので、予定が詰まっていても、ここだけ訪れることができそうだ。私も両手を空へ突き上げようと思う。絶対泣くんだろうな(笑)。
 
 先日北朝鮮で水爆実験が行われて成功したみたいだが、そのとき電磁パルスの影響が出るかもしれないというニュースを聞いた。水爆実験の成功よりも私は電磁パルスに反応してしまったのである。もちろん映画関連だが(笑)。記憶に新しいものだと渡辺謙が出演している『ゴジラ2014』で、敵の怪獣ムートーというのが出てくるのだが、こいつが電磁パルスを使うのである。あとはアメコミのバットマン、『ダークナイト リターンズ』で、ソ連がアメリカに中性子爆弾を撃ち込んできたのだが、それを政府の元にいたスーパーマンがその爆弾を砂漠で爆発させたのだが、そこで今回のように電磁パルスの影響が出てしまい、ゴッサムシティがパニックに陥ろうとしていたのである。バットマンはもちろん駆けつけたいところだが、肝心のバットモービルが電磁パルスの影響で使えなくなってしまったのだ。そこでバットマンは黒い馬に乗ってゴッサムシティに現れたのである。だから“ダークナイト”なのである。クリストファー・ノーラン監督のダークナイト三部作に不満があるが、このダークナイトと言ったシーンも不満で仕方ない。とりあえずこのアメコミの『ダークナイト リターンズ』は最高傑作の一つと言われている。スーパーマンが何を背負い、バットマンは何を貫いたか。それがわかる一冊である。といっても私の電磁パルスネタはこの程度のレベルである(笑)。世の中おもしろいことがたくさんあるのに、生きている間にそのほんの一部しか触れられないというのが悲しいところ。生きている間にいろんなものに触れたいと思う。

2017年9月7日木曜日

ロッキーのことば

 6日に、『ガーディアンズオブギャラクシー/リミックス』の発売日で、早速昨日書い、昨日と今日で3回観たのだが、やはりすばらしい映画である。この映画があれば半年は生きていける(笑)。何回観ても泣けてしまうんだなあ。
 その映画だけでなく、『ロッキー』の一つ目と二つ目を観た。これも改めて観ると本当に感動する映画である。ロッキーは街のボクシングジムに通う三流ボクサーなのであるが、世界チャンピオンの対戦相手が出場できなくなり、そこでチャンプは無名の選手にチャンスを与えようということで、チャンプがこのロッキーを指名するのである。そこからロッキーの壮絶なトレーニングが始まるのだ。ロッキーを観ればどんなイヤなことがあっても、辛いことがあっても、悲しいことがあっても、苦しいことがあっても、また立ち上がろう、俺もがんばろう、やってやるか、そう思えるのだ。前にも書いたが、ロッキーをキライなヤツは人間ではない。本当に人間の力、希望、そして夢を与えてくれる。中でも一番感動、心を動かされるところがある。ロッキーは言う。“俺は自分に勝ちたいんだ。こんなクズな俺でも、最後のラウンドまで立つことができたらそれでいいんだ。頭も悪くて生活もボロボロだけど、最後まで立ってられたら少なくとも俺は人間としてなにか一つ成し遂げられたことの証明になるんだ”。私はここに心を打たれる。今このセリフを書いているだけで涙が出てきてしまった。ハッキリいって私は自分のことを偉いとか真面目とかすごいとかそういうなんて言ったらいいのかわからないが、みんなが自分自身のことをこれでいいと思っていることは、私は思っていないのである。最近ずっと書いているが、私も今まで無駄に生きてきているような気がする。そしてなにかあれば逃げ道を作っている。なんか人には大口を開けて偉そうなことをグダグダ言っているだけで、結局自分も同じなのである。そう思ったら今にでも死にたくなってくる。だからこのロッキーのことばが心に突き刺さってくるし、救われるし、がんばってみようかと思えるんだ。スコセッシ監督の『タクシードライバー』や『キングオブコメディ』はそれが悪い方へ向かっていくのだが、彼らの言いたいことは私は痛いほどにわかる。悪いことはもちろんダメだが、でもそれが人間性の主張であり、生きた証であり、それが自分自身なのである。私は自分のことしかわからないが、なぜここまで自分のことや自分の存在、意味、価値、そして当たり前かのように行われているもの、風潮、生活、について考え、悩み続けているのだろうか。みんなはそういうことは考えていないのだろうか。考えていたとしても、そこまで深く考えていないのだろうか。そこまで考えるのが私の性格だからか。まあそう言いながらも私も考えていないといったら考えていないかもしれない。毎日チョーテキトーって言ってバカ笑いしてHAPPY MAXで地獄のハイウェイを突っ走っているので(笑)。ふとしたときにそう考えてしまうんだな。さっきのロッキーのことばを聞いたときにそう思ってしまうんだな。自分に喝を入れてくれたり、または怒ってもらったり、ケリを入れてくれたり、ショックをもらったり、希望をもらったり、背中を押されたり、手を引いてくれたり、夢を見せてくれたり、そんなたくさんのことをやってくれるのは生活していて本を読んだり映画を観たりするくらいしかない。いいところばっかりじゃダメなんだな。人生はこの先長いように見えるが、本当は短いんだと思う。宇宙規模、時間規模で考えたら自分の存在なんて無いに等しいレベル。そう思えたら私は気分がラクになる。なぜなら無いに等しいのならそれこそ周りに合わせる必要がないから。気にしてもしょーがないから。楽しめるときに思いっきり楽しもうと思えるから。世の中どんどん悪くなる。こんな萎えた時代でも、こんな腐った時代でも、自分はいいこと楽しいことやりたいことで暴れてやろう、そう思えてくる。すべてのことにおいて人の意見があるが、それはすべて見方による。そんなこと自分で判断すればいい。

2017年9月6日水曜日

まずは自分から

 最近また天気がよくない日が続いており、今年はそれが多いような気がする。涼しいのでいうことはないのだが、夏っていう感じがあまりしない。といってももう9月なので、夏はもう終わりの方なのでそれは無理があるかもしれないが。秋はまだいらないかな。
 この前、スタローンの話を少ししたが、私のお気に入りの一つで『ランボー     最後の戦場』がある。これも以前紹介したが。この中でミャンマーのカレン族というのが登場するのだが、もちろん現実にも存在する。ランボーはこのカレン族を助けることになる。この映画が公開され、ミャンマーではその映画の海賊版が出回り、この映画のランボーのことばがある。“無駄に生きるか、何かのために死ぬか。お前が決めろ。”このことばがカレン族の合言葉になり、映画が現実に物凄く影響を与えているのである。本当にこのことばはカッコいい。ここだけで涙が出る。ランボーはこの世に存在していたとして、もう別次元の人間なのでこのことばが突き刺さってくる。以前にも投稿したことがあるが、よく“人のため”といって何か”やる人がいる。誰かのためとか、あの人のためにとかそういうことをよく耳にする。私はあるときから“人のため”に生きるのはやめたのである。数年も前だが。ここ最近うるさくいっているのだが、じゃあお前はどうなんだとそう思ってしまうのだ。自分自身のことを後回しにして他人を優先するのか。まあこれは悪くいっているが、そういうつもりではない。私は誰かを信じて生きていこうとは思わない。結局人間は最終的にはひとりであるから。前にも書いたが、お前は何者なんだと聞かれたとき、本当は胸を張って、俺はこういうものだと叫びたいが、何者すらわからない今日この頃で、なかなかそれは厳しいかもしれないが、誰かのためとか誰かに依存して、そういうのはなんだか言い訳というのか逃げ道というのかラクしているというのかそんな気がしてしまうのである。7、80年がだいたいの人間の寿命である。その短い時間の中で、生きていることの証明、生きた証、自分は何者か、人間性の主張をするのには、私は自分ひとりでどこまでやれるかというのが重要になってくると思う。これに加勢するわけではないが、私は一人で外国に行ったし、これからもそうしたい。それはなぜか。以前にも書いたが、そこで自分はどこまでやれるのかというのが明白にわかるからである。これは他のことにも言えることだろう。何かやるにしてもそうだろう。もちろん何かやるにしても結果的にはいろんな人の力を借りて物事を乗り越えていかなければならないが、事の発端は自分自身である。そのとき信じきれるのは自分自身である。子どものときに夢見た将来。もちろん現実はそんなあまくない。いつしか今の自分に満足しているのに気がつく。満足するように自ら納得させているのかもしれない。周りに乗り遅れまいと波動に合わせようとする。70億人いれば70億通りの生き方、生き様がある。その生き方、生き様は自分自身で決めることができる。数十年後、自分の生き方、生き様に満足しているのだろうか。これでよかったと胸を張れるだろうか。無駄に生きていないだろうか。生きるだけなら夢も目的も誇りも尊厳も必要ない。日々、それは誰にでも平等に訪れる。英雄にも。そして我々にも。無駄に生きるか、自分自身の生きる意味、価値、人間性の主張をするために死ぬ覚悟はあるのか、それは紛れもなく自分で決めることだ。他人のいうことに従って他人に依存して、なにかあったときに自分には責任がないと逃げ道を言い訳をしようとする。人のためというのは気持ちがいいものである。ある種の陶酔感、満足感も味わえる。しかし、自分の人生も満足に歩けない、他人に寄生しているパラサイト、人間性の主張もない人が、それでは生きている意味がない。人のためとかそういうことをいう前に、あまい環境で生活を続ける前に、もっと自分自身で、自分の足で立てるように、それが自立であり、気がつけば、なにか人のためになっているのではないかと思う。自分なくして他人などないだろう。もっと自分を大切に、自己の主張をし、それが自分を守ることになる。まずは自分をどうにかしなければならない。

2017年9月4日月曜日

レンズ交換に

 今日は休みだったのだが、連勤だったのでずっと家にいたかったのだが、前から持っているサングラスのレンズの色を変えてもらおうと思っていたので、それをやってきたのである。小雨が降っていて、傘がいるかいらないか微妙な感じだったが、傘は邪魔になるので傘を持たずにでかけたのである。お店が11時に開店するのでそれに合わせて代官山に行ってきたのだが、久しぶりだったので、渋谷から歩いて代官山のお店まで行くのだが、道中のお店がいろいろ変わっているような気がしたのである。気のせいかもしれないが(笑)。こんなんあったかな、とそういうのがけっこうあった。そのお店までも、こんなに遠かったっけ、と感じるくらいであった。レンズの色を薄くしてもらおうと思っていたので、お店の方がサンプルレンズを何個か出してもらい、その中で決めたのである。誕生日ハガキをお店からいただいていたので、それで少し値引きしてもらい、7000円弱くらいで交換してもらえたのである。来週完成するみたいなのでまた取りに行かなければならない。帰りにこの前言っていた本を買いに行こうと思い、最寄り駅の本屋に行ったのだが、完売?していたらしく置いていなかったのである。やはり大きいお店に行かないと在庫が限られているのだろう。これはまた出直そうと思う。
 以前にも書いたことがあるが、私がいつも行くメガネ屋さんは日本で3店である。大阪に1店、東京に2店である。最近大阪のお店には行けてないが。どこのお店も長い期間行っているので、よく私のことを知っているのである。大阪は高校生のときから、東京は大学受験のときに東京へ行ったときからである。今思えば10年以上お世話になっているということである。なので、私の服装であったり、もちろんメガネであったり、よく「さすがですね」や「らしくていいですね」と言って下さる。本心かどうかはわからないが(笑)。こういうファッションというのは私が思うに、自分を表現する手段一つではないかと思っている。私はどうせ着るならカッコいいものを着る。メガネもカッコいいものをかける。そしてそのカッコいい中でも他の人が持っていなさそうなもの、珍しいもの、を選ぼうとする。そうしているとやはり周りとは違った雰囲気になるし、浮いた感じにもなる。よく周りの視線を感じる(笑)。なので私は見下され慣れしている(笑)。ファッションを褒められることがあるのだが、その服装を褒めているのか、その服を着ている私を褒めているのか、どっちかわからないのだが、ちょくちょくある。この前原宿を歩いていると芸能関係のスカウトの方に声をかけられ、ほんの少しお話を聞かせてもらったのだが、最後になぜ私に声をかけたのか聞いてみると、めちゃくちゃカッコよかったので、と言ってくださり、満足の返答だったので、「本当にありがとうございました」と言ってその場をあとにしたのである(笑)。芸能関係、モデル関係に声をかけられたのは5回目である。私は興味がないので深入りはしないが。興味が湧いてきたらどうなるかわからないのだが、そうはいっても20代前半に需要があるのだと思う。私ももうオッさんだからな(笑)。話は戻るが、なぜみんな周りと同じような服装をしようとするのだろうか。どうせなるならカッコよくなりたいとか可愛くなりたい、キレイになりたい、美しくなりたいと思うだろう。もちろん外見だけでなく内面もそうだが。そこまでそういうのに興味がない人が多いということなのだろうか。周りと合わせていれば失敗はないし浮くこともないから安心するのだろう。まあそう言われたらそうかもしれない。私はそれのどこがおもしろいの?と思ってしまう。高級ブランドの服を着ろとは言っていないし、そんなもの必要ない。見た目もアイデンティティを主張する手段であるのに違いはない。見た目にインパクトがあれば次に会ったときに、あの派手な人と覚えてもらえるだけでも得である。歩いていてもみんな同じ感じなのでそういった意味では全然おもしろくない。ニューヨークはみんなすごかったからそういった意味では歩いているだけで楽しいのである。みんなそうだからどんな服装をしていても浮くことはないのである。街に溶け込んでいる感じだ。それがいいんだなあ。そういうのにいちいち気にしなくていいので、日本にいるよりニューヨークにいる方がラクなのである。外国人は日本人はみんなオシャレと言うしそう聞くが、私が思っているオシャレとは全然違う。私は日本人がオシャレと思ったことは一度もない。もちろん私もそのレベルには及んでいない。日本人でオシャレと思ったのは今までで5人くらいなのではないだろうか。正確な数は忘れたが、10人はいないと思う。みんないろんな服装していたら何を着ようか迷わずに済むのになとも思う。多くの人はみんなファーストファッションで済ませているみたいだ。今度はフランスのパリやイタリアのミラノに行って、そういうのを勉強したい。別の用事でマカオにもいきたいが(笑)。とりあえずちょっと海外行きたい。

シリーズもの

 先日映画のDVDを30本ほど買ったといったが、そのうち半分くらいは見終わったのだが、残り半分はシリーズものの映画なので、ちょっと気合いを入れなければならないのである。まず1つ目は『ゴッドファーザー』である。今だに名映画として君臨しているコッポラ監督のマフィア映画である。いいものは古いか新しいかなんて関係ないということである。これを観ずに死ねない映画である。次は、ついに私も『スターウォーズ』に手を出したのである。これも観ずに死ねない映画だが、これはなぜか避けてきたような気がする。やはり有名過ぎるからかもしれないが、映画を語る上でこの『スターウォーズ』何をやったって外せないのである。まずは最初の三部作を気合いを入れて観たい。次のシリーズはシルヴェスター・スタローンの『ロッキー』である。この『ロッキー』は観たことはあるのだが、どれが何個目の作品かとかそこまで詳しく観れていないので、今回そこをキッチリ詰めていこうと思い、まとめ買いをしたのである。スタローンを語るには『ロッキー』と『ランボー』は絶対に必要である。『ロッキー』がスタローンの光ならば、『ランボー』はスタローンの影である。『ロッキー』を嫌いな人は聞いたことがない。もし嫌いというヤツがいたらそいつは人間じゃない(笑)。それくらい熱くなれるし元気が出る映画なのである。この3シリーズはどれも凄まじいで、これを観る休日は体調を整えて万全の態勢で臨まなければならない。恐怖すらおぼえるレベルである(笑)。とまあ大げさにいったのだが、一つ一つ楽しみたい。今『ロッキー』が出てきたが、スタローンはこの作品で一躍有名になったのである。もともと映画少年だったが、滑舌が悪いのがネックになりなかなか本格的にデビューできなかったのだが、この『ロッキー』でようやく花が咲いたのだ。年齢としては遅いデビューであったが、そこでスタローンはそのときに一言残している。“Age ain't nothing.”と。年齢なんて関係ないぜ、といったのである。スタローンが言うその一言で涙が出てしまう。そして彼は70歳を過ぎても今だに活躍しているハリウッドスターである。本当に年齢なんて関係ないんだなと痛感してしまう。ハリウッドの3強として君臨している、トム・クルーズ、ジョニー・デップ、ブラッド・ピットがやはり今だに勢いがあるが、その上にこのスタローンとシュワルツェネッガーがいるだろう。映画の世界を変えた存在である。『エクスペンダブルズ』シリーズは映画の内容というより、スターたちのやり取りの方が気になるというかおもしろいのである。昔はこのスターたちが共演することはありえなかったが、今は尊敬し合う仲として交流しているのをよく見る。誕生日にはお互いに祝福し合っているのを見るとジーンとくるのがある。本当に彼らはすごい存在なんだなあ。そして夢を見せてくれるんだなあ。

2017年9月2日土曜日

本当はそうじゃないのに

 今日から気が付けば9月になった。そして昨日今日とかなり涼しくなり、体調を悪くした人も多いと聞く。でも来週はまた暑くなるみたいである。涼しくなるとあっという間に冬になってしまうので、まだまだ暑い方がいい。
 仕事中夜になると物凄く眠たくなってしまう。前にも書いたが睡眠時間が今少ないので、ついつい眠たくなってしまう。もしそこで寝れるなら永遠の眠りにつきそうな勢いである。睡眠時間を削って仕事をしなければならない人は本当に大変だと思う。ちゃんと寝ないと頭が鈍くなるので寝たいのは山々だが、寝てる暇などないといった感じだろうか。日本人は働き過ぎとよく聞くがその通りなんだろう。もうちょっとテキトーでいいのではないかと思ってしまう。今連勤中なので、一昨日欲しい本が発売されたのだが、その本を買いに行く時間もない。休日に買いに行ったらいいじゃないかというが、その休日に読みたいのである。休憩時間に買いに行ってもいいのだが、休憩時間は睡眠時間なのでこれも譲れないのである。おそらく休日に買いに行くと思う。
 昨日の電車の中でここまで書いていたのだが、座れることになったので、続きを書こうと思っていたら気がついたら夢の中だった(笑)。そして目が開いたら最寄駅であった。座ったらすぐ寝てしまう。でも少しでも寝た方がいいので、寝れるときに寝たい。
 最近というかずっと私はテレビがないので情報があまり入ってこない。ヤフーニュースくらいである。最近といってもずっとかもしれないが、イヤなニュースばかりで暗くなってしまうので、テレビがなくてよかったかもしれない。お店に出勤すれば、一緒に働いているスタッフと話をするのだが、全くついていけない(笑)。最近だと台風の話やワールドカップの話、0-157の話など全然知らないのである。自分に必要なニュースや情報はどんどん入れているのだが、それ以外は視界には入っているだろうが、全く覚えていない。それでどうって話ではないので、これでいいかな(笑)。本当は大きいテレビで映画など観たいのだが、そこまでお金がまわらないというのが現実である。お金を使いすぎな自分が悪いのである。
 本当は自分はそうではないのに、誤った見方で自分を判断されるのはなんとも悲しいものである。確かにはたから見ればそういうふうに見えるのかもしれないが、いざそういう状況になったときに自分がそういう行動を取ることは絶対にない。絶対というのはこの世にないのだが、それくらい強く思っているということである。遊びだからいいという話でもないのだが、気楽な感じだとそういうことをやっているが、それが真面目な状況や悪い状況になったときにその行動を取るかといったらNOである。確かにそういうふうに見られてしまうのは仕方ないのだが、だからといって私がいつでもどこでもどんな状況でもそういうことをやるかといったらそんなはずがない。それを誤って見られ、そう判断されるのはなんとも悲しい。私の家族、親友らは、私がそういうのから一番遠い存在であることはみんなわかっている。一番かどうかは知らないが(笑)。何を言っているのか理解できないと思うが、本当はそうじゃないのにそういうふうに見られてしまうのがヤダなぁということである(笑)。これも日常生活でよくあることか。しゃーないな。