今日もずっと部屋の中にいた。朝起きたら雪が積もっていた。雪が太陽の光に反射してかなり明るくなる。カーテンをしないで寝ているので、その明るさでいつも起きるのだ。今週はあまり晴れないという予報なので、少し残念だ。しかし今年最後の大学生活なので、頑張りたい。
「約束の本当の姿
約束は、個人間の契約というだけではない。約束として要求される言葉の裏側にあるものが、約束の本当の中身になるのだ。
たとえば、「明日、5時に会いましょう」という日常的な約束の場合でも、それは5時のビジネスライクな待ち合わせだけを意味していない。
二人の親密な関係、いたわりあい、信頼、これからも続く絆の確認、相手の気遣いなど、たくさんのものが約束されている。それは人間的な誓いとも言えるものだ。」
「待たせるのは不道徳
連絡もなしに人を待たせるのはよくない。マナーや約束の次元だけの問題ではない。待っている間にその人は、あれこれと良からぬ想像をめぐらせ、心配し、次には不快になり、だんだんと憤慨してくるものだ。
つまり、人を待たせるのは、何も使わずにその人を人間的に悪くさせてしまう不道徳きわまりない方法なのだ。」
『ニーチェの言葉』より
私は時間に関しては厳しい方だと思う。早め早めの行動を取ろうとする。なので部屋の時計も5分ないし10分早めている。私の様な早めの行動を取ろうとする人と、時間にルーズな人は言うことが全く変わってくるのだ。私は時間にルーズな人には、もっと早く用意、準備しとけよ、と言いたくなる。逆にルーズな人は私に、何でそんなに早く行くん、と言うのだ。私の兄は時間にルーズだ。一緒にどこかへ行くとき、私はいつも待たされる。例えば映画を観に行くとしよう。結果的には早めの人も、ルーズな人もその映画の上映時間に間に合う。しかし、行く途中で何か起きたらどうだろう。電車が何かの影響で遅れたら、バスが遅れたら、忘れものに気が付き取りに帰ってしまったら。これらのどれかに遭遇してしまったら、ルーズな人はその映画に間に合わないだろう。
なぜこのようなことを書いたかというと、最近私が待たされたり、約束の時間になっても待っている人が来ないということが多いように感じられたからだ。もちろん私も人を待たせてしまうことはある。しかしそれはできるだけ避けたいと思って行動している。5時に待ち合わせをする。これはどういうことを意味しているのか。5時にはもうその約束の場所にいなければならないのだ。5時1分でも5時1秒でも遅刻は遅刻だ。約束を破ったことになる。約束が守れないなら、最初からその約束をするべきでない。
上記に記した言葉は私にとって重要な言葉である。ある人は、ちょっとぐらいいいやんか、という人がいるだろう。しかしそれは私にとってはあり得ないことだ。人を裏切る行為だと思っている。小さな約束でも、それだけ重いものがあると信じている。
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