2011年5月19日木曜日

陸前高田市、花壇の整備

 ボランティアで本格的に活動したのが5日間で、1日目は昨日のブログで買いあたとある建物の側溝のヘドロ出し、2日目、4日目、5日目はある民家の庭の泥出し、3日目は陸前高田市にある小学校、中学校の花壇の整備をした。他の4日間は気仙沼市で活動をした。今日は3日目のことについて書きたい。
 私たちが宿舎で使っているアパートがあるのは一ノ関市で、そこからバスで陸前高田市までは約1時間半くらいかかった。気仙沼市の被害で驚いていた私であったが、陸前高田市はそれを上回るほどの被害であった。見渡す限り何もないのである。あるのは瓦礫の山だけ。ここ陸前高田市は、津波が双方から来て、その二つの波が合流し、さらに強い波となったそうだ。「壊滅状態」の意味がわかった。
 花壇の整備といっても、煉瓦をきれいに並べ、そこに運ばれてきた土を入れる作業である。しかしこれも重労働であった。その花壇がたくさんあり、トラックで土が運ばれてきたのだが、土を多く入れ過ぎたりしてしまい、それを調節するのが大変な作業であった。一輪車を使い何度も往復した。
 この小学校、中学校は高台にあるのだが、それでも津波が押し寄せたという。体育館を観に行けば、「卒業式」と書かれてたのだろうか、その様なプラカードがぶら下がっていた。バスケットボールのゴールもめちゃくちゃであった。教室の窓が割れていて、天井もはぎとられているところもあった。プールにたまっていた水は黒く、瓦礫がたくさんあった。
 昼休みになると、今回も少し遠くまで足を延ばすことにした。ボランティアで作業している人を見かけることはなかった。数台の車が通り過ぎるだけである。本当に何もない。本、人形、靴下、おもちゃ…。生活の破片が残されている。しかしここにそんな生活があったとは想像できない。一体ここで何があったのか。
 私たちが整備した花壇は、6月に個々の児童や生徒達が花を植えるのだそうだ。今回それを見ることはできなかったので残念であったが、その植えられた花を見に、またここに戻ってきたいと思った。子供たちが近くに寄って来てくれた。なんて声をかけたらいいのか…。ただ一緒に笑ってあげることしかできなかった。しかし、子供たちが元気にはしゃいでいる姿を見ると、少し安心した。
 帰り間際に、ここで被災された方の貴重な話を聞くことができた。当時何をしていたのか。目を赤くしながら話をして下さった。その方々の被災された方を見てこう思ったそうだ。「津波を受けるために生きてきたみたいだ」と。最後に言葉をもらった。「人生は楽しく生きて下さい」

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