先日の投稿で友人が教育者になったことを書き、いろんな刺激を与えていろんな情報を与えて自分で悩み考えるようにしないといけないと書いたのだが、それに少し付け足したい。そのときもにも書いたが、ここ最近放送コードが厳しくなってきており、今まで放送できていたものが放送できなくなっている。お前らには悪影響だし、刺激が強すぎるからと言われていて、完全に我々はバカにされているということである。ではなぜこれがダメなのかというと、オトナも子どもも全員お子様扱いされているのである。学校で感想文とか書くときに、先生が喜ぶような感想を書けといっているようなものである。幼児扱いされているひとはバカになってしまうのである。バカになった上に判断力も低下するし、だんだん狭いものの見方しかできなくなってしまう。だからダメなのである。現実や世界で起こっていること、近所で起こっているかもしれない本来なら目を背けたくなることを一瞬でもいいから目を覚まさせるために残酷表現が必要になる。現実の本当のあり方を時々目を覚ます必要があるからだ。だからいいとこばかり見ていてもダメだし、与えていてもダメなのである。そういう表現などに対し、悪影響と決めつけることは絶対にできない。そういうのを見せないからこそ結果的にそっちの方が悪影響である。そしてその表現に対し、良いか悪いか、正しいのか間違いなのか、それを判断するのはその人本人である。そこでしっかり考え、悩まなければならない。子どもにはいいことしか言わない人が多いのではないか。君たちには無限の可能性があると言うが、世の中そういうふうにはできていない。だから正しい教養を身につけなければならないのである。きれいごとだけではない“まとも”な教養である。そしてそれはただ教えてもらうだけの能動的なものではなく、それを燃料としてエンジンを動かさなければならない。これが教養である。平和ボケした、お上から与えてもらった自由にどっぷり浸かり、集団へ同調し、周りと同じことで勘違いした安心感を得て、ただ世間通常一般にいわれる幸福を求め、これが一番だと自分に納得しながら生きていることに対して、これはただ見えないものに脅されながら生きているということを、自分の頭を使って走り回って考えて、それでいいのか、それがいいのか、それを見通せる力を身につけなければならない。なにも頭をつかわず、「こうするものだから」と当たり前かのように行われているすべてのことに、疑問を抱き、考えてほしい。そして自分の答えを見出してほしいのだ。これはもちろん私自身もだ。「なぜ?」すべてはそこから始まるのだ。
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