なにかあるとまた一人で旅に出たいなと思ってしまう。どんなにイヤなことがあっても、一人で見知らぬ街へ行ったとき、その感動というのか安心というのか楽というのかそういう感情になる。それが物凄く落ち着くのである。ここで自分を知っているひとは誰もいないというのもあるだろう。ことばが通じなくても心が通じ合えばそれでいい。それで多くの現地のひとたちに助けられてきた。名もなき友人たちに感謝である。この前はことばでちゃんと発して言わなければならないと言ったが、ことばだけではなく、ちゃんとそれに伴った行動も起こさなければならない。口先だけの人間なんて山ほどいるのだから。取って付けたようなことを言うひともたくさんいるし、コロコロ言うことが変わるひともたくさんいるし、ウソばかり言うひともいるし、上手くひとを転がしてやろうというひともいるし、なにを信じていいのかわからなくなる。そんなときに一人でどこか遠くへ行きたくなる。やっぱり信じきれるのは自分自身だけである。遠くへ行ったとき、自分自身が何者か、そうことが無になるのだ。今まで生きてきて、肩書きがあって、学歴がどうで、こういうところで働いていて、こんな資格を持っていて、・・・とかそういうものが何の意味も持たなくなる。そこではじめて、“自分は一体何者なのか”、そうなるのだ。この問いはどこからくるものではないが、見知らぬ街を一人で歩いていると、涙が頬をつたっているのに気がつくときがある。俺は一体何者なんだ、と自分自身に問いかけているのだ。自分が本当に無力に感じることもある。旅をしているとそういう感情になることがある。旅をして何が一番心に残るかといったら自分が無力だということを痛感することである。しかし、この感情が次の旅に出ようという気持ちを奪うことはない。むしろまた自分が無力だということを知るために、そして自分は一体何者なのかという問いに、答えることはできないが、その問いかけに少しでも真っ直ぐ向き合えるかもしれない、そんな気がしてまた一人でどこか行きたくなるのだ。一体自分はどこへ流れていくのだろうか。ただ流されているだけなのか。流れに逆らうのか。一体自分はどこで終わってしまうのだろうか。確実に私たちは一秒ごとに死に近いていっている。それだけは確かにわかっていることである。自分の人生は自分で切り開いていくものである。他人にどう言われようとも。たとえ結果がどうなろうとも。最下位が負けではない。ダウンしたから負けではない。スタートラインに立たなかったひと、リングに上がらなかったひとが負けなのである。普通がいいと多くのひとはいう。ウォール街のオオカミは言った。
普通なんて誰が望む?
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