今回は『スーパー!』という映画を紹介したいのだが、これもヒーローものの映画である。わかりやすくいえば、『キックアス』は高校生だが、『スーパー!』は中年のオッサンである。この2つの映画はかなり似ているし、公開した年が近いこともあって、よく比較されるのだが、確かに似ているといったら似ているのだが、よく観てみると正反対の映画である。『スーパー!』はコミック版の『キックアス』に近いかもしれない。『スーパー!』はジェームズ・ガン監督で、この監督はもともとB級映画制作会社出身で、殺人鬼、差別、偏見などの普通はコメディに入れてもエッセンス程度に入れる題材を平気でスプラッター要素満載に詰め込んだ作品が見られる。一方『キックアス』のマシュー・ヴォーン監督は、オシャレなクライム映画を得意とし、音楽やテンポ感にセンスがあり、映画版『キックアス』は内容がライトになっているしエンターテイメント性が高められており、バイオレンス描写もそれほど気にならない娯楽性の高い映画となっている。この監督の違いで、『スーパー!』のバイオレンス描写のエグさも、『キックアス』の音楽センスとテンポの良さに納得がいく。つまり監督の良さが出ている映画である。この『スーパー!』は平凡なオッサンがある日突然スーパーヒーローになって街のチンピラやドラッグディーラーに立ち向かうというストーリーである。主人公は自らを“クリムゾンボルト”と名乗り、映画館で並んでいた列に割り込みしたヤツをレンチで殴ったりと完全に異常者なのだ。主人公の奥さんがドラッグディーラーに奪われ、最後奥さんを助けにいくのだが、観ているこちら側は何が正しいのか、わけがわからなくなってしまう。奥さんを奪ったヤツに言うのだが、ここはいつも涙してしまう。
ドラッグディーラー:「どうするつもりだ?処刑しようってのか?お前だって俺と同じだ!割り込んだヤツを、半殺しにした!」
クリムゾンボルト:「割り込みは悪だ!麻薬売買も悪だ!児童虐待も悪だ!私欲のために人を苦しめるな!遠い昔に定められた不変の掟だ!」
ドラッグディーラー:「俺を殺せば世界が変わるとでもいうのか?」
クリムゾンボルト:「それは僕にもわからない。試してみるまでは。」
そう言って最後はヤツを殺すのである。ここまではっきり言われるとバットマンもスーパーマンもキックアスも敵わないだろう。物凄くジーンときてしまうシーンである。前にも書いたが、正義とはなんだろうか。何をもって正義というのだろうか。自分がやっていることは“まとも”なのだろうか。ただそれを正義と思い込んでいるだけなのだろうか。ただの自己満足にすぎないのだろうか。この映画はそういう答えの出ない問題をお前はどうなんだ?という問いを突きつけてくる。観ていてすごく重くのしかかってくる。観てほしい映画の一本である。
よくネットでは『キックアス』派か『スーパー!』派かと議論になっているが、全く正反対の映画なので、比較が難しいのだが、あえて言うなら私は『キックアス』派である。その理由は映画版でもコミック版でもヒットガールめちゃくちゃカッコいいからである。これは本来の議論から逃げた回答である(笑)。今回は逃げさせてください(笑)。しかし、どちらの映画も私たち自身に訴えかけてくるものがある。もし目の前で愛すべき人が殺されかけていたとき、ただ黙って見ているのか、それとも殺そうとしているヤツを殺すか、この二者択一の選択に迫られたとき、果たして自分はどちらの回答を選ぶのだろうか。自分はどっち側の人間になるのか。そういう究極の問いを叩きつけてくる。今までいろんな友人にここまで具体的に話をしたことはないが、私の性格からの判断で友人から見れば私は後者を選ぶように見えるみたいである。自分がどっちの選択を選ぶかはその状況になってみなければわからないが、愛すべきものを奪われてまで、自分自身がこの先生きていく意味、価値があるのだろうか、そういうのを考えてしまう。それも生きてみないとわからないのだが、そこで私は頭を抱えてしまう。この先は私自身もまだわからない。一生答えが出ないかもしれない。答えがないかもしれない。でも、考え続ける意味、価値はある。
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