2017年8月29日火曜日

友人が教育者に

8月に入ってから仕事が朝一から閉店までと通しの日がほとんどで、仕事が終わって帰るときは、前にも言ったが頭が痺れるのである。この表現が正しいのかわからないが、そういう感覚がある。まあこれくらいのレベルであれば全く問題ないのだが、とりあえず疲れるのは疲れる。ゆっくりできるときはゆっくりしていたい。
 昨日の投稿で思い出したのだが、昨日ロボット人間と書いたが、先日自分の夢を叶えた友人がいて、その友人の夢は教師になるということで、その友人とLINEしていたのである。今年の春から教鞭を振るうことになり、先日LINEで久しぶりの連絡をもらったのである。毎日大変そうだが、何よりも元気そうで安心したのである。勉強を教えるだけでなく、部活の引率でいろんなところへ行ったりしており、本当にすごいと思った。LINEでのやり取りは我らが長渕剛の歌詞の引用をして、あたかも自分が考えたかのように発言するので、知っている人が見たらただの歌詞棒読みなだけである(笑)。やはり学校というのは大変なことが多いみたいである。勉強や部活だけでなく、問題を起こす生徒ももちろんいるみたいだ。いないところが不思議かもしれない。学校、クラスという枠組みの中で、やはり上下関係であったり、イジメもあったり、弱肉強食のような状況が生まれてしまうのはこれは人間だから仕方がないといったら仕方ないのかもしれない。もしそういう事態になったとき、私ならば生徒たちになんて声をかけるだろうか。これは本当に難しい問題である。その友人にも伝えたことだが、子どもといえど一人の人間である。そして教師も一人の人間である。生徒それぞれに意見があり、思いがあり、考えがある。そしてそれが正しいとか間違いとか答えとかではなく、あくまで一人の人間として認めてあげることが大切なのではと。それがそのクラスの先頭に立つ教師の役目なのではないかと思うのである。ただ怒るだけとか指導するという一方通行ではなく、自ら考え、悩み、そして自分の答えを出す。これは私自身にも言えることだが、とにかく自分自身で考えないといけないということである。先生がそう言ったから、親がそう言ったから、先輩がそう言ったから、これではロボット人間になってしまう。アイヒマンというかつてドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った人物であるが、イスラエルで行われた裁判で、アイヒマンは「言われたことをやっただけです」と胸を張ったが、世界は「言われたからやった」というだけで、どれだけ人間が残酷になれるのかを知って衝撃を受けた。それだったら、自分で考えてやったことだ、と思えた方がまだマシである。宗教や権力者、神や仏、法律、上に立つもの、なんでもいいが、やれと言われたからやる、やるなと言われたからやらない、これではロボット人間に成り果ててしまう。単純な理由を示して、だからいい、だからダメと言ってくれた方が自分で考えなくてすむので、ラクかもしれない。しかし、あとになってそれがとんでもないことになっているというのは歴史上何度も起こっている。前にも書いたが、ホロコーストはある意味、人間の“可能性”を見せてしまったのである。だからどんなときでも、どんな状況でも自分で考えて、行動しなければならない。それの訓練を若いときから学んでほしいと思っているのである。そして、物事を判断させるときに、単純な刺激、一方通行の刺激、安全圏の刺激だけを与えて物事を判断させるのはそれはよくないというのか間違いなのではないかと思っている。判断させる要因は本当にいろんな情報があって初めて自分で考えて判断するものである。本当は10の情報があるのに3くらいの情報を与えて考えさせたり、判断させたりするのはおかしい話である。そういう状況でまともな判断ができるわけがない。もちろんオトナレベルのヤバイ映像を持ってきて、生徒たちに叩きつけるのはそれはやり過ぎだが、10あるうちの6くらいの情報は与えてもいいのではないか。もちろんギリギリのラインまでである。これは私たち大人にも言える話である。最近放送コードというのかはからないが、どんどん規制が厳しくなってきている。おそらくこのままいけばそういったものの放送や表現の規制の法律ができるだろう。これはお偉いさん方が、君らにはこういった映像は悪影響だから見ない方がいい、と勝手に決め付けて、勝手に規制している。つまり我々はお子さま扱いされているということである。例えばバイオレンス描写、残酷表現、エログロであったり、いろいろある。そもそもそれを悪い影響とかいい影響とか誰が決めるんだ。そういった表現を一切見せずに成長していったときに、いつかはその表現に直面するときが必ずやってくる。そのときに、あのときに勉強したやつだと知っていれば、そこから自分で考えて判断していく。そういったものを知らずに成長させてしまうと脳がパニクってクラッシュしてしまう。白いもの、白い側ばかり教えたり、育てていると一瞬にして黒になる可能性がでてくる。何度も言っているが、自分に残酷なところ、汚いところがないと最初から思い込んでいるひとは一番危険な存在である。人間には本質的に絶対そういうところがあるのだから、そう思っていないひとは怖いと思う。自分もやってしまうんだよってことをいつも考えておかないと危険であるということである。自分たちにもそういった残酷なところ、悪いところ、あるよな、と若い時期から少しずつでいいので、そういった刺激を与えて、そこから物事を考えて判断させるのがいいのではないかと思っている。これはなかなか難しい問題なのだが、そういうのを私は友人に期待しているのである。教師は生徒になにかきっかけや影響などを与えれば、生徒らがもしなにかしら興味を持てば、勝手に自ら何かを始めていくものである。勉強も同じである。やらされているうちはダメである。「なぜ?」と思えば自分で学ぼうとする。それが勉強というものである。生徒と一緒に学んでお互いに成長していってほしいものである。私の友人は“教育”というステージのスタートを切ったばかりである。

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