月曜日の朝青森に戻ってきたが、今日また東京に行く。もう行ったり来たりで大変大変。青森はもう雪が積もっている。かなり寒い。もう冬が来てしまったのだ。うんざりするところではあるが、雪をも溶かすくらいの勢いでやるしかない。気合を入れていこう。“Heavenはそう遠くない。日々近づいている”のだから。
就活生の中ではかなりの移動距離だと思う。この前までは、おそらく10本の指に入るだろうと言っていたが、今は5本の指に入るだろう。それくらい移動している。すべてが終わったら、どれくらい移動したのかを計算してみよう。
東京にいるときに、NHKの番組で「しあわせな就活」という番組を夜中にしていたので、それを観たのだ。東京の大学生で女性なのだが、秋になっても内定が決まらないという話だ。結果的には決まってめでたしめでたしという内容だったが、確かに苦労していた。その気持ちは痛いほどわかる。靴は3足目らしい。私の靴もかかとがかなりすり減っていて、そろそろ修理に出さないといけない。
働く気がなかった企業から内定をもらったが、罪悪感を感じて内定を断り、やっぱり自分が進みたい仕事を探し続けてやっともらえた内定だった。本当にうれしそうな顔をしていて、私もそれを見て嬉しくなる。内定をもらう前のインタビューでは、「もう地獄ですよ」、「内定ほしいんですよ」、「頭がぐちゃぐちゃ」と言っていた。まさに今の私。でも内定が決まった時の言葉は、「春に決まった人には絶対に負けません」だった。
私の理想郷への道はまだまだ遠い。周りが自分の時間を楽しんでいる中で、私はひたすら理想郷を探している。この理想郷は就活に限ったことではない。私は探し続けるだろう。自分に問い続けるだろう。悩むのが人間。悩んで悩んで、強くなる。笑われて笑われて、強くなる。
そういえばこの前のブログで受験生に送った言葉があったが、あれは私が浪人生の時にお世話になった倫理の先生の言葉である。この先生は倫理だけではなく、世界史も担当していた。世界史の受験生には違う言葉を送っていた。それを今度はもう一度私自身に送りたい。
“アルカディアの道を急げ!!”
日々の生活の中で、感じたこと、考えたこと、思ったことをテキトーにくだらない感じで書いているブログである。ブログタイトルは映画『キングスマン』の1シーンからパクって今までのタイトルと合わせたものである。 コメントを投稿していただいた方の返答はそのコメントの下に書かせていただいております。返答はコメントのところをご覧下さい。
2012年11月27日火曜日
2012年11月19日月曜日
世界史チーム招集
明日からまた東京に行く。毎週火曜日に教職課程の授業があるため、それに出席しなければならない。その一つの授業のために青森まで戻っている。周りの人はもうほとんど就活が終わっているため、自分のことに時間を費やしているだろう。うらやましい限りだ。まあ、人は人、自分は自分だ。私は東京、大阪を何度も行っているので、周りの人からしてみれば私は羨ましがられているのかもしれない。もう東京に行っても新鮮さもないし、どこどこで遊ぼうという気も起らない。大阪は生まれ育った場所なので、行きたいとかそういう次元じゃない。大阪の周りの京都や神戸ももう何度も行っている。というかいつでも行ける。おっと、そんなこと考える前に就職活動をしよう。
12月1日に私が浪人していたときの世界史の先生が、今までの教え子たちを招集するというのを知った。場所は京都、北野天満宮。きた!きたきたきた!と思ったのだが、私はおそらく就職活動だろう。この招集は4年に1回ある。今回は生徒から提案したらしく、それではやろうということになったらしい。参加条件は一度でもこの先生の授業を受けたことのある人だ。
この前はフランスのパリ、ルーブル美術館集合であった。もちろん行ける人だけだが。その前はカンボジアのアンコールワットに集合であった。なんてスケールのでかい夢の詰まった企画なのだろう。私も行きたかったのだが予定が合わず、残念であった。時間があれば個人的に会いに行こうと思っている。先生も私のことは忘れてしまっているかもしれないが(笑)。
アメリカ一人旅でニューヨークとワシントンD.C.を訪れたが、まだ行かなければならないところ、やりたいことがたくさんある。連邦準備銀行の金塊を見なければならない。ミュージカルのスパイダーマンを見なければならない。ハーレムのゴスペルツアーに参加しなければならない・・・・・。いろいろあるが、そしてもう一度ホロコースト記念博物館に行きたいのだ。
この世で最も非人道的な出来事として歴史に残っているホロコースト。前にも述べたが、この博物館に行くためだけにアメリカに行く価値はある。広島の原爆ドームよりもはるかに恐ろしい博物館である。会話すらできない場所だ。このような歴史があったというのは、なかなか信じることができない。しかし、その悲惨な歴史を直視しなければならないのがここを訪れた者の義務だ。
なぜ歴史を学ぶのか。それは様々な理由がある。過去のことなんてどうでもいいという人もいる。科学の発展を優先する人もいるだろう。歴史は何のために学ぶのか。それは同じ過去を繰り返さないためである。歴史が教訓として教えてくれている。先日のアメリカ大統領選挙で負けたロムニー氏は戦争擁護であった。もちろん最終手段としてだが。戦争という言葉を聞くとあのホロコーストのシーンがよみがえるのだ。あれを見れば誰もが戦争の悲惨さを理解できる。歴史は決して繰り返してはならないのだ。
この歴史を学ぶ大切さを浪人時代の世界史の先生に教わったことだ。浪人時代にこのホロコースト記念博物館のことを先生に知っているか尋ねたら知らないというので、今度お会いできた時には私が先生に話をしたいと思う。
12月1日に私が浪人していたときの世界史の先生が、今までの教え子たちを招集するというのを知った。場所は京都、北野天満宮。きた!きたきたきた!と思ったのだが、私はおそらく就職活動だろう。この招集は4年に1回ある。今回は生徒から提案したらしく、それではやろうということになったらしい。参加条件は一度でもこの先生の授業を受けたことのある人だ。
この前はフランスのパリ、ルーブル美術館集合であった。もちろん行ける人だけだが。その前はカンボジアのアンコールワットに集合であった。なんてスケールのでかい夢の詰まった企画なのだろう。私も行きたかったのだが予定が合わず、残念であった。時間があれば個人的に会いに行こうと思っている。先生も私のことは忘れてしまっているかもしれないが(笑)。
アメリカ一人旅でニューヨークとワシントンD.C.を訪れたが、まだ行かなければならないところ、やりたいことがたくさんある。連邦準備銀行の金塊を見なければならない。ミュージカルのスパイダーマンを見なければならない。ハーレムのゴスペルツアーに参加しなければならない・・・・・。いろいろあるが、そしてもう一度ホロコースト記念博物館に行きたいのだ。
この世で最も非人道的な出来事として歴史に残っているホロコースト。前にも述べたが、この博物館に行くためだけにアメリカに行く価値はある。広島の原爆ドームよりもはるかに恐ろしい博物館である。会話すらできない場所だ。このような歴史があったというのは、なかなか信じることができない。しかし、その悲惨な歴史を直視しなければならないのがここを訪れた者の義務だ。
なぜ歴史を学ぶのか。それは様々な理由がある。過去のことなんてどうでもいいという人もいる。科学の発展を優先する人もいるだろう。歴史は何のために学ぶのか。それは同じ過去を繰り返さないためである。歴史が教訓として教えてくれている。先日のアメリカ大統領選挙で負けたロムニー氏は戦争擁護であった。もちろん最終手段としてだが。戦争という言葉を聞くとあのホロコーストのシーンがよみがえるのだ。あれを見れば誰もが戦争の悲惨さを理解できる。歴史は決して繰り返してはならないのだ。
この歴史を学ぶ大切さを浪人時代の世界史の先生に教わったことだ。浪人時代にこのホロコースト記念博物館のことを先生に知っているか尋ねたら知らないというので、今度お会いできた時には私が先生に話をしたいと思う。
これからも続くであろう友達
このブログではいろいろなことを書いてきた。まあ、ほとんど自分のことだが(笑)。同じことを何度も書くこともあるし、あの時はこう言ったが今はこう考えるといった考えの変化もある。背骨であったり、軸となるところは変えていないつもりだ。あくまで自分の考えであり、自分の考えを押しつけるつもりなど毛頭ない。周りの人とは違った考えや変わった考えをしているかもしれない。「頭おかしいンとちゃう」と言われても仕方がないかもしれない。自分自身のことについて自問自答し、葛藤している。死ぬまで自分に問い続けるだろう。それがいい。それが私なのだから。
私は好き嫌いが激しい方かもしれない。好きなことはとことん好きになるし、嫌いなことははじめっからやらないし、興味のないことは続かない。初めは興味がなかったが、人に紹介されて好きになることはあるが。これは人付き合いにも表れている。世の中、好きな人や嫌いな人、合う人や合わない人、面白い人や面白くない人、挙げたらキリがないがいろいろな人がいる。世の中すべてのひとを好きになればこれは素晴らしいことだが、人間関係はそうはいかないだろう。中には嫌いな人なんて一人も存在しないという人がいるかもしれない。それは私も見習いたい。しかし、それは私にはできそうもない。中には、言葉は悪いが嫌われたくないから「いい人ぶる」人もいるだろう。それはそれで結構だ。周りから好かれようと努力しているのだから。
あまり使っていないのだが、FaceBookをやっている。友達になろうと私に申請してくれる人がいる。なんて嬉しい話なんだ。私と友達になってくれるのか、ありがとう。とそこから親交が深まればいいのだが、私の場合、そうはならない。今まであまり話をしたことがない人から友達申請が来ることがある。嬉しいことはうれしいのだが、なぜ友達になる必要があるのかがわからない。自分が今何をしているのか、今日はこんなことがあったなどと、投稿するが、今まで話をしたことがない人のことなど興味を示すだろうか。私がこんなことをしました、と投稿してもその人は全く興味がないだろう。だから何なんだよっていう感じだろう。友達が何百人という人がいるが、私はそこまで増えることはないと思う。増えたとしても、本当に興味を持って投稿を見るのは数十人くらいだろう。
中学校の友達でいまだに親交があるのは一人、高校でも一人だ。たまに連絡するのはいるが、仲が良いレベルではない。当時はこれからも続くであろう一生の友達と思えていた人も、自然と離れていくことがある。それは仕方のないことなのかもしれない。これは悲しいことなのかもしれない。しかし、私はそれでいいと思う。自然に残る友達がいるから。自然とこれからも親交が続いて行く友達がいるから。まあ、中学校で一人といったが、新たに連絡を取り合って一生の友達になるかもしれないから現時点での話だ。
私にメールをくれたり電話をくれたりするのはめちゃくちゃうれしい。「就活はどう。また東京に来た時は一緒にメシでも行こう」と言ってくれた友達がいた。「来週大阪に行くが、大阪いるか」と尋ねてくれた友達がいた。私がこのブログで紹介した本を買ってくれてそれを報告してくれた友達がいた。今日はそんな友達からの連絡があり、こんな私にもこんなにも素晴らしい友達がいるのだなと嬉しかった。
大学を卒業した後、大学で出会った友達は何人もいるが、どれくらいの友達がこれからも続いて行くのか。先ほども述べたが、それは自然に決まるものだ。しかし、できるだけ多くの友達がこれからも続いていくであろう友達になってほしいと今は願うばかりである。
私は好き嫌いが激しい方かもしれない。好きなことはとことん好きになるし、嫌いなことははじめっからやらないし、興味のないことは続かない。初めは興味がなかったが、人に紹介されて好きになることはあるが。これは人付き合いにも表れている。世の中、好きな人や嫌いな人、合う人や合わない人、面白い人や面白くない人、挙げたらキリがないがいろいろな人がいる。世の中すべてのひとを好きになればこれは素晴らしいことだが、人間関係はそうはいかないだろう。中には嫌いな人なんて一人も存在しないという人がいるかもしれない。それは私も見習いたい。しかし、それは私にはできそうもない。中には、言葉は悪いが嫌われたくないから「いい人ぶる」人もいるだろう。それはそれで結構だ。周りから好かれようと努力しているのだから。
あまり使っていないのだが、FaceBookをやっている。友達になろうと私に申請してくれる人がいる。なんて嬉しい話なんだ。私と友達になってくれるのか、ありがとう。とそこから親交が深まればいいのだが、私の場合、そうはならない。今まであまり話をしたことがない人から友達申請が来ることがある。嬉しいことはうれしいのだが、なぜ友達になる必要があるのかがわからない。自分が今何をしているのか、今日はこんなことがあったなどと、投稿するが、今まで話をしたことがない人のことなど興味を示すだろうか。私がこんなことをしました、と投稿してもその人は全く興味がないだろう。だから何なんだよっていう感じだろう。友達が何百人という人がいるが、私はそこまで増えることはないと思う。増えたとしても、本当に興味を持って投稿を見るのは数十人くらいだろう。
中学校の友達でいまだに親交があるのは一人、高校でも一人だ。たまに連絡するのはいるが、仲が良いレベルではない。当時はこれからも続くであろう一生の友達と思えていた人も、自然と離れていくことがある。それは仕方のないことなのかもしれない。これは悲しいことなのかもしれない。しかし、私はそれでいいと思う。自然に残る友達がいるから。自然とこれからも親交が続いて行く友達がいるから。まあ、中学校で一人といったが、新たに連絡を取り合って一生の友達になるかもしれないから現時点での話だ。
私にメールをくれたり電話をくれたりするのはめちゃくちゃうれしい。「就活はどう。また東京に来た時は一緒にメシでも行こう」と言ってくれた友達がいた。「来週大阪に行くが、大阪いるか」と尋ねてくれた友達がいた。私がこのブログで紹介した本を買ってくれてそれを報告してくれた友達がいた。今日はそんな友達からの連絡があり、こんな私にもこんなにも素晴らしい友達がいるのだなと嬉しかった。
大学を卒業した後、大学で出会った友達は何人もいるが、どれくらいの友達がこれからも続いて行くのか。先ほども述べたが、それは自然に決まるものだ。しかし、できるだけ多くの友達がこれからも続いていくであろう友達になってほしいと今は願うばかりである。
2012年11月18日日曜日
核なき世界の実現困難
今日の朝、東京から戻ってきた。青森駅前に夜行バスが到着し、バスを降りた時は寒くてびっくりするくらいであった。そして、さらにバスに乗り、下宿に戻ると今度は雪が降ってきた。もう雪が降る季節となってしまった。勘弁してほしい。といっても11月も後半に入る。また厳しい冬がやってくるのか。
先週の金曜日、就活で東京にいたが、昼から新宿で2社回らなければならなかった。2社目が夜の7時から9時までの予定であったが、終わったのは10時半だった。そして泊まっている友達の家に着いたのは12時半であった。もうくたくたである。文句を言える立場ではないが・・・。
先日のブログで、オバマ大統領の「核なき世界」に期待することを述べた。しかし先週の土曜日、
日本維新の会の橋本氏が核なき世界実現不可能、もっと現実的な政策を、というスピーチを広島で行っていた。私はこれを聞いて、怒りを覚えたかというとそうでもない。ある意味納得する自分がいる。核の傘下により平和が保たれているのが現状である。核なき世界を望むのはおそらく誰しもが望んでいるだろう。だが、願うのと実行するのとは話が違う。願望だけでは達成されないのが現実だ。アメリカが率先して核を減らしていったとしても、アメリカを敵視する国は核を減らすことはないのではないか。
橋本氏が語っていたが、日本は平和ボケし過ぎていると。確かに日本は平和な国である。単一民族国家を気取っているが、異文化を理解するのには取り除かなければならない課題だ。島国根性などそんなくだらないプライドは捨てたほうがいい。昔に比べ世界は身近な存在になったが、まだまだ日本はこの感覚に鈍い。もちろん私もそうだ。ハーバード白熱教室を知っているだろうか。マイケル・サンデル教授の授業だ。この授業では哲学を学ぶのだが、学生間同士の議論の中で、しばしば差別問題が出てくる。この前見た時は黒人差別の話が出てきていたが、日本ではまずあり得ない。日本でも差別はあるにはある。アイヌ民族であったり、琉球であったり。しかし、潜在意識としてアメリカには存在しているから、これは敏感に反応する問題だろう。
核なき世界を実現してほしいが、核がないのも心配ということだ。必ずどこかの国が隠し持っている。核で攻めてきたとき、対抗手段がなくなるのは心配な気もする。どちらがいいのかはそれぞれの考えがあるが、答えが出ない問題を考えるのは自分の考えをしっかりと持っておく必要がある。
先週の金曜日、就活で東京にいたが、昼から新宿で2社回らなければならなかった。2社目が夜の7時から9時までの予定であったが、終わったのは10時半だった。そして泊まっている友達の家に着いたのは12時半であった。もうくたくたである。文句を言える立場ではないが・・・。
先日のブログで、オバマ大統領の「核なき世界」に期待することを述べた。しかし先週の土曜日、
日本維新の会の橋本氏が核なき世界実現不可能、もっと現実的な政策を、というスピーチを広島で行っていた。私はこれを聞いて、怒りを覚えたかというとそうでもない。ある意味納得する自分がいる。核の傘下により平和が保たれているのが現状である。核なき世界を望むのはおそらく誰しもが望んでいるだろう。だが、願うのと実行するのとは話が違う。願望だけでは達成されないのが現実だ。アメリカが率先して核を減らしていったとしても、アメリカを敵視する国は核を減らすことはないのではないか。
橋本氏が語っていたが、日本は平和ボケし過ぎていると。確かに日本は平和な国である。単一民族国家を気取っているが、異文化を理解するのには取り除かなければならない課題だ。島国根性などそんなくだらないプライドは捨てたほうがいい。昔に比べ世界は身近な存在になったが、まだまだ日本はこの感覚に鈍い。もちろん私もそうだ。ハーバード白熱教室を知っているだろうか。マイケル・サンデル教授の授業だ。この授業では哲学を学ぶのだが、学生間同士の議論の中で、しばしば差別問題が出てくる。この前見た時は黒人差別の話が出てきていたが、日本ではまずあり得ない。日本でも差別はあるにはある。アイヌ民族であったり、琉球であったり。しかし、潜在意識としてアメリカには存在しているから、これは敏感に反応する問題だろう。
核なき世界を実現してほしいが、核がないのも心配ということだ。必ずどこかの国が隠し持っている。核で攻めてきたとき、対抗手段がなくなるのは心配な気もする。どちらがいいのかはそれぞれの考えがあるが、答えが出ない問題を考えるのは自分の考えをしっかりと持っておく必要がある。
2012年11月13日火曜日
退屈なのは、世界か、自分か
またまた日付が変わってしまったが、今日からまた東京に行ってくる。日曜日に帰ってくる予定だ。今日はその履歴書を書きまくっていた。いったい何枚書いてきたであろうか。一枚書くのもなかなか大変な作業である。
今日から教職の授業が始まる。これで落としてしまえば今までの4年間の教職課程の苦労がパーになってしまう。4回しかないので、欠席してしまうと危ない。できるだけ火曜日には就活を入れないようにしなければ。ゼミの卒論もまだまだこれからというところなのだが、私のゼミは最低レポート用紙50枚は書かないといけない。友人が言っている他のゼミは20枚程度でいいらしいが、それの倍以上だ。教授によって基準はバラバラなので文句はあまり言えないが、早くそれにも重点を置いて取り掛かりたいところだが、そう簡単にはいかないようだ。
『僕が旅に出る理由』という本があるのだが、これは東京に友人に紹介をしてもらった本なのだが、これはかなりオススメの本である。この国を飛び出した100人の学生のそれぞれの旅の話だ。これから旅をしようとしている人、そして迷っている人には是非とも読んでいただきたい一冊である。
彼らたちが旅に出た理由がいい。いくつか紹介しよう。「できないと決め付けてしまう自分から抜け出すため」、「誰も自分のことを知らない場所で、自分を試してみたかったから」、「残りの学生の時間を授業なんかで失いたくなかった」、「毎日、なんだか惰性で生きている感じがしていたから」、「それまで頑張ってきた部活も学業も、狭い社会の中でのこと。そんな自分のことを青っちょろいと感じていた」、などなど。そしてどんな旅だったのか、旅とはなんなのかも記されている。自分としてはこの本をあまり読みたくない。なぜなら猛烈に旅に行きたくなるからだ。
女性の一人旅もたくさんいた。「いい女になりたかったから」というのを読んだとき、そう思った瞬間からこの人は「いい女」だと思う。「行きたい」と「行く」のは全く違う。なかなかその壁は厚いかもしれない。いくと決心した時、もうそこから旅は始まっている。どこに行くのか、何を持っていくのか、準備するものは・・・。
私の場合、初めて海外に行った時は一人であった。楽しみという気持ちよりも不安な方がはるかに大きかった。旅立つ前、母もそれを察していたのか、母の言葉は「頑張ってきいや」であった。それは今でも鮮明に覚えている。そして空港到着前、飛行機からアメリカの大陸が見えた時、「来てしまった」という感情だった。ただ全てに身を任せるだけだった。右も左もわからない、いや、右でも左でもいいんだ。自分の進みたい道に行けばいいんだ。なぜなら一人だから。
おそらくまた旅に行くだろう。旅立つ前の気持ちはやはり不安なんだろう。私が旅に出た理由はいくつかある。「自分の居場所が見つけられなかったから」、「Made in Japanのこの脳みそをぶち壊したかったから」、「かっこいいと言われたかったから」、そんな理由だ。
この本が言っている。退屈なのは世界なのか。それとも自分自身なのか。その答えは旅に出たらわかるのだろう。学生でもう一度、どこか行ってみたい。
「退屈な時間の中で
満足しないままの自分でいるより、
世界へ、一歩飛び出して
いい方向になるのか、悪い方向になるのか、わからなくても
変われた方がきっと、マシだ。」
今日から教職の授業が始まる。これで落としてしまえば今までの4年間の教職課程の苦労がパーになってしまう。4回しかないので、欠席してしまうと危ない。できるだけ火曜日には就活を入れないようにしなければ。ゼミの卒論もまだまだこれからというところなのだが、私のゼミは最低レポート用紙50枚は書かないといけない。友人が言っている他のゼミは20枚程度でいいらしいが、それの倍以上だ。教授によって基準はバラバラなので文句はあまり言えないが、早くそれにも重点を置いて取り掛かりたいところだが、そう簡単にはいかないようだ。
『僕が旅に出る理由』という本があるのだが、これは東京に友人に紹介をしてもらった本なのだが、これはかなりオススメの本である。この国を飛び出した100人の学生のそれぞれの旅の話だ。これから旅をしようとしている人、そして迷っている人には是非とも読んでいただきたい一冊である。
彼らたちが旅に出た理由がいい。いくつか紹介しよう。「できないと決め付けてしまう自分から抜け出すため」、「誰も自分のことを知らない場所で、自分を試してみたかったから」、「残りの学生の時間を授業なんかで失いたくなかった」、「毎日、なんだか惰性で生きている感じがしていたから」、「それまで頑張ってきた部活も学業も、狭い社会の中でのこと。そんな自分のことを青っちょろいと感じていた」、などなど。そしてどんな旅だったのか、旅とはなんなのかも記されている。自分としてはこの本をあまり読みたくない。なぜなら猛烈に旅に行きたくなるからだ。
女性の一人旅もたくさんいた。「いい女になりたかったから」というのを読んだとき、そう思った瞬間からこの人は「いい女」だと思う。「行きたい」と「行く」のは全く違う。なかなかその壁は厚いかもしれない。いくと決心した時、もうそこから旅は始まっている。どこに行くのか、何を持っていくのか、準備するものは・・・。
私の場合、初めて海外に行った時は一人であった。楽しみという気持ちよりも不安な方がはるかに大きかった。旅立つ前、母もそれを察していたのか、母の言葉は「頑張ってきいや」であった。それは今でも鮮明に覚えている。そして空港到着前、飛行機からアメリカの大陸が見えた時、「来てしまった」という感情だった。ただ全てに身を任せるだけだった。右も左もわからない、いや、右でも左でもいいんだ。自分の進みたい道に行けばいいんだ。なぜなら一人だから。
おそらくまた旅に行くだろう。旅立つ前の気持ちはやはり不安なんだろう。私が旅に出た理由はいくつかある。「自分の居場所が見つけられなかったから」、「Made in Japanのこの脳みそをぶち壊したかったから」、「かっこいいと言われたかったから」、そんな理由だ。
この本が言っている。退屈なのは世界なのか。それとも自分自身なのか。その答えは旅に出たらわかるのだろう。学生でもう一度、どこか行ってみたい。
「退屈な時間の中で
満足しないままの自分でいるより、
世界へ、一歩飛び出して
いい方向になるのか、悪い方向になるのか、わからなくても
変われた方がきっと、マシだ。」
2012年11月12日月曜日
一般入試が「美しい」
日付が変わってしまったが、日曜日の青森は久しぶりに晴れた。火曜日の夜にまた東京に行かなければならないので、そのバスのお金を払いに行かなくてはならず、その幼児のためだけに山を下りた。コンビニで支払うのだが、コンビニに行くのに10分もかからないが、帰るのが面倒であった。風が強かったがそれほど寒くもなかったので、気持ちよかった。
今の受験のシーズンや流れ、ピークといったものが私が受験生だった頃とどれほど変わったかわからないが、受験は始まっているらしい。この時期だと公募かAOか推薦かのどれかであろう。教育実習で受験生を持った私としては、この「受験」というのがどうも気になるというかこだわってしまうというか特別な思いになるのだ。浪人を経験しているかなおさらその思いが強いのだろう。
私は今まで、高校受験、大学受験は一般入試で通ってきた。これは結果であって、推薦や公募を受けた経験はある。結果は全て落ちたが。だが、私はどうしても一般入試にこだわってしまうのだ。
「大学は入ったモン勝ち」、という考えがある。その通りかもしれない。一般で入ろうが、推薦で入ろうが、AOで入ろうが、結果は同じである。一般以外は決まる時期が早く、年内に結果が出る。一般以外の試験は論文であったり、面接であったり、詳しくはわからないが、それはそれの対策をしなければならない。一般とそれ以外とでは学力的に差が出るという話があるが、それは今回は置いておこう。推薦で合格する人は、その大学が自分の大学に入学するのにふさわしいと認めたのであるから、それから考えれば学力的には差はないのであろう。年内に決まる推薦とは違って一般は年が明けてから3月まで受験が続く。私としては「受験戦争」というのを体験して欲しいと考えている。この受験戦争というのは一般入試のことを述べている。
9月に教育実習に行った母校の文化祭があったのだが、そこで私が受け持ったクラスの一人の生徒の保護者の方と会った。その方とは教育実習中の体育祭で私に話をかけて下さり、その時以来であったが、私のことを覚えていてくださった。そこで受験の話になった。生徒は悩んでいて私も相談にのったことがある。その保護者の方は一般で受けて欲しいとのことで、「先生からもビシッと言ってやってください(笑)」と言われ、私もそのほうがいいのではないかと考えている。
私が高校時代の時に担任ではないが、隣のクラスの先生なのだが(かなりお世話になった)、その先生も一般入試をすすめていた。その方が「美しい」というのだ。その先生のこの表現はまさに私が言いたいことピッタリである。最後の最後まで戦い続ける約3ヶ月間の一般入試の方が、人生においても貴重な経験となるからである。戦い抜く力が養われるのではないか。
そういえば私が浪人していた時、大好きだった先生は3人いるが、そのうちの一人で倫理を教えてもらっていたのだが、センター試験前の最後の授業のあと、先生のところへ行った。この先生の授業は今までで一番興味がそそられる大変面白い授業であったので、私は毎回一番前の席に座って先生が話をすることすべてをメモに取るくらい熱心に聞いていたのを覚えている。その先生から最後に一言書いてもらおうと思い、ノートを持っていったのだ。そして書いてもらった言葉がこれだ。この言葉は倫理を学んだ人にはわかるだろう。そして私も今の受験生に同じ言葉を送りたい。
『「目的の王国」の扉は、開いたといえ!!』
今の受験のシーズンや流れ、ピークといったものが私が受験生だった頃とどれほど変わったかわからないが、受験は始まっているらしい。この時期だと公募かAOか推薦かのどれかであろう。教育実習で受験生を持った私としては、この「受験」というのがどうも気になるというかこだわってしまうというか特別な思いになるのだ。浪人を経験しているかなおさらその思いが強いのだろう。
私は今まで、高校受験、大学受験は一般入試で通ってきた。これは結果であって、推薦や公募を受けた経験はある。結果は全て落ちたが。だが、私はどうしても一般入試にこだわってしまうのだ。
「大学は入ったモン勝ち」、という考えがある。その通りかもしれない。一般で入ろうが、推薦で入ろうが、AOで入ろうが、結果は同じである。一般以外は決まる時期が早く、年内に結果が出る。一般以外の試験は論文であったり、面接であったり、詳しくはわからないが、それはそれの対策をしなければならない。一般とそれ以外とでは学力的に差が出るという話があるが、それは今回は置いておこう。推薦で合格する人は、その大学が自分の大学に入学するのにふさわしいと認めたのであるから、それから考えれば学力的には差はないのであろう。年内に決まる推薦とは違って一般は年が明けてから3月まで受験が続く。私としては「受験戦争」というのを体験して欲しいと考えている。この受験戦争というのは一般入試のことを述べている。
9月に教育実習に行った母校の文化祭があったのだが、そこで私が受け持ったクラスの一人の生徒の保護者の方と会った。その方とは教育実習中の体育祭で私に話をかけて下さり、その時以来であったが、私のことを覚えていてくださった。そこで受験の話になった。生徒は悩んでいて私も相談にのったことがある。その保護者の方は一般で受けて欲しいとのことで、「先生からもビシッと言ってやってください(笑)」と言われ、私もそのほうがいいのではないかと考えている。
私が高校時代の時に担任ではないが、隣のクラスの先生なのだが(かなりお世話になった)、その先生も一般入試をすすめていた。その方が「美しい」というのだ。その先生のこの表現はまさに私が言いたいことピッタリである。最後の最後まで戦い続ける約3ヶ月間の一般入試の方が、人生においても貴重な経験となるからである。戦い抜く力が養われるのではないか。
そういえば私が浪人していた時、大好きだった先生は3人いるが、そのうちの一人で倫理を教えてもらっていたのだが、センター試験前の最後の授業のあと、先生のところへ行った。この先生の授業は今までで一番興味がそそられる大変面白い授業であったので、私は毎回一番前の席に座って先生が話をすることすべてをメモに取るくらい熱心に聞いていたのを覚えている。その先生から最後に一言書いてもらおうと思い、ノートを持っていったのだ。そして書いてもらった言葉がこれだ。この言葉は倫理を学んだ人にはわかるだろう。そして私も今の受験生に同じ言葉を送りたい。
『「目的の王国」の扉は、開いたといえ!!』
2012年11月11日日曜日
前厄
今年、私は前厄なのだ。いつか忘れたが、ある神社でそれを目にしたのだ。私は占いとかそういうものはあまり信じないタイプだ。占いに人生左右されたくないという思いから、あまり信じないようにしている。しかし、人間というのはおかしなもので、そういうものを一度目にしてしまうと、それが頭から離れなくなってしまうものだ。「前厄」という文字が頭の中で回っている。
どうも今年は何もかもがうまくいかないような気がしてならない。最近の話で言うと、時計のベルトの部品がどこかで取れてしまったのか、突然付けていた時計が落ちてしまうし、夜行バスに携帯電話を忘れてしまうし、自転車が撤去されてしまうし、・・・etc。夜行バスに忘れた携帯電話はすぐにバス会社に電話してなんとかなった。最近は公衆電話がなかなかないので、携帯電話を二つ持っていてよかったと思う次第だ。自転車が撤去されたのは、15分ほど止めていたあいだに綺麗あっさり持って行かれてしまった。そのへんを探してみたが悪あがき。もうボロ自転車だったので、保管料2500円取られるなら新しいのを買おうかなとも思ったが、今は新しい自転車を買う余裕もない。撤去された自転車は中学生の頃から乗っていて、7000円ほどで手に入れたものだ。ここまできたら愛着がある。走行距離もかなりものだ。そして就職活動だ。これはいつも書いていることなので今回は省かせてもらう。
さすがの私もここまで来たらその「前厄」とやらが気になってくる。今年が前厄ということは来年は厄年。これが前厄なら来年は一体どんなことが起きるのだろうか。恐ろしい。恐ろしいではないか。年が明けて最初に言う言葉は、“Happy New Year!!”ではなく、“UNhappy new year!!”だ。来年私は生きているだろうか。そこが一番心配だ。あずきをたいて皆に配ろうか、お祓いをしてもらおうか。まあなんでもいいが、とにかく今私はビビっている。
前厄だと言ってそのせいにはしたくないものだ。すべて自分次第で防げるものばかりである。自分が少し気をつければいい話だ。もしかしたら来年の厄まで今に来ているのかもしれない。嬉しいような悲しいような。辛いものばかりでもない。悲しいことばかりでもない。苦しいことばかりでもない。今は苦しい章もしれないが、次の章は最高に楽しい章に違いない。そう考えれば、今のこの章も悪くない。
どうも今年は何もかもがうまくいかないような気がしてならない。最近の話で言うと、時計のベルトの部品がどこかで取れてしまったのか、突然付けていた時計が落ちてしまうし、夜行バスに携帯電話を忘れてしまうし、自転車が撤去されてしまうし、・・・etc。夜行バスに忘れた携帯電話はすぐにバス会社に電話してなんとかなった。最近は公衆電話がなかなかないので、携帯電話を二つ持っていてよかったと思う次第だ。自転車が撤去されたのは、15分ほど止めていたあいだに綺麗あっさり持って行かれてしまった。そのへんを探してみたが悪あがき。もうボロ自転車だったので、保管料2500円取られるなら新しいのを買おうかなとも思ったが、今は新しい自転車を買う余裕もない。撤去された自転車は中学生の頃から乗っていて、7000円ほどで手に入れたものだ。ここまできたら愛着がある。走行距離もかなりものだ。そして就職活動だ。これはいつも書いていることなので今回は省かせてもらう。
さすがの私もここまで来たらその「前厄」とやらが気になってくる。今年が前厄ということは来年は厄年。これが前厄なら来年は一体どんなことが起きるのだろうか。恐ろしい。恐ろしいではないか。年が明けて最初に言う言葉は、“Happy New Year!!”ではなく、“UNhappy new year!!”だ。来年私は生きているだろうか。そこが一番心配だ。あずきをたいて皆に配ろうか、お祓いをしてもらおうか。まあなんでもいいが、とにかく今私はビビっている。
前厄だと言ってそのせいにはしたくないものだ。すべて自分次第で防げるものばかりである。自分が少し気をつければいい話だ。もしかしたら来年の厄まで今に来ているのかもしれない。嬉しいような悲しいような。辛いものばかりでもない。悲しいことばかりでもない。苦しいことばかりでもない。今は苦しい章もしれないが、次の章は最高に楽しい章に違いない。そう考えれば、今のこの章も悪くない。
2012年11月10日土曜日
学生とは
最近の青森は雨ばっかりでどこへも行けない。今日は少し太陽が出たが、また雨が降っていた。どこへも行けないというが、晴れたとしてもどこにも行かないだろう。行くところもないし、今はあまり外へは行く気がしない。気分的にすっきりしないというのが今の気分だ。まあ、それはさて置き。
昨日は『桐島、部活やめるってよ』の感想を書いたのだが、今日もその続きと行きたい。この作品の感想ではなく、次の『学生時代にやらなくてもいい20のこと』だ。これはエッセイで、『桐島・・・』とは全く違う雰囲気で、同じ著者が書いたとは思えないくらいの差がある。なんといってもこれは笑いっぱなしの最高に面白い作品であった。本でここまで笑ったのは生まれて初めてだったかもしれない。
昨日も述べたが、若い作者らしい文章表現で、それが読者の心に入って来やすい。題名は、学生がやらなくてもいいこと、とあるが、学生にしかできないことが綴られてあった。学生だからできること、それは時間があることだ。やろうと思えばいつでもできる。気持ちさえあれば。私もこの4年間でいろいろなことをしてきたが、この本を読むと「私もまだまだだな」と感じる。
人生を二つに分けるとしたらどこで区切られるだろうか。いろいろな区切り方があるが、今回は学生と社会人に分けてみよう。学生の期間は大体の人が20過ぎくらいである。そしてそのあとは社会人だ。そう考えてみれば人生のほとんどが社会人ということになる。
東京でお世話になっている友人は社会人である。お酒を飲みながら一緒に話をしていて、いつも議論が白熱するのだが、私は学生の立場で話をしていて、彼は社会人の立場で話をしているので、どうも噛み合わないところが出てくるのだ。それは当然の話で、立場が違うのだから言うことも違う。私は社会人を経験したことがないので、社会人の考えや立場はわからない。彼いわく、「そんな簡単に言わんといてくれ」と。学生は責任においても甘い環境である。私がその甘ちゃんの意見を言っているから彼は気に食わないのだろう。もし逆の立場であったら私も彼と同じことを言うと思う。
社会人になれば全く自分の思い通りにいかないとは言わないが、学生に比べてある程度縛りが出てくるのは確かだろう。そんな簡単に思うようにはいかなくなる。やりたいことも我慢しなければならないことはしょっちゅうだろう。ということは、社会人になってはできないことがあるということだ。そのできないことを学生のうちしたほうがいいのでは。
人生において学生というのは貴重な期間である。教養を広め深め、見識を広げていく。様々な経験をする。とんでもなく馬鹿なことだってできる。それが若さ、学生の特権と言える。学生は甘いというが、限りなく貴重な時間であり、人間形成において最も重要な期間であり、自分の世界を広げられる時間なのだ。もちろんこれはすべて個々人、自分次第である。その東京の友人は高卒で社会人となったため、私が唯一彼に対抗した意見を言えるとしたらここで述べてきたことだろう。
大学の私の友人の一人が来年の1月にオーストラリアのケアンズに1週間ほどホームステイしに行くことになったらしい。「おー、ケアンズか。いいねー。」と私は言ったのだが、最初ケアンズがどこにあるのか全くわからなかった(笑)。オーストラリア大陸の北東岸にある。私がずっと前に話をしたときはアメリカという話であったが、最終的に決まったのがここケアンズだ。パスポートも、クレジットカードも用意できていて、あとは行くだけと準備万端であった。1月は向こうは夏だ。オーストラリアといえばグレートバリアリーフだ。是非とも美しい海を見てきてほしい。私としてはエアーズロックも見たいところだが、ケアンズからかなり遠いから行くことは難しいだろう。日本で考えれば青森から鹿児島に行くくらいかな。わからないが・・・(笑)。ホームステイということでホストファミリーがいろんなところに連れて行ってくれるはずだ。地元の人にしかわからない通なところにも。羨ましい(笑)。
オーストラリアは国旗を見てもわかるようにユニオンジャックが描かれている。イギリスの植民地であったため、話されているのは英語だが、詳しく言えばイギリス英語、ブリティッシュイングリッシュだ。アメリカ英語とどこが違うのか。私が知っている限りでは、一部の発音が違う。例えば“can”は、アメリカ英語だと「キャン」と発音するが、イギリス英語は「カン」と発音する。あと、建物の階の表現の仕方が違う。ここは忘れたので詳しくは書けない。あと、イギリス英語は丁寧な言葉で、アメリカ英語は少しおおらかなところがあるとされ、イギリス英語を話す人はアメリカ英語を少し嫌うところがあるらしい。これは聞いた話なので実際にどうなっているかはわからないが。
とにかく楽しんできて欲しい。一番大切なのはあいさつで、それも握手は重要なコミュニケーションの一つだ。それと、笑顔。
昨日は『桐島、部活やめるってよ』の感想を書いたのだが、今日もその続きと行きたい。この作品の感想ではなく、次の『学生時代にやらなくてもいい20のこと』だ。これはエッセイで、『桐島・・・』とは全く違う雰囲気で、同じ著者が書いたとは思えないくらいの差がある。なんといってもこれは笑いっぱなしの最高に面白い作品であった。本でここまで笑ったのは生まれて初めてだったかもしれない。
昨日も述べたが、若い作者らしい文章表現で、それが読者の心に入って来やすい。題名は、学生がやらなくてもいいこと、とあるが、学生にしかできないことが綴られてあった。学生だからできること、それは時間があることだ。やろうと思えばいつでもできる。気持ちさえあれば。私もこの4年間でいろいろなことをしてきたが、この本を読むと「私もまだまだだな」と感じる。
人生を二つに分けるとしたらどこで区切られるだろうか。いろいろな区切り方があるが、今回は学生と社会人に分けてみよう。学生の期間は大体の人が20過ぎくらいである。そしてそのあとは社会人だ。そう考えてみれば人生のほとんどが社会人ということになる。
東京でお世話になっている友人は社会人である。お酒を飲みながら一緒に話をしていて、いつも議論が白熱するのだが、私は学生の立場で話をしていて、彼は社会人の立場で話をしているので、どうも噛み合わないところが出てくるのだ。それは当然の話で、立場が違うのだから言うことも違う。私は社会人を経験したことがないので、社会人の考えや立場はわからない。彼いわく、「そんな簡単に言わんといてくれ」と。学生は責任においても甘い環境である。私がその甘ちゃんの意見を言っているから彼は気に食わないのだろう。もし逆の立場であったら私も彼と同じことを言うと思う。
社会人になれば全く自分の思い通りにいかないとは言わないが、学生に比べてある程度縛りが出てくるのは確かだろう。そんな簡単に思うようにはいかなくなる。やりたいことも我慢しなければならないことはしょっちゅうだろう。ということは、社会人になってはできないことがあるということだ。そのできないことを学生のうちしたほうがいいのでは。
人生において学生というのは貴重な期間である。教養を広め深め、見識を広げていく。様々な経験をする。とんでもなく馬鹿なことだってできる。それが若さ、学生の特権と言える。学生は甘いというが、限りなく貴重な時間であり、人間形成において最も重要な期間であり、自分の世界を広げられる時間なのだ。もちろんこれはすべて個々人、自分次第である。その東京の友人は高卒で社会人となったため、私が唯一彼に対抗した意見を言えるとしたらここで述べてきたことだろう。
大学の私の友人の一人が来年の1月にオーストラリアのケアンズに1週間ほどホームステイしに行くことになったらしい。「おー、ケアンズか。いいねー。」と私は言ったのだが、最初ケアンズがどこにあるのか全くわからなかった(笑)。オーストラリア大陸の北東岸にある。私がずっと前に話をしたときはアメリカという話であったが、最終的に決まったのがここケアンズだ。パスポートも、クレジットカードも用意できていて、あとは行くだけと準備万端であった。1月は向こうは夏だ。オーストラリアといえばグレートバリアリーフだ。是非とも美しい海を見てきてほしい。私としてはエアーズロックも見たいところだが、ケアンズからかなり遠いから行くことは難しいだろう。日本で考えれば青森から鹿児島に行くくらいかな。わからないが・・・(笑)。ホームステイということでホストファミリーがいろんなところに連れて行ってくれるはずだ。地元の人にしかわからない通なところにも。羨ましい(笑)。
オーストラリアは国旗を見てもわかるようにユニオンジャックが描かれている。イギリスの植民地であったため、話されているのは英語だが、詳しく言えばイギリス英語、ブリティッシュイングリッシュだ。アメリカ英語とどこが違うのか。私が知っている限りでは、一部の発音が違う。例えば“can”は、アメリカ英語だと「キャン」と発音するが、イギリス英語は「カン」と発音する。あと、建物の階の表現の仕方が違う。ここは忘れたので詳しくは書けない。あと、イギリス英語は丁寧な言葉で、アメリカ英語は少しおおらかなところがあるとされ、イギリス英語を話す人はアメリカ英語を少し嫌うところがあるらしい。これは聞いた話なので実際にどうなっているかはわからないが。
とにかく楽しんできて欲しい。一番大切なのはあいさつで、それも握手は重要なコミュニケーションの一つだ。それと、笑顔。
2012年11月9日金曜日
これが人間関係
先日も書いたが、私は大阪で読書をしていた。朝井リョウ氏の本を2冊読んだのだが、『桐島、部活やめるってよ』、『学生がやらなくてもいい20のこと』である。まず、母が『桐島、部活やめるってよ』を読んでいたのだ。映画にもなった作品だが、最初はあまり読む気がしなかった。自分の好きな作家や、興味のある本は迷わず読むのだが、面白いのか、そうではないのか、そこで迷ってしまう。当たりならいいのだが、ハズレの場合もある。しかし、今話題の本は読んでおいたほうがいいだろうと思い、半分母にも勧められながら読んでみた。若い作者ということもあり、今までにない構造で、なかなか面白いではないか。桐島君が部活をやめることにより、周りの生徒に直接的にも間接的にも影響が及んでいく。数名の生徒の視点からストーリーが描かれているのだが、ここで一番すごいと思ったのが、桐島君の視点からはストーリーは全く描かれていないということだ。そこが私としては「やるねー」とついつい笑みがこぼれてしまうところであった。
様々なタイプの高校生が、それぞれの視点で周りを見つめているのだが、これが高校生なのか、そして私もこのような時を過ごしていた、いや、今も過ごしている、そう思った。人のことを羨ましく思ったり、嫉妬したり。時には腹が立ったり。周りは周り、自分は自分と線引きしたつもりでも、それはできないことである。自分にとってはどうでもいい人もいるだろう。今まで全く自分には関係ない人と思っていた人を見ていて、ふと気がつくこともあるだろう。人間社会ではなぜかわからないが、上と下ができる。これは年上と年下という意味ではなく、わかりやすく言えばイケてるやつとイケてないやつだ。イケてるやつが目立ち、イケてないやつは目立たない。イケてるやつが勝者で、イケてないやつが敗者・・・・・。ちょっと待て。これは違うだろ。
世の中にはいろんな人がいる。70億人の人がいれば70億通りの行き方があり、それぞれの人生があり、それぞれの物語があり、それぞれのストーリーがあり、それぞれのドラマがある。それは一人一人に必ずあるもの。テレビに出ている有名人がいい人生なのか。イケてるやつがいい人生を歩んでいるのか。以前このブログでも書いたが、筋書きのないドラマはどこにだって存在している。イケてるやつにも、イケてないやつにも、そして私自身にも。
周りにいろんな人がいて、そしてお互いに何らかの影響を及ぼしながら生きている。たった一人の何気ない行動が水面のように及んでいく。それはイケてるやつにもイケてないやつにも何かを感じさせる。複雑化する人間関係の中に、勝者だの敗者だの、イケてるだのイケてないだの、黒だの白だの、そんなふうに考えるのは少し脇に置いておいたらどうだろうか。
結論として、今回は何が言いたいのかは自分にもわからない(笑)。ただ、生きていくにおいて、単純に考えなければならないところと、そうではなく非常に複雑に入り組んでいるところがあるということである。
様々なタイプの高校生が、それぞれの視点で周りを見つめているのだが、これが高校生なのか、そして私もこのような時を過ごしていた、いや、今も過ごしている、そう思った。人のことを羨ましく思ったり、嫉妬したり。時には腹が立ったり。周りは周り、自分は自分と線引きしたつもりでも、それはできないことである。自分にとってはどうでもいい人もいるだろう。今まで全く自分には関係ない人と思っていた人を見ていて、ふと気がつくこともあるだろう。人間社会ではなぜかわからないが、上と下ができる。これは年上と年下という意味ではなく、わかりやすく言えばイケてるやつとイケてないやつだ。イケてるやつが目立ち、イケてないやつは目立たない。イケてるやつが勝者で、イケてないやつが敗者・・・・・。ちょっと待て。これは違うだろ。
世の中にはいろんな人がいる。70億人の人がいれば70億通りの行き方があり、それぞれの人生があり、それぞれの物語があり、それぞれのストーリーがあり、それぞれのドラマがある。それは一人一人に必ずあるもの。テレビに出ている有名人がいい人生なのか。イケてるやつがいい人生を歩んでいるのか。以前このブログでも書いたが、筋書きのないドラマはどこにだって存在している。イケてるやつにも、イケてないやつにも、そして私自身にも。
周りにいろんな人がいて、そしてお互いに何らかの影響を及ぼしながら生きている。たった一人の何気ない行動が水面のように及んでいく。それはイケてるやつにもイケてないやつにも何かを感じさせる。複雑化する人間関係の中に、勝者だの敗者だの、イケてるだのイケてないだの、黒だの白だの、そんなふうに考えるのは少し脇に置いておいたらどうだろうか。
結論として、今回は何が言いたいのかは自分にもわからない(笑)。ただ、生きていくにおいて、単純に考えなければならないところと、そうではなく非常に複雑に入り組んでいるところがあるということである。
2012年11月8日木曜日
きっと人間だって
私は映画が大好きである。小学生の時から好きになり、今まで洋画を中心に多くの映画を見てきた。その映画が好きになったきっかけの映画がある。それは『ターミネーター2』である。なんだよターミネーターかよ、という人もいるかもしれないが、私は単なるアクション映画ではなく、ヒューマンドラマ、そして人類にとっても必要な映画だと感じているからだ。小学生の時はそこまで深くは考えていなかったが、今改めて見てみると本当に素晴らしい映画だとつくづく思うのだ。
近未来で人類と機械との戦争が起きるのだ。人類抵抗軍のリーダーであるジョン・コナー。そのジョンを抹殺すべく、敵のスカイネットは過去にターミネーターを送り込む。そして少年時代のジョンを守るために人類抵抗軍もターミネーターを送り込む。そしてジョンをめぐる死闘が過去で行われるのだ。ここから先はまだこの映画を見ていない方は読まないほうがいいと思います。少しネタバレになってしまいますから。
ジョンをターミネーターが助けるのだが、これは人間と機械だ。全くの別物といっていい。しかし、人間であるジョンと触れ合っていくうちにこの機械であるターミネーターは徐々に変化していくのだ。人殺しが仕事であるというターミネーター。それは絶対にしてはいけないというジョン。日常生活では使わない言葉をターミネーターは使っていたが、ジョンが言葉を教えていく。そしてジョンと遊ぶターミネーター。少しづつだが機械は人間に近づいている。映画の後半に入るくらいにターミネーターはジョンに質問する。「なぜ人間は泣くのだ」と。心が傷つくってわかる、とジョンはターミネーターに聞くが、わからないと言う。触れ合っていくうちにもはや人間と機械ではなく、この世で最も信頼できる父親の存在となっていた。死闘を終え、ターミネーターは自分も抹殺しなければならないと自分を溶鉱炉に沈めるように言う。しかし、ジョンは泣き叫びながらそれを阻止しようとする。その時ターミネーターは理解したのだ。なぜ人間が泣くのかを。
この混沌とした今の時代。最も難しいのが人間関係かもしれない。自分の思うようにはいかないことのほうが多いかもしれない。誰もが、優しい人間になれたら、強い人間になれたら、そう願うだろう。苦しみや腹立たしさに耐えられず、人を殺す。人間は自分を中心に考え、利益のためなら、そして勝利のためなら人を殺してしまう。人と人が殺し合う戦争。最近のニュースを見ていても、この日本で子供が子供を殺すという事件もある。腹が立ったから人を殺すという何とも軽い気持ちで、それを聞いては苛立ちを覚えてしまう。命の重さとはどれほどのものなのだろうか。この映画はそれを教えてくれるのだ。機械のターミネーターですら、命の尊さを理解できたのだから。きっと人間だって。
「ジョンと遊んでいるサイボーグを見て、突然理解した。
ターミネーターは片時も休まず、いつもジョンのそばにいる。
決してジョンを傷つけたり、怒鳴ったり、酔って彼を殴ることなく、こうして見守ってくれる。
そしていざとなれば、命を捨ててジョンを守るのだ。
今まで父親代わりの男はたくさんいたが、父親の役が果たせるのはこのマシーンだけなのだ。
この異常な世の中で、それだけが確かなことなのだ。」―作品中より
近未来で人類と機械との戦争が起きるのだ。人類抵抗軍のリーダーであるジョン・コナー。そのジョンを抹殺すべく、敵のスカイネットは過去にターミネーターを送り込む。そして少年時代のジョンを守るために人類抵抗軍もターミネーターを送り込む。そしてジョンをめぐる死闘が過去で行われるのだ。ここから先はまだこの映画を見ていない方は読まないほうがいいと思います。少しネタバレになってしまいますから。
ジョンをターミネーターが助けるのだが、これは人間と機械だ。全くの別物といっていい。しかし、人間であるジョンと触れ合っていくうちにこの機械であるターミネーターは徐々に変化していくのだ。人殺しが仕事であるというターミネーター。それは絶対にしてはいけないというジョン。日常生活では使わない言葉をターミネーターは使っていたが、ジョンが言葉を教えていく。そしてジョンと遊ぶターミネーター。少しづつだが機械は人間に近づいている。映画の後半に入るくらいにターミネーターはジョンに質問する。「なぜ人間は泣くのだ」と。心が傷つくってわかる、とジョンはターミネーターに聞くが、わからないと言う。触れ合っていくうちにもはや人間と機械ではなく、この世で最も信頼できる父親の存在となっていた。死闘を終え、ターミネーターは自分も抹殺しなければならないと自分を溶鉱炉に沈めるように言う。しかし、ジョンは泣き叫びながらそれを阻止しようとする。その時ターミネーターは理解したのだ。なぜ人間が泣くのかを。
この混沌とした今の時代。最も難しいのが人間関係かもしれない。自分の思うようにはいかないことのほうが多いかもしれない。誰もが、優しい人間になれたら、強い人間になれたら、そう願うだろう。苦しみや腹立たしさに耐えられず、人を殺す。人間は自分を中心に考え、利益のためなら、そして勝利のためなら人を殺してしまう。人と人が殺し合う戦争。最近のニュースを見ていても、この日本で子供が子供を殺すという事件もある。腹が立ったから人を殺すという何とも軽い気持ちで、それを聞いては苛立ちを覚えてしまう。命の重さとはどれほどのものなのだろうか。この映画はそれを教えてくれるのだ。機械のターミネーターですら、命の尊さを理解できたのだから。きっと人間だって。
「ジョンと遊んでいるサイボーグを見て、突然理解した。
ターミネーターは片時も休まず、いつもジョンのそばにいる。
決してジョンを傷つけたり、怒鳴ったり、酔って彼を殴ることなく、こうして見守ってくれる。
そしていざとなれば、命を捨ててジョンを守るのだ。
今まで父親代わりの男はたくさんいたが、父親の役が果たせるのはこのマシーンだけなのだ。
この異常な世の中で、それだけが確かなことなのだ。」―作品中より
アメリカ大統領選挙
アメリカの大統領が決まった。オバマ氏が再選を決め、ロムニー氏との接戦を勝ち抜き、アメリカ国民は再びリーダーをオバマ氏に決めたのだ。私も朝からこのことが気になってしょうがなかった。今テレビが壊れているので、インターネットで接戦の様子を見ていた。午前中は中部地方が開票結果が早く、ロムニー氏が勝利を収めていた。西海岸や、フロリダ州、そして最重要の州オハイオ州はまだ結果が出ていなかった。午前中はロムニー氏がリードしており、オバマ氏を応援していた私は少し不安になってしまっていた。しかし、予想では西海岸はオバマ氏が優勢と出ていたので、そこはあまり心配していなかったが、気になっていた州がフロリダ州とアメリカの縮図と言われるオハイオ州だ。オハイオを落として大統領になることはできないと言われているほど最重要の州。午後になり、予想通り西海岸を勝利に収めたオバマ氏が一気に逆転した。今日はゼミがあったので、それに出席していたのだが、気になって授業に集中できず、こっそりスマートフォンを使ってチェックしていた。14時を過ぎたくらいであったか、オバマ氏がオハイオ州の勝利を確定し、ロムニー氏が敗戦の宣言をした。そしてその後、オバマ氏が勝利宣言したのだ。よかったと思い、深い息が漏れた。
アメリカ大統領選挙は夏季オリンピックが行われる年の11月に行われるのだが、4年前の大統領選挙は素晴らしいものだった。民主党のオバマ氏と共和党のジョン・マケイン氏。誰もが口ずさんだ“YES, WE CAN!!!”。あのオバマ氏の演説は歴史に残るものだろう。オバマ氏の前大統領ブッシュ氏が創り上げたアメリカはいかがなものであっただろうか。「強いアメリカ」であったのは本当かもしれない。9.11の同時多発テロによるイラク戦争。これは完全に泥沼化し、今もその苦しみ続いている。ブッシュ氏に変わりオバマ氏が大統領になったが、この4年の間でその「強いアメリカ」は薄れていったかもしれない。経済危機にも見舞われ、アメリカ国民はもう一度「強いアメリカ」を再建したいと思っていた人もいるだろう。今回一番の論点であった経済政策。それでもアメリカ国民はオバマ氏を選んだ。成果が見られるのはこれからだというオバマ氏。それを期待するアメリカ国民。
私がオバマ氏が好きな一番の理由は、プラハ演説によるオバマ氏が語った言葉。「我々は核を使った国として道義的責任がある」。核なき世界への大きな大きな一歩となった。実績がないのもかかわらず、オバマ氏はノーベル平和賞を受賞。それほど人類にとって大きなことであったのだろう。私も、この人なら核なき世界を実現できるのではないか、そう思ったのだ。さらにもう一歩踏み出して欲しい。再選を決めたオバマ氏に、今回はそのことは論点には含まれていなかったが、私はそれを期待している。
世界のリーダーとしてアメリカが引っ張ってきたが、今は本当にそうかという疑問がある。急発展を遂げている中国がアメリカに変わる世界のリーダーとなるのかと言われれば、そうではないだろう。私はオバマ氏には世界のリーダーとして、この世界を引っ張って欲しいのだ。軍事力によって世界を支配するのではなく、核なき世界による本当の平和に向けてこれからの4年、尽くして欲しいものだ。
アメリカ大統領選挙は夏季オリンピックが行われる年の11月に行われるのだが、4年前の大統領選挙は素晴らしいものだった。民主党のオバマ氏と共和党のジョン・マケイン氏。誰もが口ずさんだ“YES, WE CAN!!!”。あのオバマ氏の演説は歴史に残るものだろう。オバマ氏の前大統領ブッシュ氏が創り上げたアメリカはいかがなものであっただろうか。「強いアメリカ」であったのは本当かもしれない。9.11の同時多発テロによるイラク戦争。これは完全に泥沼化し、今もその苦しみ続いている。ブッシュ氏に変わりオバマ氏が大統領になったが、この4年の間でその「強いアメリカ」は薄れていったかもしれない。経済危機にも見舞われ、アメリカ国民はもう一度「強いアメリカ」を再建したいと思っていた人もいるだろう。今回一番の論点であった経済政策。それでもアメリカ国民はオバマ氏を選んだ。成果が見られるのはこれからだというオバマ氏。それを期待するアメリカ国民。
私がオバマ氏が好きな一番の理由は、プラハ演説によるオバマ氏が語った言葉。「我々は核を使った国として道義的責任がある」。核なき世界への大きな大きな一歩となった。実績がないのもかかわらず、オバマ氏はノーベル平和賞を受賞。それほど人類にとって大きなことであったのだろう。私も、この人なら核なき世界を実現できるのではないか、そう思ったのだ。さらにもう一歩踏み出して欲しい。再選を決めたオバマ氏に、今回はそのことは論点には含まれていなかったが、私はそれを期待している。
世界のリーダーとしてアメリカが引っ張ってきたが、今は本当にそうかという疑問がある。急発展を遂げている中国がアメリカに変わる世界のリーダーとなるのかと言われれば、そうではないだろう。私はオバマ氏には世界のリーダーとして、この世界を引っ張って欲しいのだ。軍事力によって世界を支配するのではなく、核なき世界による本当の平和に向けてこれからの4年、尽くして欲しいものだ。
2012年11月6日火曜日
大阪で読書
11月となった。早いものである。
10月中旬くらいからしばらく大阪にいた。今は青森に戻っているのだが、戻ってくる前に東京で就活をしてからこちら青森に戻ってきた。やはり生まれ育った故郷というのは居心地がいいものだ。落ち着くというのはそういうことを言うのだろう。大変な時期ではあるが、常に走り回っていては体がもたない。オンオフの切り替えが大切だ。適度な休息は精神にも体にも必要である。
大阪にいる間、主に読書をしていた。就活があるため、落ち着い読書ができないのだが、大阪に帰った時、無性に本が読みたくなったのだ。1週間半くらいしかいなかったが、4冊ほど読んだ。『ロングロングアゴー』重松清著、『桐島、部活やめるってよ』朝井リョウ著、『学生時代にやらなくてもいい20のこと』朝井リョウ著、『シックスティーン』石田衣良著、を読んだ。本を読むたびにつくづく本はいいなと感じる。
私は漫画は基本的に読まない。今まで一回も漫画を買ったことがない。友人に勧められて読んだことがあるが、自分からは読むことはない。いろんな人と話をしていて、私は漫画は読まないというと、人生損してるなとよく言われる。そして私はこう言う、「人生損してると思ったことは一度もない」と。
漫画には漫画の面白さがあるし、本には本の面白さがある。それは全くの別ものだと思っている。そしてどちらの面白さの方が好きかと言われたら、私は迷わず本のほうが好きだと答える。本のほうが奥深い感じがする。登場人物の姿や表情をすべて自分で自由に想像ができる。しかし、漫画は既に顔が描かれているため、想像する範囲が狭い。ほとんど時だけの本は好きなように想像できるところがいい。だからテレビよりもラジオ、ラジオよりも本で、自分の頭を使っているのは間違いなくテレビよりも本だ。まあ、テレビはテレビで面白いし、映画は本では描くことができないものがあるので一概には言えないが。
就職活動が終わればおんを読みまくるのだが、物事には順番があるので、優先順位をつければ先にやらなければならないことがある。とにかく目の前にあることに全力を傾けていこう。
10月中旬くらいからしばらく大阪にいた。今は青森に戻っているのだが、戻ってくる前に東京で就活をしてからこちら青森に戻ってきた。やはり生まれ育った故郷というのは居心地がいいものだ。落ち着くというのはそういうことを言うのだろう。大変な時期ではあるが、常に走り回っていては体がもたない。オンオフの切り替えが大切だ。適度な休息は精神にも体にも必要である。
大阪にいる間、主に読書をしていた。就活があるため、落ち着い読書ができないのだが、大阪に帰った時、無性に本が読みたくなったのだ。1週間半くらいしかいなかったが、4冊ほど読んだ。『ロングロングアゴー』重松清著、『桐島、部活やめるってよ』朝井リョウ著、『学生時代にやらなくてもいい20のこと』朝井リョウ著、『シックスティーン』石田衣良著、を読んだ。本を読むたびにつくづく本はいいなと感じる。
私は漫画は基本的に読まない。今まで一回も漫画を買ったことがない。友人に勧められて読んだことがあるが、自分からは読むことはない。いろんな人と話をしていて、私は漫画は読まないというと、人生損してるなとよく言われる。そして私はこう言う、「人生損してると思ったことは一度もない」と。
漫画には漫画の面白さがあるし、本には本の面白さがある。それは全くの別ものだと思っている。そしてどちらの面白さの方が好きかと言われたら、私は迷わず本のほうが好きだと答える。本のほうが奥深い感じがする。登場人物の姿や表情をすべて自分で自由に想像ができる。しかし、漫画は既に顔が描かれているため、想像する範囲が狭い。ほとんど時だけの本は好きなように想像できるところがいい。だからテレビよりもラジオ、ラジオよりも本で、自分の頭を使っているのは間違いなくテレビよりも本だ。まあ、テレビはテレビで面白いし、映画は本では描くことができないものがあるので一概には言えないが。
就職活動が終わればおんを読みまくるのだが、物事には順番があるので、優先順位をつければ先にやらなければならないことがある。とにかく目の前にあることに全力を傾けていこう。
登録:
投稿 (Atom)