2017年8月31日木曜日

正しい教養を

 ここしばらく朝6時半から夜の9時くらいまで仕事をしていて、睡眠時間が少なくなっている。これは当たり前だが健康に良くない。もしできるのであれば10時間くらいは寝たいと思っている私である。最低でも8時間は寝たい。これも難しいのだが。しかし、どれだけ寝てもお昼ごはんを食べてしばらくしたら眠たくなってしまう。そのときも当然寝たいのだが、仕事中はそれはできない。休憩時間は1分でもあれば寝たいのである。休日前の夜は早く寝ようと思っていてもついつい夜更かししてしまい、気が付けば朝の4時とかになっている。最近は昼まで寝ることはなくなり、遅くても9時には起きるようにして、朝から映画なんか観て過ごしている。寝れるときはちゃんと寝たいものである。

 先日の投稿で友人が教育者になったことを書き、いろんな刺激を与えていろんな情報を与えて自分で悩み考えるようにしないといけないと書いたのだが、それに少し付け足したい。そのときもにも書いたが、ここ最近放送コードが厳しくなってきており、今まで放送できていたものが放送できなくなっている。お前らには悪影響だし、刺激が強すぎるからと言われていて、完全に我々はバカにされているということである。ではなぜこれがダメなのかというと、オトナも子どもも全員お子様扱いされているのである。学校で感想文とか書くときに、先生が喜ぶような感想を書けといっているようなものである。幼児扱いされているひとはバカになってしまうのである。バカになった上に判断力も低下するし、だんだん狭いものの見方しかできなくなってしまう。だからダメなのである。現実や世界で起こっていること、近所で起こっているかもしれない本来なら目を背けたくなることを一瞬でもいいから目を覚まさせるために残酷表現が必要になる。現実の本当のあり方を時々目を覚ます必要があるからだ。だからいいとこばかり見ていてもダメだし、与えていてもダメなのである。そういう表現などに対し、悪影響と決めつけることは絶対にできない。そういうのを見せないからこそ結果的にそっちの方が悪影響である。そしてその表現に対し、良いか悪いか、正しいのか間違いなのか、それを判断するのはその人本人である。そこでしっかり考え、悩まなければならない。子どもにはいいことしか言わない人が多いのではないか。君たちには無限の可能性があると言うが、世の中そういうふうにはできていない。だから正しい教養を身につけなければならないのである。きれいごとだけではない“まとも”な教養である。そしてそれはただ教えてもらうだけの能動的なものではなく、それを燃料としてエンジンを動かさなければならない。これが教養である。平和ボケした、お上から与えてもらった自由にどっぷり浸かり、集団へ同調し、周りと同じことで勘違いした安心感を得て、ただ世間通常一般にいわれる幸福を求め、これが一番だと自分に納得しながら生きていることに対して、これはただ見えないものに脅されながら生きているということを、自分の頭を使って走り回って考えて、それでいいのか、それがいいのか、それを見通せる力を身につけなければならない。なにも頭をつかわず、「こうするものだから」と当たり前かのように行われているすべてのことに、疑問を抱き、考えてほしい。そして自分の答えを見出してほしいのだ。これはもちろん私自身もだ。「なぜ?」すべてはそこから始まるのだ。

自分は何者か

 そういえば昨日北朝鮮からミサイルが飛んできたみたいである。東北地方や北海道は学校が休みになるほどであったらしい。もうこういうニュースを聞くと本当に生きてるのがイヤになってしまう。北朝鮮は何がしたいのかわからないが、ミサイルを飛ばすというのは本当に頭がおかしい。もしそれで着弾していたらどういうことになっていただろうか。なんの罪もない人たちの命を奪うことは絶対に許さない。本当にちゃんと考えてほしい。それで戦争にでもなったらと考えると恐ろしくなる。アメリカの低レベルな大統領もなんとかしてもらいたい。公人なのだから、それを考え直してもらいたい。世の中どんどん悪くなるなー。

  なにかあるとまた一人で旅に出たいなと思ってしまう。どんなにイヤなことがあっても、一人で見知らぬ街へ行ったとき、その感動というのか安心というのか楽というのかそういう感情になる。それが物凄く落ち着くのである。ここで自分を知っているひとは誰もいないというのもあるだろう。ことばが通じなくても心が通じ合えばそれでいい。それで多くの現地のひとたちに助けられてきた。名もなき友人たちに感謝である。この前はことばでちゃんと発して言わなければならないと言ったが、ことばだけではなく、ちゃんとそれに伴った行動も起こさなければならない。口先だけの人間なんて山ほどいるのだから。取って付けたようなことを言うひともたくさんいるし、コロコロ言うことが変わるひともたくさんいるし、ウソばかり言うひともいるし、上手くひとを転がしてやろうというひともいるし、なにを信じていいのかわからなくなる。そんなときに一人でどこか遠くへ行きたくなる。やっぱり信じきれるのは自分自身だけである。遠くへ行ったとき、自分自身が何者か、そうことが無になるのだ。今まで生きてきて、肩書きがあって、学歴がどうで、こういうところで働いていて、こんな資格を持っていて、・・・とかそういうものが何の意味も持たなくなる。そこではじめて、“自分は一体何者なのか”、そうなるのだ。この問いはどこからくるものではないが、見知らぬ街を一人で歩いていると、涙が頬をつたっているのに気がつくときがある。俺は一体何者なんだ、と自分自身に問いかけているのだ。自分が本当に無力に感じることもある。旅をしているとそういう感情になることがある。旅をして何が一番心に残るかといったら自分が無力だということを痛感することである。しかし、この感情が次の旅に出ようという気持ちを奪うことはない。むしろまた自分が無力だということを知るために、そして自分は一体何者なのかという問いに、答えることはできないが、その問いかけに少しでも真っ直ぐ向き合えるかもしれない、そんな気がしてまた一人でどこか行きたくなるのだ。一体自分はどこへ流れていくのだろうか。ただ流されているだけなのか。流れに逆らうのか。一体自分はどこで終わってしまうのだろうか。確実に私たちは一秒ごとに死に近いていっている。それだけは確かにわかっていることである。自分の人生は自分で切り開いていくものである。他人にどう言われようとも。たとえ結果がどうなろうとも。最下位が負けではない。ダウンしたから負けではない。スタートラインに立たなかったひと、リングに上がらなかったひとが負けなのである。普通がいいと多くのひとはいう。ウォール街のオオカミは言った。
普通なんて誰が望む?

2017年8月29日火曜日

自分はどっち側か

 昨日物凄くおもしろい動画を見つけたのだが、これも映画関係で申し訳ない。もしも有名映画監督がレシピ動画を作ったら、というような動画なのだが、今回紹介されていたのは、ウェス・アンダーソン監督、クエンティン・タランティーノ監督、マイケル・ベイ監督、アルフォンソ・キュアロン監督である。この中でお気に入りはなんといってもタランティーノ監督とマイケル・ベイ監督である。1分半くらいの動画なのだが、この動画を作った人は天才である。よくその監督の特徴を捉えている。タランティーノ監督のはミートボールスパゲティの作り方で、トマトを包丁で切ったりするシーンがあり、切ったらそこから血が噴き出るように表現したり、肉?を叩き潰したり、最後の映像はおそらく死体を表しているのだろう。『キル・ビル』風に撮影しているが、すごくよくできている。そしてマイケル・ベイ監督は、『トランスフォーマー』風ワッフルの作り方で、この監督は爆発シーンで有名なのだが、この動画でもそれが遺憾なく発揮されている。ここでは小麦粉が爆発していたのである(笑)。最後はワッフルタワーが倒壊するという破壊の帝王マイケル・ベイである(笑)。この動画を観て一人で爆笑してしまった(笑)。20回くらい観てしまった(笑)。サイコーにおもしろい動画である。他の有名監督の動画も作ってほしい。この前紹介したデヴィッド・フィンチャー監督やデヴィッド・リンチ監督、マーティン・スコセッシ監督の動画は是非見てみたい。すばらしい動画であった。

 今回は『スーパー!』という映画を紹介したいのだが、これもヒーローものの映画である。わかりやすくいえば、『キックアス』は高校生だが、『スーパー!』は中年のオッサンである。この2つの映画はかなり似ているし、公開した年が近いこともあって、よく比較されるのだが、確かに似ているといったら似ているのだが、よく観てみると正反対の映画である。『スーパー!』はコミック版の『キックアス』に近いかもしれない。『スーパー!』はジェームズ・ガン監督で、この監督はもともとB級映画制作会社出身で、殺人鬼、差別、偏見などの普通はコメディに入れてもエッセンス程度に入れる題材を平気でスプラッター要素満載に詰め込んだ作品が見られる。一方『キックアス』のマシュー・ヴォーン監督は、オシャレなクライム映画を得意とし、音楽やテンポ感にセンスがあり、映画版『キックアス』は内容がライトになっているしエンターテイメント性が高められており、バイオレンス描写もそれほど気にならない娯楽性の高い映画となっている。この監督の違いで、『スーパー!』のバイオレンス描写のエグさも、『キックアス』の音楽センスとテンポの良さに納得がいく。つまり監督の良さが出ている映画である。この『スーパー!』は平凡なオッサンがある日突然スーパーヒーローになって街のチンピラやドラッグディーラーに立ち向かうというストーリーである。主人公は自らを“クリムゾンボルト”と名乗り、映画館で並んでいた列に割り込みしたヤツをレンチで殴ったりと完全に異常者なのだ。主人公の奥さんがドラッグディーラーに奪われ、最後奥さんを助けにいくのだが、観ているこちら側は何が正しいのか、わけがわからなくなってしまう。奥さんを奪ったヤツに言うのだが、ここはいつも涙してしまう。
ドラッグディーラー:「どうするつもりだ?処刑しようってのか?お前だって俺と同じだ!割り込んだヤツを、半殺しにした!」
クリムゾンボルト:「割り込みは悪だ!麻薬売買も悪だ!児童虐待も悪だ!私欲のために人を苦しめるな!遠い昔に定められた不変の掟だ!」
ドラッグディーラー:「俺を殺せば世界が変わるとでもいうのか?」
クリムゾンボルト:「それは僕にもわからない。試してみるまでは。」
そう言って最後はヤツを殺すのである。ここまではっきり言われるとバットマンもスーパーマンもキックアスも敵わないだろう。物凄くジーンときてしまうシーンである。前にも書いたが、正義とはなんだろうか。何をもって正義というのだろうか。自分がやっていることは“まとも”なのだろうか。ただそれを正義と思い込んでいるだけなのだろうか。ただの自己満足にすぎないのだろうか。この映画はそういう答えの出ない問題をお前はどうなんだ?という問いを突きつけてくる。観ていてすごく重くのしかかってくる。観てほしい映画の一本である。
 よくネットでは『キックアス』派か『スーパー!』派かと議論になっているが、全く正反対の映画なので、比較が難しいのだが、あえて言うなら私は『キックアス』派である。その理由は映画版でもコミック版でもヒットガールめちゃくちゃカッコいいからである。これは本来の議論から逃げた回答である(笑)。今回は逃げさせてください(笑)。しかし、どちらの映画も私たち自身に訴えかけてくるものがある。もし目の前で愛すべき人が殺されかけていたとき、ただ黙って見ているのか、それとも殺そうとしているヤツを殺すか、この二者択一の選択に迫られたとき、果たして自分はどちらの回答を選ぶのだろうか。自分はどっち側の人間になるのか。そういう究極の問いを叩きつけてくる。今までいろんな友人にここまで具体的に話をしたことはないが、私の性格からの判断で友人から見れば私は後者を選ぶように見えるみたいである。自分がどっちの選択を選ぶかはその状況になってみなければわからないが、愛すべきものを奪われてまで、自分自身がこの先生きていく意味、価値があるのだろうか、そういうのを考えてしまう。それも生きてみないとわからないのだが、そこで私は頭を抱えてしまう。この先は私自身もまだわからない。一生答えが出ないかもしれない。答えがないかもしれない。でも、考え続ける意味、価値はある。

友人が教育者に

8月に入ってから仕事が朝一から閉店までと通しの日がほとんどで、仕事が終わって帰るときは、前にも言ったが頭が痺れるのである。この表現が正しいのかわからないが、そういう感覚がある。まあこれくらいのレベルであれば全く問題ないのだが、とりあえず疲れるのは疲れる。ゆっくりできるときはゆっくりしていたい。
 昨日の投稿で思い出したのだが、昨日ロボット人間と書いたが、先日自分の夢を叶えた友人がいて、その友人の夢は教師になるということで、その友人とLINEしていたのである。今年の春から教鞭を振るうことになり、先日LINEで久しぶりの連絡をもらったのである。毎日大変そうだが、何よりも元気そうで安心したのである。勉強を教えるだけでなく、部活の引率でいろんなところへ行ったりしており、本当にすごいと思った。LINEでのやり取りは我らが長渕剛の歌詞の引用をして、あたかも自分が考えたかのように発言するので、知っている人が見たらただの歌詞棒読みなだけである(笑)。やはり学校というのは大変なことが多いみたいである。勉強や部活だけでなく、問題を起こす生徒ももちろんいるみたいだ。いないところが不思議かもしれない。学校、クラスという枠組みの中で、やはり上下関係であったり、イジメもあったり、弱肉強食のような状況が生まれてしまうのはこれは人間だから仕方がないといったら仕方ないのかもしれない。もしそういう事態になったとき、私ならば生徒たちになんて声をかけるだろうか。これは本当に難しい問題である。その友人にも伝えたことだが、子どもといえど一人の人間である。そして教師も一人の人間である。生徒それぞれに意見があり、思いがあり、考えがある。そしてそれが正しいとか間違いとか答えとかではなく、あくまで一人の人間として認めてあげることが大切なのではと。それがそのクラスの先頭に立つ教師の役目なのではないかと思うのである。ただ怒るだけとか指導するという一方通行ではなく、自ら考え、悩み、そして自分の答えを出す。これは私自身にも言えることだが、とにかく自分自身で考えないといけないということである。先生がそう言ったから、親がそう言ったから、先輩がそう言ったから、これではロボット人間になってしまう。アイヒマンというかつてドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った人物であるが、イスラエルで行われた裁判で、アイヒマンは「言われたことをやっただけです」と胸を張ったが、世界は「言われたからやった」というだけで、どれだけ人間が残酷になれるのかを知って衝撃を受けた。それだったら、自分で考えてやったことだ、と思えた方がまだマシである。宗教や権力者、神や仏、法律、上に立つもの、なんでもいいが、やれと言われたからやる、やるなと言われたからやらない、これではロボット人間に成り果ててしまう。単純な理由を示して、だからいい、だからダメと言ってくれた方が自分で考えなくてすむので、ラクかもしれない。しかし、あとになってそれがとんでもないことになっているというのは歴史上何度も起こっている。前にも書いたが、ホロコーストはある意味、人間の“可能性”を見せてしまったのである。だからどんなときでも、どんな状況でも自分で考えて、行動しなければならない。それの訓練を若いときから学んでほしいと思っているのである。そして、物事を判断させるときに、単純な刺激、一方通行の刺激、安全圏の刺激だけを与えて物事を判断させるのはそれはよくないというのか間違いなのではないかと思っている。判断させる要因は本当にいろんな情報があって初めて自分で考えて判断するものである。本当は10の情報があるのに3くらいの情報を与えて考えさせたり、判断させたりするのはおかしい話である。そういう状況でまともな判断ができるわけがない。もちろんオトナレベルのヤバイ映像を持ってきて、生徒たちに叩きつけるのはそれはやり過ぎだが、10あるうちの6くらいの情報は与えてもいいのではないか。もちろんギリギリのラインまでである。これは私たち大人にも言える話である。最近放送コードというのかはからないが、どんどん規制が厳しくなってきている。おそらくこのままいけばそういったものの放送や表現の規制の法律ができるだろう。これはお偉いさん方が、君らにはこういった映像は悪影響だから見ない方がいい、と勝手に決め付けて、勝手に規制している。つまり我々はお子さま扱いされているということである。例えばバイオレンス描写、残酷表現、エログロであったり、いろいろある。そもそもそれを悪い影響とかいい影響とか誰が決めるんだ。そういった表現を一切見せずに成長していったときに、いつかはその表現に直面するときが必ずやってくる。そのときに、あのときに勉強したやつだと知っていれば、そこから自分で考えて判断していく。そういったものを知らずに成長させてしまうと脳がパニクってクラッシュしてしまう。白いもの、白い側ばかり教えたり、育てていると一瞬にして黒になる可能性がでてくる。何度も言っているが、自分に残酷なところ、汚いところがないと最初から思い込んでいるひとは一番危険な存在である。人間には本質的に絶対そういうところがあるのだから、そう思っていないひとは怖いと思う。自分もやってしまうんだよってことをいつも考えておかないと危険であるということである。自分たちにもそういった残酷なところ、悪いところ、あるよな、と若い時期から少しずつでいいので、そういった刺激を与えて、そこから物事を考えて判断させるのがいいのではないかと思っている。これはなかなか難しい問題なのだが、そういうのを私は友人に期待しているのである。教師は生徒になにかきっかけや影響などを与えれば、生徒らがもしなにかしら興味を持てば、勝手に自ら何かを始めていくものである。勉強も同じである。やらされているうちはダメである。「なぜ?」と思えば自分で学ぼうとする。それが勉強というものである。生徒と一緒に学んでお互いに成長していってほしいものである。私の友人は“教育”というステージのスタートを切ったばかりである。

2017年8月28日月曜日

友人が結婚へ

 気が付けば8月ももうすぐ終わる。9月になれば年末まであっという間である。1年というのは早いものである。そうやって毎年毎年過ぎていってしまうのだろう。いつか必ず死ぬんだということを心に刻み込まなければならない。そして、もし今すぐ死ぬとしたら、今までの人生をどう思うのだろうか。タイラーのことばが身にしみる。もちろんまだまだやりたいことや挑戦したいことなんか山程あるが、とりあえず今死ぬとしたら後悔はないだろう。見たいものは見てきたし、欲しいものは少し高くても手に入れてきたし、すばらしい友人にも巡り会えたし、人よりもたくさん笑って生きてきた。苦しいことや辛いことも、死ね、FUCK、と言ってすぐ笑って過ごしてきたし、自分が笑うことで周りも笑ってくれたし、そんなこんなで今死んでも問題はない。一日一日、そして一秒一秒が貴重な時間である。それはわかっていてもその貴重な時間を無駄に生きているのも半分事実。そういう腐った自分をブッ殺してやりたい。まだまだ自分に甘過ぎる。
 今日働いているところに友人がちょっとだけ顔を出してくれたのである。5分くらいしゃべってバイバイしたのたが、その友人は今年の秋結婚するのである。結婚式はハワイで行うみたいだ。私はそういう知識が皆無なので、ハワイでやることがどれほどのものなのか、すごいことなのかは全然想像が付かない。でもすごそうなのはわかるが、聞いてみるとお金などは日本でやるのとほとんど変わらないみたいである。なるほど。
 これは私の腐りきった考えなのだが、結婚式で本当に嬉しいのは当の本人らである。それに続いてその家族。友人らや会社関係の方が参加するとなれば、やはりそれなりの準備が必要だし、時間も作らなければならない。なにしろ休日を使って来てくれるのだから。表面上は笑顔できてくれるが、内心はどう思っているかはわからない。トドメをさすかのようにそこからお金をも絞り取るというのはどういうことか。そういうのによく呼ばれる人はそれだけでどんどんお金が出ていってしまう。他人のしあわせを祝いに行って自分は貧しくなるという意味不明なことになりかねない。まあこれは極論の話をしているのだが。もし私が結婚して、誰かを招待するとなればお金はもらわない。もらわないと結婚式自体できないという可能性も出てくるので、心持ちだけでももらわないということである。来てくれるだけでどれほど感謝すべきことか。少し違う考えでは、もし自分の友達に、独身を貫くと決めている友達もいるだろう。そういう独身を貫く友達は、もちろん将来結婚式とかそういうのはないので、まとまったお金を手渡しで渡す機会はないだろう。そういった友達からもお金をもらうのか。結婚したもの勝ちみたいな状態になってしまう。それも変な話である。とまあここまでいろいろと歪んだ考えをグタグタ書いてしまって、書いている数分間前の自分を今の自分がボコボコに叩きのめしておいたので安心していただきたい。まあしかし、数分間前の自分を擁護するなら、人それぞれいろんな思いがあってここまできているんだよ、ということである。お金だって人それぞれの価値観がある。同じ金額でも、人によって大金に思えたり、もしくは安いと思えたり。そこまで考えてやらないといえないのではないかということである。
 そもそも私は冠婚葬祭に価値を置いていないのである。結婚式だってやらなければならないことでもない。役所に行って婚姻届を出せば終わる話である。私は本質を見失わなければいいと思っている。極論をいえば、結婚はあくまで二人の間で交わされる誓いである。つまり二人が決めればそれでいいのである。家族がどうのこうの言うことでもないし、家族に反対されたからやめるという話でもない。まあ家族に反対されたからやめるというのであれば所詮その程度の関係だったということである。その前に大の大人が家族に反対されたからそうした、というのは理由にならない。それこそロボット人間である。自分はどう思うのか、どうしたいのか、どう考えているのか、それが全てである。ロボット人間であるし、家族に反対されたからという言い訳の逃げ道作りにしかならない。また、結婚式は一生に一度しかないからといってやる人が多いが、今日というこの日も一生に一度しかない。昨日も一生に一度だったし、明日も一生に一度である。なぜそういうときにそういうことを言うのだろうか。まあ言いたいことは一生に一度の晴着姿なのだろう。結婚式でしか味わえない空気や雰囲気、イベント、催し物、そういうことだろう。それは確かにそうだろう。うん、その通りだ(笑)。世間通常一般の考えで刺激が欲しいなら、前にも紹介したが、『セックスアンドザシティ』を観ればいい。主人公キャリーも最初は広い結婚式場で盛大な結婚式を挙げる予定だったが、とにかくいろいろあって、最終的にキャリーと相手のビッグが出した答え、結婚式があるのだが、それがなんともすばらしいのである。結婚の本来の意味を改めて示してくれるのである。本当はドラマから見てほしいと思うが、ドラマはチョー長いので、映画から観ても全く問題ない。私も映画から観た。今回も本当にテキトーにしか書いていないし、なにも考えずに書いてしまっている。何を書こうと決めて書いているわけではない。最初テキトーに書いていて、何かキーワードみたいなものが出てこれば勝手にそれについて書いている。今回は結婚というのがキーワードだったかな。でも結婚も結婚式もすばらしいことだと思うし、本当におめでたいことである。今回遊びに来てくれた友人には改めて祝福したい。

2017年8月26日土曜日

映画も現実も

 先日書いた『ファイト・クラブ』や『ドラゴンタトゥーの女』のタイトルシーンがチョーカッコいいという話をしたが、YouTubeで調べてみるとやはりこのタイトルシーンだけの動画が見つかったので、気になったら是非観てほしい。マジでカッコいいから(笑)。
 今日は休みだったが、荷物が届く予定だったし、部屋の片付けもしなければならなかったし、映画も、観なければならなかったので、今日もずっと部屋にいたのである。今日は、『ブルーベルベット』、『エターナルサンシャイン』、『カジノ』を観た。『エターナルサンシャイン』は主人公が恋人と喧嘩別れし、仲直りしようと思っていたが、彼女が自分との記憶を消してしまったことを知りショックを受け、自分も彼女との記憶を消そうとして記憶除去専門病院へ行くという話。まあこういう映画の展開はある程度予想がつくので、ありきたりといったらありきたりとの映画であったが、それはそれで楽しめた。記憶を消していく最中に、彼女との喧嘩していた日々などが一つひとつ消えていく。出会った頃の二人の記憶になり、すべてが楽しかったあの頃。そこで主人公は本当に大切なものはなにかに気が付き、記憶除去に抵抗を始めるのだ。観ていて思ったのが、記憶を消す前にいろいろ医者から質問されて、相手のことの話をするのだが、本当に文句ばっかりなのである。あれがイヤ、嫌い、こういうところがムカつく、イライラする、・・・・・などなど延々と文句、愚痴、苦情を言い続けるテープがある。これは現実の話にも繋がるが、みんなそうなんだなと思った。最初はなんとも思っていなかったことや、気にならなかったこと、好きになれば最初はそういうところさえも良く見えてしまうが、何かの拍子やずっと一緒にいるにつれて鬱陶しく見えてきたり、イライラしてしまったり、ムカついてしまう。そういうことを言われると、最初は、あの頃はそんなふうに思ってなかったやろ、とかあのときはこう言ってたし、というツッコミをいれたくなってしまう。状況や月日が流れるにつれて感情も流れていくのだな。好きであれば気にならなかったことも、ちょっとしたことでも何か言いたくなってしまう、粗探しをしてあれもイヤだった、こういうところが嫌いだという。こういうのはどこへいってもみんなそうなんだな。人間てみんな都合のいいいきものなのだな。ついついそう思ってしまった。というかこれが普通なんだろう。いろいろ愚痴や文句を言われると、ついつい楽しかった日々を思い出し、比較してしまう。その人のためにいろいろしてきたこと、やってきたことが否定されたように思い、あのときは一体なんだったんだと思ってしまう。その人のために真剣に話を聞いて、言葉を選んで、相談に乗ったり話をしたりしていたのが急にバカらしく思えてしまう。急に態度が変わったり言うことが変わったりする。それはもちろん相手側だけでなくこちら側にも問題があるのだが。本当に大切なものは失って初めて気がつく。この映画の主人公たちはそれに気が付いて、また二人で歩き出すのだが、現実はなかなかそうはうまくいかない。まあそれが人生だし、人生ってそういうものだろう。本当にいろんな人がいるんだな。この人なら信用できると思っても、それはただの勘違いであったり、あっさり裏切られてしまうことなんてしょっちゅうである。そうやってみんな生きているんだな。どこまで信用できるのか、どこまでが本当なのか、それはそのときにならなければわからない。それにみんな悩みながら生きているのかもしれない。

自分の誕生日に

 先日私の誕生日があった。最近だと誕生日になっても、そこまで待ち遠しいということもなく、もちろん友人からメッセージをもらったら嬉しいが、子どものときのように楽しみというのはなくなっている。まあこれは年をとればみんなそう思ってしまうのかもしれない(笑)。本当は以前からずっとやらなければならないと思っていたことが、ようやく今年できたのである。それは自分の誕生日の日に、母親に何かをプレゼントというか贈り物をするということである。それをする理由は当然だが、生んでくれてありがとうであったり、いつもありがとうということであったりする。いろんな説があるが、出産するにあたって、寿命が縮まるという研究結果もあるみたい。その結果ぎ本当かどうかはさておき、確かに出産する際に、命を落としてしまうこともある。つまり出産は当たり前かのように行われているが、実は命懸けの行為ということになる。それほど出産には体力、エネルギーを消耗してしまうということである。それほどまでにして、自分の誕生日にまだなにかしてもらおうというのも厚かましすぎる。この年にもなればなにかしてもらうことはないが、せめて感謝の気持ちとしてそろそろそういうのをやろうと思い、今年それがようやくできたということである。何を贈ろうか迷ったが、ここはやはり花がいいと思い、私がよく行くというか花を買うならそこしか行かないというくらいのお店があり、そこへ行って花を贈ってもらったのである。どんな花にするかはかなり迷った。贈る側の人のイメージなどを思い浮かべて、その人らしい花にしようと思っていろいろ考えていたが、ここはシンプルに赤一色にしてもらおうと思ったのである。カラフルな色の花もできるのだが、今回は初めて一色にしてもらったのである。ふとここで思い浮かんだのが、またまた映画関係の話で申し訳ないのだが、以前にも紹介した私の好きな映画の一つで『キックアス』があるが、それのアメコミで出てくるのだが、私が大好きなヒットガールが世界を飛び回ってテロリストや悪党どもを殺しまくっていて、毎年母の日に自分の安全を知らせるために自分の母親に赤いバラの花束を贈っていたのを思い出した。それだ!と思ってそこからは迷わず伝票を書いて会計に(笑)。自分の誕生日を日付指定して、贈ったことは伝えずにいたのだが、母親は最初私の誕生日を忘れていて、なぜ急に花を贈ってきたのか理解できなかったみたいだ(笑)。メールでなにかあったのかと聞かれたので、俺の生誕祭やーーー!!!とブチ切れメールを送ったのである(笑)。それでようやく意味がわかったみたいだ(笑)。私の家族はこういうイベント?ごとにはうといのだ。誕生日だからどこかご飯に行くとかプレゼントを渡すとかそういうことはほとんどしない。ちゃんとそういうことをやっているという話を聞くといつも驚いてしまう。私も誕生日だからとか母の日だからとかでなにかするわけでもない。私はプレゼントしたくなったらするというくらいしか考えていないのである。その日があるから何かするというのは半強制的なような気がしてしまい、それに踊らされたくないのである。ここが私の歪んだ考えである(笑)。本当はそういうのはやった方がいいと思っているのだが、なんか意味があるとおもしろくないのであんまりそういうのはしたくないのである。ここも理解しにくいが(笑)。意味がないときにするからいいのである。決めるときに外して、どうでもいいときに決める、それが私のやり方なのかもしれない。今まで少ない人であるが、花束を送ったことがある。もちろんそれは特別な意味があるときであるが。贈る相手のイメージを考えて花をチョイスするが、これが難しいのである。これはイメージとは違うとか、この中に好きじゃない花や色が入っていないだろうかとか、そんなことを延々と考えてしまう。どうせ選ぶなら一番喜んでもらえるようにするのだが、自分が選んだ花がそれにマッチしているのか、毎回そんなことを気にしてしまう。それが楽しいのも事実なのだが。来年はどうなるかわからないが、続けていきたいと思う。花の色も来年の気分で決めようと思っている。やっぱり花はいいな。本当に花は美しい。私は花は今までもらったことはないが、私はどちらかといえばプレゼントする方が好きなので、なにかあれば花をプレゼントしてみたい。

最後に持ってくるタイトルシーンに文句

 しばらく涼しい日が続いていたが、最近また暑くなってきた。職場が建物の中ということで、外にはほとんど出ないし、天候の変化もほとんどわからない。快適といったら快適なのだが、本当は好きなときに外へ出たい。それは今は不可能である。それが鬱陶しい。最近の投稿は帰りの電車の中で書いている。座れれば即効寝るのだが、座れないのである(笑)。頭が痺れるくらいに疲れているのだが、やることがないので、ずっとこのブログをサボっていたので、こういうときに書かないといけないと思い、書いているのである。これが時間の有効活用というものか。本当は苦手であるが(笑)。なんせチョー眠たいからである(笑)。睡魔には勝てない。書けるときに書いていきたい。
 連投して映画のタイトルシーンについて書いたが、タイトルシーンがないまま映画のストーリーが進んでいくことがある。1時間たってからようやくタイトルシーンが出る映画もあるし、最後にタイトルシーンが出る映画もある。記憶にあるのはクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト三部作』である。この映画は当時かなり話題になり、もちろん私は全部観ているし、3作目の『ダークナイト  ライジング』は3回映画館で観ているし、最後らへんにいつも泣いてしまっているのだが、どちらかといえば私はそんなに話題になるくらいの映画だろうかと思ったのである。確かによくできた映画と思ったし、おもしろいといえばおもしろいのだが、どっちつかずの映画になっていると感じ、中途半端な立ち位置で結局どっち側なのかわからない内容と感じてしまったのである。映画を観ていて、途中からなんか説教されている気分になり、そういうのを忘れるがために映画を観ているのにガッカリした記憶がある。そもそもクリストファー・ノーラン監督ってどうなの?っていうのが私の意見である。次回作の007の映画をこの監督がやるかもしれないという噂も流れているが、やめてもらいたい(笑)。タイトルシーンというのは本でいえばカバーみたいなもので、本のカバーでもそれを見ただけで読んでみたいっていうのもあるし、この前書いた通りこういう映画ですよというのを伝えようとしているので、それをすっぽかすのはどうなのだろうか。もちろん意味があってやっているのだろうが。ダークナイトに関していえば、この前アメコミを何冊か読破しているので、ノーラン監督に物申したいが、話が長くなるので今回はやめておこう(笑)。007といえば次回作はまたダニエル・クレイグがやるみたいだ。それもガッカリである。それはそれで楽しみであることには違いないが。またまた思い出したのだが、昨日書いた『ファイトクラブ』のデヴィッド・フィンチャー監督の嫌いな色はピンクなのどが、ファイトクラブに登場する石鹸の色はピンクである。この設定にはゾクゾクしてしまう。この監督の映画は全体的に色のトーンが暗めになっている。さっき、この監督の作品である『ベンジャミン・バトン  数奇な人生』を観た。これもまた改めて書きたい。今回はチョーテキトーに書いた意味不明の内容であった。申し訳ない。

2017年8月25日金曜日

『ファイト・クラブ』

 昨日の投稿の補足というのかそれを少し書きたい。デヴィッド・フィンチャー監督のタイトルシーンがカッコいいという話をしたが、昨日の『ドラゴンタトゥーの女』のタイトルシーンはかなり『007シリーズ』のタイトルシーンにかなり似ている。主演のダニエル・クレイグを意識したのかはわからないが、もしこの監督ぎ007の監督をやったらこんなタイトルシーンになるのかなとも思ったのである。これだけでも観る価値がある。
 これも昨日少し書いた、『ファイトクラブ』なのだがタイトルだけ聞くと、ケンカに明け暮れている青春みたいな感じに聞こえてしまうが、内容は全然違う。よくミニマリストであったり、自己破壊であったり、孤独、暴力などそういったのがこの映画の大きなテーマとなっている。もちろんそれは正しいし、間違いないのだが、私は今回そのタイトルシーンでこの映画の意味、内容をほのめかしているならば、少し解釈が変わってくるのではないかと一瞬だが思ったのである。タイトルシーンは脳内の様子が描かれ、そこで白く発光するというのか爆発しているというのかそういうのも見られるが、これはおそらく神経が反応している様子である。主人公の目の前に、自分が最も理想とする人間が現れ、そこからストーリーがガンガン進んでいく。映画を観ればわかるのだが、これはやはりタイトルシーンであるように、これは脳内の戦いなのである。理想の自分に何もかも全て一枚上手。どんなことでも先手を取られてしまう。しかし、最後の最後についに主人公は理想の自分に先手を取ることができる。自分の意思が理想の自分の意思に打ち勝ったのである。そこでいつも涙が出てしまうのだが、本当の自分が理想の自分に勝った瞬間である。私はこの映画はそういうのも伝えようとしているのではないかと思う。一種の自己啓発映画なのではないか。この監督の作品からみて、この『ファイトクラブ』はおそらくコメディ部門に入るのではないだろうか。あまり知らない人が観れば、これのどこがコメディやねん!とツっこまれそうだが、この監督にしてみればそうである。この理想の自分の名前は、タイラー・ダーデンというのだが、『最高の映画キャラクター100人』に1位に輝いたことのあるくらい、影響力のあるキャラクターなのである。私もサイコーにカッコいいと思う。このタイラーや本当の自分のことばにものすごく元気をもらっているし、刺激されているし、ケリを入れられている。まずはタイラーのことば。映画の始まる前にタイラーからの警告メッセージがある。
“警告
このDVDを手にしたあなたこそが、この警告を必要としていたのです。あなたがこの無駄な警告を読む一秒一秒、あなたの人生の大切な時間が奪われているのです。他にすることはないのですか?この時間をもう少し有意義なことに使えないのですか?あなたの人生はそんな空虚なものですか?それともあなたは権威を表す者を誰しも尊敬、信用してしまうのですか?あなたは読むべき書を全て読むのですか?あなたは考えるべきことを全て考えるのですか?欲しいはずだと言われる物を全て買うのですか?部屋を出ろ!異性に会え!過剰消費もマスターベーションも止めろ!仕事をやめろ!けんかを始めろ!自分が生きていることを証明しろ!自身の人間性を主張しないと腐敗していく有機物でしかない。注意はしたぞ!
タイラー”
である。
そして本当の自分のことば。
“人生の持ち時間はいつかゼロになる”
である。
このメッセージだけで涙が出てくるし、熱くなれる。本当にすばらしいキャラクターである。私もかなり影響を受けた映画の一つである。ダラダラしてられないな。

2017年8月24日木曜日

ひたすら映画デー

I LIVE!! I DIE!! I LIVE AGAIN!!!
ということで、悩んでいるときは『マッドマックス 怒りのデスロード』を観るしかないので、それを観て悩んでいることをしばしの間忘れていたのである。最近昔の映画も含んで、自分にとって新しい映画をほとんど観ていないことに気が付き、脳に刺激を与えていないのはよくないし、考えごとをしていたので、それを少しでも回復させるために映画のまとめ買いをしたのである。約30本ほどDVDを買ったのである。とりあえず今気になっているものはほとんど手に入れようと思ったのである。それが昨日休みだったのでそれをずっと観ていたということである。昨日観たのは、『キューティーブロンド』、『ソーシャルネットワーク』、『ドラゴンタトゥーの女』を観ていたのである。後の2作品はデヴィッド•フィンチャー監督の映画である。この監督の映画は『ファイトクラブ』を観ており、この映画は本当にサイコーの映画の一つである。麻薬みたいに取り憑かれる映画だ。この映画についてもまた改めて買いたい。この監督の映画も、どの映画でも監督らしさが出ており、ガンガンショックを与えてくれる。まずこの監督のすばらしいところはオープニングテーマがチョーカッコいいのである。私はオープニングテーマはかなり重要だと思っており、このオープニングテーマでこの映画はこういう映画だよ、というのを教えてくれるからである。『ファイトクラブ』もそうだし、『ドラゴンタトゥーの女』でもそうだが、本当にカッコいい。この監督も好き嫌いに分かれるかもしれない。昨日観た『ソーシャルネットワーク』にしても『ドラゴンタトゥーの女』でもそうだが、チラチラと男女関係のストーリーも展開されるが、それがなんとも言えないのである。そういうのを期待して観ていなかったし、ちょうど悩んでいるときだったので、いつもよりもグッときてしまったのである(笑)。それはさて置き、こういう映画を作れる人は、一体頭の中はどうなっているのだろうかと思ってしまう。天才としか言いようがない。いい意味でも悪い意味でもショックを与えてくれる。映画を観ていると、やっぱり世の中ゴミ野郎ばっかりだなと思ってしまうし、でもそういう中にも“まとも”な人もいるんだなと思う。まともといっても見方によっては悪いこともしているし、犯罪も犯しているのだが。『ソーシャルネットワーク』はフェイスブックを立ち上げたマーク•ザッカーバーグが主人公の映画なのだが、ハーバード大学在学時、当時付き合っていた女性にフラれてしまい、その悪口をブログに書き込むところから始まる。それがエスカレートし、2人の女性の写真を並べて格付けランキングのサイトを流す。これがバカ受けしてサーバーがダウンしてしまうほど。あのフェイスブックが始まるきっかけがこういったなんとも若者らしい発想なのがいい。もちろんやっていることは悪いことなのだが。私はSNSはほとんどやっていないので、悪口を書くのであればこのブログくらいだが、そういうところには悪口は書きたくない。やっぱりそういうのはよくないと思う。その人のことを、いい人とか尊敬できる人、優しい人、楽しい人と判断するのはやはり見る人によって意見が全然違うのである。その人はそう思っていても、正反対に思っている人もいるということである。なかなかこういうところが難しいんだな。まだ観ていない映画が山程あるので、しばらく休日はひたすら映画デーになるだろう。次の休日が楽しみである。何かあったら映画を観て忘れよう。
世の中どんどん悪くなる!
財布の中身がどんどんなくなっていく!
私生活がどんどん悪くなる!
いいこと全くなし!
ディストピアへ全速前進!
世紀末はもうすぐそこだ!
愛とは何か!
正義とは何か!
常識とは何か!
規則とは何か!
マナーとは何か!
しあわせとは何か!
誇りとは何か!
そんな問いにキッパリ背を向けて、
ヤケクソ笑いでビール片手に地獄のハイウェイを突っ走る800年くらい!
クラッシュ!
キル!
デストロイ!
FUCK EVERYTHING !
みんなでフューリー ロードを爆走しよう!
WHAT A DAY!!WHAT A LOVELY DAY!!!

2017年8月22日火曜日

考えごと

 またまた更新できずに申し訳ない。ここ最近仕事でもプライベートとでもいろんなことがあり、ちょっと疲れてしまったのである。疲れたのはつい一週間前くらいなのだが(笑)。まあそれ以前もいろいろ考えなければならないことがあり、なんやかんやで気がついたら月日が流れていたということである。意味不明で申し訳ない(笑)。この一週間、いろいろ考えごとというか悩みごとというのか、いろんなことを考えていたのである。あまりストレスになるのはよくないので、考えたくないといったら考えたくないのだが、考えざるを得ないような感じであった。ストレスとの付き合いは数年前に比べれば圧倒的に今の方が上手く付き合えているので、できるだけストレスなく生活している。数年前であればかなりのストレスになっていた可能性はある。まあ、考えていたことはただ単に、いってしまえば人間関係である。この人間関係といってもかなりの幅があるので、どういう人間関係かはここでは断定しない。いろんな意味での人間関係である(笑)。まず、自分が思っていたことと相手が思っていたことが違っていたということである。自分はこういうつもりだったが、相手はそうは思っていなかったということだ。よくある話である。もっと早くに、それに気付くべきであった。でもなかなか気がつかないものなのかもしれない。または気がついてもそれを信じくないのかもしれない。そして大切なことは直接言わなければならないということである。言い辛いことでもやはり面と向かって言わなければならない。私はそういうのから逃げてしまったのである。大事なところでそういうのが出てしまうのだな。そして感謝のことばであったりそういうのもちゃんとことばにして言わなければならないということである。電話やメールで言ってもそれはなかなか伝わらないということである。逃げた自分が悪い。相手が嫌がっていることにも気がつかないこともある。他の人たちはそうは思っていなくても、その人にとっては嫌と感じることがある。それに気がつかないのはやはりダメである。相手の様子をしっかり観察しておかなければならない。それができていなかった。私は頭は悪いが、人間としてちゃんとしていたい、そうありたいと思って生きていたが、それには程遠いということである。それにショックを受けた。自分は他の誰にでもない存在でありたいと思って、他の人と違うことをやって、違う表現をして、赤の他人から見れば失礼なヤツだと思われても、わかっている人にしたらそれが私なのだと、そういう存在でありたいのだが、やはりそれがなかなか伝わらないこともあるということである。人間みんな違うということだ。それを見極める能力が私には足りなかったのである。その日やってくれた、やってもらったことを次の機会にお返ししようと思ってもダメなのだ。その場その場でことばにして伝えなければならないことは伝えなければならない。その当然のことすら私にはできていなかったのである。人によって見方は違うが、その人には私はそういうヤツだと思われても仕方がない。私がどういう人間かはその人が判断することである。私は自分はこういう人間ですといってもそれは意味のないことである。世の中、やり直しができないから今を必死で生きなければならない。戻りたくても戻れないのである。あのときこうしておけばよかったとか、そんなこと考えても意味もないし、考えてもそれがどうなるわけでもない。今しかないのである。取り返しのつかないことをしてしまった。戻れるものなら戻りたい。その後悔がものすごく大きいのである。私は人付き合いは極端である。自分に対して会ってくれたり、話をしてくれたりする人にはやはりそれに全力で応えたい。自分の好意を振り払うような人は私は縁を切る。しかし、今回は私に対して好意を持って接してくれている人を私自身がそれに応えていなかったのである。とんでもないことをしてしまった。至らないところが山程あった。本当に申し訳ないと思う。人に対して偉そうなことをいっているが、できていないなっていないのは紛れもなく私自身であった。悔しいの一言である。私に対してやってくれたことは本当に感謝しかない。いろんなことをたくさんの時間とお金をかけてやってくれた。本当にいろんなことを考えてくれた。それを私は裏切ってしまったのである。自分が嫌になる。自分は今まで何をやっていたのかと思う。謝罪と感謝、その二つしかない。そんなことをこの一週間いろいろ考えていたのである。ちょっと疲れてしまったな。今日は久しぶりの休みだったので、ずっと家でゆっくりしていたのである。毎日何かを学び続けていかなければならない。今当たり前にあるものもそれが当たり前でなくなることがある。昨日楽しく話していた人と、もう二度と会えなくなるということもある。だから今を必死で生きなければならないのである。そして感謝を伝えなければならない。それが当たり前にできる人間になりたい。