2018年6月28日木曜日

“アゲて”いけ!!

 気が付けばもう6月も終わりである。数日前くらいから急に暑くなり、一昨日からクーラーをつけたのである。沖縄では梅雨が明けたらしい。もう7月である。今年も半分が終わるということだ。本当に早いなー。

今回『ピッチ・パーフェクト』という映画を紹介したい。これは全部で3作品あるのだが、3作目はまだソフト化されておらず、アメリカではすでに販売されている。この作品は2012年公開なのだが、1作目はヒットはしたのだが、そこまでヒットはしなかった。そのせいで日本で当時公開されなかった。2作目のときにこれが爆発的ヒットとなり、そのとき公開されていた『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』をヒットチャートから引きずり下ろし、そして同日に公開された『マッド・マックス/怒りのデスロード』の倍近くの興行収入をあげたとんでもない作品である。その影響もあり、やっと1作目が日本で公開され、ソフト化もされた。日本の映画会社が大作で30憶40億のヒットを狙う以外は中規模な5億円くらい稼ぐ映画はわざわざ公開しなくなったのである。外れたらお金を捨てることになるので、大物狙いになってしまっている状態である。なのでこういう映画も見捨てないでほしいと心から願うばかりである。この映画がなぜ世界的に広がっていったのかというと、これはYouTube絡みで、『Cups』というこの映画で出てくる歌がめちゃくちゃ流行ったのである。プラスチックのコップを使ってそれをテンポをとったりしてパフォーマンスをするのだが、日本では映画は公開されなかったがこの『Cups』というか、このパフォーマンス、遊びは浸透したのである。そうやってどんどん世界に広がっていったのである。
 まず、『ピッチ・パーフェクト』の意味であるが、“Perfect Pitch”ということばがあるのだが、これは“絶対音感”という意味で、『ピッチ・パーフェクト』は“音程が完璧”、“絶対に外さない”などの意味がある。主人公が大学に入学していろいろあってアカペラ部に入部することになり、それで全国大会を目指すという内容である。そのアカペラ部はみんなバラバラでめちゃくちゃでもうダメダメなんだが、アカペラを通じて一つになっていくというもう映画を観なくても結果の想像がついてしまうちょーベタな映画である。と、カッコつけて上から目線で言ってはみたものの、ここで言っておかなければならないことがある。というか白状しなければならないことがある。それは・・・、はい・・・、すみません、・・・泣いてしまいました(笑)。ちょっと、もう、感動してしまったのである。ありきたりな内容なのだが、すばらしい映画だと思った。ただただそのアカペラ、歌によって感動したのではなく、この映画は全編通じて下ネタが満載の映画なのだ。映画冒頭のゲロシーンから始まり、そのアカペラ部に集まったメンバーが、黒人の子はレズビアンでメンバーにいた女の子の体をすっと触ってるし、ソプラノの女の子はいわゆるヤリマンの子で、ずっとセックスばっかり考えてきたり、アジア系の子は声が小さくて全然聞こえなかったりともうみんなめちゃくちゃなのだ。そしてエイミーという太った女の子もメンバーにいるのだが、この子は自分のことを“FAT AMY”と言って“デブのエイミー”と自分でいうのである。その理由は、痩せた女の子に陰でコソコソデブって言われる前に先に自分で言っておくのよ、というもの。すばらしいとしか言いようがない。本当にカッコいいと思う。この映画の中で、他のアカペラ部たちとアカペラバトルをするシーンがあるのだが、これを“Riff Off”といい、与えられたお題(縛り)をもとに即興で歌っていき、相手が歌っている歌の中に出てくる単語を引き継いで自分の歌にもってきてリードを奪うという、いわば歌のしりとりをやっていくのだ。例えばお題が“80年代女性シンガー”というお題が出ればそれをもとに即興で歌っていくのだ。もし途中で歌えなかったり、80年代女性シンガーの歌ではなかったり、引き継いだ単語が違っていたりすればそこで“CUT OFF!!”となって負けになるというルール。映画を観ていたらみんなバンバン歌っているので簡単そうに見えるが、これはものすごくハイレベルな争いをしている。その歌の歌詞をちゃんと覚えておかないといけないし、相手が歌っている歌も当然知っておかなければならないし、音楽そのものの知識も豊富でなければならないし、そしてそれを即興で歌っていかなければならない。これはめちゃくちゃレベル高い争いである。
 
主人公は最初、他のメンバーや先輩たちとも合わず、まったく協調性がないのだが、後半に非常に重要になってくる映画が出てくるのだが、それが『ブレックファスト・クラブ』という1985年の映画があるのだが、それを観た主人公がそこからチームワークを立て直していくのだが、この『ブレックファスト・クラブ』についてなんの説明もないまま話が進んでいってしまうので、『ブレックファスト・クラブ』を知らない人は、なんでそこから主人公は変わっていくのか、というのがわからないのである。というかわざわざ説明しなくてもわかるでしょ、という感じかもしれない。それくらいアメリカでは有名な作品だということである。ということで恥ずかしながら私も観たことがなかったので、さっそく取り寄せして観てみたらこっちもすごかった(笑)。簡単に説明するとこの映画はとある高校が舞台で、アメリカで初めてスクール・カーストの存在を暴露したすごい映画なのである。土曜日に問題を起こした生徒たち5人が集められて、帰る時間までに図書館にこもって作文を書けと先生から言われる。そこに集められたのがそのスクール・カースト、ヒエラルキーの頂点にいる金持ちのモテモテの女の子、同じく頂点にいるレスリング部のキャプテンの男の子、いじめられっ子のオタクの男の子、暗くて友達がいない女の子、そして周りから怖がられている不良の男の子が集められる。アメリカの学校にはクラスがなく、友達と集まるとなればスポーツマンはスポーツマン同士で、オタクはオタク同士で、みたいな感じにカテゴリーで集まり、違うグループとは互いに話をしないのである。でもそこではじめてバラバラの子たちが集まり、互いの悩みを打ち明けあって互いを知っていくという話なのである。でもこれがアメリカに衝撃を与えた作品だったのだ。アメリカっていうのは自由と平等とかいっているくせに、学校ですら階級があるのかと。全然平等じゃねぇよと。アメリカのタブーを暴いてしまった作品なのだ。図書館に集められた生徒たちは喧嘩をしたり、言い争いをしたり、涙を流しながら心にあるものを打ち明けていく。そして互いを知っていく。そしてその図書館で“友達”になっていく。でもそこで言うのだ。「月曜日の朝、学校で会っても、廊下ですれ違っても、」互いを無視するのかな」って。でも、「それはやめようよ」と。「もし廊下ですれ違ったら声をかけてくれないか」、という話をして、それがこの『ブレックファスト・クラブ』の主題歌になっている『Dont' You』という歌になっている。「道ですれ違ったら声をかけてくれる?僕のことを忘れないでね。去っていっても僕の名前を呼んでくれないか」っていう歌なのだ。それがこの『ピッチ・パーフェクト』の主人公が観るのだ。そしてこの『Don't You』と最近のジェシー・Jのヒット曲の『Price Tag』をマッシュアップしてアカペラで歌うシーンが出てくる。もうこのシーンはちょーサイコーで、だれもが予想できるちょー王道パターンではあるが、涙が勝手に流れてきてしまうのだ。歌の力を感じるのだ。様々な人種が集まって、みんな何かを背負って生きている。それでも私たちは前に進んでいくのだとそんなメッセージにも聞こえる。本当にすばらしい映画だと思った。日本では絶対にできない下品なネタも満載である。これも私はすごいと思っていて、下品の限界がないのがアメリカである。すごいよ本当に。『ピッチ・パーフェクト2』では当時大統領だったオバマ大統領が冒頭に登場するのだが、これがゲロシーンよりもすごいことになってしまう(笑)。とにかくすごい(笑)。観ていて本当に元気になる映画であるし、歌ってやっぱりいいなーと思わせてくれるすばらしい作品である。もし余裕があれば『ブレックファスト・クラブ』もおススメである。こちらも私は泣いてしまった(笑)。今回紹介した映画は、珍しく誰も死なないかもしれません。

11 件のコメント:

  1. そうですか、瀕死状態ですか…
    忙しいうえに新しいことを覚えなくてはいけないのは大変ですね。
    今日もお疲れ様です。
    そんな状況下でもいつも欠かさず返信をいただき、ありがとうございます。
    以前にも書いた通りですが、勝手に読者をして人様の大切なブログにテキトーなコメントを投稿させてもらっているのはこちらのほうですし、返信をいただけるだけでも恐縮です。
    『ピッチ・パーフェクト』のご紹介もいただきました。
    調べてみるとこちら日本海側の山奥(笑)では、このタイトルはちょっと“探す”必要があるようですが、もちろん日々の懸案事項の最優先にリストアップです。

    もうすぐ6月も終わってしまいますね。
    私も“アゲて”いければよいのですが、例の出張まであと何日、それまでにコレとソレを終わらせて、あぁそういえばアレもあったかとか、出張がはじまっても時々は戻って、アレとコレもやっておかなきゃいけないなとか、最近はずっとそんなことばかり考えていて、自分一人がウジウジしている間に、当たり前ですが“世の中”も“長渕の仙台”も、どんどん流れていってしまいました。(そういえば最近、立て続けに新曲がまた披露されてましたね)
    天神祭・ヒルトン大阪・コロッケは仕方がないとしても、土曜日の仙台までもが流れてしまった(一般販売が予定枚数終了になっていた)のは、自業自得以外の何物でもないですね、これは。
    さっさとあきらめて頭を切り替えて、今度は仙台に行く手はずを整えればよかったんです。
    SAMURAIさんから、“仙台の土曜日は残が少なくなっている”との注意喚起をいただいていたのに、私はそれを無駄にしてしまいました。
    現時点で、WALKMANで546時間も“予習”をしていたのに(笑)
    こういうのを経済学的な言葉ではサンクコストというらしいですね。
    埋没して、もう回収できないこと。
    …でも、ネットの画面で予定枚数終了、という文字を見た時、心のどこかで少しホッとした自分がいたのも正直なところです。というのも、「予定枚数が終了したから行けなかった」という言い訳ができたわけですから。出張中の日々がどうなるのか分からないという不確かさと、2か月後にまた今までの仕事に今までの“温度”でちゃんと自分は戻れるのかという不安の中、大阪公演と同様に仙台まで行ってくる気力と体力があるのか、それもウジウジ考えていたんですね。
    始まる前から考えたって何にもならない、考えたところで何も変わらないのに(笑)
    今更、自分でも分かっていますが、あらためて自分には買い物に対する免疫がないというか、お金の使い方が本当にヘタだなーって思います。こんなことをしているからやっぱり私は21%の人生なんだな、と。
    難波宮跡には2回もせっせと行ったくせに(笑)


    返信で、100mを10秒で走れるかという話と、人生は過程の連続だという言葉がありました。
    ホントにそうだよなーと思いましたね。
    というのも最近、『頭に来てもアホとは戦うな!』(田村耕太郎 著)という本を読んでいました。
    この本は、書店でたまたま立ち読みをはじめて2ページ目で、「これは買って帰ろう」と思いましたね。今後は深夜特急の隣に置かれることになる本だと思います。
    購入を即決することになった部分を一部引用させていただきます。

    …「アホ」というと、…むやみやたらにあなたの足を引っ張る人だ。…そんなとき、悔しさで仕事が手に着かなかった経験はないか?なぜ自分にばかり厳しく当たるのだろうと、くよくよしたことはないか?はらわたが煮えくり返り、家に帰ってもなかなか怒りがおさまらなかったことはないか?しかし、間違っても「やり返してやろう」などと思っていないことを祈る。要は、あなたのそうした思考が最も危険なのだ。…戦うべき相手は人間関係で「くよくよ悩む自分」「腹を立てる自分」だと思ってほしい。…そもそも、日本人は他人に関心がありすぎる。…これからは、自分が本当に何がしたいのか?そのために何が必要なのか?そっちに専念したほうがいい。それがわかれば、他者のことを気にする暇なんてないことがわかる。戦うべきなのは、“アホと戦う”なんてアホなことを考えてしまう自分のみ。…(アホな人間は)放っておけばいいのだ。無駄に戦えば、あなたのほうが人生を大事にしない最低のアホになってしまう。…

    以前の、『どう捉えるか』という投稿に、以下の文章がありました。
    …戦争は自分の生活とかけ離れている遠い存在と思っていたがそれは間違いで、…そして登場人物の心理が日々の日常での心理にすごく貴重なヒントになるのである。この状況に自分はどう決断するのか。どういう答えを導き出すのか。戦争映画はただ戦争の悲惨さを教えてくれるだけではないということである。…

    『プライベートライアン』『ハート・ロッカー』『アメリカン・スナイパー』の3作品をみて、私の場合は『プライベートライアン』においてSAMURAIさんが指摘された、“登場人物の心理が日々の日常での心理にすごく貴重なヒント”になりましたね。
    つまり、『プライベートライアン』では、ライアン自身が望んだわけではないのに、軍の上層部がいわば“勝手に”前線からライアンを帰還させること決定し、その“後始末”のためにミラーたちが危険を承知でどこにいるかもわからないライアンを探しに行くはめになる、ということでしたが、命がけでやっとみつけたライアンが全くの別人だったときのミラー一行の反応、そして、本物のライアンをみつけて迎えに来た事実を告げたときのそれぞれの反応、ですね。

    なぜここの部分を取り上げたかというと、ここ最近ずっと書いている例の出張がらみなんです。
    人手不足の中で2か月も職場を離れて一人だけ出張に行く、このことは私が自ら望んだわけでも自ら決めたわけではないんです。でも、上司の業務命令のうちだから、私としては行かざるを得ないのです。
    別に他のスタッフが私に直接、例えば「こんなに忙しいのにさらに抜けるなんて、お前一体何を考えているんだ。何で断らなかったのか」と、くってかかってくるということはもちろんないのですが、でも口には出さなくても心のどこかでは多少は「えー…こんな状況でも行くんだー…」って思っている人はゼロではないと、私は思ってしまうんです。勝手に、ですが。
    というのも、今までの経験から、例えば何か新しい資格を自ら進んでとるために、それこそ半年とか1年とかもっと長期にわたって職場を離れて研修に行った人がいて、その人が不在の間は残りのスタッフがその人がやるはずだった仕事をカバーしているわけですよね。で、その人が研修を終えて戻ってきた時、これからはその人が研修で学んだ知識や技術を生かして今の業務がもっと進歩するようにリーダーシップを取ってくれると周囲は期待するわけです。
    でも、例えば家庭の事情とか、健康上の理由とか、やむを得ない事情でせっかく得た知識や技術を生かすこともなく職場を去った、という事例が数件続いたことがあって、その時の職場の雰囲気はもう最悪でしたね。
    組織としても、所属部署としてもその人の研修参加のために結構な“投資”をしているのに、それを活用することなくいなくなってしまう…
    周囲がその人に対して文句のひとつでも言いたくなる気持ちも分からなくはないのですが。
    でも、本人としても周囲としても、お互いどうしようもないことなんですよね。
    私の場合、2か月にわたって“投資”をしてもらうことには変わりないのですから、出張が終わって職場に戻ったあと、私もそれなりのことはしなければなりません。
    上司からも部長からも、それをすることが周囲への恩返しになる、みたいなことを先日言われましたね。
    …分かってるよ、そんなことぐらい。そう言いたい気分ですね。
    さっき書いた通りで、ただでさえ出張中がどうなるか分からないし、そもそも2か月後にリーダーシップうんぬん以前の問題でいままでの温度で仕事に戻れるか、それすら不安で仕方がないというのに。そもそも自分で望んで決めたことでもないのに。天神祭もヒルトン大阪もコロッケもみんな、あきらめたのに。

    分かりにくい説明ですが、今の自分のこういう状況と、先ほど引用した『頭に来てもアホとは戦うな!』の、「日本人は他人に関心がありすぎる。“アホと戦う”なんてアホなことを考えるな」という言葉と、『プライベートライアン』でのそれぞれの立場での言い分と、SAMURAIさんの、みんながみんな100mを10秒で走れるわけではないという一連の話と、『ペイン&ゲイン』での人生は過程の連続だという言葉と、それらが全部、melting potみたいになっていて、グルグルと私の中で回っている、そんな感じです。
    そうとしか、今は表現できません。
    最近はサッカーがらみの話題で、「半端ない」というセリフが早くも今年の流行語大賞か、などと言われていますが、先日のSAMURAIさんの投稿で、“地獄の底から愛を叫ぶのだ!!”という言葉がありましたが、これはなかなか印象的でしたね。
    これも何と表現したらうまく伝わるか分かりませんが、困難なときにあっても、たとえ“地獄の底”にあったとしても、腐ったり自分のことばかりではなくて、自分の足をやたらひっぱる“アホ”に戦いを挑むような無駄なことはせず、自分にとって大切な誰かに対して、地獄の底からでも“愛を叫ぶ”ことができるような人間性というか度量があったらなぁ、と思いました。
    今の私なら、地獄に落ちた時の衝撃ですでにチーン…となっているのがオチ、そんな状態ですね(笑

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    1. Abbyさん、コメントありがとうございます。
      最近仕事はいろんな意味でもう本当に大変ですね。
      自分でもよくやっているよというかよく耐えているよと言いたくなります。
      Abbyさんもお仕事の方はいかがでしょうか。
      たかが仕事でなんでこんなにもしんどい思いをしなければならないのかと本当にバカバカしくなる毎日です。
      剛のライブの日が近づいてきましたが、大阪は大丈夫そうなのですが、武道館の方は初日が危うくなってきました。
      希望休を出していましたが、繁忙期ということで大阪の方で連休をとっていて次の週にも連休を取るのはダメだと言われました。
      うるせーよバーカ、と思いましたが、なんとか早く終わらせて途中から参加する予定です。
      当然ながら最初から参加したいのですが・・・。
      今回Abbyさんは参加が厳しそうですが、来年またなにかやると思います。
      なにをするにもタイミングがありますので、Abbyさんの今の状況を考えると私でも参加するかわからないです。
      私は今住んでいる東京と地元である大阪に参加するので、いってしまえばラクです。
      でもAbbyさんは遠くからの参加になるので、どの場所にしろ日程的にも金銭的にも格段に私よりもハードルが高くなってしまいますので、それがなかなかスムーズにいきませんね。
      今年のツアーは今出ているので終わりかどうかわかりませんが、
      来年もなにかやると思うので大丈夫だと思います。
      リハーサルの動画なんかも少し見せてくれているのですが、それを見るとテンションがアガッてきましたね(笑)。
      感想やセットリストなども書きたいと思いますので、またそちらもご覧いただけたらと思います。

      Abbyさん、もしや『プライベートライアン』、『アメリカン・スナイパー』、『ハート・ロッカー』をご覧になられたのでしょうか!?
      すごいですね。
      すばらしいです。
      同じ戦争映画というジャンルですが、
      それぞれが伝えようとしているメッセージが全然違っていたと思います。
      この中でAbbyさんが今の段階で一番印象に残った作品が『プライベートライアン』ということでした。
      話は変わってしまいますが、映画を観ていて、登場人物が自分の鏡になることがあるんですね。
      というか我々がそう観ているんですね。
      共感しているのもその類いだと思いますが、好きになれなかったりするキャラクターはそれは自分とは合わないと判断してしまうんですね。
      もしくはそのキャラクター像を受け入れたくないと思っているからかもしれません。
      ちょっと自分でもなにを言っているのかわかりませんが(笑)、映画を観ていていつもそんな感じがしますね。
      話を戻しまして、『プライベートライアン』は以前にもご紹介した記憶がありますが、どういう内容だったか忘れてしまいました(笑)。
      すみません。
      簡単にご紹介すると、監督はスピルバーグ監督で、この映画を作るにあたり、当時この作戦(ノルマンディー上陸作戦)に参加していた人に直接話を聞いてその中でも一番エグい描写をガンガンにぶち込んだ作品です。
      この映画の冒頭20分は凄まじかったと思います。
      映画史に残る20分です。
      この映画以降、こういったバイオレンス描写が一気に変わってしまった、変えてしまった作品です。
      Abbyさんがご覧になったスタローン関連の作品は、スタローン自身もやはりこの『プライベートライアン』の影響をかなり受けていると思います。
      この映画の映像もなのですが、音響もすごくて、自分の耳のすぐ横を銃弾が飛び交っているようにきこえるんですね。
      思わず避けてしまいそうになるくらいすごいんです。
      この映画を撮影する際、ライアン(マット・デイモン)以外の俳優たちはアメリカ軍の物凄く厳しい訓練を受けて撮影に挑んでいるのですが、ライアン役のマット・デイモンは訓練を受けずに撮影に参加しているのですが、これはわざとそうしていまして、ライアン以外の軍人たちとライアンの“温度差”をえがくためにやったことなんです。
      俺たちはあんなに厳しい訓練を受けたのに、なんであいつはなにもせずに撮影に参加しているんだよ、という空気になっていたのですが、それは意図的にそうしているんですね。
      話は逸れますが、戦争映画を撮影するときは俳優たちはアメリカ軍の訓練を受けて参加することが多いです。
      『ハート・ロッカー』では、通常だと俳優一人ひとりにトレーラーハウスみたいなものが撮影時に用意されるのですが、この映画の撮影時はそういうものは一切用意されませんでした。
      まぁ、『ハート・ロッカー』は有名になる前の俳優たちを出して、誰が死ぬのか生き残るのかわからないようにそうしたと監督は言っていました。
      有名俳優だとこの人は最後まで生き残るんだな、と観てる側の予想がついてしまうからだと言っていました。
      話はもどりますが、Abbyさんの仕事環境であったり、もちろん私のところもそうですが、日々思っていることや予想していること、予定になっていること、などはそうなるわけではないということだと思います。
      一言で言ってしまえば、なるようにしかならないことが多いのだと思います。
      そしてあらゆることに神経質になったり心配したりするのは日本人気質なのだと思います。
      私はいつももっとテキトーでいいやん!!と思ってしまいます。
      ほんの少しの違いでも謝らないといけないし、自分が悪いわけでもないのに謝らないといけなかったりと、はっきり言って意味不明、理解不能です。
      我々はいちいち気にしてしまうんですね。
      そして受け手側もそれに慣れてしまってそれが当たり前になっているので、そうしないと受け手側も納得できなくなっているから余計です。
      もっとテキトーでいいと思っています。
      外国のどこだか忘れましたが、今日雨降っているから仕事行くのやめよー、っていうのがあるみたいです(笑)。
      そして受け手側もそれをわかっているので、今日雨だから誰も働きにこねーよ(笑)、っていう感じで、これを聞くとその国にすぐにでも行きたいですね。
      大都市のニューヨークもそういったテキトーなところもちゃんとあって、地下鉄なんかでも本当は停まるまずの駅なのに運転手の気分次第で停まらないこともありますし、車内でもサックスの演奏バトルが繰り広げられたり、そして周りにいる乗客たちもそれを楽しんで拍手喝采であったりとそんなところでもあります。
      日本では終身雇用というのは少なく?なってきたといわれますが、でもみんな仕事をしていて、周りの誰かが辞めることを前提に仕事をしているのはなかなか少なくのではないかと思います。
      しかし外国では10年も働けば長過ぎると言われるほどで、みんな次のステップに行くための今の仕事としてやっています。
      なので指導する側も、次の仕事にいったときもこれは役に立つよ、みたいな感じで仕事を教えたりするみたいです。
      その場所に留まることはなかなかないんですね。
      でも日本にはそんな雰囲気はありません。
      そこからもいろいろやりにくさや不安なんなも滲み出てきているのかなとも思います。
      どれだけ心配しても結局はなるようにしかならないこともありますし、
      なにをするにしてもお互い様だと思うので、何かに対していちいち文句を言ってる人は自分のことしか頭にない、自分がラクになることしか考えていないんだと思います。
      逆の立場になれば態度が急に変わるなんてことは目に見えています。
      だから“お互い様”なんだから、とそう思ってしまいます。
      なのでAbbyさんご自身が納得してトライすることなので、その貴重な時間をある意味“楽しんで”やった方が絶対にいいと思います。
      私みたいに毎日白目むきながらゾンビみたいに仕事して、休日は映画観て寝て映画観て寝てという人生の貴重な時間をガンガンドブに流していることとは天と地の差があります。
      なのでAbbyさんの決断は今後どこかで大きな変化になることは間違いないと思います。
      みんな安心安定というものを求めてしまいがちですが、そういう人に限って一番不安定なんですね。
      確かにいろいろ大変で不安なことがたくさんありますが、“変化”をある意味楽しんでくるくらいの気持ちでいたほうが気分が少し変わってくるのではないかと思います。
      地獄でも楽しめた方がいいに決まっていますからね。
      地獄をも味方につけたらサイコーサイキョーですよ。
      なんでもできますからね(笑)。
      私も地獄にいてでも自由でありたいと心から願っていますし、そうしなければならないといった概念から解き放たれたいので、私は自ら望んで地獄の底まで行ってやります。
      それが人生を楽しむコツ、周りの人とは違った私だけの楽しみ、違った視点での物事の捉え方ができるのではないかなと思います。
      今日も地獄の底から愛を叫んでいます(笑)。

      地獄の底にて

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    2. Abbyさん、すみません追加で返信させていただきます。
      というか、今回いただいたコメントとは全く関係ないのですが、少し前に『ファイト・クラブ』でいろいろ解釈の仕方について意見を交換いたしましたが、
      そのあとも私も何度か『ファイト・クラブ』を観ていたのですが、最後のシーンについて付け足したいことがあります。
      Abbyさんが『ファイト・クラブ』でお気に入りのシーンで、コンビニで働いているレイモンドをお店の裏で銃を突き付けて脅すシーンがありますが、私はこれが最後につながっているのではないかと思いました。
      監督のデヴィッド・フィンチャーはこの映画の監督を引き受ける際に、監督はこの映画の原作を読んだことがありませんでした。
      そこで以来の電話がきたときに、原作のワンシーンを聞いてこの作品を映画化することに決めたのですが、そのシーンがこのレイモンドを脅しているところなんですね。
      このシーンを電話で聞いてフィンチャー監督は「これだ!!」と決めたみたいです。
      なのでこのシーンはこの映画の中でも非常に重要なシーンなんですね。
      タイラーは銃を突きつけて言うんですね。
      お前は何をやっているんだ?
      こんなところで働いていてもショーがないだろ。
      お前は何になりたいんだ?
      お前は何になりたかったんだ?
      お前の夢は何なんだ?
      って言うんですね。
      ここで俺はお前を殺さないでやるよ。
      殺されるよりマシだろ。
      その代わり死ぬ気で勉強しろ。
      俺はお前の住んでいる場所もわかった。
      俺はお前をすーっと監視しているからな。
      お前が夢に向かって、目標に向かって、死ぬほど努力しないで、ただダラダラと生きていたら殺しに行くぞ。
      今はお前を生かしてやるよ。
      テメーの人生を生きろ。
      誰のものでもないテメーの人生だ。
      今お前は殺されるところだった。
      死んだ気になれば死ぬ気になれば何でもできるだろ。
      お前は生き延びたんだ。
      明日迎える朝は人生で一番美しいぜ。
      今までで一番うまい朝飯にありつけるぜ。
      ということです。
      人間どうせ死ぬんだ。
      明日死ぬかもしれない、この瞬間死ぬかもしれない。
      だったらグズグズせずに自分のやりたいことをやれ。
      グズグズしている暇なんてないんだ。
      明日死ぬかもしれないんだぞ。
      もし死ぬときになにも努力していなかったらすげー悔しいだろ。
      だったらしろ。
      ファッションとかモノとか全部忘れろ。
      安全なところにいるな。
      世間が与える欲望とか世間が与える夢にだまされるな。
      本当にお前がやりたいことをやるんだ。
      やりたいことが分からなかったら死に近づけ。
      そしたら本当にやりたいことが見えてくるはずだ。
      そしてラストシーンで男性器が一瞬映し出されますが、
      あれはこの映画を観ている我々に向かっているメッセージで、
      それはタイラーが我々観ている側、お前を監視しているからな、ということなんですね。
      映画館でこの映画を観ているとして、映写室にタイラーがいるということなんですね。
      お前のことずっと見ているからな、ずっと監視しているからな、ということなんです。
      もしお前が死ぬ気で生きていなかったら殺しに行くぞ、ということなんです。
      いやー私なんか8千万回殺されていますね(笑)。
      しばらくこの『ファイト・クラブ』を観ていてそういう気がしました。
      何度観てもすばらしい映画です。
      すみません、関係ない返信でした。

      削除
  2. お疲れ様です。

    西日本各地が大雨の被害で大変なことになっていると思ったら、今度は猛暑ですね。
    もう10年以上も前のことですが、こちらでも7月の大雨の後に堤防が決壊し、市内が泥水につかったことがありました。
    この話は前にも書かせてもらったことがあるかもしれません。ダブっていたらすみません。
    川の南側の方に向かって堤防が決壊したので、実家のほうにも泥水は来たんですが、前述の通りで実家があるあのあたりは決壊地点からかなり離れていますし、周囲はほぼ水田しかありませんから、水田のぶんだけ周囲は一段低くなっているので家屋の浸水までは至りませんでした。しばらくして泥水が引いてみると、普段はきれいな緑色の稲が見渡す限り一面、泥まみれになっていたのを思い出します。泥水につかって使い物にならなくなった大量のゴミや家財などは、いったん市内の競馬場跡地に山のように集められたのですが、これはものすごい光景でしたね。
    断水もしばらく続きました。自衛隊?の給水車とかが来てくれて、両親も給水の列に並んだと言っていました。普段当たり前に使用している水道ですが、文明のバロメーターというか、本当はもっと感謝して使わないといけないものですね。今はもう決壊地点もきれいに整備され、慰霊碑とかもできていますが、あの出来事自体がすでに風化してきた感があります。もうあんな事態にならないことを祈るのみですね。
    先月の18日ですが、大阪府は地震がありましたね。高槻のほか、“北区”もかなりの震度だったとニュースでやっていました。北区というのは東急REIとか、あのあたりのことも含むと思いますが、SAMURAIさんのご実家やご親戚など、大丈夫でしたでしょうか。
    毎年必ず日本のどこかで何か大変なことが起きていますね。とても残念なことです。

    『ファイト・クラブ』の新しい解釈について。
    追加でご返信をいただきました。
    ありがとうございました。
    「なるほどね~」と思いながら拝見しました。
    なのでもう一回、TSUTAYAで借りてきました(笑)
    ツインピークスの映画版と、例の『ピッチ・パーフェクト』も入手の目途がついて、出張が本格的に始まる前にやっと見ることができたのですが、最近はやたらとやらなければならないことが多くて、その後の読者業がろくにできていないことも天気と同様に非常に残念です。

    タイラーが弾を装填していない銃でレイモンドを恐喝するシーンですが、やっぱりサイコーですよね!
    「生贄にする」といってタイラーがコンビニに乗り込んでいくわけですが、この映画において生贄というのはスペースモンキーのくだりにも関係してくると思います。
    つまり、“大きな目的を達成するためには尊い犠牲も必要”なのですから、レイモンドはその尊い犠牲になったわけです。
    ここでいう大きな目的というのは、SAMURAIさんも言及なさっている、「本当に自分がやりたいことを死ぬ気でやる人生を送る」ということです。
    私も含めて多くの人間が、本当に自分のやりたいことを死ぬ気でできているかと言われると、おそらく6週間後に片っ端からタイラーに殺されていることになる思いますね。
    「お前らは美しくもなければ特別でもない、他と同様に朽ち果てていくだけの有機物なんだ。」「俺達は歌って踊るだけのこの世のクズだ」とコキおろしておきながら、一方でレイモンドを“尊い犠牲”にすることで無駄な人生から彼を救っているんだと思いますね。
    タイラーはファイトクラブのメンバーに宿題を出していましたが、このレイモンドを尊い犠牲にするというのは、タイラーが自分自身に出した宿題でもあったのだと思います。
    メンバーには、「自分からケンカをふっかけておいてわざと負ける」というような宿題が出されていました。こんな宿題、フツーに考えたら絶対にできないことです。この宿題をこなすことで得られることは一体何か?
    タイラーの思考回路を理解するのは一筋縄ではいきませんね。

    SAMURAIさんの今回の解釈では、この恐喝シーンとラストで一瞬映し出される下半身の画像がつながっていて、我々が死ぬ気で生きているか監視してるからなというタイラーからのメッセージではないか、ということでした。
    確かに、タイラーはパートで映写技師をしていたという紹介のところで、ポルノ画像も一瞬だけでていましたので、そういうつながりも考えられますね。
    ラストの画像はタイラーの警告を象徴していて、漫然と自分の人生を無駄にしている人に対して一瞬だけ強烈な警告をブチ込んでくる、死ぬ気で生きていないとハッと気づかせてくれる、そんな感じなのかな、と思いました。

    改めてこの映画をみて、タイラーがファイトクラブのメンバーに演説するシーンがありましたが、それも恐喝シーンと同様にサイコーだなと思いました。
    「ここにいるのはこの世で一番強くて頭のいい連中だ。だが可能性の芽がむしりとられている。ほとんどの人間がガソリンスタンドの店員かウェイターだ。もしくは会社の奴隷だ。広告をみては車や服が欲しくなる。嫌な仕事をしていりもしないものを買わされるわけだ。俺たちは歴史のはざまで生まれ、生きる目標も場所もない。新たな世界大戦も大恐慌もない。今あるのは魂の戦争だ。毎日の生活が大恐慌だ。テレビにこうそそのかされたよ。いつかは自分も億万長者か大スターかロックスターだ。だが違う。少しずつ現実を知り、とうとう、頭がキレた」
    毎日の生活が大恐慌、これについては全くの同感です。
    決して、戦争が終わったわけではない。
    戦いは毎日の生活や“嫌な仕事”の中にあるんですよね。

    以前、ファイトクラブについてコメントを書かせてもらったときは、映画のラストで一瞬だけ画面が揺れることをどう解釈するか、ということについて返信をいただきました。
    SAMURAIさんの解釈では、“ビルが倒壊した”ということでしたが、私は確か、“コーネリアスの意識がタイラーとコーネリアスとの間を行き来していることをコーネリアス自身が認識し始めた”というようなことを書いたような気がします。
    画面が揺れるという表現方法は、映画のラストだけではなく、タイラーのモノローグみたいなシーンでも使用されていましたね。
    この映画において“揺れる”ことは何を表現しているのか、と考えた時、いろんな意味があるのかもしれませんね。“揺れる”ということは、安定していない・確定していない・どこか何か矛盾している・平穏な状態ではないとか、そういったニュアンスかと思います。
    タイラーはコーネリアス自身であって、そもそも生物個体としては実在しない存在であるにもかかわらず、多くの都市に多数のメンバーを擁する集団を作り上げていきました。それも当の本人であるコーネリアスが何も分からないうちに、です。
    これってよく考えたらめちゃくちゃ怖いですよねー(笑)
    自分が把握できてないところで、ものすごい計画が自分の指揮の元で着々と進行しているなんて。
    こういう矛盾というか平穏でないことというか、恐怖みたいなことを、この映画では“揺れる”ことで表現しているのではないかなーって今は思います。

    『ファイト・クラブ』の中で、コーネリアスが以下のことを言うシーンがあります。
    「土曜日の夜になると自分達がひとりぼっちじゃないことに気づいた。血まみれになることなんてなんでもない。男達の願望だった。それを僕達が実現した。みんなが喉元まで出かかっていたものを、僕達がひっぱりだした」
    また、タイラーとコーネリアスが一緒にバスに乗って、ブランド下着の広告をみて自己改善より自己破壊がいいと言うシーンがありました。
    また、タイラーがバスタブにつかりながらコーネリアスと話をするシーンで、コーネリアスが、「30にもなってまだガキだ」と自嘲するシーンもありました。
    これは、実際のところ、どうなんでしょうか?(笑)
    ファイトクラブは、何も話してはいけないというルールにも関わらずメンバーを順調に増やしていましたが、これはこのクラブが彼らにとってとても魅力的だったからですよね。
    つまり、SAMURAIさんも、(現実世界では別に誰かとケンカして血まみれになる必要はないですが)、こういった“美しいものを壊したい”とか、“自分で種の保存もできないパンダの眉間に銃弾を撃ち込む”とか、そういう比喩で表現される“男達の願望”みたいなものが、“喉元まで出かかっている”ことってあるもんなんでしょうか?
    “男達の願望”がファイトクラブでファイトすることであるならば、女性の場合はどうかと考えると、おそらく、誰かと殴り合いをして血まみれになりたいと思う人は少数派で、例えば、カワイイ以外でとくにこれといった特徴や用途もない、しょーもないような雑貨を仕事帰りに衝動買いしてしまうとか、友人同士で論理も結論もオチもない話を延々と繰り返すとか、本当に生活に必要な日用品やちゃんとした栄養のあるものを買えばいいのに、砂糖の塊みたいな甘いものばかりに手をだしてしまうとか、そういったことなのかなぁと思います。
    ケンカして血まみれになったところで現実世界での社会的待遇や生活がよくなるわけでもないですし、しょーもないモノなんか持っていたところで何の解決にもならないのですが。でも、きっとみんな、そういうことで何かしらのウサ晴らしをしたいのでしょう(笑)

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    1. Abbyさん、ご返信いただきましてありがとうございます。
      返信が遅くなりまして、本当に申し訳ありません。
      前回の投稿からかなり忙しい日々が続いておりました。
      かといって休みがなかったというわけでもありません。
      休みの日にも急に用事が入ったりしてなかなか落ち着いて家にいる日がありませんでした。
      本当に申し訳ありませんでした。
      しばらくの間でも猛暑であったり豪雨であったり台風であったりいろんなことがありますが、いかがお過ごしでしょうか。

      さて、『ファイト・クラブ』ですが、私が今までに何度か取り上げてきましたが、まともにこの映画について書いたことがなかったかもしれません。
      この映画ちょーサイコー!!くらいしか言ってなかったかもしれません(笑)。
      最近この映画の監督のデヴィッド・フィンチャー監督の言葉などいろいろ聞く機会があったというかいろいろ調べていたら見つけただけなのですが、そういうのもあって改めて付け足してみましたが、改めてこの映画についておさらいしたいと思います。
      この『ファイト・クラブ』は1999年の映画で、当時公開されたときは客が全然いませんでした。
      批評家からは、これはとんでもない映画だ、といろんな人からめちゃくちゃに叩かれました。
      女性差別、男性主義のとんでもない映画だ!!許せん!!みたいな感じでした。
      業界誌が、社会的無責任で許される映画ではないと当時は言っていたんですね。
      これと同じような叩かれ方をしたのが、
      67年の『俺たちに明日はない』という映画があるのですが、ハリウッドのシステムを根底から覆した革命的な映画があります。
      こういった革命的な映画は毎回同じような叩かれ方をします。
      でも、この後にこの映画を叩いた人は映画界から消えてしまいした。
      褒めたか叩いたかで、けなした人は人々の信用を失ってしまい、映画批評家たちがゴッソリ入れ替わりました。
      『ファイト・クラブ』も同じです。

      背景はここまでとして内容なのですが、
      はじまりはCG丸出しの神経が出てきまして、カメラが神経繊維をトラックバックしていきます。
      神経がドックンドックンしていますが、あれは脳の中の恐怖を司る部分の恐怖中枢というフィアセンターになっているところです。
      この映画ではカメラが図解してくれてすごくおもしろいシーンが度々出てきますし、この映画以外でもこういったシーンが出てきますが、これはこの映画が最初なんです。
      タランティーノ監督の『イングロリアス・バスターズ』でもそういったシーンがでてきます。
      映画の中のセリフで何か説明があるとちゃんと画面で説明してくれるんですね。
      例えば、主人公がこの飛行機が堕ちたらどうなるだろうなって想像すると、本当に飛行機が空中分解する映像になりますが、このシーンだけで億はかかっています。
      フィンチャー監督がこの原作に描かれている描写すべてを絵で見せると言ってつくっています。
      それで予算立てをしてとんでもない額になり、当時のお金で60億くらいかかってしまい、現在だと100億は超えています。
      それを20世紀FOXに通させました。
      はっきりいって大コケしまして、当時は大赤字で半分くらいしか回収していません。
      でもこの後大変なカルト映画になり、その何倍も何倍も回収していき、今だに止まらない状態です。
      まぁ映画なんてそういうものだと思います。
      本当に勝つかどうかは死ぬまでわかりません。
      この予算を払わせたのがFOX映画のルパート・マードックが予算を出しました。
      予算をとりつけたときにフィンチャー監督が言った言葉が有名で、「FOXのバカがよ、俺がこれからつくる実験映画に大作の予算を出してくれるってさ」って言ったんですね。
      最初から当たると思っていなかったんですね。
      難しい映画ですからね。

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    2. 主人公はサラリーマンで、結婚してなく一人暮らしで、部屋中IKEAの家具だらけで、主人公が部屋を歩いて行くとIKEAのカタログみたいにその商品の値段が出てきますが、これはカタログ人生を表現しています。
      生き方がカタログにしたがって、カタログのように生きているのを表しています。
      セリフの中でIKEAのカタログを見ながら、「俺という人間を表現してくれているのはどのテーブルだろう」と言います。
      バカバカしいセリフに聞こえますが、みんな「これって俺っぽくないよな」と言いながら服は家具を選んだりしていますよね。
      彼の部屋にはいろんなものがありますが、本当に大切なものがありません。
      オシャレばっかりで、冷蔵庫の中には自分で料理しないのでろくに食べ物もありません。
      基本的に生きる能力が失われています。
      そ」で会社に行ったりすると、スターバックスのロゴが映ったりしますが、日本のテレビだと商品が映ると隠したりします。
      逆に出てくる場合はお金をもらって宣伝しているときです。
      でもこの映画ではスターバックスの宣伝でもなんでもなく、「もうスターバックスとかそういうブランドばっかりじゃねーかよ!」というイヤがらせでスターバックスを見せています。
      これはすごいです。
      スターバックスの許可なんかとっていないですし、とれるわけないんですね。
      スターバックスとかクソ喰らえだと言ってスターバックスを映します。
      あとフォルクスワーゲンの前の型を新しくリメイクしたビートルを壊すシーンがありますが、それもビートルだからこそ壊しているんです。
      ビートルもともとナチが作った国民車なんですがそ」は置いておいて、ビートルというのは60年代にアメリカのデカい車に対してヒッピーの自由な気持ちを表現するためにヒッピーたちはビートルに乗りました。
      ビートルというのは自由の象徴だったんですね。
      それをフォルクスワーゲンが新しくビートルを作ったときに女性向けに販売しました。
      CMとかで、かわいいでしょ、女の子に似合うでしょ、みたいな感じでビートルを販売しました。
      それをブラッド・ピット、エドワード・ノートン、デヴィッド・フィンチャーは「ふざけんじゃねーよ」、「ムカつくぜ」、「オシャレとかかわいいとか言ってよ」、「大衆に迎合しやがってよ」と言ってそ」を破壊しているんですね。
      特定の商品を大っ嫌いと言って壊してしまうのはこれはすごいことです。
      日本人は叩かれるのをビビってこういうことは絶対にしませんけどね。
      俺たちの人生は結局はカタログから選んでいるだけなんだ、何か選んでいるだけで、人生とか恋愛とか結婚とか就職とか結局何かオプションがあって、選択肢があって、そこから選んでいるだけじゃねーかという話なんです。
      だから本当の人生なんてそんなところにないじゃないかということです。
      いろんなものを買うだけで、その欠乏感が癒されないでどうしようということで主人公は生きている実感が得られないから、末期癌とかいろんな病気の患者たちが集まって互いを慰め合うセラピーに患者のフリをして参加します。
      そこで死を目の前にしてギリギリの状況にある人たちの本当の感情を生きるか死ぬかのシュミレーションをして、そこで涙を流したりします。
      これは要するに感動病というものです。
      感動をもらいました、みたいなヤツですね。
      感動が商品化されているんですね。
      恐ろしい世の中です。
      感動をくれました、というふうにとりひきされるものになってしまっています。
      “泣ける”というのも泣きたいという気持ちがあって、「あの映画泣けるよね」とか言う人がいますが、まさにそういうところに行って患者たちに会いに行って主人公は気持ちがいいんですね。
      主人公は自分のことをツーリストと言って、悲しみとか苦しみを外側から見ているだけですから、旅行や観光客みたいなことを言います。
      毎晩死を経験するということなんですが、死が近くにないという一つ大きな問題になっています。
      死を近くに体験したいからそれをわざわざ買いに行っている状況です。
      少し話が変わりますが、主人公の俳優はエドワード・ノートンという俳優なのですが、彼はお坊ちゃんで、彼の親は大富豪です。
      そして彼もイェール大学で、おじいちゃんはショッピングモールの開発者で、お父さんはカーター大統領の顧問弁護士で、彼は五ヶ国語をしゃべれるんです。
      でも、これじゃダメだと言って彼は家の後継やらを捨てて、タクシーの運転手になったり、レストランのウェイターになったり、日本に行って貧しい人のための家を建てるボランティアに参加したりしていましたが、これはまさしく『ファイト・クラブ』の主人公と同じで、彼自身なんですね。
      これじゃダメだ、俺は甘やかされている、本当に生きてねーよ、と言って飛び出した人なんですね。
      この映画でこの役をエドワード・ノートンにやらせているのはすごいなぁと思います。
      それを知って映画を観ていると涙が勝手に流れてきます。

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    3. 主人公は仕事で飛行機で飛び回っているうちにタイラーと出会います。
      そしてタイラーは主人公に向かって、「あんた利口そうだな」って言うんですね。
      「利口っていい感じかよ」って。
      これはすごいです。
      最近はテレビでもネットでもそうですが、み?な自分が利口だと思われたいと思っています。
      コメンテーターもそうですしお笑い芸人もそうですし、ネット民もそうです。
      俺の方が利口だ!と競い合っています。
      それって何の意味があるの?
      利口ってそんなに偉いことなの?
      全然偉くないんじゃないの?
      頭がいいかどうか?
      物知りかどうか?
      それに何の価値があるの?
      ということです。
      そこから“本当は何がいいの”ということに踏み込んでいくんですね。
      利口とか本当にどうでもいいと思いますね。
      主人公の部屋が何者かによって爆破されて、主人公は全て捨ててそこから彼は心の旅に出ます。
      タイラーは毛布のブランドの名前を知っているかどうか聞きます。
      商品名にもなっているのでアメリカ人はみんなその名前を知っているんですね。
      そしてタイラーは、
      なんでそんなくだらない言葉知ってんだよ!
      それを知っていて偉いのかよ!
      一体俺たちってなんなの?
      って言われた主人公は、クリエイターでも革命家でと労働者でもないし、人生の中で何を一番やっているだろう、消費かな、消費くらいしか一生懸命やっていないよね、って言います。
      タイラーは
      だろ!消費だろ!
      俺たちは踊らされているんだよ!
      ライフスタイルが売られているんだよ!
      どういう服を着ろとかどういう机を買えとかどういう風に振る舞えとかどこでコーヒー飲めとか、そういうのに踊らされているだけなんだよ俺たちは!
      農産物がどうとか誰々が死んだとか政治がどうだとかみんな興味ないんだ!
      気になるのはセレブがどうしたとか有名人の下半身事情とか有名人がどんな服を着ているかどんなブランドかどの車かそんなことばっかりだろ!
      なんなんだよそれ!
      なんか意味あんのかよ!
      と。
      そしてタイラーは、
      そんなんじゃダメだよ。俺たち進化しようぜ
      って言うんですね。
      俺たちそれって奴隷みたいなものだし微生物みたいなものだし寄生虫みたいなものじゃん。
      人間にならなきゃマズいんじゃないの?
      と言ってどんどん怖いところに入っていくんですね。
      タイラーは映写技師をやっていますが、現在はデジタルになって映写技師はほとんどいませんが、フィンチャー監督も原作者も映写技師をやっていたんですね。
      映写技師をやりながら子ども向けの映画にポルノ映画の男性器や女性器のフィルムを入れて遊んだりしているんですね。
      レストランではオシッコを入れたのを客に出したりしていましたね。
      イタズラだけではなんにもならないし、日常にちょっとキズをつけるくらいにしかならないんですね。
      それで呑んでいるときにぼそっと言うんですが、
      お前殴り合いしたことある?って。
      殴り合いもしたことないヤツに自分という肉体がわかるか?
      痛みがわかるか?
      キズも受けたことないヤツにわかるか?
      俺は体にキズ跡が一つも残っていないツルツルのまま死にたくない
      って言うですね。
      そして、
      俺を殴ってくれ!
      と言うんですね。
      そこで主人公は殴るわけですが、女殴りでしたね。
      タイラーが痛がっていましたが、主人公は大丈夫かと言いますが、これがいいんだよ!って言うんですね。
      そこからファイト・クラブが始まっていきます。
      だんだんファイト・クラブが大きくなっていき、あの有名な“Welcome to the Fight Club!!”となります。
      ジムで体を鍛えるってなんなんだよ!
      見た目を良くするだけだよ!
      体を鍛えるってそのためだったのかよ!
      違うだろ!
      ケンカに強くなるためじゃなかったのかよ!
      とそこから男性主義と批判されたものに近いていきます。
      最初末期癌の患者に会ったときに睾丸の癌、睾丸を取った男の人たちだったのは去勢恐怖というものを潜在的にこの映画の根底にあることを意味しています。
      このまま消費し続けていたら男じゃなくなってしまうんじゃないか。
      この映画が言っているのは、
      消費というのは女がやること、買い物は女がやるもの。
      なんで男が買い物しているんだ、オシャレって女がやるものだろ。
      なんで男がオシャレしてるんだよ。
      男は裸でいいんだよ。
      男はものを作ったり壊したりするもので、買ったりすることではないとものすごい差別的な男性主義的な主張がこの映画には含まれています。

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    4. タイラーと主人公は話をしながら、
      誰と殴り合いしたい?って言いますが、
      ガンジーとかヘミングウェイとかリンカーンとかいろいろ言いますが、タイラーは「オヤジかな」って言うんですね。
      今の世の中は父親は子育てしません。
      父親は会社に行ってばかりで、今の世代は母親に育てられます。
      でもタイラーは、「俺は父親に育てられたよ」と。
      でもオヤジは俺を大学に行かせようとしたよ、と。
      そしたら今度は会社に入れって。
      そしたら今度は結婚しろって。
      それってどうなってんの?
      社会人になれって言っているだけじゃねーの?
      社会人になる前に俺たちは少年だったんだから男にならなきゃいけないんじゃないの?
      本当に男にならないかぎり結婚とかする気にならないよ、と。
      俺たちはほとんどのしつけは母親によってされているけど、母親は俺たち男が本当に欲しいものを教えてくれないと。
      すごい差別的なんですけどね。

      そして今度は石鹸を作る話になって、
      人間の脂肪を使って石鹸を作ってそれを売るということをするのですが、
      イヤがらせというのかイタズラというのかそういうことをやるんですね。
      ナチっぽくてネオナチか!と叩かれましたね。
      後半にメンバーの服装が黒シャツになっていったのもあり、これはナチズムだと言われて叩かれました。
      石鹸を作るときに苛性ソーダを脂の中に入れますが、その苛性ソーダを主人公の手にかけるシーンがあります。
      キズ跡もなしに大人になれると思っているのか、と。
      それで痛がっている主人公に、この痛みを受け止めろー!とタイラーは言いますが、このセリフは映画『プラトーン』からきています。
      そしてタイラーは、
      痛みも犠牲もなしに何か得られると思うなよ!
      他の人間みたいに痛みから逃げるな!
      犠牲から逃げるな!
      今この痛みはお前の人生最高の瞬間なんだよ!
      と言います。
      そしてお前はここから旅立つんだよ、と。
      監督はこのシーンを通過儀礼、イニシエーションだと言っています。
      死に近い経験をするんですね。
      父親がちゃんと育ててくれないから、自分を厳しくしてくれなかったから、男になり損なっている男たちが互いに男になろうとしている話なんですね。
      女性の立場が抜け落ちているのですごく差別的になっています。
      父親と神は同じなんだと。
      でも父親がいなかっならどうするんだよ。
      世界というものの統治者、神、父というものと戦わなければ人間は大人になれないんだ、自立できないんだ。
      そうでないかぎり俺たちは奴隷なんだ、家畜なんだ、と。
      でも神とか父とかそんなものくだらねー!という話からだんだんタイラーは悪魔とかしていくんですね。
      この世の秩序みたいなものと闘うようになっていきます。
      そしてファイト・クラブのメンバーに言います。
      テレビを見れば広告だらけだ。
      広告は自動車とかファッションとか趣味の型を押し付けてくる。
      俺たちはそこから選ばなければならないんだ。
      買わなきゃいけないんだという気持ちになる。
      オシャレをしなければならないという気持ちになる。
      でもそれってお前が本当にほしいものなのか?
      ほしいと思わされてるだけじゃねえのか?
      本当にお前はスーツとか車とかほしいのか?
      それはテレビに洗脳されてるだけじゃねえのか?
      周りに言われてるだけじゃねえのか?
      俺たちの時代は戦争にも行かされないし、この国ではすごい貧乏もない。
      でも俺たちの心は貧乏なんだよ。
      俺たちはこの広告という猛爆撃にさらされているんだ。
      俺たちをいつも苦しめているのは、テレビを見るとすごい車に乗っているヤツがいる。
      すごいオシャレなヤツがいる。
      俺たちもいつかそうなれると思っていた。
      でもそれはみんなブラウン管の中なんだよ。
      届かねえんだ。
      俺は本当にそれを知って怒っている。
      イラついている。
      ムカついている。
      ふざけんな!!

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    5. 本当に欲しいものというのは、自分自身の身体とか心とか魂とかそういうものを本当は欲望すべきものなのに、そうではないものにいってしまっています。
      全ては最終的に用意されている、カタログになっている。
      Amazonを見れば欲しいものがたくさんあり、そこから選ぶという人生になっています。
      全てお膳立てされたものから選ぶだけでしか人生は進んでいかないんですね。
      ゲームと同じなんですね。
      道を選ぶというのは最初から道があって、どこの大学に行く、どこに就職する、選んでいるだけで、なぜなにもない原っぱを歩いて行ってはいけないのか。
      行ったっていいじゃないか。
      タイラーが画面に向かって言います。
      お前がどんな職業に就いているか知ったこっちゃねえ。
      お前の職業がお前の偉さを決めているわけじゃねえからな。
      銀行の預金額はお前と関係ない。
      預金が多いからって誰も尊敬しねぇーよ。
      どんなに財布の中身が多くても、それはお前の価値じゃねえ。
      砂漠行ってみろよ、山奥行ってみろよ。
      財布の中に何千万あろうとただの紙切れなんだよ。
      わからねえのか?
      お前はただ踊らされてるだけなんだよ!!
      これを画面に向かって叫ぶと、画面がグチャグチャに歪むのですが、タイラーの怒りがスクリーンから飛び出して我々観客に襲いかかってくるみたいになっているんですね。
      わからねえのかお前!!
      オシャレしたいとかそんなもの躍らされてるだけで、お前自身の欲望じゃねぇーんだよ!!、と。
      この映画を危険だと言った評論家たちは正しいんですね。
      まさしくそういうことなんです。
      この世の中を壊そう、と言っています。
      資本主義社会をぶっ壊してやると言っているんですね。
      こんな危険な映画ないですよ。
      それでタイラーは宗教団体みたいなことを始めます。
      仏教みたいな感じで、修行したいんですという人を何度も追い返して、それでも居座った人だけ弟子にするみたいな感じで共同生活をし、すごく規律正しい生活をします。
      これは完全に禅宗の洗脳のシステムと同じで、修行というのは無意味に厳しくすることによってその人をコントロールしていくという宗教団体のシステムです。
      タイラーは洗脳していますが、なぜ洗脳しているのかというと、それはこの消費社会というものに既に洗脳されてしまっているから逆洗脳をかけるしかないということです。
      逆洗脳をかけるということは消費社会やテレビなどが言っていることの逆のことをやります。
      つまり、あなたはみんな特別で、一人ひとりが世界に一つだけの花・・・とかテレビで言っています。
      この服似合いますよ、あなたは美しい、人それぞれに美しさがありますよ、というのがテレビ、歌です。
      そうじゃない、お前らなんかクズなんだよ。
      お前らクズだ。
      お前らなんかなんにも特別な存在じゃねー。
      当たり前ですが、生まれてきてすぐに特別な存在だったらそれはウソです。
      特別な存在にならなければならないんです。
      最初から特別な存在というのはウソです。
      お前ら美しくもない。
      美しいかどうかも生まれつき決まるものではなく、美しくなるしかないんですね、自分が。
      お前らみんな似たり寄ったりなんだよ。
      そしてメンバーがテロリスト化していきます。
      政治家を捕まえて男性器を切断するぞと脅したりしますが、それも去勢恐怖を表しています。
      自分たちは本当に男なんだろうか。
      性器を切られてしまうのではないだろうか。
      我々は消費文化によって買い物とかオシャレとかグルメさせられることによって、女性の趣味を無理矢理させられることによって性器を精神的に切られそうになっています。
      大きな玉がゴロゴロ転がっていくシーンがありますが、これもそのイメージです。

      最終的にタイラーは自分自身というのがわかります。
      クレジットカード会社を爆破して、アメリカの資本主義社会を破壊するんだ。
      クレジットに頼って消費しているヤツらの目を覚まさせてやるんだ、という話です。
      私がちょっとビックリしたのが、タイラーがブルース・リーの真似をするんですね。
      ブルース・リー特有のファイトポーズをしてみたり、ヌンチャクを振り回したりと。
      ブラッド・ピットはシナリオにあったと言っていましたが、フィンチャー監督は、ウソつけ!そんなのシナリオにあるわけないだろ!突然ブラッド・ピットがブルース・リーの真似をし出して、俺はブルース・リーとか好きじゃないけどおもしろいから使ったんだよ、と言っていました。
      男性性の不安、俺は男なんだろうか、俺は弱いんじゃないだろうか、という不安を持っている人がブルース・リーを好きになります。
      タイラーの中にブルース・リーが好きというのが入っているというか、すごくいろんな深い話になっています。
      これは俳優のアドリブ、アドリブの力、現場の力ですね。

      最後は自分を撃ってタイラーを殺します。
      死の恐怖というものを乗り越えなければいけないんだというのがこの映画には何度も出てきます。
      とにかく死ぬことが怖くてしょうがない、死ぬことが遠ざけられている世界だから、自分から死に近づいていくということをしなければ、自分の中にある恐怖を殺せないんだ、大人になれないんだ、というのを言っています。
      原作では主人公は精神病院に入って終わります。
      フィンチャー監督はそうはせず、ビルを爆破させます。
      それを見ながら主人公は
      これからはいい世の中になるよ、と言います。
      これもまた大批判を浴びました。
      20世紀FOXのルパート・マードックは、この映画は俺を敵だと言っている!
      と言っていましたが、その通りです。
      この甘ったれた資本主義をぶっ潰してやるという映画です。
      その後アメリカで9.11があり、このテロを予見していると言われ、世界貿易センタービルにも金融会社がたくさん入っていましたからこの映画が現実になったみたいになりました。
      フィンチャー監督は叩かれましたが、あれはメタファーだから、と言っていました。
      あまりにも消費社会がひどくなり過ぎていて、オシャレとかグルメとかスターバックスとか、そういったものがひどくなっていたので作らざるを得なかったと言っていました。
      でもこの映画の最大のメッセージは、コンビニ裏でレイモンドを脅すシーンだと思っていますし、これは男も女も関係ないメッセージです。
      周りにおどらされず、自分のやりたいことを死ぬ気でやれ!ということです。

      すみません、すごく長くなりましたが、この『ファイト・クラブ』という映画は人生に迷ったときに観る映画だと思います。
      何度観ても本当にすばらしい映画です。

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  3. お疲れ様です。

    一滴の雨も降らず、連日猛暑が続いていますね。
    天気予報で東京や大阪の最高気温が37℃や38℃になっていても、まるでもう今年はこれで当たり前、だって他の場所は40℃越えだから38℃ならまだマシ、みたいな感じで報道されていますね。
    こちらは全国でも有数の農業県ですから、35℃を超えてくると農業関係者は非常にマズイようです。そして高温とともに渇水も心配されている状況です。観測史上初めて東から西へ移動するコースをとった台風12号ですが、こちらの某県ではフェーン現象で実家がある某市が県内観測史上初の39.5℃を記録しただけで、雨なんか全く降りませんでしたね。
    暑すぎても寒すぎてもうまく育たないし、穂が出る時期に適切な量の水がないのもダメ、長雨が続いてもダメですし、難しいところですね。
    台風13号の進路が注目されていますが、適度な量の雨だけ置いていってもらいたいものです。

    『ファイト・クラブ』の詳細な解説をいただき、ありがとうございました。
    これもバットマンの時と同様に、かなりの時間を要したのだろうと思います。
    私は映画については素人中の素人ですから、TSUTAYAでレンタルできるDVDに、普段SAMURAIさんがブログで書いてくださっているような“解説”が最初からついていたら便利なのになーって思ったぐらいです。ネタバレであればいくらでもネットで手に入りますが、解説となると話は別です。
    たいていの人は映画をみて「あー面白かった~ タイラーがカッコよかったな~ 次は何を観ようかな~」ぐらいで終わってしまうかと思います。映画はエンターテイメントでもありますし、別にそれはそれで決して悪いことではないのですが、このような“解説”や“おさらい”があることによって、その映画についてより興味が持てるようになるというか、自分は今の社会について映画のような問題提起をされたときにどう思うのかといったことを考えるよいキッカケになるのではないかと思います。
    映画に限ったことではないですが、自分で考える前に誰かの考えを先に読んでしまうともうそれしか考えられなくなるからまず自分で考えろ、といった主張も人によってはあるのかもしれませんが、素人にはやはりある程度の入門の手引きやブースター的なものがあったほうがいいのかなと思います。重要なのはその次のステップですから。
    『ハート・ロッカー』『ハクソーリッジ』のときの解説のように、他者が読むことを想定した“解説”が自分で書けるようになれれば、かなりの上級者ということですね。
    …私は『ハクソーリッジ』の単なる感想文ですら自分の言葉が気に入らずお蔵入りです(笑)

    フィンチャー監督に、“FOXのバカ”呼ばわりされてしまったルパート・マードック氏ですが、実業家としての先見の明があったことを世界に対して証明したというわけですね。
    服や家具を買うときに、その物がもつ役割や特性・機能ではなくて、誰もが「自分を表現してくれているものはどれだろう」「これって俺っぽくないよな」という判断基準で考えているというご指摘ですが、これは全く同感ですね。
    必要だから買いに行ったはずなのに、必要性とは全く違う観点で選んでしまっている、むしろオシャレをするほうがメインになってしまっている、ホントそうですよね。

    今自分が使っている車はいろんなところにガタがきて久しく、次の車検は取らないことに決めました。ですから最低でも車検期限である来年の3月までには次を探さなければならないのですが、その際近所の車屋さんは、最近新しく発売されたTOCOTというのなんかカワイイですよどーですかとオススメしてくれました。販促用のパンフレットの冒頭には、最も重要なスペックの紹介ではなくて、「お気に入りのマグカップのような存在になれる私の新しい相棒」みたいな、明らかに女子ウケしそうな文章と写真が見開きになっていました。
    前述のように私は寮生活ですから通勤に車は使いません。そのため年間2000キロ程度しか走りませんし、そもそも車なんかきちんと走って止まってバックして、滅多に壊れたり不具合が発生したりしなければそれでもういいかなーというタイプの人間ですから、今回SAMURAIさんの返信で、“女性向けにデザインしたビートルを、かわいいでしょ、女の子に似合うでしょ、みたいな感じで販売し、タイラーたちが「ふざけんじゃねーよ」、「ムカつくぜ」、「オシャレとかかわいいとか言ってよ」、「大衆に迎合しやがってよ」と言ってそれを破壊した”というくだりは非常に面白かったですねー。笑ってしまいました。
    これも同感ですね。一体、車を買うことと年季の入ったマグカップに何の関係性があるのか?とツッコみたくなります。車のパンフレットなら、まず燃費や安全性・性能について書くべきじゃね?と思いますが、今の消費至上主義の世の中は残念ながらそうではないんですね。
    誰かが用意したものを選んで消費するしかない人生。
    オシャレやブランドばかりに振り回され、生きている実感が得られないから、わざわざ死を体験しに行くような人生。
    “本当は何がいいのか”ということを考えもしない人生。
    それが当たり前になってしまっているんですよね。


    “世界というものの統治者、神、父というものと戦わなければ人間は大人になれないんだ、自立できないんだ。そうでないかぎり俺たちは奴隷なんだ、家畜なんだ、と。”
    このへんは、バットマンのジョーカーにも通じるところがありますね。
    こうすべき、という誰かが先に決めた絶対的なルールに逆らうことでしか本当の自由や自立は得られない、という点においてです。
    自分が本当に欲しいものって、何なんでしょうね。
    難しいですね。
    私はいまだによく分かりません。
    レイモンドみたいに、銃を突きつけられてもなお「獣医になりたい」と言えるような夢がある人はいいなぁと思ってしまいます。
    本当に自分が欲しいと思うものをはっきりと認識して、“ファイト”していないうちは、人は奴隷のままなんですね。

    東京の某有名医科大学が、女性ドクターはライフイベントでキャリアを途中で止めてしまうからという理由で男子学生を優先的に合格させていた、というニュースが最近ありましたね。
    もしこのニュースが本当なら、男子学生よりも(成績の点で)優秀だった女子学生がこの大学で医学教育を受ける機会を不当に奪われていたということですね。
    そして正当に試験結果が判断されているかどうか誰もそれを監視・監督できないのが日本の現状、ということです。
    働き方改革・男女平等参画社会といえば響きはよいですが、実際フタをあけてみれば依然としてそんなもんなんだな、と思いました。むしろ、このニュースをすっぱ抜いた人のほうがすごいなぁと思いました。
    子育てなどでキャリアを止めることがそんなに悪いことなのか?
    子育てや介護などでキャリアを止めざるを得ない人がいることを前提にした社会になぜできないのか?
    同じ組織でずっと、育児休暇も介護休暇も取らずに何十年もキャリアを重ねることがそんなに重要なのか?
    社会において女性の地位や立場はまだまだ全然弱く、就職にしろ結婚にしろ子育てにしろ家事にしろ介護にしろ、それこそ“女性はこうあらねばならない”といった風当たりは強いままだと思います。耳かきの唄のところでも書いたと思いますが、大都市ではどうかはわかりませんが、地方でもいろいろめんどくさいことばかりです。でも、女性自身がそう思ってしまっていることもあると思います。別に絶対そうしなければならないなんて法律で決まっているわけでも何でもないのにも関わらず、です。もっと堂々として、自分の権利や立場の保証を社会に対して要求してもいいはずなんですが。
    今回いただいた返信の中で、この映画は男性主義的だ・女性に対して差別的だと何度も強調してもらいました。おそらくSAMURAIさんはこの文章を書くときにかなり気をつかって下さったのだろうと私は思っています。
    でもこの返信をいただくまで、私は『ファイト・クラブ』が極めて男性主義的な内容であることなんて全く気づきませんでした。裏を返せば、女性を差別している映画でもあることなんて、夢にも思いませんでしたね。恥ずかしながらそれこそ、「タイラーカッコいいな~」ぐらいしか考えていませんでした。
    差別が本当におそろしいのは、それをしている人も受けている人もお互いに相手の立場を考える“感度”が鈍くなっているので、いつまでたってもなくならないことですね。

    “男は裸でいいんだ。なんでオシャレなんかしてるんだ?”
    “父親は自分を本当の男になれるようにしてくれないし、母親は男が本当に欲しいものを教えてはくれない”
    “男性性の不安、俺は男なんだろうか、俺は弱いんじゃないだろうか、という不安”
    …差別というと弱い側のほうばかり注目されてしまう傾向がありますが、これらの言葉を読んで、逆に男性でも男性なりの悩みがあっていろいろ大変なんだなぁと思いました。
    自分は女なんだろうか、自分は優しくないんだろうか、とか、そういうことは普段あまり思いませんね。男性がファイトクラブに引き寄せられるように女性が何かそういう優しさクラブみたいなのに心のどこかで憧れているかというと、私はおそらくそういう人は少数かなぁと思います。私の偏見では(笑)
    (育児のストレスとかでイライラして子供に強くあたってしまい、自己嫌悪に陥ってしまっている人はそういうことを考えているのかもしれませんが…)

    本当にこの映画は、普段考えることもなく通過してしまっていたことについて気づかせてくれる、たくさんのメッセージを含んだ映画ですね。
    “痛みも犠牲もなしに、何か得られると思うなよ!”

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    1. Abbyさん、コメントありがとうございます。
      今回また台風が来ていましたね。
      今回は通勤時間にぶつかるというニュースを聞いておりましたが、こちらは何の問題もありませんでした。
      そしたらまたすごく暑くなりそうですね。
      今年は天気がいろんな意味ですごいことになっていますね。
      Abbyさんも体調にはくれぐれもお気を付けくださいませ。

      映画の解説というのもこれもまた厄介なものです。
      これは私のようなレベルの人ではなく、プロの人でも解釈の仕方が異なっていたり、評価が良かったり悪かったりします。
      私も映画を観るにあたり、一番気を付けていることは、映像になって映し出されていることを正確に読み取っていくこと、です。
      制作側の詳しい情報であったり、詳細な隠れ話みたいなものは、実際に監督や俳優、女優に会って質問したり話をするのが一番早いし確かな情報ですが、これはプロでなければ難しいことです。
      なのでやはり映像になっていることをまずは先入観をあまりかけ過ぎないようにして観るようにしていますね。
      そしてその映画が自分にとってどうだったか、ということになってくると思います。
      以前どこかで書いたような気がしますが、映画は自分を映す鏡になっています。
      広い表現が使われていた場合、その場面を自分はどうとらえるのか、それはその人の解釈になってきます。
      確かに映画はエンターテイメントなので、「おもしろかった」でいいとは思うんですね。
      でもこういった裏話やメッセージを知ってみると、その映画が何倍も何百倍もおもしろくなるんですね。
      何とも思わなかったシーンがすごく意味のあるシーンになるんですね。
      せっかく観るのであればそういうのを知って観た方が絶対に楽しいと思います。
      映画というのは疑問を我々に投げかけるものだと思っているんですね。
      例えば、人を殺してはいけません、とみんな言いますし、それは誰にだってわかっていることです。
      でも、もしかしたらやむを得ない状況があるかもしれない、仕方がない場面があるのかもしれない、わかっていてもなおその向こう側へ乗り越えていったときに自分自身は、自分を取り巻く環境はどうなってしまうのか、そういった疑問というのを問いかけをする意味があると思っています。
      これがおもしろいんですね。

      そういえば某医科大学でそんなニュースがありましたね。
      女性、浪人生を不合格にしていたということですが、まだまだそんなレベルだということですね。
      とはいってはみたものの、日本では確かにこういった女性問題の理解は非常に遅いとは思いますが、欧米はどうだったかというと、例えばアメリカでも70年代は女性に対する考え、扱いなどまだまだ低い状況でした。
      60年代では黒人にはまだ選挙権がなく、トイレやレストラン、バスのシートなど白人用と黒人用に分かれていました。
      私の母が生まれたくらいの時代です。
      本当についこの間の話です。
      リンカーン大統領が奴隷解放宣言をしたのにもかかわらず、ずーっと差別が続いていました。
      実際はそうではなかったんですね。
      アメリカではそういった認識は早いと思われがちですが、そんなアメリカですらついこの間まで女性や黒人の認識が低かったんですね。
      でも少しずつ“ガラス天井”をぶち破っていきました。
      今では女性の進出がものすごいことになっていまして、管理職に就く女性が急増しています。
      オバマ前大統領は、「女性の扱い方をみればその国のレベルがわかる」と言っていましたね。
      子どもを育てるのは女性という考えもアメリカではもうないです。
      男性が育児をしている家庭が非常に多くなっています。
      もうそれが普通です。
      それをみてみると日本は本当に遅いと感じてしまいます。
      ここからどれくらいの年月が必要になるのかわかりませんが、こんなことをしているといつまでたっても世界に置いていかれる一方だと思います。
      『ファイト・クラブ』はいろんな要素やメッセージが含まれています。
      そういったものをまとめて“お前は死ぬ気で生きているのか”ということだと思いますね。
      男は子供っぽところがありますし、どこかでオタクみたいなところはあると思います(笑)。
      そこが女性にはなかなかわかってもらえないというか、バカだなぁーと思われてしまっている部分ではないかと思います。
      この映画を観るたびに、金持ちで偉そうにしている奴らを皆殺しにしたくなりますね(笑)。

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