2016年1月17日日曜日

自分の考え

 
前回の続きではないのだが、友人とはいろんな話をする。私は東京には友達がほとんどいないのだが、その少ない友達といろんな話をするのである。バカみたいなくだらない話は当然するし、もちろん真面目な話もする。それは酒が入っていようが入ってまいが関係ない。とにかく話のネタの幅が広い。
 人間一人ひとり、自分の考えやプライド、今まで生きてきた経験や過程などを通して今の自分が成り立っている。当然だが人それぞれ考え方が違うし、答えも違う。それが話をしていておもしろいところである。その話の中でその人の“らしさ”が見えてくるのである。
 私をよく知っている人は私のことをある意味、“偏っているな”とか“極端だな”とか“はっきりしているな”というだろうし、違う局面では、“おおざっぱだな”とか“適当だな”とか“中身ねーな”などなどそういうところもある。まぁその場面場面で考えが違うし、その時の気分にもよるし、その状況に応じてである。もちろん自分の中の根底にあるものはブレルことはない。
 適当に私の考えを書いていこうかな。私は徹底的に個人主義を貫いていこうと思っている。利己主義ではない。自分ひとりがよければそれでいいという考えではない。ここを勘違いしている人は多いが、そうではない。自分自身を認めてほしければ他人を認めなければならない。自分に対してよくしてほしかったら、他人によくしなければならない。当然である。
 大勢の人と群れることが嫌いである。大勢で群れるのは長渕剛のライブくらいでいい(笑)。あとできるだけ他人とかぶらないようにしている。まずは見た目、外見である。厳密に見てみると誰かとはかぶっているんだろうけど、“できるだけ”である。すれ違う人にけっこう見られることがあるのだが、なかなかそれも気分がいい。見られているということは他の人とは違うということで、私としてはそれが嬉しいのである。中身はその後(笑)。
 笑いがあればなんでもいい感じがある。あれやるな、これやるなの考えは大っ嫌いなので、周りに迷惑をかけない範囲であれば自分の楽しいことは徹底的に追及していくべきである。そうでなければストレスもたまっていくし、しんどいし辛くなってくる。やっぱりなにをやるにしてもおもしろい方が、楽しい方がいいに決まっている。
 この前友人とも話をしたが、説教がましい奴は避けろということである。説教臭い人は嫌いだし、だいたいそういう人は自分の考えや価値観を他人に押し付けようとしているので、それは鬱陶しい。自分の考えや価値観を口に出すのはその人が求めてきたときやよっぽどのことがない限りは口に出さないようにしている。
 他人には敬意を表すということ。まぁ、これも話をすれば長くなるし、いろんな誤解が生まれるが、分かりやすく話をするならば、前回の投稿を踏まえて、お店に入った時には店員さんに敬意を表すということである。自分が客だから何でもしていいというわけではない。前回の投稿ならば、バーの店員さんにすごくよくしてもらったので、私も丁寧に話をするし、お願いをするし、感謝も伝える。お店はその店員さんたちのものなので、もちろんその方々に従うのは当然である。しかし、こちらが店に入ったとき、私はいつも下手(したて)に出るようにしているので、それに乗っかる人は嫌いである。要するに客をなめてくる店員は大嫌いである。そういう店員には私はそれ以上に上から乗っかろうとする。これも私の中では当然で、やっぱり仕返しをしないとこちらも悔しいので。もちろん常識の範囲内で。愛想良くしてもらったらそれを返すし、愛想悪く来たらこちらも残念である。そういう自分の愛を与えるのはそれに値する人だけでいい。値しない者に与える必要はない。
 いろいろ書いていると止まらなくなるので、今回はこの辺にしておこう。次は気が向いたときにでも書こうと思う(笑)。今回書いたものはあくまで私個人の考えなので、それに合うか合わないか、賛成か反対か、などで私を攻撃しないでほしい(笑)。いろんな考えがあるのだから、正しいも間違いもない。

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