2013年5月4日土曜日

一筆男子。

 東京では桜が散って、今は過ごしやすい季節となっている。暑くもなく寒くもなくといったところだ。もうすぐすると梅雨の時期がやってきて、そしたら夏がやってくる。こちらに引っ越してきたのは3月下旬だったが、あれからまる一ヶ月と少したった。早いものである。年を取るスピードは車のスピードと一緒だという。車は10キロよりも20キロ、20キロよりも50キロのほうがスピードが速い。年を取れば取るにつれて、過ぎるスピードは速くなる。よく学生に戻りたいという声を聞くが、私は全く思わない。今の方が格段に充実しているし、楽しい。もちろんしんどいことばっかりだが、その先に目指しているものがあるので、ただ今はそれに向かって走っている状態だ。そうはいっても仕事へ行く朝はやっぱり苦しいものだが(笑)。楽してお金なんて稼げるわけがない。お金を稼ぐというのは大変で当然である。


 先日、掃除をして部屋を整理していたら、新聞の気に入った記事を切り取って保管しているのだが、それが出てきてすこし読み返していた。これはとある百貨店のステーショナリーの宣伝の記事だ。海外へ一人で出た私にはこの気持ちがわかるような気がする。それをちょっと載せてみたい。


 一筆男子。
ジェファソン記念館

 学生時代、一人で初めて海外に出た。
 無計画な旅に出発する前夜、母は丁寧におった紙幣を押し付けながら小さく言った。
 「時々は便りをなさい」
 心配をひた隠したその目が焼きついて、バンコクに到着するなり一通目を送った。「無事。暑い。」露店で買った絵葉書の埃を払いながら、短い言葉を並べた。二通目はデリーから。宿のクーラーは唸るだけで、汗でインクが滲んだ。涙と勘違いされないか気がかりだった。
 その後は行く先々で好奇心に翻弄され、文字にできない日々が続いたが、欧州に辿り着くと急にペンが軽くなった。次第に小銭が惜しくなり、籍を置いた語学学校の食堂のナプキンに“フランス語は簡単”などと怪しい綴りで書いては、事務局で使い古しの封筒をもらって投函した。授業をさぼると、美術館の半券や秋色のマロニエの葉を同封した。
 とうに予定を過ぎて家に戻ると、母は送ったものすべてを居間の壁にピンナップしていた。数はそれなりだが、文面はどれもおそまつ。なかには。「○」ひとつだけ、というものもある。息災を知らせたつもりだったのだが。
 印刷のずれた絵葉書、お国柄漂う切手、謎めいた同封物が並んだ様子は、語学学校の水色の封筒が海のようでもあり、どこか世界地図のように見えた。母は心配の消え去った目を細めて、気ままな息子と見比べていた。
 遥か年月が経った今頃になって、出る先々でまた一筆したためるようになった。ふとよぎるものを綴り、旨い店との遭遇をレポートする。その土地限定の切手を探しながら。
 青春解雇が理由ではない。一方的な土産を面白がってくれる友が増えたのである。そして、どこにいてもペンを走らせたくなる、なんともいい道具を見つけてしまったからである。
 とはいえ、二通に一通は手渡しにしようと思う。旧友の一人、母宛だけは。

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