仕事の方はまだギフト配送が大量に残っているため、まだ始発出勤が続いているのだが、それもあと少しである。しかし、その後に1ヵ月の間にスタッフが3人いろいろな事情でいなくなってしまうため、それはそれで忙しくなってしまう。これもまたイヤだなーと今から感じている。これも仕方のないことなのだが。
昨年映画関係についていろいろ投稿したが、「改めて紹介する」といった感じでずっと流してきた作品が大量にある(笑)。それを少しずつまた書かなければならないと思い、今回はその一つの作品を取り上げたい。今回は『桐島、部活やめるってよ』を紹介したい。この作品は私にしたら珍しく日本の作品である。日本の映画はほとんど見ることはなく、圧倒的に洋画がほとんどではあるが、今回の作品は非常によくできたすばらしい作品であると思った。日本の映画はほとんど褒めることはないが、今思いついたのはこの作品と『バトル・ロワイヤル』はすばらしいと思った作品である。今回の『桐島、部活やめるってよ』は原作があり、私はかなり前に原作を読み、確かこのブログにもその感想か何かを書いた覚えがある。とりあえずあらすじは簡単に言うと、とある高校で桐島という勉強もスポーツもできて、カッコよくて、人気があって、誰もが憧れる“スーパースター”のような存在の生徒が部活をやめるという噂が流れ、それによって周りにいる生徒たちに影響が及んでいってしまうというもの。影響というよりもパニックに近いかもしれない。この作品で原作もそうであるが、特徴的なのは“桐島”というこの作品で象徴的な存在が一切登場しないところである。そして登場人物のそれぞれの視点から描かれており、何度も同じ時系列を描いている。登場人物がけっこういて、ここからいろいろ書いていくが、わかりやすくするために名前の前に所属部であったり私が勝手にニックネームをつけたりしてわかりやすく書いていこうと思う。そして私がこの作品をすばらしいと思うのは、ただ単に青春映画という枠組みに収まっていないというところである。日本は特にそうだが、学生時代、学校生活といったもの、時代、時間がよかった、人生の中で一番輝いていた、というような作品が腐るほどある。私はそういった作品は当然ながらすべて大嫌いであるし、学生時代がよかった、と言っている人間の戯言に付き合っている時間はないので、そう言っている人も当然ながら大嫌いである。しかし、この作品は誰にでも、どの世代にも訴えている作品になっているのである。“桐島”とういう存在は学校外でいうなら仕事であれば優秀な営業マンであったり、プロデューサーであったり、中心となっている人物として置き換えることができる。この作品の監督である吉田大八監督はこの“桐島”の存在を“天皇みたい”と言っている。
この作品の主人公は“桐島”と同じように学校にヒエラルキーがあったらその“上”にいる生徒で桐島の親友の宏樹君というのが主人公である。宏樹君は何でもできる人である。勉強もできるし、スポーツもできるし、女の子からモテるし、欠点がない存在である。完璧なのである。でもこの世の中に完璧な人は存在しない。しかし、完璧だからこそ誰にでも当てはまるように描かれているのである。でも宏樹君は人生の意味を見失ってしまったのである。部活やって部活やって意味があるのか。宏樹君は野球部だが、野球選手になるわけでもなく、野球で大学に行くわけでもなく、彼女もいるが恋愛も楽しくないし、なんで恋愛しなければいけないのか、結婚しなければいけないのか、子どもを作らなければいけないのか、会社に入って仕事をしなければいけないのか、お金儲けしなければいけないのか、そういった問題に宏樹君はぶつかってしまったのである。宏樹君は最初に進路希望の用紙が配られるところから始まる。つまりこれはただ高校を卒業をしてどこにいきたいかというような高校生向きの映画ではなく、人生に迷ってしまった、意味を見出せなくなってしまった人に向けての作品なのである。宏樹君の友達で友弘っていう生徒が登場するが、こいつはいつも「セックスしてーなー」と言っているのである。この友弘っていうやつはセックスがしたことがなく、セックスはいいものだと思い込んでいるのである。そのセックスの向こうに何かがあると思っているのである。でも宏樹君は直接的な描写はないが、彼女の沙奈っていう子と恋愛しているのでセックスもしたがそれほど楽しいものではなかったのである。でも友弘にしてみればセックスにすべてがあると思っているのである。宏樹君はセックスにも恋愛にも何も見いだせなかったのである。勉強ができて何の意味があるのか、スポーツができて何の意味があるのか、宏樹君は完璧であり、超えるものがないのである。何のために生きているのか、何のために生活しているのか。すべてにおいて何の意味があるのかという根本的な問題にぶつかってしまったのである。こういうのを“実存主義”というが、、宏樹君は何の意味があるのかという悩みだしたら意味なんてないのでは?という“実存主義”という言葉を知らないが、その実存主義の問題に直面してしまったのである。テニス部の実果ちゃんという子がいるが、実果ちゃんが言うセリフがあるのだが、「どうせ負けてしまうのにね。どんなにがんばってもいつか負けてしまうのになんでがんばっていんだろうね」と。これは人生そのものを言っている。どれだけがんばって、どれだけ金持ちになって、どれだけしあわせになっても、どうせ死んでしまうのである。すべてがいつかは消えてしまうのである。どうせ死ぬのである。なんのために生きているのか、宏樹君はそこまで考えてしまっているのである。
桐島が部活をやめるというのをきっかけに多くの人間がパニックに陥る中、この作品で3人だけ全く関係ないブレない人が登場する。まず一人目は野球部のキャプテンである。キャプテンは引退時期を過ぎてもまだ野球をやっていたので、どうしていつまでも引退しないのか聞かれてキャプテンは「ドラフトが来るまではね」と。ドラフトが来るまではがんばるよと言ったときに、劇場で笑いが起こったみたいであるが、これは決して笑い事ではない。つまりキャプテンは来るわけもないドラフトを待ち続けて、そのために生きている人である。これは“神”を信じている人を表している。信仰者である。絶対に来ないものを、来るわけもないものを待って、それで生きていける人である。その他に吹奏楽部の部長の亜矢ちゃんと映画部の前田君である。この2人は非常にわかりやすく、この2人がなぜブレないのかというと、この2人はやりたいことが見つかっているからである。でも宏樹君はやりたいことを見失ってしまった人である。やりたいことが見つかっている人は、学校のカーストとか、社会のシステムとか、金儲けとか、出世とか、そんなことは関係ないのである。そしてこの吹奏楽部の亜矢ちゃんと映画部の前田君は、失恋してしまうのだが、失恋といっても告白をしてフラれるということではないが、その気持ちをそれぞれの芸術に昇華させるのである。亜矢ちゃんはローエングリンという曲を、前田君は今自分たちが撮影をしていたゾンビ映画の中で自己実現をしていく。
この映画では最終的に登場人物が校舎の屋上に集まってくるのである。そこでいろいろあるのだが、桐島の親友の宏樹君と映画部の前田君が出会うのである。屋上に集まったときにそこでは映画部がゾンビ映画の撮影をしていたときで、前田君が8ミリカメラを持ってすごく楽しそうにしていたのを宏樹君がその様子を見ていたのである。どうしてこの前田っていう奴はカメラを持ってこんなにも楽しそうにしているのだろうか、と。このカメラに何かあるのか、何か不思議な力があるんじゃないのかと不思議そうにカメラを触るのである。このカメラに生きる意味の魔法でもあるんじゃないかと思っているのである。そこで宏樹君はカメラを前田君に向けて質問するのである。これはふざけているように見えるが、これは宏樹君が本当のことを聞いているのである。「将来は映画監督ですか?女優と結婚ですか?アカデミー賞ですか?」と。これは何を意味しているのか。それは“結果”はどうなの?ということである。“結果”はどうなの?、“目的”は?、“意味”は?というのを聞いているのである。そうしたら前田君は照れ笑いをしながら「それはないなー。ただこうやって映画を撮っていると、自分の好きな映画とつながっているような気がして・・・」と答える。つまり、ただ好きだからやっているんだよ、と言っているのである。そのあと、前田君がカメラを持って宏樹君を映すのだが、宏樹君は夕日に照らされてものすごく悲しそうな顔をするのである。このシーンは監督も行っているが大逆転の瞬間であると。全てにおいて勝利者であった宏樹君が唯一もっていなかった“意味”、“目的”だったが、前田君が意味とか目的とか関係ないし、好きだからやっているんだよと答えるところで前田君は勝ったのである。前田君は夕日に照らされた宏樹君を見ながら、「かっこいいね。やっぱりかっこいいね」と言う。宏樹君は「俺は撮らなくていいよ」と言う。この映画の大きな特徴の一つが、登場人物の“心の声”、“本当の声”というのが一切ないというところである。なのでこの映画が公開されたときに、この映画の同世代の高校生たちがこの映画を観てあまり評価されなかったというのはそれは本当の声が隠されているため非常にわかりにくかったということである。非常に難解な映画になっている。声ではそういっているけど、本当は何を思っているのか、深く深く推理して観なければこの映画は理解できないように作られている。そして本当にいい映画というのはセリフにしてはっきりと言わないところである。それは『ハート・ロッカー』や『マイレージ・マイライフ』といった映画でもそうである。隠した感じで伝えてくるのである。もしこの映画が安っぽい映画であれば、宏樹君は前田君に「俺なんかカッコよくないよ。カッコいいのは前田お前だよ。お前好きなことあって好きなことやってるじゃん。お前の勝ちだよ」と言っているはずである。そのあと宏樹君は校舎を出て、それでもしつこく桐島に電話しようとする。桐島というのは意味や目的、結果の象徴であったり、中心、機軸みたいなものである。でもそこで宏樹君の目に映ったのは一生懸命野球をやっている仲間が見えたのである。このシーンでこの映画は終わる。この後宏樹君はどういう人生の舵を取っていくのかは私たちがそれぞれ判断すればいい。私はおそらく宏樹君は桐島の電話を切るのは確かだと思う。“意味”、“目的”、“結果”、そういったものを宏樹君は“切る”のではないかと思う。野球を再び始めるのかどうかはわからない。この映画の主人公は宏樹君ではあるが、もう一人の主人公は映画部の前田君である。キャラクターの描き方で監督が好きなキャラクターと言うのは映画を観ているとすごくよくわかる。
吹奏楽部の亜矢ちゃんであったり映画部の前田君は音楽や映画を通して自己を実現するのである。好きなことを通じて自己実現をするのである。以前も書いたことがあるが、『ショーシャンクの空に』もそうである。現実は牢獄みたいなものであると。この牢獄にような人生から抜け出すには自分自身の穴を掘るしかないんだと。穴を掘ればこの壁の向こう側へ抜け出せるんじゃないかと。自分自身になれるのではないかと。最後のシーンにしてもナレーションを入れたりしていないところがいい。安い映画なら入っていたであろうシーンである。最後は宏樹君の背中で終わる。非常にすばらしい作品である。誰が観ても、どの世代の人が観ても、必ず心に突き刺さる映画であると思う。それでも現実にある様々な問題や壁、周囲にある目、世間体、環境、くだらないことが山ほどある。避けては通れない道もある。でも前田君は私たちに教えてくれたはずである。ゾンビ映画を撮っている中でのセリフで。
戦おう。オレたちはこの世界で生きて行かなければならないのだから。
お疲れ様です。
返信削除今週になってようやく1月の休みがやってきたような状況でして、久しぶりに読者業を再開することができました。今年1回目は、『桐島、部活やめるってよ』にしました。
「特徴的なのは“桐島”というこの作品で象徴的な存在が一切登場しないところ」とブログでもありましたが、本当にそうでしたね。
桐島なる人物とはどんな人なのか…
最初はいつ出てくるのか・どんな人なのか興味深々でしたが、映画が進むにつれてこれはおそらく出てこないな、と思うようになりましたね。
つまり、映画を観る人それぞれの生活の中に“桐島”に相当する人物がいて、それを思い浮かべながら見るものなんだ、と。
とくに高校生ぐらいになると、「学校にヒエラルキーがあったらその“上”にいる生徒」というのは、少なからず誰もがちらっとは感じたことがあると思います。
大人になって毎日の仕事に忙殺されるようになると、そんなことはもうどうでもよくなりますが(笑)、当事者にとってこれは大変重要な関心事ですね。
ヒエラルキーの上に存在する宏樹君でも、部活で頑張ったところで何の意味があるのか、同じくヒエラルキーの上位にいるクラスメートの女の子と付き合ったところで何の意味があるのか、人生の目的みたいなものを見失ってしまっていましたね。
完璧な宏樹君ですが、上には上がいるもので、その桐島が自分と同じく部活をやめる、つまり目的を見いだせなくなった宏樹君にとって、桐島は一体どうなってしまったんだ?とまるで自分を見ているように感じたのかもしれませんね。
「全く関係ないブレない人が登場する」とありましたが、こういう人生を生きられる人はなんだかうらやましい感じもしますね。
ドラフトが終わるまでは野球を続ける、自分には全く声なんかかかっていないけど、ドラフトが終わるまでは可能性は0ではない、と信じて好きな野球を続けることができているわけです。
高校野球部のキャプテンとはいえ全国的なレベルからみれば、どこにでもいるその他大勢のうちの一人にすぎないレベルなんだろうと思いますが、それでも彼は自分の好きな野球を信じて努力を続けることができているんですね。映画部の前田君もそうですよね。顧問の先生にダメ出しされても、自分の撮りたいシナリオで映画を作りたい、そうすればあきらめもつくからと言って、自分のやりたいことを続けているわけです。あとは、バレー部のリベロを任されることになった風助君ですかね。桐島が突然去ったことでイラつく久保君に無駄にシゴかれて、「なんとかしようとしてもこの程度なんだよ!」と叫ぶところはなんだか切なくなりました。
周りの環境がどうこうではなくて、自分のやりたいことをみつけて実践することができる、これはすごいことだなぁと思うと同時に、そういうふうに取り組める“何か”が持てる人はやはりうらやましいなぁと私は思ってしまいます。
前田君の8ミリカメラを手にとる宏樹君のシーンですが、いくら他人が夢中になっているものを自分も手にしたところで、宏樹君には何の意味もないんですよね。8ミリカメラを持ったところで、自分の問いに対する答えが見つかるわけじゃないんですよね。
ただ好きだから映画を撮っている、目的なんて…という前田君が、宏樹君にとっては理解しがたいものであり、でも一方でうらやましくもあり…というところでしょうか。
映画監督になりたいわけでも、女優と結婚したいわけでも、アカデミー賞がほしいわけでもなく、ただ好きだから、ただ好きなものとつながっていたいから、前田君のその返答は、ヒエラルキーが上である宏樹君でも決して手に入れられないものなんでしょうね。
「本当にいい映画というのはセリフにしてはっきりと言わないところ」とありました。映画のラストで宏樹君は、自分が放り出した野球部のメンバーがまだ練習を続けているところを目にしますね。エンディングが流れて、「自分だけがおいてけぼりをくらっているような気がする」と始まります。印象的ですね。誰もが一回は、今までの人生で感じたことがあることだと思いますから。
「戦おう。オレたちはこの世界で生きて行かなければならないのだから。」
この映画をみて私が思いだしたことは、運動不足を解消しようと思ってたま~に行っているプールでの光景です。
大人の会員が利用できる時間は、小学生・中学生のスクールが終わった20時ぐらいからなんですが、20時以降も30分ぐらいはコースの一部は選抜?メンバーみたいな子たちがものすごいスピードで何往復もしているんですね。そしてコーチも、大人の会員には決して言わないような声と表現で彼らに激を飛ばしているんですね。
たとえ同じプールに通っていても、選抜メンバーに入れる子と頑張っても入れなかった子と、入るつもりなんて最初からさらさらない子と、いろいろいるんだと思います。
まさにヒエラルキーですよね。選抜メンバーともなれば休日も早朝もなく大会に向けて練習しているようですが、そういう努力ができて練習についていける子と、その他大勢のうちの一人にとどまる子と…
私もこのプールに行き始めた当初は、ちょっとは体力がついたらいいなーぐらいに思っていましたが、年々仕事が忙しくなってきたのを言い訳にして、現在は月に数回行ければまだマシなほうになっています。これでは当然体力なんかつくはずもないんですが。
でも私よりも年上で、最初はクロールすらままならなかった方がいるんですが、毎週熱心に教室に通い、数年経った現在はマスターズ(大人向けの水泳大会みたいなものらしいです)にも毎回参加できるまでになり、時々プールが開催する『みんなで50m×1000本を目指そう!』といったとんでもないレベルのイベントにも参加できるようになっています。
(普通の趣味レベルで水泳をしている人なら、45分間で50mを20~25往復できればまぁ普通、と考えていただいてよいかと思います。それを、プールに通っている人たち複数人で、数時間かけて全員の泳いだ距離を合計してみよう、というイベントです。最低でも参加者が10人以上はいないとキビシイらしいですが。人によっては100往復近く泳いで貢献する人もいるとかいないとか…)
素直にすごいなぁと思いますね。
私も同じぐらいの期間はすでにプールに籍を置いていたのにも関わらず、この差です。
SAMURAIさんは剣道の有段者とのことでしたが、私はスポーツに関しては特に何の経験もありません。学校の体育の授業レベルです。
大人になれば何をやるかはすべて自分の責任です。やるのも、やらないのも。
選抜メンバーのコーチみたいに、この歳になったら誰も激を飛ばしてなんてくれません。
大会でいい記録を出したいとか、水泳が好きだとか、水泳が楽しいとか、何かないとあの練習量にはついていけないと思いますが、あの子たちはすごいですね。
趣味の水泳ひとつとっても、“戦う”人と、何もしない人と、いろいろなんだなぁと思います。
どちらがいいとか悪いとかはないんですけどね。
では自分はどうするのか…?
そんなことを映画をみながら考えていました。
Abbyさん、コメントありがとうございます。
削除お忙しい中、『桐島、部活やめるってよ』をご覧いただきましてありがとうございます。
たまには邦画もいいなーと思いました。
さて、内容ですが、“桐島”は登場しませんでしたね。
監督は“桐島”のことを「天皇みたい」と言っていましたが、天皇と言うのは憲法上は何もしてはいけないんですね。
それと全く同じように、作品でも桐島は象徴なだけであって、桐島自身は何もしません。
その桐島が部活をやめるという噂が流れ、彼自身は何もしていないというのに周りいる人たちがパニックに陥ってしまうという話ですね。
これは今の日本を映しているかのようで、天皇が変わるということだけでこれだけ国内がバタバタするのは本当に滑稽に見えます。
この映画では、構造的には宏樹君が主人公ですが、内容を観てみてわかるように、もう一人の主人公は映画部の前田君なんですね。
そして監督がお気に入りっていうのも観ていてすぐにわかります。
この映画は本当にわかり辛く、心の声を全くセリフに出さないために、非常に難解になっています。
でも普通の生活では心の声なんて声にはほとんど出さないため、これがある意味本当の日常なんですね。
「マジなこと言ったってしょうがないし」とバドミントン部の子が言ってましたが、マジなことを言ったらバカにされるのが普通ですからね。
言ったってダサいって言われるので、言いたくても言えないんですね。
この映画は予告のときに、すべてがパズルのように組み合わさるというような感じで宣伝されていましたが、そうではなくて心の問題なんですね。
言いたいことを、本当に伝えたいところを全部切ってしまっています。
映画の前田君はゾンビ映画を撮ろうとして顧問の先生に却下されていましたが、先生は青春とか、恋愛とか、友人関係とか、部活とか、受験とか、そういうのを映画で撮れよと。
そっちの方がリアリティーがあるだろ、と。
でも前田君にとってはそれは違うんですね。
前田君はそのときに、「先生はジョージ・A・ロメロの作品を観たことがありますか」と聞くんですね。
でも先生はそんなマニアックなもなものみたいなことを言います。
でもそこで話が終わってしまいます。
本当はそこで前田君は何を言いたかったのか。
ジョージ・A・ロメロ監督がいまして、ゾンビ映画を撮ってきた監督です。
今ある“ゾンビ”のイメージはこのロメロ監督が作りました。
ロメロ監督はインタビューで、「俺はゾンビ映画を撮っているけど、ゾンビ映画じゃないんだよこれは。人間についての映画なんだよ」とはっきり言っています。
ゾンビを通じて、これは社会についての映画なんだよと、これが現実なんだ、これがリアルなんだ、リアリティーなんだと言っています。
リアリティーを最もリアルに描くにはそのまま描くより、ゾンビなんだよって前田君は言いたかったんですね。
ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』という代表作品がありますが、そこではアメリカ国内で起こっていた、ベトナム反戦運動や、人種差別問題、人種暴動、アメリカ国内で内戦と言ってもおかしくない状況をゾンビを通して描いているんですね。
現実をそのまま描くのではなく、ゾンビにすることでより強烈に、しかもより普遍的に、そして世界中の人が根本にある精神に直接感じることができ、しかも何十年たっても古びないという方法を選んだんですね。
それがゾンビ映画の根本に宿っている精神です。
それを言いたかったんですね、前田君は。
先生はマニアックな、みたいなことを言っていましたが『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』はマニアックではないので、この先生わかっていないなーという描き方もすばらしいです。
映画館で前田君は『鉄男』という映画を観ていましたが、ちょうど描かれていたのが男性器がドリルになって女の子の股間を貫通して殺すというシーンでした。
これは観てすぐわかりますが、前田君の強烈な性的コンプレックス、攻撃性です。
これが前田君の中にあるものです。
そしてその映画館に前田君が思いを寄せていたカスミちゃんもいます。
これはただ単に『鉄男』という映画を観ていたというシーンではなく、前田君の心の中を私たちは覗いているんですね。
そしてカスミちゃんも前田君の心の中を覗いてくれたんですね。
当然このシーンは伏せんになって最後のクライマックスになって“食い殺す”というシーンに繋がってきます。
映画には無駄な時間は一切ありません。
全てに意味があるんですね。
と前田君のコメントばかりになってしまいましたが、前田君はタランティーノ映画もたくさん観ているので、さすが前田君だなーと思いました。
途中で前田君が持っていた映画雑誌をはたき落した童貞野郎に「拾えコノヤロー!!!」と立ち上がって叫びそうになりました。
Abbyさんの水泳のお話ありがとうございます。
こういったヒエラルキーみたいなものは大きくなったら本当にどうでもよくなるんですね。
社会的なヒエラルキーは存在しますが。
小さい頃は何をするにしても“まだわからない”時期ということもあり、狭い価値観でしか物事を判断できませんが、それを繰り返してだんだんわかってくるんですね。
同じ目的でもできる子もいればできない子もいます。
できる子が良くて、できない子はダメということでもないです。
そもそもヒエラルキーとして判断するというのにも問題があるのかもしれません。
そういうふうに考えてしまいがちですが、そんなことはないんだと。
自分が楽しんでやって入れればそれでいいと思います。
その中で何か生まれた感情があれば、それに従えばいいと思います。
ここでちょっと思い出したのが、『イーグル・ジャンプ』という映画です。
原題は『EDDIE THE EAGLE』ですが、スキーのジャンプでオリンピックを目指すという映画ですが、主人公は近眼で運動音痴ですが、オリンピック選手を目指していました。
そこで偶然目にしたスキーのジャンプを見て心惹かれ、オリンピックを目指します。
なんとかオリンピックに出場できますが、記録はめちゃくちゃ悪いんですね。
でも主人公本にはそんなことはまったく気にしていません。
彼にしてみたら金メダルとかどうでもいいんですね。
自己記録を越えただけで大喜びです。
ただジャンプが好きなんです。
彼は自分に課した目標、それに向かって挑戦するんですね。
周りの人とかどうでもいいんです。
周りから何と言われようとも関係ないんですね。
確かに記録なども大切かもしれません。
でもそれは記録ベースでの価値判断でしかありません。
もっとほかの判断もたくさんあります。
そこで自分はどうなのかという話です。
ちょっと話が逸れてしましましたが、ある一つのことを考えるにも、切り込み口がたくさんあって話が尽きませんね。
価値や判断を広げるという意味でも映画はすばらしい材料になると思います。