2019年1月21日月曜日

久しぶりのドラッグネタ

 昨日は仕事が終わって、着替えをしてさぁ帰ろうかと思ったらやり残したというのか確認しなければならないことを思い出し、再び売り場へ戻ってパソコンやら資料やらを確認していたら結局いつもより帰る時間が遅くなってしまったのである。せっかく少し早く帰れると思ったのに結局こうなってしまうのかと思ってしまったのである。本当は帰りに本屋さんへ寄りたいのになかなか行けずじまいである。1月も後半になり落ち着くと思っていたが、別の意味でいろいろ大変である。結局1年間何かは必ずあるということである。

 
年末に忙しくてなかなか買い物ができなかったので、その反動かは知らないがDVDやらBlu-rayやらをちょくちょく取り寄せてしまっている。この時点で私にとって新しい映画は10作品は観ている。こういうのは波があるので、取り寄せしたり取り寄せしなかったりというので、今はけっこう取り寄せしたのでしばらくしたら落ち着くだろう。その中で『トレインスポッティング』という作品があるのだが、これもすばらし映画で、これもR15指定の映画でバイオレンス、セックス、ドラッグなどなどいろいろ満載なのだが、この中でより強く描かれていたのがドラッグである。しかもヘロインに限定しているところがおもしろかった。主人公はヘロイン中毒者で何度も何度もやめようと思っているのだが結局手を出してしまうのである。そもそもヘロインというのはどういうドラッグかというとヘロインは“薬物の王様”と言われているほどドラッグの中では突出しているのである。そもそもドラッグは“快楽の補助”という形で使用されることが多い。だいたい映画ではセックス絡みで使用されているシーンが多い。セックスしたり遊んだりくつろいだりするためのドラッグで快楽を増強させているのだが、ヘロインはそうではない。ヘロインは単独でとんでもない快楽を得ることができるのである。よく映画では寝転がっているシーンが多いが、その通りで寝転がっているだけで多幸感を得られるのである。おそらく動けないほどの快楽だと思われる。シャワーを浴びれば水滴の一滴一滴がサイコーに気持ちがいいと表現される。ウィキペディアでは、その快感は『オーガズムの数万倍の快感を伴う射精を全身の隅々の細胞で行っているような』、『人間の経験しうるあらゆる状態の中で、ほかの如何なるものをもってしても得られない最高の状態』などと表現される。また、常態の人間が一生のうちに体感し得る全ての「快感」の合計を上回る快感を瞬時に得ることに等しいと云われるその快楽度の強さ、そしてそこから生ずる至福感は、しばしば「約束された安堵」などと表現されてきた。要するに想像を絶する快楽を一瞬で得られるということである。そりゃ依存症にもなるわなと思った。当然そのあとの“地獄”も強烈なので、またほしくなってしまうということである。ヘロインはスプーンであぶってそれを注射器に入れて静脈にぶち込むという使用法が多いが、あぶる前は“白い粉”である。映画は変わるがタランティーノ監督の『パルプ・フィクション』で、ヴィンセントはヘロインを使用していて、ミアはコカインを使用している。この2人がレストランでツイストダンスをしているときに、ヴィンセントはノロノロ踊っているのに対し、ミアはテキパキ踊っているのが観てわかるが、それはこのドラッグの違いである。そしてミアの自宅に戻って、ヴィンセントのコートのポケットに入っていた“白い粉”をヘロインなのにコカインと間違えて吸ってしまい、
オーバードーズして倒れてしまったのである。ヘロインはダウナー系で、コカインはアッパー系である。だいたいのドラッグはこの2種類にわかれるが、その他にもサイデリック系もある。だいたい映画に登場するのは、ヘロイン、コカイン、マリファナである。その中でも画になるのは鼻から吸うコカインだろう。スコセッシ監督の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』というすばらしい映画があるが、ここはコカインがメインであるが、途中に主人公らが“ルード”という伝説的ドラッグを手に入れ、やはりぶっ飛んでしまい、ぶっ飛びながら主人公と仕事仲間の一人がおそらく映画史上最低のケンカをするのである。でも途中にその仲間が喉を詰まらせてしまい、呼吸困難で死にそうになったときに主人公は助けようと思うがぶっ飛んでいるので体が思うように動かなかったため、そこでコカインを吸って復活するのである。これは本当にすばらしいシーンである(笑)。それで仲間を救うことができたのである。最近マリファナがアメリカの多くの州で解禁になり、カナダはとっくに全解禁している。アメリカで普通に売られている雑誌の中の広告にマリファナの宣伝も載っているくらいである。マリファナも怖いと思われているが、致死率や依存性などはアルコールやニコチンなどの方が圧倒的に高いので、そういう面から言えばマリファナは安全である。まぁ何をするにも“やり過ぎ”はよくないということである。世界的に見て、マリファナは合法国が多くなっているので、日本でもうじきオリンピックが開催されるというので多くの外国人が日本に来るが、日本でマリファナは禁止されているというのを知らずにマリファナを持ってきて日本の空港で捕まってしまうという外国人が大量にいるのではないかと思う。留置場がパンクするのではないかと心配でしょうがない。日本での合法化は私が生きている間はないだろうと思っている。なにかとドラッグは悪く言われているが、医療用の大麻などでたくさんの人が救われているというのも事実である。当然ながら快楽欲しさに乱用するのはダメであるが。多くの映画で登場するドラッグであるが、これはキッてもキレない文化、習慣の一つである。『トレインスポッティング』を観て、久しぶりの?ドラッグネタであった(笑)。

2019年1月15日火曜日

前回の付け足し

 昨日久しぶりに職場で限られた人が集まってご飯を食べたのだが、ついつい時間を見るのを忘れていて、気が付けば23時45分になっていて、これはいかんと思ってそこで解散したのだが、そこから走って最寄り駅に向かったのである。結果的には余裕で電車に乗って家に帰れたのだが、久しぶりに終電があるかどうかとかそういうので少し焦ってしまったのである。遅い時間に乗ったが、でもその時間に乗っている人も何人かいて、ある意味すごいなーと思ったのである。どこどこ行きの最終電車が間もなく到着します、みたいなアナウンスをしていたりして、その中を私は走ったり早歩きしたりしていたのだが、すれ違う人でもうフラフラになって千鳥足みたいになっていて、その人の顔を見たら真っ青で、完全に酔っぱらっていてとそういう人にすれ違ったが、「こいつは駅のホームまでたどり着かれへんやろ」と心の中で呟きながらすれ違ったのである。そういえば成人の日だったが、それらしき人は一人も見なかった。時間が時間だったのかもしれないが、騒いでいる人がけっこういるのかなーとも思っていたがそうでもなかった。

 
前回の投稿で、『ドラゴン・タトゥーの女』の話を少ししたが、私の友人の一人がこの作品を『007』シリーズと思っていたという話をかなり前にしたことがあり、そのとき私は「全くの別物やで」という返答で終わっていたのだが、よくよく考えてみて、そしてこのブログでも少し書いたことがあるが、間違えるというか勘違いしてしまう要因として、まず今の007役の俳優が同じところと、オープニングタイトルが非常に007っぽい?ところである。『007』シリーズはすべて冒頭にワンアクションがあり、そしてタイトルに入るのがお決まりである。そのオープニングタイトルで裸のお姉さんらが踊っていたりするのが定番で、そのオープニングタイトルだけを見に行くという007ファンも大勢いるくらいである。そして『ドラゴン・タトゥーの女』だが、この作品も同じように冒頭にアクションではないが、謎かけ?みたいなものがあってそこからオープニングタイトルになる。この作品ではレッド・ツェッペリンの『移民の歌』をカバーした曲が流れる。話が逸れるがレッド・ツェッペリンは自分たちの曲を他では使用させないというか非常にケチで有名であった。違う作品だがこれも私が大好きな映画で『スクール・オブ・ロック』というジャック・ブラック主演の映画があるのだが、この映画でどうしてもこの『移民の歌』を使いたい思ったが、許可を得ようと思ってもまず無理なので、とりあえず映画を完成させてしまおうということで『移民の歌』をあるシーンに入れて、映画を完成させて、そしてこの映画で登場した子供たちがビデオメッセージをつくって「使わせてくださーい!!」とレッド・ツェッペリンにお願いをしたところ、「しょーがねぇーなー!!」ということで初めて使用が許可されたのである。「しょーがねぇーなー」と言ったのかは知らないが(笑)。そして今回の『ドラゴン・タトゥーの女』ではカバーではあるが使用を許可されている。おそらく使ってもらえるとお金になるのを知ったからではと思う(笑)。このオープニングタイトルが非常に007っぽくできているので、確かにそういわれたらそうかもしれないと思うくらいである。このオープニングタイトルはものすごくカッコいいので、このシーンだけでも観る価値があるので必見である。確かYouTubeでも上がっていたような気がする。



 
あとタランティーノ監督の『パルプ・フィクション』だが、今映画のイベントの一つとして『午前10時の映画祭』というのが開催されていて、1週間から2週間の間に過去の作品を再上映しているのだが、その映画祭をしている映画館は一応全国展開だが、全ての映画館がやっているわけではないのでチェックが必要だが、来月にこの『パルプ・フィクション』が上映されるのである。あの伝説的映画が映画館で観られるのか!!とちょっと興奮しているのだが、上映期間が短いので観に行けるかは今のところわからないのだが、せっかくの機会なので、観に行ってきたい。この映画のオープニングタイトルがサイコーで、パンプキンとハニー・バニーのレストランでの会話からミザルーの曲が流れるというカッコ良すぎる始まり方である。『パルプ・フィクション』はどういう映画か、と言われると説明しずらい映画なのだが、しいて言えば“くだらない”映画である。当然いい意味である。“チョーサイコーにくだらない映画”なのである。音楽センスも抜群で、タランティーノ監督の最高傑作である。映像の魔術師と言われるデヴィッド・フィンチャー、とにかくアナログにこだわるタランティーノで、二人とも自分の作品にこだわりを持ち、このオープニングタイトルに並々ならぬ力を注いでいるのがわかる作品である。2作品ともYouTubeに上がっているはずなので要チェック!!!

2019年1月13日日曜日

1日に2本映画館で

 11日に公開された『クリード/炎の宿敵』と『蜘蛛の巣を払う女』を今年初めて映画館に足を運んで観てきたのである。公開された次の日でそして土曜日ということもあり、多くの人がいたのである。生まれて初めて映画館で2本観た。2本連続して観るのは予定していたので、1本目が終わってすぐに2本目が観たかったので、空き時間ができるだけ少ない上映スケジュールになっている映画館をいろいろ探し、一番少なかったのが比較的最近できた日比谷にあるミッドタウンであった。そこの映画館も初めて訪れた映画館であった。公開して二日目で、そして土曜日ということもあり、混雑は予想していたので、前日にあらかじめネットで座席予約をしていたので、場所もいい席を確保しておいたので、時間調度に着くようにしていた。
最初に観たのは『蜘蛛の巣を払う女』である。この作品は原作があり、スウェーデンの作品で『ミレニアム』シリーズで知られていて、世界中で大ヒットした作品である。第一部が『ドラゴン・タトゥーの女』、第二部が『火と戯れる女』、第三部が『眠れる女と狂卓の騎士』、第四部が『蜘蛛の巣を払う女』になっている。まずスウェーデンで第一部から第三部まで映画化され、こちらも大ヒット。そしてハリウッドでデヴィッド・フィンチャー監督のリメイクで『ドラゴン・タトゥーの女』が制作され、こちらもヒットし、そして今回制作されたのが『蜘蛛の巣を払う女』である。今回デヴィッド・フィンチャーは監督ではなく、製作総指揮に回っている。キャストも一新し、前回の『ドラゴン・タトゥーの女』とは全く新しくなっている。前回の作品がものすごく好評で、私も大好きな作品であったため、今回デヴィッド・フィンチャーが製作総指揮になっていることからかなり心配していたのである。ハリウッド版の『ドラゴン・タトゥーの女』はオープニングタイトルが本当にチョーサイコーにカッコよく、そこからストーリーが展開し、謎が明るみになっていくのだが、そしてラストも本当に切なく、でも良い終わり方をしていて、さすがはデヴィッド・フィンチャーだなーと誉め言葉しかない作品である。ちなみに私はこの作品と、タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』が史上サイコーにカッコいいオープニングタイトルだと思っている。このシリーズはミカエルというジャーナリストで雑誌『ミレニアム』の発行責任者兼共同経営者と、リスベットという過去の虐待をトラウマに持ち、背中にドラゴンのタトゥーを入れている天才ハッカーがメインキャラクターである。今回の作品はリスベットをメインの焦点に当てて、彼女の様々な過去が明るみに出る作品であった。ネットでの感想をいろいろ調べていると、感想はいまひとつのものが多かった。私は原作やスウェーデン版を知らないがため、このシリーズファンの期待に応えられていなかったのかなーと思うのだが、それとは反対に私は大満足の作品であった(笑)。展開がすご過ぎて次から次へと呼吸する間もなく、あっという間の2時間であった。今回はミステリーというよりもスパイものに近い感じになっており、これが少しファンにしてみればよくなかったのかもしれないが、私はスパイものやアクションは大好物なので、ダークでシリアスな『007』、ダークな『ミッション・インポッシブル』みたいで、私はこれで“あり”なんじゃないかなーと思う。前回はルーニー・マーラという女優がリスベット役をしたが、それもものすごくよかったが、今回のリスベット役はクレア・フォイという女優だったが、クレア・フォイのリスベットも私はかなり気に入ったので、続編などもこのまま作ってほしいと思った。ソフト化されれば即行買いに行くと思う。注文かな。



『蜘蛛の巣を払う女』の上映が終わって5分後に『クリード/炎の宿敵』の上映開始になるのでトイレだけ行ってすぐ別のシアターに向かった。本編開始前に予告や宣伝があるので5分後でも十分に時間に余裕があった。『クリード/炎の宿敵』は以前にも何度も書いたことがあるが、『ロッキー』シリーズである。『ロッキー』シリーズは毎回毎回同じようなパターンではあるが、でもこれがいいんだよなー。観ていると必ず涙があふれてくる作品である。当然ながら今回も涙が出た。ちなみに『蜘蛛の巣を払う女』でも泣きました(笑)。『ロッキー』シリーズに関しては何度も紹介しているので今回は省略する。でも今回観ていて思ったのが、このシリーズでは“ポーリー”というキャラクターがいるのだが、前回の『クリード/チャンプを継ぐ男』でお墓に入っていたので、前回から登場していない。前回は全く気にならなかったのだが、今回この“ポーリー”的な存在がないことに物足りなさを感じたのである。このシリーズには欠かせないと言ったら大袈裟かもしれないが、でもかなり重要なキャラクターではないかと思う。なので“ポーリー”を復活させるのは不可能だが、それに代わる存在が必要なのでは、と思った。
 映画を観終わった後、銀座や東京駅に用事があったので、日比谷からすべて歩いていける距離なので、日比谷にして正解であった。昨日は東京で初雪を観測したみたいで、昨日もかなり寒かった。東京ではインフルエンザが流行っているみたいだが、この冬はこのまま体調を崩さずに乗り切れたらと思う。映画はやっぱり映画館で観るのが一番である。

2019年1月10日木曜日

そこにいる人にしかわからない“心”

 今年はまだ東京では雪は降っていないと思うが、そして今年は暖冬という話も聞くが、外を歩いているとすこぶる寒い。歩きながら「どこが暖冬やねん」と何度も言いそうになった。今が一番寒い時期ではあるが、少なくともあと1か月半くらいはこの状態が続くと思うと、早く暖かくなってほしいなーと思う。暑いか寒いかどちらの方が好きか、と言われたら私は暑い方が好きである。暑いのは暑いでイヤではあるが。

今回も昨年観た映画なのだが、私のお気に入りの俳優の一人であるジェレミー・レナー主演の作品『ウィンド・リバー』という映画である。昨年公開の映画であり、Blu-rayを予約して手に入れた作品である。“ウィンド・リバー”というのは「風の川」という意味でこれは実際にある地名なのだが、アメリカにあるウィンド・リバー先住民居留地のことである。ここは先住民居留地ということで連邦政府の土地ではあるが、驚くことに完全に“無法地帯”なのである。ここウィンド・リバー地区の面積はだいたい鹿児島県くらいの面積で人口は約2万人いるのだが、警察官は6人しかいないのである。この時点で異常なのだが、この地区の平均寿命が49歳、失業率80%、10代の自殺率が全米平均の2倍以上、先住民の女性がレイプされる率が全米平均の2.5倍以上、先住民が殺人事件の被害者になる率は全米平均の5倍という驚く数字が並ぶ。この映画はこのウィンド・リバー地区が舞台の作品である。2012年にニューヨーク・タイムズがこの地区で異常にレイプ事件や女性の行方不明者が多いという記事が出て、それを呼んだ監督のテイラー・シェリダンがこの作品を作ったのである。
 野生動物局員である主人公がある日少女の死体を発見するところから物語は進んでいく。少女はレイプや暴行された痕跡があったが、直接的な死因は自然死であった。このウィンド・リバー地区というのはものすごく寒い地域で零下20度から30度にもなるくらい寒い。なので外気を一気に吸い込んでしまうと肺胞が一瞬で凍結してしまい、それで呼吸困難になり死んでしまうのである。この少女はそれが原因で死んでしまったのである。そしてなぜか少女は裸足であった。半径10キロは雪しかないこの場所になぜ少女は倒れていたのか。今回FBIから新人の女性捜査官が派遣されてくるのだが、なんとかこのレイプした犯人を捕まえたいと思ったが、殺人ではないと捜査ができなくなるのし、応援を呼んで殺人ではないというのがバレてしまうのを防ぐため、新人捜査官は主人公の協力を得て二人で捜査をすることになる。これはアメリカのダークサイドを描いた社会派の作品ではあるが、これはジャンル分けをすると西部劇である。そもそも西部劇と言うのはアメリカの開拓時代の話で1880年くらいである。1860年代に南北戦争が終わり、そこから西の方へアメリカではなかった土地に向かって移住していった話である。未開の地へ進んでいくことになるので様々な動物や先住民がいる。当然ながら警察もいない。非常に危険な場所ということで銃を持って武装する。なにかあったり揉めたりしたときには警察がいないのでその銃で決着をつけるしかないのである。これが西部劇の始まりである。ほんの150年前の話で、それが今も全く変わっていないということである。それはこのウィンド・リバー地区の話だけではなく、アメリカは非常に土地が広いため、警察を呼んでも6時間や7時間しないと来ないという場所はいくらでもあり、そこに住んでいたらやはり銃がないと不安になるのである。例えばそこで誰かに殺されてどこかへ埋められたらまず見つかることはないだろう。そんな場所が今のアメリカにもある。田舎の方はほとんどがそうだろう。どうしても銃は必要になるのである。
 最初このFBIの新人捜査官はこの地域のことを全く知らず、いろんな“問題”を起こしてしまうが、主人公と行動を共にしているうちに、この過酷な“世界”を知っていくようになる。なぜこの場所に少女が死んでいたのか。なぜ裸足であったのか。この過酷で異常な世界を知った捜査官が最後に“生きる力”、“生きようとする力”を痛切に感じ、言葉にならない感情が涙となってあふれ出す。この過酷で異常な場所で住んでいる人にしかわからない“心”、“思い”というのがある。それをあの静寂とその静寂を打ち砕く一発の銃声が私たちに訴えかけている。これも本当にすばらしい映画であった。
 オバマ大統領であった当時、このウィンド・リバー地区の警察の数を6人から36人に増やしたのだが、それでも少なすぎる数である。“自由と平等”と言ってはいるものの、それにはまだまだ遠い話のようである。

2019年1月7日月曜日

“意味”は?、“目的”は?、“結果”は?

 仕事の方はまだギフト配送が大量に残っているため、まだ始発出勤が続いているのだが、それもあと少しである。しかし、その後に1ヵ月の間にスタッフが3人いろいろな事情でいなくなってしまうため、それはそれで忙しくなってしまう。これもまたイヤだなーと今から感じている。これも仕方のないことなのだが。

 昨年映画関係についていろいろ投稿したが、「改めて紹介する」といった感じでずっと流してきた作品が大量にある(笑)。それを少しずつまた書かなければならないと思い、今回はその一つの作品を取り上げたい。今回は『桐島、部活やめるってよ』を紹介したい。この作品は私にしたら珍しく日本の作品である。日本の映画はほとんど見ることはなく、圧倒的に洋画がほとんどではあるが、今回の作品は非常によくできたすばらしい作品であると思った。日本の映画はほとんど褒めることはないが、今思いついたのはこの作品と『バトル・ロワイヤル』はすばらしいと思った作品である。今回の『桐島、部活やめるってよ』は原作があり、私はかなり前に原作を読み、確かこのブログにもその感想か何かを書いた覚えがある。とりあえずあらすじは簡単に言うと、とある高校で桐島という勉強もスポーツもできて、カッコよくて、人気があって、誰もが憧れる“スーパースター”のような存在の生徒が部活をやめるという噂が流れ、それによって周りにいる生徒たちに影響が及んでいってしまうというもの。影響というよりもパニックに近いかもしれない。この作品で原作もそうであるが、特徴的なのは“桐島”というこの作品で象徴的な存在が一切登場しないところである。そして登場人物のそれぞれの視点から描かれており、何度も同じ時系列を描いている。登場人物がけっこういて、ここからいろいろ書いていくが、わかりやすくするために名前の前に所属部であったり私が勝手にニックネームをつけたりしてわかりやすく書いていこうと思う。そして私がこの作品をすばらしいと思うのは、ただ単に青春映画という枠組みに収まっていないというところである。日本は特にそうだが、学生時代、学校生活といったもの、時代、時間がよかった、人生の中で一番輝いていた、というような作品が腐るほどある。私はそういった作品は当然ながらすべて大嫌いであるし、学生時代がよかった、と言っている人間の戯言に付き合っている時間はないので、そう言っている人も当然ながら大嫌いである。しかし、この作品は誰にでも、どの世代にも訴えている作品になっているのである。“桐島”とういう存在は学校外でいうなら仕事であれば優秀な営業マンであったり、プロデューサーであったり、中心となっている人物として置き換えることができる。この作品の監督である吉田大八監督はこの“桐島”の存在を“天皇みたい”と言っている。
 この作品の主人公は“桐島”と同じように学校にヒエラルキーがあったらその“上”にいる生徒で桐島の親友の宏樹君というのが主人公である。宏樹君は何でもできる人である。勉強もできるし、スポーツもできるし、女の子からモテるし、欠点がない存在である。完璧なのである。でもこの世の中に完璧な人は存在しない。しかし、完璧だからこそ誰にでも当てはまるように描かれているのである。でも宏樹君は人生の意味を見失ってしまったのである。部活やって部活やって意味があるのか。宏樹君は野球部だが、野球選手になるわけでもなく、野球で大学に行くわけでもなく、彼女もいるが恋愛も楽しくないし、なんで恋愛しなければいけないのか、結婚しなければいけないのか、子どもを作らなければいけないのか、会社に入って仕事をしなければいけないのか、お金儲けしなければいけないのか、そういった問題に宏樹君はぶつかってしまったのである。宏樹君は最初に進路希望の用紙が配られるところから始まる。つまりこれはただ高校を卒業をしてどこにいきたいかというような高校生向きの映画ではなく、人生に迷ってしまった、意味を見出せなくなってしまった人に向けての作品なのである。宏樹君の友達で友弘っていう生徒が登場するが、こいつはいつも「セックスしてーなー」と言っているのである。この友弘っていうやつはセックスがしたことがなく、セックスはいいものだと思い込んでいるのである。そのセックスの向こうに何かがあると思っているのである。でも宏樹君は直接的な描写はないが、彼女の沙奈っていう子と恋愛しているのでセックスもしたがそれほど楽しいものではなかったのである。でも友弘にしてみればセックスにすべてがあると思っているのである。宏樹君はセックスにも恋愛にも何も見いだせなかったのである。勉強ができて何の意味があるのか、スポーツができて何の意味があるのか、宏樹君は完璧であり、超えるものがないのである。何のために生きているのか、何のために生活しているのか。すべてにおいて何の意味があるのかという根本的な問題にぶつかってしまったのである。こういうのを“実存主義”というが、、宏樹君は何の意味があるのかという悩みだしたら意味なんてないのでは?という“実存主義”という言葉を知らないが、その実存主義の問題に直面してしまったのである。テニス部の実果ちゃんという子がいるが、実果ちゃんが言うセリフがあるのだが、「どうせ負けてしまうのにね。どんなにがんばってもいつか負けてしまうのになんでがんばっていんだろうね」と。これは人生そのものを言っている。どれだけがんばって、どれだけ金持ちになって、どれだけしあわせになっても、どうせ死んでしまうのである。すべてがいつかは消えてしまうのである。どうせ死ぬのである。なんのために生きているのか、宏樹君はそこまで考えてしまっているのである。
 桐島が部活をやめるというのをきっかけに多くの人間がパニックに陥る中、この作品で3人だけ全く関係ないブレない人が登場する。まず一人目は野球部のキャプテンである。キャプテンは引退時期を過ぎてもまだ野球をやっていたので、どうしていつまでも引退しないのか聞かれてキャプテンは「ドラフトが来るまではね」と。ドラフトが来るまではがんばるよと言ったときに、劇場で笑いが起こったみたいであるが、これは決して笑い事ではない。つまりキャプテンは来るわけもないドラフトを待ち続けて、そのために生きている人である。これは“神”を信じている人を表している。信仰者である。絶対に来ないものを、来るわけもないものを待って、それで生きていける人である。その他に吹奏楽部の部長の亜矢ちゃんと映画部の前田君である。この2人は非常にわかりやすく、この2人がなぜブレないのかというと、この2人はやりたいことが見つかっているからである。でも宏樹君はやりたいことを見失ってしまった人である。やりたいことが見つかっている人は、学校のカーストとか、社会のシステムとか、金儲けとか、出世とか、そんなことは関係ないのである。そしてこの吹奏楽部の亜矢ちゃんと映画部の前田君は、失恋してしまうのだが、失恋といっても告白をしてフラれるということではないが、その気持ちをそれぞれの芸術に昇華させるのである。亜矢ちゃんはローエングリンという曲を、前田君は今自分たちが撮影をしていたゾンビ映画の中で自己実現をしていく。
 この映画では最終的に登場人物が校舎の屋上に集まってくるのである。そこでいろいろあるのだが、桐島の親友の宏樹君と映画部の前田君が出会うのである。屋上に集まったときにそこでは映画部がゾンビ映画の撮影をしていたときで、前田君が8ミリカメラを持ってすごく楽しそうにしていたのを宏樹君がその様子を見ていたのである。どうしてこの前田っていう奴はカメラを持ってこんなにも楽しそうにしているのだろうか、と。このカメラに何かあるのか、何か不思議な力があるんじゃないのかと不思議そうにカメラを触るのである。このカメラに生きる意味の魔法でもあるんじゃないかと思っているのである。そこで宏樹君はカメラを前田君に向けて質問するのである。これはふざけているように見えるが、これは宏樹君が本当のことを聞いているのである。「将来は映画監督ですか?女優と結婚ですか?アカデミー賞ですか?」と。これは何を意味しているのか。それは“結果”はどうなの?ということである。“結果”はどうなの?、“目的”は?、“意味”は?というのを聞いているのである。そうしたら前田君は照れ笑いをしながら「それはないなー。ただこうやって映画を撮っていると、自分の好きな映画とつながっているような気がして・・・」と答える。つまり、ただ好きだからやっているんだよ、と言っているのである。そのあと、前田君がカメラを持って宏樹君を映すのだが、宏樹君は夕日に照らされてものすごく悲しそうな顔をするのである。このシーンは監督も行っているが大逆転の瞬間であると。全てにおいて勝利者であった宏樹君が唯一もっていなかった“意味”、“目的”だったが、前田君が意味とか目的とか関係ないし、好きだからやっているんだよと答えるところで前田君は勝ったのである。前田君は夕日に照らされた宏樹君を見ながら、「かっこいいね。やっぱりかっこいいね」と言う。宏樹君は「俺は撮らなくていいよ」と言う。この映画の大きな特徴の一つが、登場人物の“心の声”、“本当の声”というのが一切ないというところである。なのでこの映画が公開されたときに、この映画の同世代の高校生たちがこの映画を観てあまり評価されなかったというのはそれは本当の声が隠されているため非常にわかりにくかったということである。非常に難解な映画になっている。声ではそういっているけど、本当は何を思っているのか、深く深く推理して観なければこの映画は理解できないように作られている。そして本当にいい映画というのはセリフにしてはっきりと言わないところである。それは『ハート・ロッカー』や『マイレージ・マイライフ』といった映画でもそうである。隠した感じで伝えてくるのである。もしこの映画が安っぽい映画であれば、宏樹君は前田君に「俺なんかカッコよくないよ。カッコいいのは前田お前だよ。お前好きなことあって好きなことやってるじゃん。お前の勝ちだよ」と言っているはずである。そのあと宏樹君は校舎を出て、それでもしつこく桐島に電話しようとする。桐島というのは意味や目的、結果の象徴であったり、中心、機軸みたいなものである。でもそこで宏樹君の目に映ったのは一生懸命野球をやっている仲間が見えたのである。このシーンでこの映画は終わる。この後宏樹君はどういう人生の舵を取っていくのかは私たちがそれぞれ判断すればいい。私はおそらく宏樹君は桐島の電話を切るのは確かだと思う。“意味”、“目的”、“結果”、そういったものを宏樹君は“切る”のではないかと思う。野球を再び始めるのかどうかはわからない。この映画の主人公は宏樹君ではあるが、もう一人の主人公は映画部の前田君である。キャラクターの描き方で監督が好きなキャラクターと言うのは映画を観ているとすごくよくわかる。
 吹奏楽部の亜矢ちゃんであったり映画部の前田君は音楽や映画を通して自己を実現するのである。好きなことを通じて自己実現をするのである。以前も書いたことがあるが、『ショーシャンクの空に』もそうである。現実は牢獄みたいなものであると。この牢獄にような人生から抜け出すには自分自身の穴を掘るしかないんだと。穴を掘ればこの壁の向こう側へ抜け出せるんじゃないかと。自分自身になれるのではないかと。最後のシーンにしてもナレーションを入れたりしていないところがいい。安い映画なら入っていたであろうシーンである。最後は宏樹君の背中で終わる。非常にすばらしい作品である。誰が観ても、どの世代の人が観ても、必ず心に突き刺さる映画であると思う。それでも現実にある様々な問題や壁、周囲にある目、世間体、環境、くだらないことが山ほどある。避けては通れない道もある。でも前田君は私たちに教えてくれたはずである。ゾンビ映画を撮っている中でのセリフで。

戦おう。オレたちはこの世界で生きて行かなければならないのだから。

2019年1月1日火曜日

2019年です

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 ということで気が付いたら2019年になっていた。昨日まで怒涛の繁忙期で、残すは明日の初売りとギフトの出荷である。それが終わればとりあえず繁忙期が終わるということである。周りに風邪をひいている人がちらほらいるが、私は何とか体調を崩すことなく年を越せたので、とりあえずひと段落である。
 今日は元旦ということで天気も良かったのだが、疲れすぎていてどこにも行く気がせず、頭もボーっとしていたので一日中暖房の効いた部屋に閉じこもっていたのである。初詣なんかも行かないし、おせちなんか当然食べなしい、福袋を求めに百貨店へダッシュ!!ということもなく、いってしまえばいつもの休日と全く変わらない一日であった。仕事疲れはしばらく続きそうなので、もうちょっとしたら余裕が出てくるのではないかと思っている。今年は去年よりもっとファンキーでクレイジーでぶっ飛んだ一年にできたらと思っている。

2019年が始まった!!
みんなでフューリー・ロードをエンジン全開でブッ飛ばしていこう!!
今年も大変なことはわかっている!!
でも、それでも、がんばっていこう!!
なにかをな!!