2018年8月10日金曜日

私が言ったことではない

先日どこかで書いたことがあるのだが、最近のテレビ放送では映画は放送されなくなったと。最近書いた覚えがあるのにすぐに忘れてしまい申し訳ない(笑)。探せば見つかるだろうが、探す時間ももったいないのでそのままいってしまおう。もう本当に最近は鬱陶しいくらいに“お子様”向けの放送ばかりで、テレビなんか見てもしょうがないレベルである。先日久しぶりに私が行くメガネのお店に行ったのだが、そのお店にいらっしゃる他のお客で、映画関係?アニメ関係?の方がいるみたいなのだが、そのお店のスタッフの方がその映画関係の方に、「昔のドラゴンボールをまた放送してくださいよ」と言ったみたいなのだが、今の放送コードではそれも放送できないと言っていたみたいである。私が昔観ていた『ドラゴンボール』ですらも放送できないのである。最近新しい『ドラゴンボール』を放送しているみたいだが、もう本当にクリーンにクリーンになっているのだろう。そんなものに価値があるのか。全く理解できない。この時代を異常とは誰も思わないのだろうか。そしてテレビではジブリばっかりでもううんざりしている。といっても私はテレビがないので関係ないのだが、たまに大阪に帰った時に新聞のテレビ欄を見たりするが、どうでもいい番組ばかりであるし、ジブリはよっぽどの事情がない限り観る気もないので結局まともにテレビを観ないのである。ジブリで思い出したのだが、こにジブリの監督である宮崎駿について少し書きたい。その中でも『千と千尋の神隠し』についてなのだが、これは風俗の話であるということである。こう書くとジブリファンからボコボコに殴り殺されそうだが、これは宮崎監督自らそう言っていることなので仕方がない。主人公は“湯女”として働かされるのだが、この言葉の意味は辞書を引けば一発で分かるが、“温泉場や風呂屋にいて浴客の世話をした女性のこと。一部は私娼化して売春した”、または“江戸時代、市中の湯屋にいた遊女”、“風呂屋に奉公し、客の身体を洗い、また色を売った女”という意味である。これを言うと「そういった見方もある」とか「そういう解釈もある」という人がいるが、そういうレベルではなく、“湯女”とは“娼婦”を意味するのである。しかし、昔から風俗においては初潮前の少女は見習い(半玉)として下働きをさせられる。千尋の場合はその段階である。公衆浴場には銭湯と湯女風呂の2種類あり、銭湯の客は男女両方で、背中を流すのは三助という男だが、湯女のいる客は男だけである。こういうことは国民的アニメであるし、大ヒットを飛ばした作品なので、こういう情報はなかなか出てこないのだが、何度も言うがこれは監督自身がそう言ったのである。インタビューで監督はこういっている。「今の世界として描くには何が一番ふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいになっているじゃないですか。」といろいろ日本の性風俗について語るのだが、『千と千尋』は現代の少女をとりまく現実をアニメで象徴させようとしたので、性風俗産業の話になった、と監督は言っているのである。風俗産業で働く少女を主人公にするというアイデアを出したのはプロデューサーで、「人とちゃんと挨拶ができないような女の子がキャバクラで働くことで、心を開く訓練になることがあるそうですよ」という話をしたら宮崎監督が「それだ!」とアニメの発想がひらめいたそうである。国民的アニメがまさか風俗産業の話をしているなんて信じられない国民が多いのか、それとも自分が思っていたのとは違うというのを受け入れたくないのか、人間みんなそんな感じである。というか湯婆々の服装は19世紀欧米の娼館の女主人(マダム)そのもである。アメリカ人やヨーロッパ人が観てもすぐにわかる。少女が娼婦に身を落として、自分や親の罪を贖うという物語は世界中のあちこちにある。お姫様や絶世の美女が苦界に落ち、我が身を男たちに与えていくが、本当の優しさに巡り会ったとき、天女になって天に召されるという草紙である。この映画では両親が飽食の罪である。89年まで続いた戦後日本の高度経済成長と飽食、享楽主義のツケが、90年代から続く底なしの不況として返ってきたこと、それが女性の就職難に繋がり、風俗産業という苦界に身を投じる必要性が増している状況を象徴している。現代日本の女の子が性風俗のあふれる社会で生きていかなければならない現状を監督は語っている。『千と千尋』の客が神様(全員男)なのは、古来紙に仕えるものと娼婦は同一視されていた。古代から世界各地の神殿の巫女は売春もしていた。最も聖なる者と最も下賤なる者は同じと考えられていた。日本に限らず、世界中で神に仕える女性は同時に娼婦でもあった。神に身を捧げることと誰にでも分け隔てなく我が身を与えることは同じことだからである。民俗社会においては、巫女は神の妻であり、人間にとっては処女であり(誰の妻でもなく)、同時に娼婦でもある(誰の妻でもある)。だから湯女たちは巫女の衣装を着ている。中世のキリスト教教会は娼館を認可し、必要なものとしていた。宮崎監督は、性風俗を悪いことと決めつけるのは、キリスト教的倫理の押し付けだと怒っていたのである。ただ単にお金が欲しいから、という理由で風俗で働く子が多いとも思うが。まぁこれは私が言ったことではなく、宮崎監督が言っていたことである。

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