2016年5月31日火曜日

ゴリラ射殺から

先日アメリカのオハイオ州の動物園でゴリラが射殺されるというなんとも悲しい事件、事故が起こった。男の子がゴリラの囲いに落ちてしまったため、少年を救うためにゴリラを射殺したという。この出来事は完全に意見が対立してしまう典型的なものとなってしまった。現場にいた目撃者の意見によると、ゴリラは叫んでいる群衆から少年を守ろうとしていたんだ、というものもいた。危害を加えようとはしていなかったと多くの人が指摘している。動物園側の主張によるとゴリラは少年をつかみ、引きずり回し、命の危険があると判断し射殺したと説明。なぜ即効性の麻酔銃を使わないんだという意見には、麻酔銃では効果が出るのに時間がかかってしまうためと説明。そもそも監督不十分の親に一番責任があるという意見も多数だ。うーん、難しい問題だ。
 もし、事が遅かったら少年は命を落としていた可能性もある。その時はその時で非難を浴びてしまう。絶滅危惧種のゴリラに銃を向けるというのは、銃を持つ前から非難を浴びるのは動物園側もわかりきっている。動物園側も苦渋の決断だったであろう。その時自分がそこにいて、その決断を下す責任があるとしたらどういった決断を下していたであろうか。そのときその状況により変化はするものだろうが、もしかしたら私も動物園側と同じ決断を下していたのではないかと思う。理不尽な話だが人間の安全を最優先に考える状況である。決断が遅ければ少年にケガ、最悪の場合死亡していた可能性もある。もしかしたらゴリラは少年と一緒に遊ぼうとしていたのかもしれないし、それこそ守ろう、助けようとしていたのかもしれない。しかし、その様子をじっくり観察している状況ではないはず。
 今回と同じような出来事が過去にもあり、そのときはある一匹のゴリラが他のゴリラたちから守り、背中をなでてあげていたみたいだ。このような感動的な話もあるんだな。緊急事態の決断を下す際、どの選択が一番の選択なのだろう、どの選択が正しいのだろう、それは考えても考えても答えはなかなか出てこない。先ほど述べた感動的な話はごくごくまれな話だろう。何もかもが無傷で元に戻れるということはほぼないだろう。感動的な話を期待するのはあまりにも危険過ぎる。射殺する、麻酔銃を使う、様子を見る、どの選択肢を取っていたとしてもその選択によって生じる痛手に非難を浴びることになる。だから私は今回、少年の安全を最優先に考えた動物園側に対して何も文句は言えないし、正しい判断だったのではないかと思う。人間はあらゆる場面で、状況で、もがき苦しみながらもより良い答えを探し続けていかなければならない。

2 件のコメント:

  1. 私は親の監督不行き届きのほうに賛成ですね。
    きっと、この動物園は親に対して何かしらの損害賠償を求めるでしょう。もちろん裁判になった場合、柵の高さが足りなかったとか、そもそも柵自体なかったとか、注意事項や危険性を知らせる看板がなかったとか、親の方もいろいろと主張はするでしょうが。でもフツーの常識で考えたら、動物園では何に注意しなければいけないかは分かるはず。
    動物園は子どもの命を守ったのだから。そうしてもらいたいです。
    四六時中こどもの面倒なんか見れない、と言う意見もあるでしょう。
    子育ての大変さを知らないからそういえるんだ、とか。
    でもそれを覚悟の上で子育てしてるんでしょ!?と言いたいですね、私は。

    日本でも、認知症を患う家族が徘徊し、JRが介護する家族に損害賠償を求めた事例がありましたね。これもいたたまれないです。

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    1. Abbyさん、コメントありがとうございます。
      確かに家族の監督不十分なことが事の発端ですね。
      それぞれの立場でいろんな主張をしていくのではないかと思います。
      子育てというのもなかなか大変なんでしょうね。
      私はまだ経験していないので反論は難しいのですが。
      電車に乗っているときなんかに、子供が隣に座っているのに親がずっとスマホをいじっている姿なんかを見ると違和感を覚えますね。
      この事件も一概に誰に責任があるというのは言えない事件ですが、何かに少し気を付けていれば防げたはずです。
      それを怠ったがために悲しい結果になってしまいました。
      そうならないために、少しの注意をしてほしいものです。

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