前回の一応の続きでも書こうかなと思う。おそらくこの認知症は世界中で深刻な問題となっているだろう。認知症になれば介護が必要になってくる。一番理想的な姿はやはり家族が協力し合い、できれば自宅で面倒を見ていくというのが一番いいだろう。しかし、現実は違う。そうしたくてもできないものである。何よりも“自分”の生活がかかっている。仕事をしなければ自分が生きていけない。そして介護もすることができない。介護もかなりのお金がかかる。治療費、施設料などなど。それは想像以上に大金である。
前回は明らかに私中心の意見を書いたが、実際に私自身が認知症になったらどうであろうか。世界でも深刻化している認知症は、明らかに昔よりも大きな関心が寄せられている。今や身近な問題ともなったこの悲しい現実を私たちが危惧する理由。そこには、私たちに失いたくない記憶や大切な人の存在があるからだろう。自分が歩んできた道、自分を構成する要素。それらが一つひとつこぼれ落ちていくことはどれほど残酷なことだろう。自分が自分でなくなっていく恐怖、愛する人々が何者なのかさえわからなくなる、無情さ。私にも“その日”はいつか来るのだろうか。
私はまだ20数年しか生きていないが、忘れたくない記憶ばかりである。こんな私でも一緒に遊んでくれる仲間。ご飯行こう、と気軽にメールをくれる仲間。今度は○○に行こう、と次も会う約束をしてくれる仲間。当たり前のようだが当たり前ではない。そして家族の存在。面倒や心配ばかりかけている。しかし、それでも遠くで見守ってくれている。私は死ぬまで心配をかけ続けるだろう。私が何歳になろうとも、どこでどんな仕事をしようとも家族の関係は変わることはない。かけがえのない全ての“ひと”に心から感謝している。
聴覚、臭覚など五感で味わった記憶ほど人はよく覚えているという。年を重ね、“今”が思い出になる日は必ずやってくる。忘却の彼方に消えてしまう喪失感も味わうかもしれない。しかし、私の名を叫ぶ声が、仲間、かけがえのない“ひと”たちと過ごした若きこの時代を呼び起こしてくれるだろう。デジタルカメラのメモリーカードのように形に残すことのできない“記憶”。淡く、儚く、・・・。だからこそ愛おしいのかもしれない。
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