最近、祖母(母方)が認知症になったのである。母が祖母の認知症に気付いたのはある事件がきっかけだったのだ。詳しく書くと長くなるので省略するが、救急車、消防車、警察、というオールキャストが揃うほどのちょっとした事件だったのだ。しかし、そのようなことがあったというのは祖母は覚えていない様子だったのだ。詳しく検査すると認知症と診断された。24時間目を離さないように医者から言われたのだが、母も仕事をしているのでそうはいかない。預けてもらえる施設を一緒に探した。ちょうど大阪に戻った時である。
祖母の家はマンションの最上階で、私の実家も同じマンションである。私が中学3年生の時に祖父をなくした。今でも鮮明に覚えている。祖父がなくなったのは1月1日。その日以来祖母はひきこもり状態になってしまった。家事は祖父がよくやっていた。家に遊びに行った時に祖父がよく掃除機をかけていた。言い方は悪いが祖母は人に頼っていたのである。毎晩夕食は母が作ってそれを持って行っていた。しかし、ご飯を食べるよりも酒ばかり飲んでいた。母はやめるように何度も注意をし、医者からもやめるように言われたが祖母は聞かなかった。酒を飲むことが唯一の楽しみになっていたのだ。次第に医者から酒をやめるように言われなくなった。患者が協力しなければ何の意味もない。骨粗鬆症、肝硬変などの病気にかかっていたが、治るはずもない。そして認知症に。
大切な人を失って悲しむのは当然のことである。そして祖母だけが通る道ではない。世界中の人が生きていれば必ず通る道。通りたくなくても通る道。1年間悲しくて辛くてなにもできなかった。しょうがないね。5年間悲しくて辛くてなにもできなかった。しょうがないね。10年間悲しくて辛くてなにもできなかった。しょうがないね。死ぬまで悲しくて辛くてなにもできなかった。ノー!!私ならばこう答えるだろう。悲しくて辛いのは仕方のないこと。それをいつまでじ悲しむのか。死ぬまで?
私ももしかしたらそれほどの悲しみに直面したことがないからそんなことが言えるんだと言われるかもしれないが、立ち上がらなければならないときがある。大切な人を失ってもなお立ち上がってたくましく生きている人はたくさんいる。むしろ立ち上がらなければ生きていけない。そんな姿を周りの人が見て、手を差し伸べてくれるのである。生きる目標を失い、アルコール依存の生活をしている人に誰が手を差し伸べようとするのか。残るは家族しかいない。面倒を見ているのは私の母。だから私の母は今本当に大変なのである。
認知症になるまでに何かしらの方法で生きる目標を見つけられなかったのは、周りにいた人も悪いかもしれない。しかし、あらゆる手は尽くしたと思う。人はどんなことがあっても前に進まなければならないときがある。立ち止まってはいられないときがある。山を登らなければならないときがある。アルコールに悲しみを紛らわそうと決めたのは紛れもない祖母自身。己で選んだ道である。それが周りの人に迷惑をかける結果に。しかし、そんなことはすぐに忘れてしまう祖母。怒りすら湧いてくる。そんな祖母だが母は毎日は厳しいが二日に一回は祖母に会いに行っている。会うたびに喧嘩しているみたいだ。私は、「いかんでええやん」と言う。母は、「うん。でもなー・・・」。私が心配なのは母が体調を崩さないかどうかそれだけ。
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