前回投稿した『ツイン・ピークス/リターン』をすべて観終えた。これはもうなんていったらいいのか。こんな作品はもしかしたらもう二度と観れないかもしれないと言ってもいいかもしれない。これほどいろんな要素が含まれている作品はほかにないだろうし、こんなに憑りつかれるのもないだろう。以前にも書いたが、これはファンなどには作れない、オリジナルにしか、リンチ監督にしか作れない作品である。誰も予想できない展開、事件、謎、夢、異空間、超現実。意味不明な、理解不能な展開が次から次へと出てきて、もう本当にすごい作品である。観客から大ブーイングを受けた『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』がドラマシーズン1、シーズン2の世界を広げ、今回のリターンで新たな『ツイン・ピークス』という“世界”を構築している。前回のドラマシリーズから約25年後の今回の作品であったが、ドラマの中でも、そして現実でも25年後の世界である。目に見えない“何か”を感じざるを得ない。残念ながらその25年間の間に亡くなってしまった方がいるし、『リターン』を撮り終えて亡くなってしまった方もいて、ドラマを観ながらいろんな思いが交錯してしまった。本当にすさまじい作品である。
今回の作品で一番驚かされたのは“遅さ”である。俳優、女優たちがみんな年を取ってしまったというのも当然理由の一つとしてあるだろうが、なんせ“遅い”のである。1シーン1シーンをものすごく丁寧に撮っているし、何も起こらないことを永遠と撮り続けていたりもする。ほうきで床を掃いているシーンがあるのだが、なにか起こるのかなーとじっと観ていたのだが結局何も起こらなかったのである。こういったシーンがたくさん出てくるのだ。全部で18話あるのだが、その中で“意味の無い”シーンというのがたくさんある。そのシーンを飛ばしてもストーリーの内容としては何の問題もない。しかし、それをしてしまうとこの『ツイン・ピークス』という世界を体験したことにはならない。普通の映画やドラマであれば絶対にカットされるであろう省略されるであろうシーンが山ほどあるのだ。しかし今回はすべてリンチ監督の権限の元撮影をしているので、これらは絶対に必要なシーンなのだ。今回の作品を作る際に、配給会社はリンチ監督に予算を提示したのだが、リンチ監督は「この予算では制作はできない」と言って断っている。それでも配給会社はリンチ監督抜きでドラマを制作しようとして、全部で9話になるドラマを考えていた。しかし、『ツイン・ピークス』関係者、俳優たち、女優たちが、“NO LYNCH, NO TWIN PEAKS”といってリンチ監督抜きでは『ツイン・ピークス』はあり得ないと反対運動があり、配給会社は再びリンチ監督にお願いをして制作が始まったのである。なので予算の面からも、芸術性の面からも、リンチ監督自身が納得のいくように作っているし、それが可能となったのである。これほど自由度の高い作品は本当になかなか観ることができないのである。そういう意味でもすごい作品なのだ。
前回のシリーズもそうだし、今回もそうだし、ほかのリンチ監督作品もそうなのだが、本当に訳の分からないシーンがたくさん出てくる。夢なのか現実なのか。でもそれはわかりにくく作っているので訳が分からなくて当然である。事細かにこのシーンはこういった意味があって、犯人は誰で、とかそういったこと自体にリンチ監督は全然興味がなく、ただ“謎”を楽しんでもらいたいというメッセージが込められている。だからあるシーンについて神経質になっていろいろ考えるというのはリンチ監督が思っている楽しみ方ではない。なのでもう本当に「謎って気持ちいいねー」ということである。まだ一度しか観ていないので、また1話目から観なおしていきたい。5日くらい前だったか新しい情報が入り、今回の『リターン』のブルーレイ・DVDが今年の7月4日に発売されるというのだ。早速予約注文をしたのだが、ブルーレイには400分以上の特典映像がついているので、本当にブルーレイが観れるようになってよかったと思っている次第。今は観終えた直後で頭の中が全く整理できていないので、改めてこの『ツイン・ピークス』について書いてみたい。
お疲れ様です。
返信削除『キングスマン/ゴールデン・サークル』
これも年頭からの懸案事項でした。やっとたどり着きました。
前作と同様、これも面白かったです。
ハリーもエグジーも、そしてマーリンも、身なりが美しく整っているだけでもカッコよさは倍増です。
京王に行ったとき、IMAXのキングスマンに行けなかったのが今となってはとても残念です。
20回も観てしまうのも無理はありませんね。
「マーリンよ、お前が唄う“Take Me Home”はサイコーに感動したよ。涙が出たよ。
この唄でこれほど心に突き刺さるのはおそらくこれが最初で最後だろう。
サイコーの“Kingsman”だよ。」とありましたが、この言葉の意味がやっと分かりました。
今までこの曲と言えば、宮崎駿監督の「耳をすませば」だったんですが、今後はマーリンのことも思い出してしまうような気がします。
めちゃくちゃショックでしたね。突き刺さるという表現はまさにぴったりです。
ハリーが復活したのであれば、続編では是非マーリンも復活してほしいですね。
投稿では、「未だにショックで、ちょっとどうしたらいいのかまだわからないのである。」ということでしたが、私も1回目に観た直後は、デスロードの時と同じような感じで、「どうしたらいいかまだわからない」感じがしましたね。
回復したとはいえ別人になってしまったハリーのことも、マーリンのことも、ハリーの元相棒のことも、ショックなことを次から次へと突きつけられたようで、ぼーっとしてしまいました。
言葉がみつからないので、こうやって感想を書くのも難しいです(笑)
『ハクソーリッジ』
これも懸案事項でした。
しかし、ファイトクラブ・キングスマンの後に感想を書くのは、もう無理ですね。
一応、書いたことは書いたのですが、
「Dジャンゴ」「ミア」と同じく、デスクトップに「デズモンド」というWordファイルが残ったままになりそうな予感がします。
この映画もいろんなことを一気に突きつけられたような感じで、どんな言葉でもしっくりきませんね。
これもどうやって書いたらうまくSAMURAIさんに伝わるのか分かりませんが、
映画ではとにかく人がどんどん死にますよね。殺し合いのシーンがずっと続いて。血や内臓とか肉片とか、飛びまくってますよね。
戦争の無意味さというか、ああやって殺し合うことに何の意味もないのに、
戦争中だという理由で人々が兵士となって戦場に行って、
無意味に殺し合う、そういう時代が過去に確かに存在していたという事実に打ちのめされるというか、無力感にうちひしがれるというか…
無意味と無力感。自分ではこれしか感想の言葉が出てこないので、ハクソーリッジを取り上げていた去年のSAMURAIさんの投稿も再び拝見したりしていました。
「観ていて辛くなるししんどくなる」とありましたが、同感です。
でもSAMURAIさんはハクソーリッジに対してちゃんと他人に映画を紹介できる文章をまとめてあったので、すごいなーと思ったところです。
『時計じかけのオレンジ』
デモリションマンの返信で紹介していただきました。
これは去年の投稿のどこかでも紹介されていたことがあったような記憶があったので、投稿をさかのぼってみたところ、
「暴力シーンを取った『時計じかけのオレンジ』に意味が、価値があるのかといったらゼロである。」との記述でした。
映画の読者業を始めてたしか2か月ぐらい経った頃に、返信で「いずれハズレがでてくると思う」「人生を無駄にしないためにもくだらない映画をみなければならない」「ハズレてもそれはそれでいい」という言葉をいただいたことがありました。
『時計じかけのオレンジ』は、たぶん読者業初の「ハズレ」になりそうな気がします。
…「ハズレ」た映画のコメントなんかしなきゃいいのに、ともちらっと思ったりもしましたが、キレイゴトばかり書くのも読者として誠実さに欠けるような気が(勝手に)するので、
失礼を承知で書かせていただこうかと思います。
なぜハズレたのかを説明させていただくと、暴力の“質”がものすごく悪く感じたからです。
これもどう表現したらいいか自信が全く持てないのですが、例えばスタローンシリーズでの暴力と、この映画での暴力での違いは、正義とか善であることとか、そういう信念みたいな根拠や背景があるかないか、ということなんです。
暴力は暴力だと言われてしまえばそれまでですが、でも少なくともスタローンシリーズでの“暴力”は、誰かを助けたいとか、善いことをしたいとか、この状況でいいはずがないとか、そういう想いみたいなのがあったと思うんです。
でも『時計じかけのオレンジ』の主人公の暴力は、まさに暴力のための暴力であって、なんの意味もない暴力だと思います。
人格を変える治療を受けたのも被害者への謝罪からではなく、監獄から早く出たいという自分勝手な理由からですし、治療後に暴力を振るわなくなったのも身体的苦痛から逃れるためですよね。
自分の暴力で何の罪もない人たちを殺したり多大な苦痛を与えたりしているにも関わらず、この映画の主人公には自分の行為を一瞬でも振り返るとか悔いるとか、そういう要素が全くなかったのがやはりどうしても観ていて気持ちが悪いというか、不快な思いしか残らなかったんです。
社会生活を送る以上は、周囲の誰も傷つけないで生活できる人なんているはずがないと思うんです。
誰にだって多少は自分の行為が周囲にもたらした影響について反省すべきところはあると思いますし、それは仕方のないことなんだから少なくとも振り返ってみる、これでよかったのか考えてみる、そういうことができる人間であるべきだと私は思いますね。
逆にそうしなければ、誰かからしてもらった親切や配慮にも気づくことができないと思います。そして誰にも感謝することができなくなってしまいます。
以前のSAMURAIさんの投稿で、映画監督の紹介のところで以下の文章がありました。
ヴァーホーヴェン監督の印象に残ったことばがある。「僕は“いいアート”とは、時に心をかき乱すようなものだと思うし、そういうものであるべきだ。それは観る者を動揺させ、怒らせなくてはいけない。確かにアートは“美”だが、“美”だけであるべきではない。矛盾があり、人々を動揺させ、彼らに違う考えをさせるものであるべきだ。彼らを不安にすべきだ。僕はいいアートは挑発的で、大胆で、ちょっと平手打ちのようなもの、であるべきだと思う」である。私もこれには同感で、このブログでも何度か書いているが、表現とはそういうものである。
たぶん、私の場合は『時計じかけのオレンジ』は、もう二度と観なくてもいい映画になると思います。しかし、ヴァーホーヴェン監督の基準では“いいアート”に分類されるのかもしれません。
…面白かった『キングスマン』よりも『時計じかけのオレンジ』のほうがやたら言葉が出てきて感想が長いですね(笑)
皮肉なものです。
長渕剛のほうですが、最近やっと『家族』を手にいれました。
オススメリストにあった「友よ」について、収録されているアルバムはリストと違いますが、ようやく聴くことができました。
そして久しぶりにこの曲をawesome mix Vol.1に新規でラインナップしました。
これはいいですね~
高校3年生が卒業シーズンに合唱するときの課題曲、みたいな感じがして、よかったです。
穏やかな曲ですし、だんだん声が重なっていく構成になっているところが印象的でしたね。
以前、職場の先輩から槇原敬之の大阪でのライブに誘われた話を書かせていただきましたが、その後いろいろあって結局この話は流れてしまいました。
なので当初考えていた通りに、長渕剛の夏に行われる“らしい”ライブ日程の発表を待って、今年の夏休みは天神祭が行われるであろう7月に3回目の大阪に行こうかなぁと思っています。
ネットの情報だとお祭りの時はめちゃくちゃ混むらしいですね。中村屋が祭りの時に臨時休業とかにならないことを祈るのみです。
めちゃくちゃ混み合う大都会のお祭りに参戦する、という人生経験も私にはありませんので、1回くらいは行ってみるのもいいかな、と思います。
地元では、周囲に高い建物は文字通り全くないので、数キロ先で打ち上げられる花火でも実家の1階の窓から余裕で見えますから、わざわざ外に出る必要はありません。
それ以前にまず、狙った日で仕事の休みが取れるかどうかがわかりませんが(笑)
Abbyさん、コメントありがとうございます。
削除『キングスマン/ゴールデン・サークル』、『ハクソーリッジ』、『時計じかけのオレンジ』をご覧いただき、ありがとうございます。
『キングスマン/ゴールデン・サークル』ですが、やはりマーリンの死は未だにショックですね。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー/リミックス』のヨンドゥの死と同じレベルのショックでした。
映画館では泣いてしまいましたね。
“Take Me Home”を歌いながらハリーとエグジーに目を合わせるシーンは本当に泣けてしまいます。
そこからハリーとエグジーによる虐殺劇が始まるんですけどね(笑)。
今回はエルトン・ジョンも登場していましたが、彼は“FUCK”しか言っていませんでしたね(笑)。
なんちゅー役や(笑)と観ながら思ってしまいました。
最後のことばは1942年11月10日にイギリスのチャーチル首相が述べたことばですね。
もしかしたらステイツマンのスピンオフの作品も作られる可能性もあるという情報です。
あと、本公開のものと試写のものと少し違うところがありまして、試写のバージョンでは戦いが終わった後にマーリンが這ってきて助けてもらうシーンがあり、義足をつけてエグジーの結婚式に参加するというものでしたが、この試写を観た観客は「感動が台無しだ」という反応があり、マシュー・ヴォーン監督はマーリンがいきていることをうかがわせるシーンを全てカットしました。
重要人物が生きていたというこの手は2度は使えないという観客の反応だったと思います。
私も思ったのですが、地雷を踏んで爆発しただけでは人間死にませんからね。
脚が吹っ飛ぶだけです。
本当に昔の地雷であれば殺す威力はありましたが、途中で気がついたんですね。
殺すくらいの火薬は必要ないことが。
脚だけ吹っ飛ばせばその人は戦闘不能になるんですね。
だから地雷っていうのは本当に残酷な武器なんですね。
本当にマーリンを殺したのは試写に来ていたオーディエンスです(笑)。
話がそれましたが、でもマーリンにはなんとか復活してほしいです。
あとロキシーもです!!
ロキシーはチョーカワイイので(笑)。
すみません、これは個人的な話です(笑)。
今度私の個人的に気に入っている大好きな女性キャラクターみたいなのも、やってみようかなと思っているところです。
好きな男性キャラクターは以前簡単にご紹介しましたが、こちらも今度改めて合わせてやってみようと思います。
『ハクソーリッジ』ですが、これもすごい映画でしたね。
これは戦争の“戦場”の悲惨さがかなりメインに描かれていると感じました。
そしてラストはまだある意味いい感じで終わっていましたが、私がオススメする戦争映画でこれも何度かご紹介したことがありますが、『アメリカン・スナイパー』というクリント・イーストウッド監督の作品があるのですが、この作品はついこの間のイラク戦争が舞台の作品です。
この作品も戦争の悲惨さを痛感するのですが、こちらはどちらかといえば人間に目を向けているように感じます。
人間というものが戦争を通じて少しずつ壊れていく、人間ではなくなっていく姿、家族が一番大切なんだと信じていたが本当に自分が求めていたのは戦争だったというのがこの作品です。
PTSDに苦しむ作品です。
戦争映画をオススメするなら私は『ハクソーリッジ』と『アメリカン・スナイパー』を出します。
ただし『アメリカン・スナイパー』は「えっ!?」っという終わり方をして、しばらく放心状態になってしまいます。
もしよかったらこちらもご覧いただければと思います。
『時計じかけのオレンジ』ですが、こちらは返信欄を改めましてコメント致しますので、下の返信欄をご覧ください。
長渕剛ですが、『家族』もいいですね。
こちらは『LIVE COMPLETE 95-96』というこちらもライブ音源のアルバムがあるのですが、このライブ音源もすばらしいです。
このアルバムの中に『家族』もありますし、『友よ』も収録されております。
このアルバムは私はかなり聴き込んでおります。
このライブではかなり丁寧に唄っておりますし、今の声になる一歩手前くらいの声なんですが、この時期の声もサイコーですね。
本当にカッコいいです。
まだ今年のライブ情報は出ませんね。
早くしてほしいです(笑)。
やはり天神祭のときはめちゃくちゃ混みますね。
ホテル代などもかなり値上がりしている時期だと思います。
地元なのでいくらくらい値上がりしているのか調べたことがないのでわからないのですが。
最近ずっとこういったお祭には全然行っていないので、たまにはあの独特の雰囲気に浸ってみるのもいいかなーと思いますね。
でも仕事やなんやかんやでなかなか参加できないのが現状なんですけどね。
イヤになってしまいます(笑)。
中村屋のコロッケは天満宮のすぐ近くになので、その祭りのときは開店しているのかはちょっとわからないのですが、その商店街もめちゃくちゃ人が多くなっているのは確かですね。
本当に混雑しているので、ゆっくり歩く余裕がないかもしれません。
稼ぎどきなので開いているとは思いますが。
こうやって計画を立てるのも楽しみの一つですね。
『時計じかけのオレンジ』もご覧いただきましてありがとうございます。
削除こちらの映画もご覧いだだくと思っていなかったので、もう少し詳しくご紹介しておけばよかったと後悔しております。
映画にもその人それぞれに合う合わないというのは必ずあるので、それは全然お気になさらないでください。
人間関係と同じです。
でもせっかく2時間3時間という貴重な時間とお金を使っておりますので、「あいつイヤなヤツだけど、しいて言えばここはいいところなんだけどね、好きにはなれないが」くらいまでの印象にできたらと思いますので、少し長くなるかもしれませんが、お付き合い願いたいと思います。
この映画をご紹介するに当たり、こういう意味がありますとか、こういうメッセージがありますと書いてもいいのですが、ちょっとこれだけでは伝わりにくいといいますか、それはわかるけど・・・、となってしまうのもこれもまたもったいないので、いろいろ遠回りや脱線した話になってしまうのですが、できるだけわかりやすくお伝えしていこうと思います。
Abbyさんが今までご覧になられた映画からご紹介した方がわかりやすいと思ったのですが、ちょっと私も知識不足でして今回はクリストファー・ノーラン監督作品の『ダークナイト』という映画を通じてご紹介したいと思います。
すみません。
まず、この『ダークナイト』という作品なのですが、これはバットマン・シリーズの中の一つの作品です。
クリストファー・ノーラン監督がバットマンに携わったのは3作品で、『バットマン/ビギンズ』、『ダークナイト』、『ダークナイト/ライジング』で、アメリカではこの3作品シリーズのことを“ダークナイト・トリロジー”と呼ばれています。
この3作品の中で一番強烈だった作品が2作品目の『ダークナイト』です。
バットマンなのになぜ“ダークナイト”とよんでバットマンとは言っていないんですね。
これはノーラン監督の自信が溢れているんですね。
マンガとかコミックとかそういうジャンルではなく“ダークナイト”という映画なんだ!ということです。
この作品の中で“ジョーカー”というバットマンの宿敵が登場するのですが、
この作品を作る前にノーラン監督とこのジョーカー役のヒース・レジャーという俳優が直接会ってジョーカーについての話をしているのですが、ここから『ダークナイト』という映画が生まれてくるんですが、これはバットマンの話ではなくてジョーカーの話にんですね。
そしてジョーカー役のヒース・レジャーは考えたんですね。
どうやったらジョーカーという役ができるのかを。
そこでヒース・レジャーは6週間汚いモーテルに食料を持ち込んで精神病院に入ってしまった人の心になろうとしました。
バットマン・シリーズのおもしろいところは敵のほとんどが精神異常者なんですね。
なので逮捕されても精神に異常があるので死刑になったりしないで精神病院に入るだけでまた出てくるんですね。
ヒース・レジャーがジョーカーの気持ちになるために擬似的精神病院を作って6週間閉じこもりました。
そこでジョーカーの心の中に入っていきました。
どういう服を着るんだ、どういう顔なんだ、どういうメイクなんだ、どういう喋り方なんだ、とすべてヒース・レジャーが考えました。
この役作りは本当にすごいです。
でもヒース・レジャーは最終的には本当に死んでしまいました。
一番言われているのはジョーカーの役をやろうとして狂気の世界に入ってドラッグに溺れてしまい、自滅したんだと言われています。
ジョーカーの役をやったがために死んでしまっているんです。
一人の男が命懸けで、命を懸けて作ったキャラクターが“ジョーカー”なんです。
亡くなった後、ヒース・レジャーはアカデミー賞を受賞しました。
『ダークナイト』がどれだけすごかったかというと、アメリカで公開されてたった6日で前作の『バットマン/ビギンズ』の興行収入を抜きました。
アカデミー賞にもノミネートすべきだと揉め、結局作品賞にノミネートされませんでしたが、この後アカデミー賞委員会が反省をして、『ダークナイト』みたいな作品をノミネートしないからアカデミー賞はダメなんだ、という話になり、作品賞の候補の数がそれまで5作品だったのが10作品に増やすことになりました。
アカデミー賞の規定まで変えてしまった怪物的映画です。
その年のアメリカのハロウィンは街中ジョーカーだらけだったみたいです。
世界中でこの『ダークナイト』が大ヒットしましたが、日本ではあまりヒットしませんでした。
その理由がアメリカ人やイギリス人には当たり前のようにある教養、価値観があり、ミルトンの『失楽園』の前半に出てくる“サタン”というキャラクターがジョーカーの前提になっているんです。
それは言わなくてもわかるだろ、常識だろ、という世界なんですね。
映画の中でジョーカーがいろんな犯罪を犯しているんですが、何を目的に犯罪しているのかわからないんですね。
人殺ししたいわけでも、金儲けしたいわけでも、マフィアのボスになりたいわけでもないんです。
なので観てもわからない人にはわからないんですね。
こういうキリスト教の話は日本人はなかなか理解されないところです。
ジョーカーの口は切られた跡があって裂けているんですね。
その説明をジョーカーはするのですが、毎回違う説明をして本当のことが全然わかりません。
そういった具体的なことを描こうとしていないのは純粋な邪悪なものとして描こうとしているからです。
犯罪者というのは社会が生み出してしまうものです。
犯罪者の背景を描いてしまうと“人間”になってしまうため、「こんなこともあるよね」となってしまいます。
それを描かないと悪意の塊になります。
そこに“神”の存在ができて“悪(犯罪者)”になります。
悪魔と神の対決を描こうとしているんです。
キリスト、ユダヤ、中東から始まった文化圏では人が人を裁く権利はありません。
所詮人間は人間だからです。
人を裁く権利は神にしか許されていない、という考えです。
もちろん実際には裁く必要がありまして、死刑にするときは神の代理として死刑にしたという形で、神の代理を国家が神の法を代行して行う形をとらなければなりません。
『失楽園』ですが、楽園から追い出されてしまったアダムとイヴのことです。
削除悪魔がヘビに化けていました。
人間は元々神の家畜、ペットでした。
でも実を食べてしまい、人間としての実存に目覚めてしまった、人間としての意思に目覚めてしまいました。
そこで神は、君はペットじゃないから自分の意思を持っているんだから勝手に自分でどうにでもざんばりなさいということで楽園エデンの園からアダムとイヴが追い出されるという物語です。
ヘビに化けていた悪魔、サタンですが、サタンは元々天使で、天使の中でも最も立派な天使ルシファーという天使でした。
輝ける者という名前の天使で、神から愛されていたにも関わらず、“自分”というものに目覚めてしまいました。
そこで彼は「俺はお前の奴隷じゃねーよ!」と神に反乱を起こします。
それで戦争になり、エリート集団の天使軍に負けてしまいます。
サタンが天国から地獄に追いやられてしまいますが、「たとえ地獄においても、天国において奴隷たるよりかは、地獄の支配者たる方がどれほど良いことか」と言います。
神のルールを受け入れて神に従順に服従して、神をおだてていればいいのか、天国における自分たちの仕事、自分たちの楽しみのいえばまずこんなところで、天国にいたところで神をよいしょしてふんわかに幸せにのんびり暮らせっていうことなのかと。
天国では幸せで平和かもしれませんが、だからと言って神という強力な支配者の下でペコペコしてないとならないのかといっているんですね。
天国で奴隷としての平和な幸せよりも、地獄に落ちて悪魔であっても自由でいたい、という悪魔軍団の心意気なんですね。
奴隷の幸福よりと地獄に落ちる自由を選びました。
これがサタンで、そしてジョーカーなんですね。
サタンは天使軍にボロボロに負けて、次の戦いの展開を変えました。
神があんなにも愛している人間を誘惑してやろうという作戦に変更するんですね。
そしてヘビに化けてエデンの園で暮らしているアダムとイヴを誘惑して、知恵をつけさせ、自我に目覚め、神に逆らってしまうという状況を起こします。
ジョーカーもサタンがやっていることと同じなんですね。
人間を誘惑することがジョーカーの目的なんです。
人間がみんな信じている正義とか倫理を突き崩すことが目的です。
映画のストーリーの中でとある状況にするのですが、ジョーカーは「最終的にはお前ら自分のことしか考えなくなるんだろ。それがお前らの本質だろ」と、お前ら偉そうなこと言ってるけけど、本当は自分のことしか考えていないんだということを、暴き出してやろうというのが目的です。
それが一番やりたいことなんですね。
神への挑戦と同じなんですね。
こういう文脈は日本にはありません。
善意とか正義とかそういったものは、ヨーロッパにおいてギリシア時代からイデア、プラトン、人間生まれつき備わっているものなんだ、というのがヨーロッパの思想にはあります。
そんなもんねーよ!!とジョーカーは言いたいんですね。
世の中のあらゆるルールに俺は挑戦する、すべてのルールを破壊して何もかも混沌に導いてやる、といっているんです。
混沌とはカオス、ですが、それに対抗するのが秩序すなわちコスモスという概念があります。
秩序は神の理論です。
それをブチ壊そうとする究極の破壊者なんですね。
なぜそこまでやるのか。
人間というのはどこまでできるのか、人間というのはどこまで自由なのか、というのを試したいんですね。
ヨーロッパには、すべては神が創ったものだから人間には自由意思はないんだ、という考えがあります。
そうではなくて、人間というものは何でもできる、自由である、良いことも悪いこともできるんだ、人間の中にある善意というものは空想に過ぎないんだよ、フィクションなんだよという考えです。
この内容で有名なのがニーチェですね。
もともと人間はなんでもできるんだ。
すべて許されているんだ。
どんな酷いこともできるんだ。
自由なんだ。
神なんかいないんだ。
とニーチェは言いました。
なぜそこまで言わなければならなかったか。
それは、それほどまでに神という考えがあまりにも独裁的で動かし難い支配者だったんですね。
わざわざそこまで言わないと自由になれなかったんです。
人間というのはどんな悪いこともできる、というのを言わなければならなかったんですね。
それが“自由意思”です。
ジョーカーは本当に自由になるために、本当に勝つために、政治とかそういったものに勝つのではなく、人間の心に勝つことなんです。
だからジョーカーはバットマンに言います、「俺はお前と殴り合いをしたいわけじゃないんだよ。俺はゴッサムシティの心、ソウルを掴むことなんだよ」と。
彼らの心を奪うこと、彼らの心を壊してしまうことなんですね。
サタンは神との軍事的な勝利を得ようとしていましたが、それには意味がないことに気が付きました。
神が一生懸命つくって、神が自分に似せてつくったはずの人間の心を壊してしまおうとします。
それこそ神に対する最大の復讐になると考えるんです。
ミルトンはサタンを人間として描いています。
つまり、人間というのはそういう存在なんだよ、と。
サタンみたいに神に対して徹底的に逆らい続けることで、初めて人間として生きることができるんだ。
運命とか神だけでなく、いろんな周りのルールに対して徹底的に逆らって真に自由でいることでしか人間は生きられないんだよ、ということなんですね。
お金もらって、なんでもあげるよ、と言われて、奴隷で暮らせるかといったら人間暮らせません。
どんなに貧しくても自由に生きたいというのは心のどこかに絶対にあると思います。
ご飯を食べないと生きていけないという人がいますが、ご飯だけあげたら生きていけるのかといったら人間生きられません。
「人はパンのみに生きるにあらず」です。
人間は完全に自由というのはあり得ません。
常に自由に向かって闘い続けるという状況があります。
そのとき初めて人間は生きたいるという実感を得ます。
それを究極的に証明しているのがサタンであり、ジョーカーであります。
でも、この戦いは絶対に勝つことがない戦いです。
相手は神であったり、人間性そのものであるからです。
それに対してジョーカーやサタンが完全に勝利したら世の中終わっています。
ジョーカーは最終的には負けてしまいますが、負けたときにそんなに悔しがっていないのがいいんですね。
泣けます。
さきほど言った映画の中でのとあるストーリーの状況で、ジョーカーの思った展開にはならず、「ガッカリしたぜ」って言うのですが、本当にガッカリしたようには見えないんですね。
やっぱり人間というのは根底に善意というものがあるみたいだ、というところで、「いやー、今回は負けたな。でもまた今度はやってやるからな」という感じなんです。
ジョーカーは最初から自分は勝てないことはわかっているんです。
でも、それでもやり続けるんです。
それが彼にとって徹底的な反抗なんですね。
ジョーカーは最終的に負けますが、
映画『ダークナイト』の中で、唯一ジョーカーが勝利する場面があります。
それは一度逮捕されて警察署から人間爆弾?作戦で脱出して、パトカーで夜道を髪をなびかせながらパトカーの窓から顔を出して走っていくシーンがあるのですが、そこはなぜか感動するんですね。
本当に悪いヤツですが、その一瞬勝っているんですね。
ほんの一瞬の勝利なんです。
ほんの一瞬だけ、人間の徹底的な反抗心や自由意思が、神がつくった人間性というものに勝ったんです、邪悪な形で。
それがなぜか観ている者に不思議な感動をもたらすんですね。
よくやったな、みたいな。
ここが本当に怖い映画なんです。
物事にはいいことがあれば悪いことがある、とキッパリ分けていないんですね。
悪いヤツは悪いんだ、いいヤツはいいんだ、みたいに描いていないんです。
どうだ!
ジョーカーは人殺しで悪いヤツだ!
なにもいいことをしていない!
究極の悪だ!
でも彼が勝利したとき、どうだ!
お前ら少しだけ気持ちよかっただろ!?
ということなんです。
ここで『時計じかけのオレンジ』に戻ります。
削除とにかく酷いレイプ魔で殺人鬼がどんどん悪いことをしていきます。
しかし途中で主人公がレイプも悪いこともできなくなってしまいます。
ただのおとなしい男になってしまい、
みんなにいじめられます。
それを観ていると、我々観客は「かわいそう」となってきます。
彼が奴隷のようになってしまった、家畜のようになってしまった、とすごく悲しくなってくるんですね。
でも思い出すと彼は人殺しで弱い者いじめをして本当に酷かったけど、でも生き生きとしていたな、すごく魅力的だった、と思い出してきます。
彼が人殺ししたり強姦しているときは、「最低なヤツだ」と観ているんですが、彼が家畜のようにおとなしくなってしまうと、前の方が生き生きとしていたよ・・・と思ってしまいます。
でも最後にまた強姦殺人犯に戻りますが、その時一瞬だけ我々観客はホッとするんですね。
「あっ、また戻ったのか、良かったじゃないか!」と一瞬思ってしまうんです。
これが怖いんです。
こういう映画は人々の善悪の凝り固まっている善だの悪だの正義だのという二項対立を突き崩すんですね。
そんなにキッパリとわけられるものではないと。
お前ら自分のことを徹底的に正義だとおもっているかもしれないけど、人殺しは悪いことだと信じているかもしれないけど、本当はそうじゃないんだぞ、と突き崩すんですね。
最低なヤツだ、と思っていただろうけど、彼が犯罪できない家畜のような存在になったとき、本当はちょっと悲しかっただろお前たち!?
と観客に突き付けるんですね。
ジョーカーもそうです。
徹底的に悪いヤツに描きながら、
お前らどうだ!
ジョーカー好きだろ!?
こんな自由なヤツを見たことがあるか!?
なにも恐れないぞ!
悪だって言われても平気だぞ!
孤独も平気だぞ!
神も恐れないぞ!
地獄も恐れないぞ!
こんな自由なヤツを見たことがあるか!?
カッコいいだろ!?
憧れるだろ!?
ということです。
生きるとはどういうことなのか、なんなのだろうか。
それは神の奴隷になることではないんです。
もちろん社会の奴隷になることでもありません。
どんなに正しくて、どんなに立派で、どんなに慈悲深くても、それに従っていたらただの奴隷、家畜、ペットなんだぞ、ということです。
どんなに間違っていても、どんなに悪魔でも、どんなに殺人鬼でも、どんなに酷くても、やはり逆らわずにはいられない、逆らう人に憧れずにはいられないというのが人間だと思います。
そうしないと人間というのは生きている意味がないような気がします。
なんだか『ファイト・クラブ』のタイラーを思い出しませんか?
『時計じかけのオレンジ』は人間の本性が邪悪だからといって、その自由意思を制限することは許されるのか?自由意思のない人間を人間と呼ぶことができるのか?という問いかけもあります。
長くなりましたが、今とりあえずこんな感じで書いてみました。
この後またいろいろ思いつくことがあるかもしれまんが、そのときはまた付け足したいと思います。
もし気が向いたらで大丈夫なので、『ダークナイト』も一度観てみる価値はあると思います。