私が小学生くらいのときはテレビではしょっちゅう映画放送されていたのを覚えている。当時は映画館なんてほとんど行くことができなかったが、テレビで放送されていた映画が私の映画への入口であった。正しい番組名は忘れたが、土曜日のゴールデン洋画劇場、日曜洋画劇場、木曜ロードショー、金曜ロードショー、時々水曜特別ロードショーなんかもあった。そして夜中にもたくさん放送されていた。しかし、今は映画はほとんど放送されていないし、ジブリばっかりである。映画離れというのは確実にあると思うし、あまり映画を知らない若者?が映画に求めるものがそういった“ジェットコースター的映画”なのではないかと思う。映画が商品となってしまったというのは、作り手側が「こういうストーリーにしたら当たるだろう」とか「こういったキャラクターを登場させれば当たるだろう」というメッセージもクソもなにもないことになってしまっている。その程度の娯楽で、快楽で、フラストレーションで、そしてそういう映画を観て私たちは「おもしろい、おもしろい」と言っているのだ。本当におもしろいか、それ。
以前にも紹介したことがあるが『ロッキー』というこの作品は本当にすごい作品だと思う。これはボクシングの話であるが、これは紛れもなくスタローンそのものなのである。彼は役者の仕事がしたくてオーディションも何十回も受けて全部不合格で、シナリオも何十本も書いて全部ダメで、何をやってもダメな人間だったのである。本当にドン底でライオンの檻の中の掃除の仕事をしていて、貯金は全然ないし、そしたら奥さんが妊娠してしまうし、オーディションは全く受からないし、役者の才能がないのに俺はこんなことしていていいのかとずっと苦しんでいたのである。シナリオを書いたのはただ役者の仕事が全部ダメだったから始めたのである。その話をボクシングというストーリーにして作ったのがロッキーである。なのであのロッキーはスタローンそのものである。そしてロッキーというのは、生活はボロボロで、友達はいないし、まわりからはクズ野郎って言われて、テキトーにボクシングをやっていて、汚いヤクザの下で働いて小銭を稼いでいて、という中で偶然世界チャンピオンの目に留まり、チャンスが巡ってきたのである。しかしこんなものは試合にもなるはずがない。チャンピオンと田舎でテキトーにやっているヤツとの試合なんか、絶対にボゴボコにされて一瞬で負けることなんか誰にだってわかる。ただの見世物試合である。しかし、そうはならないぞとそこから地獄の猛特訓が始まるのだ。でもどうやったって勝つことは不可能。でも最後のゴングが鳴るまで俺は立っていればそれでいいんだ。チャンピオンに勝つことなんかできないのはわかっている。でも俺は自分に勝ちたいんだ。こんなクズみたいな俺でもなにか一つ成し遂げられることがあるんだということを世間に証明したいんだ。そして彼は自分に勝つことができたし、世間にも勝つことができたのである。それを観た私たちはどう思うだろうか。「自分もできるかもしれない」と思うのではないか。才能なんかなくたっていいんだ。運なんてなくたっていいんだ。根性があればいいんだ。どんなに相手が強くても、どんなに厳しい状況でも、どんなことがあっても絶対にギブアップだけしなければいいんだ。この生きている世界、社会、世間には絶対に超えられない壁がある。打ち砕けない壁がある。闘いすら挑めない挑んではいけない壁もある。それはわかっている。でも、それでも諦めないぞ、ギブアップだけはしないぞ、負けちゃいけないんだ、そう思えるんじゃないか。金儲けのための映画を観て、自分の心の中にあるイライラや苦しみ、辛さがなにか変わるのか、解消されるのか。その映画を観る前と後で、自分や人生が変わるのか。でもロッキーを観てどう思うか。現実には勝てないが、自分にだけでも勝ちたいんだ。そうすれば自分という人間を自分で嫌いにならないで済むだろう。こういうのがいい映画って言うのではないか。観る前と後とでは全然違う自分になっているはずである。観る前に持っていたイライラや苦しみ、辛さは確実に減っている。なぜならその“現実”と闘う技を教えてくれたから。せっかくお金を払って2時間3時間を“無駄”にして映画を観るのである。本当にいい映画っていうのは人生を変える、変えてしまう力があると私は信じているし、実際にそうである。作り手側が伝えたいこと、苦しみをぶつけたいこと、心の叫び、愛、それがあるから我々にも伝わってくる。金儲けのために作られた映画でそれだけの感動があるか、それだけリアリティーがあるか、人々の心を突き動かす何かがあるか。作り手側の根底にある心の叫びや苦しみ、悲しみ、そういうのを作品にぶつけている爆発させているのがいい映画であると思う。もちろん映画に限らず、音楽や小説でもそうである。
最近観た映画で、『シティ・オブ・ゴッド』という映画を観た。この映画は有名な俳優、女優は誰一人出演していないし、監督も知らないし、ブラジル映画であるし、この映画を観た人はあまり多くはいないと思うが、本当にすばらしい映画だった。本当に美しい映画であった。これは全部実話なのだが、もうとんでもないスラム街があって、そこに住む男たちの話である。終始バイオレンス描写が強烈で、映画館では途中で出て行ってしまう人もいたみたいである。そこに住む人たちは5歳くらいから銃を持ってドラッグをやってという世界なのだ。20歳になるまでには20人くらいは殺しているのである。どうしようもやくドン底のような世界である。しかしその中の一人は、銃や殺し、ドラッグが嫌いで、写真を撮るのが好きな青年がいる。彼は元々好きな女の子がいて、その子にキレイな写真を撮ってモテたいと思って写真を撮り始めたのである。そのうち写真を撮ることが好きになり、のめり込んでいく。周りはみんなギャングで殺しやドラッグをやっているが、彼は自分の好きなことを貫き通している。周りは自分がなんのために生きているのかわからないから殺し合っているし、現実逃避したいからドラッグをやっている。でも最後の最後の最後に勝つのは写真を撮ることが好きなその青年が勝つのである。これが快感だろう。これを観たときに我々はどう思うか。どんなにドン底でどうしようもない救いようのない世界や環境、社会、街、身の周りでも、自分の好きなことを徹底してやり続けていたらいいことがあるかもしれない、と思うだろう。ラストを迎えたときに、「やったー!!!」と立ち上がってガッツポーズしたくなる。本当にいい映画だと思う。でもその現実の描写が強烈なので、なかなか観る人も少ないだろう。10歳の子どもが同じくらいの年の子どもの足を銃で撃って、それで泣き叫んでいるその子の頭を銃でブチ抜いたりする。人間の精神の許容範囲が全くわからなくなってくる。でもそれが現実としてあるということである。でもそれだけを訴えているのではない。ちゃんと闘い方を生き方を教えてくれるのである。今のハリウッドはこういう度胸のある映画はつくれなくなってしまったなー。こういう映画は人生経験になる。本当にそのスラム街にいるような感覚になる。実際にそこにいるくらい近い経験になる。そんなことができるのは映画しかないのである。これが映画体験である。映画を観る前と観た後では全く違う自分になる。なぜならその映画を観てしまったからである。「あぁ、明日から生き方変えよう」、「今から考え方を変えよう」、その力が本当にいい映画にはある。「あー楽しかった」で5分後には忘れてしまっているような映画は観てもしょーがない。2時間3時間が無駄である。人生短いんだよ。せっかく観るのであれば良い意味でも悪い意味でも自分の人生や考え方を変えてしまうようなすごい映画を観た方がいいに決まっている。そういうのが本当にいい映画だと思う。先日読者の方が『ファイト・クラブ』をご覧になった。この映画も本当に強烈な映画で、猛毒のような麻薬のような、それほどインパクトを与えるし、取り憑かれてしまう。平凡で、平和で、ぬくぬくとしあわせに暮らしていきたい人には全くもって理解できない映画である。資本主義のブタ野郎!!と中指を突き立てるチョーサイコーの映画である。こういう映画がいいと思う。人生変わるよ。変わってしまうよ。少なくとも私は映画にはそういった“力”があると信じているし、何度も映画に救われているのである。
お疲れ様です。
返信削除『ファイト・クラブ』『時計じかけのオレンジ』ですが、多忙なゴールデンウィーク中の貴重なお休みの中で、私のような変な読者に対しても言葉を尽くして丁寧に解説をいただいたことに対してまずお礼を申し上げたいと思います。
いつもありがとうございます。
これだけの量ですから、かなり時間がかかっているはずです。
私自身コメントを書かせてもらっていますが、映画を観るのも感想を書くのも分割・最終的にそれらをたいした推敲もせずハンバーグのひき肉のように寄せ集めて成形したものを一気にコピる、という作業でもそれなりに時間はかかります。(途中で寝たりしてますし…)
しかし私の場合は、SAMURAIさんのブログを自分が勝手に追いかけて始めた読者業ですからトータルで何時間かかっていようとそれは別にいいのですが…
従来のように、明日になれば内容すら覚えていないようなテレビをぼんやりみながら「疲れたなー」とか「明日もまた仕事かー」というくだらないことばかり考えて時間を無駄にするよりは、自分一人では決して手を出さなかった新しいことを観たり経験したりするほうが数億倍人生を有効活用できていると思いますから。
『ファイト・クラブ』のラストの解釈ですが、私は“死なないでいてほしい”派ですね。
(もちろん、私はフィンチャー監督がどのような人物で、他にどのような作品があるのかは全く知識がありません。現時点ではファイト・クラブだけの材料で話をさせていただくしかありません。)
タイラーはコーネリアス(名前がないので便宜上こうしておきます)自身であって、単独での生物個体としては存在しないわけです。そしてタイラーにはおそろしいまでに抜目がなく、恐れも迷いもなく、賢くて有能でどこまでも完璧なわけです。
そんなタイラーが、自分自身で設計したmayhem計画でなぜホイホイと死ななければならないのか?
完璧なタイラーが設計した計画は、たった一都市のビル数棟を破壊しただけで完結するような安っぽいものだったのか?
そんな安っぽい計画だったのなら、なぜ、アメリカの主要都市を回ってわざわざファイトクラブの支部を作ったのか?
SAMURAIさんの、“中途半端にビルを一棟残すというのは考えにくい”という解釈を、私は別の視点から利用させてもらいたいと思います。
つまり、資本主義の象徴となっている大都市のビルというビルを、片っ端からタイラーには爆破していってほしい、やるなら徹底的にやってほしい、それでこそタイラーでしょ、と思うのです。タイラーの賢さがあれば、崩れ落ちるビルの一角だけ安全が確保できる場所を設計しておき、そこに逃げ込んで生き延びるというプランもmayhem計画の一部であってもいいんじゃないかなーって思います。
たった一都市のビルを破壊しただけでタイラーに自殺されては興ざめです。
タイラーには、崩れ落ちるビルを背にしてニヤリと笑みを浮かべながらタバコを投げ捨て、別の都市に移動して新しいファイトクラブのメンバーを動員し、そこでもmayhem計画を継続していてほしいですね。
だから、“死なないでいてほしい”派なんです。
死なない派での、“マーラと分かち合えて次の新しいストーリーが展開する”というのは、私は期待してません。むしろ、その要素は不要だと思いますね。コーネリアスにとってはマーラは重要人物になり得るのかもしれませんが、タイラーにとってはマーラの優先順位は低いと思いますね。
“エンドロール直前の揺れる画像”ですが、レンタル版ではもちろん修正が入っていましたので、おそらくそっち方面の画像なんだろうな、ぐらいしか分かりませんでしたが、やっぱりそっち方面だったんですね(笑)
“揺れる”ことが何を意味しているかという解釈ですが、私はSAMURAIさんが言及なさった“ビルが倒壊した”というよりは、コーネリアスの意識が、コーネリアスとタイラーそれぞれの間を行き来している・そしてそれをコーネリアス自身が認識し始めたことを示しているのではないかと思います。
コーネリアスは最初は自分がタイラーであることを全く意識できていなかったわけですよね。サブリミナルは、意識はしていないけれどもでも確かに見てはいて、心の奥底で何かしらの作用をしているというものです。エンドロール直前の画像のように見た・分かったと認識できる長さのものは厳密にはサブリミナルではないですが、この揺れる画像にはコーネリアス(これは私達自身でもあります)が自分の中にタイラー的な存在を持っている、でも意識はしていない、でも確かに持っていること、誰の中にも自分でも気づくことができない部分(ジョハリの窓のunknown selfとかいうのもありますが)があって、もしかしたらそこにはタイラー的なものが存在しているかもしれないんだという怖ろしい事実を、画像の内容がもつイメージと一瞬だけ“揺れる”ことで暗示しているのではないか、と思います。
『キングスマン/ゴールデン・サークル』ですが、“本当にマーリンを殺したのは試写に来ていたオーディエンスだ”とありました。
返信削除これを拝見するまで、もちろん私は試写の段階でマーリンが生きていた設定であったことを知りませんでしたので、試写に行った人達に文句の一つでも言ってやりたい気分になりましたね。
「余計なことをするな」と(笑)
『映画の個人的に好きなキャラクター 女性編』についてですが、これは是非投稿していただきたいですね。
最近ではシェリーもオードリーもすてきな女性でしたしね。私としてはマディがローラの家に滞在中にさりげな~く履いていた動物の足のぬいぐるみスリッパ(これはキャラクターではありませんが)と、デスロードのフュリオサが絶対入っていてほしいところです。
SAMURAIさんにとっての、映画におけるいわばawesome mix Vol.2に一体何がラインナップされているのか…!
おそらく、日本海側の読者の期待なんかボコボコに叩きつけてブッ壊すようなリストになっているのでしょう(笑)
awesome mix Vol.2と言えば、そういえばSAMURAIさんの長渕剛におけるVol.2についても是非投稿をご検討いただけませんでしょうか…?
熱狂的ファンが選ぶ、ごくごくピンポイントでの長渕剛のサイコーな声・メロディーは一体どの曲のどの部分なのか、これはめちゃくちゃ興味深いですね。
余計なことをつけ足しておくと、長渕剛のVol.2で私が最も気に入っているのはやはり、富士山麓の『裸足のまんまで』での“やっほーい!!”と、『勇次』第2部での“俺が書いた二束三文の歌は”というあの一連の部分ですね(笑)
…“やっほーい”の声の主は長渕さんではないのですが。
最近は調子に乗って、全文大阪弁での投稿やニューヨーク・ブルックリンの写真など好き勝手にリクエストをさせていただいてますが…気が向いたときがあればぜひよろしくお願いいたします。
『時計じかけのオレンジ』ですが、“あいつイヤなヤツだけど、しいて言えばここはいいところなんだけどね、好きにはなれないが」くらいまでの印象にできたら”という表現はまずおもしろかったです。
高校時代の倫理は熊谷先生という普段は朗らかな方でしたが、いつも重要単語は「イデアだー!!」「プラトンだー!!」と絶叫しながら授業を進めていた先生でした。
その絶叫のほうが単語や内容よりもやたら印象に残ってしまったことと、やはり普通科でしたので大学受験の二次試験の受験科目ではなかったこともあり、化学や数学・英語等に比べるとどうしても倫理の比重は小さくなっていまいましたね。
もし、高校時代の先生が、SAMURAIさんのようなたとえや説明の仕方で授業を進めるような先生だったなら、専門教育を受けた後の社会人になってからの倫理の印象も違ったものになったのかもしれません。
『ダークナイト』『時計じかけのオレンジ』の文章を拝見して、おそらくこれはSAMURAIさんが長年ずっと思ってきたことなんだろうなというのが伝わってきました。
本当に心の中から出てきた文章というのは、独特の流れやリズムみたいなのがありますよね。以前いただいた返信で、“私が大切にしているものは魂の自由だ”という言葉がありましたが、今回この二つの映画の解説を通してそれをとても詳しく説明してもらったような気がしました。
“ハズレる映画”も観てみるものですね(笑)
『時計じかけのオレンジ』の主人公が施術後におとなしくなってしまったことについて、“我々観客は「かわいそう」となってきます”とありましたが、残念ながら私は全くそうは思わなかったですね。
言ってしまえば、「ザマーミロ」ぐらいでしたね。
ほんの一瞬でも、この主人公に対してご指摘の“ホッとした”とか、“良かった”という気分にはならなかったです。
どこまでもコイツはクズでサイテーだな、と思ってました。
そして、イケメンのタイラーやジェイソン・ステイサム・デスロードのマックスやホーク・Mark Feehilyと比較してしまうと全くタイプではない(笑)、だからこの映画はハズレになったんです。
しかし、この主人公がやっている暴力も、スタローンシリーズでジョンが敵を殺しまくることも、ハクソーリッジでデズモンドを援護する仲間が日本兵を銃殺することも、暴力は暴力なんですよね。犯罪・殺人という点では全く同じなんです。
でも、何だか違うような気がして、違う種類であってほしいような気がして仕方がなかったですね。
俳優がイケメンかどうかという要素を一切除いて(笑)、タイラーやジョンの暴力と、このクズな主人公の暴力について、どうしてそういう“違い”を自分が感じたのか、返信を拝見してからしばらく考えていました。
タイラーやジョンの暴力と、クズなアレックスの暴力との違いは何か。なぜ違いを感じるのか。
これを考える上で重要なことは、SAMURAIさんの表現をお借りすると“物事にはいいことがあれば悪いこともある、キッパリ分けることはできない”という点だと思います。
返信削除でも、絶対的に悪い暴力と判断されることがあると思います。それは何の関係もないのにいきなり事件に巻き込まれた被害者の立場から見たとき、ですね。
アレックスの暴力には、正義や信念などの根拠となる背景がない、暴力のための暴力だ、だから観ていて気分が悪いと書きました。
ジョンも確かに独裁政権の軍人に対してものすごい殺人をしていますが、でもアレックスと決定的に違うのは、何の関係もない、何の罪もない市井の人に自分の快楽のためだけに攻撃したというわけではないことです。
タイラーも都会のビルを爆破して社会を混乱に陥れているわけですが、映画では直接的に全く関係のない誰かを自分自身の快楽のために傷つけて殺害したという描写はなかったはずですね。(ファイトクラブ自体には一定のルールがありましたし、参加者は自らの意思でクラブに参加してきていますよね。まぁ、フードテロリストだったり、レイモンドを恐喝したりはしましたが。)
SAMURAIさんがたくさんの言葉を駆使して説明してくださった人間の本性ですが、
拝見して勝手に要約させてもらうと、以下のようになりました。
純粋な邪悪と絶対のルールである神との対立。
どんなにあらがったところで、決して神に勝つことはできないが、
逆らうことでしか自由にはなれない。
ルールに反抗する自由に憧れる一方で、心の根底にはやはり善意がある。
それが人間の本性でもある。
…確かにそうかもしれませんね。
頭では分かっていても、心のどこかで絶対的に正しいとされることに反抗したいといういう本性は、誰にだって少なからずあるのかもしれません。
ですが、どうしても私は完全には賛成できない部分もありますね。
ここもSAMURAIさんの言葉をお借りすると、
“どんなに間違っていても、どんなに悪魔でも、どんなに殺人鬼でも、どんなに酷くても、やはり逆らわずにはいられない、逆らう人に憧れずにはいられないというのが人間だと思います。”というくだりです。
今までの人生で、下手をしたら殺されるかもしれないといったレベルでの事件に全く遭遇せずに平和に過ごせてきた幸運な人なら、そうなのかもしれませんが、例えば通り魔事件にたまたま街を歩いていて巻き込まれた被害者の人だったら、“逆らう人”に憧れることなんて事件以降は決してないんじゃないかな、と思ってしまいますね。
もしかしたらこれもどこかのコメント?(自分のブログのほうかもしれません)で書いたかもしれませんが、
私は小学生の頃に誘拐されかけた?ことがあります。
少なくとも私にはそういう記憶があるんです。
大人になった今は別に、それこそPTSDとか、事件のことを思い出すと手が震えるとか、そういったことは一切なく、ネットでさらっと書けるぐらいですが(笑)
大変残念なことですが、日本全国で誘拐事件なんてたくさん起きていますよね。
実は地元でも結構なニュースになったガチの誘拐事件がありました。
結局あの事件は何年も経ってから犯人が逮捕され、最高裁まで争ったようです。
当時はプライバシーもヘッタクレも何もない時代でしたね。
まぁ今でもネットではプライバシーもヘッタクレもありませんので、これ以上は書く必要はないですね。
どこでどんな風に被害者が誘拐されたか、今だったらそんなことまで報道するのかといったことまで詳細に地元のニュースになっていました。
被害者が車で誘拐された道は、私が通学路として使用していた道とそれこそ“田んぼで数枚分”しか違わない場所でした。つまり、ビルが密集している大阪や東京と違って、まさにその場所は知っている場所であり、普段から“見渡せる”場所なんです。集落の全員のことをお互いに全員が知っている、みたいな土地柄ですから、当然被害者のこともその家族のこともみんなが知っているのです。
幼馴染の子は、「オレはあの日はグラウンドで〇〇君とサッカーしてたなー」とか言ってましたが、
たぶん私はあの日、田んぼで数枚分しか違わない道を、小学生ですから同じような時間帯に、一人で歩いて家へ帰っていたんですね。
もしかしたら、あの被害者は私だったかもしれないという考えは、どうしてもゼロにはできませんね。そう思うようになったのはずいぶん後になってからですが。
で、誘拐されかけたというのは、当時私は小学校そばのそろばん学校に通っていたのですが、ある程度の学年になるとそろばん学校から帰る時間帯も暗くなってから、となりますよね。実家から学校まで、小学生の足ではかなり離れた位置でしたので、毎回両親が迎えにきてくれていました。
ある日、もうすっかり暗くなってからですが、両親がいつものように迎えに来てくれるのをそろばん学校の玄関の外で一人で立って待っていたことがありました。
バイクに乗ってきた男だった、というのは確実に覚えています。
その男が、すみません、このあたりのことを教えてほしい的な感じでと声をかけてきたんですね。
で、(当時は今と違って私もまだ素直で多少の可愛げもあったのかもしれませんが 笑)なんだろうと思ってその男のそばに寄っていったんです。
そしたらソイツが、「このバイクで…」みたいなことを言いかけて、その時に私も子供ながら「あれ何かヤバイ」と思った記憶があります。
そしてまさにそのタイミングでちょうど父が運転する車のヘッドライトが角を曲がってきてその道を照らしたんですね。
父は建築業だったと以前書きましたが、車といっても今のハイブリットみたいな静かなものとは全然違って、2tぐらいの木材を積めるようなトラックでしたから、走行時には舗装された道でもガタンガタンと結構大きな音がするものでした。
その時、その男は「あ、やっぱいいです」といってバイクで走り去っていったんです。
この、「やっぱいいです」という言葉もはっきりと覚えていますね。
我ながらたいした記憶力です(笑)
もし、父が迎えに来てくれるのがあと数分でも遅かったら…
私も何かヤバイことになっていたかもしれませんね。
そしてこう思うようになったのも何年も経ってからですね。
誘拐されかけた、というのはこの程度のことです。
この出来事については確か中学生くらいのころに、母に何となく昔こういうことがあった、とぽつんと話したことがあったんですが、その時の母は特別騒ぎ立てることもなく、「あ~ら、そう。ところで今日の晩御飯は何にしようか?」ぐらいのノリだったと思いますね。
今となっては、母は娘の告白に対して極めて正しい対応をしたと思いますね(笑)
タイラーが「ちょーサイコー」で、アレックスが「このクズ野郎」と感じるのは、たぶん私にはこういった背景があるからなのかもしれません。
タイラーの暴力とクズ野郎の暴力の違いというのは、私の中にあるこの背景によるのかもしれません。
だからこそ、暴力のための暴力しか描かれていないようなこの映画がハズレと感じたのだと思いますね。
“ジョーカーは人殺しで悪いヤツだ!
なにもいいことをしていない!
究極の悪だ!
でも彼が勝利したとき、どうだ!
お前ら少しだけ気持ちよかっただろ!?“
とありましたが、まだ『ダークナイト』レンタルしてきていない現時点では、 “お前ら少しだけ気持ちよかっただろ”というところに諸手を上げて賛成できるか、というと、まだ自分でもよく分からないですね。
『ダークナイト』も大変面白そうな映画ですね(笑)
次の休みにでも探してこようかと思います。
Abbyさん、コメントありがとうございます。
削除返信が遅くなってしまいました。
申し訳ありません。
というのも4月末からゴールデンウィークを過ぎて今まで、というか今もそうなんですが、仕事がかなり忙しくなっていました。
特に4月末からゴールデンウィークはものすごくしんどかったですね。
クリスマスや年末年始に比べればそこまでではないのですが、別の意味で今までで一番大変でした。
今回もこちらのいただきましたコメントの返信を考えている途中なんですが、長渕剛の件で本日やっとツアーのスケジュールが公開されたので取り急ぎでお伝えしようと思います。
7月3日(火)大阪城ホール
7月4日(水)大阪城ホール
7月11日(水)日本武道館
7月12日(木)日本武道館
7月21日(土)ゼビオアリーナ仙台
7月22日(日)ゼビオアリーナ仙台
7月31日(火)日本ガイシホール
8月1日(水)日本ガイシホール
8月4日(土)広島サンプラザホール
8月14日(火)鹿児島アリーナ
8月15日(水)鹿児島アリーナ
8月20日(月)福岡国際センター
8月21日(火)福岡国際センター
となっております。
私は大阪と東京は参加する予定でいるのですが、
その日程が両都市ですごく微妙な感じになっています。
しかも私が危惧していましたお中元時期の一番忙しい時期とぶつかってしまっているので、それで連休が取れるのかどうかちょっと今はわからない状態です。
参加する予定ではあります。
5月16日~5月22日の期間でファンクラブの先行予約期間となっております。
もしAbbyさんが参加できる日がございましたら私が先行予約で予約することは可能です。
もちろんAbbyさんが一般販売で予約することも可能です。
一般予約の情報はまだ公開されていないので現時点では何とも言えませんが。
ファンクラブでの予約も一般販売での予約も当選する保証はないのでそれも何とも言えません。
特に東京、大阪は人が集まりやすい場所ですので、、他の場所に比べればやや激戦区にはなると思います。
でも両都市2daysあるので、そこまで激戦にはならないとは思いますが・・・。
チケットの料金も現時点ではわかりません。
おそらく明日本格的に公開されると思うので、それもわかり次第ご連絡したいと思います。
おそらく8000円~10000円くらいだと思います。
もしかしたらプレミヤ席みたいなものも設置されるかもしれません。
それも明日わかると思います。
もちろん今回のスケジュールに参加が厳しい場合は遠慮なくおっしゃっていただければと思います。
遠方からの参加はいろんな意味でスケジュールや金銭的な面を合わせるのも大変ですからね。
とりあえず明日の公開を待とうと思います。
取り急ぎでのご連絡でした。
いただきましたコメントの返信はもう少しお待ちください。
すみません。
Abbyさん、改めましてコメントありがとうございます。
削除私もAbbyさんがご覧になられました『ファイト・クラブ』、『時計じかけのオレンジ』など改めて観なおしたりします。
しばらく観ていないと結構忘れてしまっているとこともありますし、勘違い?みたいなことで記憶間違いなどがよくあるので、コメントの返信をする際は私も改めて観なおしていますね。
映画一本を観るのに2時間3時間と貴重な時間をある意味“無駄”にするわけですので、いい意味で“無駄”にできたらと思います。
『ファイト・クラブ』のラストの解釈ですがAbbyさんの考えを楽しく拝見致しました。
みんなそれぞれの解釈の仕方があってすごくおもしろいです。
私の解釈の仕方やAbbyさんの解釈の仕方以外にもたくさんの解釈をそれぞれの人が持っているものなので、どれが正しいとかはありません。
映画の本質的なメッセージだけ正しくとらえていれば問題ないと思います。
私はこの映画だけではないのですがけっこう“滅びの美学”みたいなものが好きでして、
ある意味こういうのはハッピーエンドではないかもしれませんが、そういうのも好きなんですね。
なので私は“死ぬ”派の考えなんです。
ラストで自分自身を打ち抜き、タイラーを倒し、理想の自分に勝った、理想の自分を超えた、そういうシーンで、そしてマーラと心が通じ合った瞬間でビルが倒壊していきます。
私の考えでは、この数秒後に“僕”がいるビルも倒壊すると思っているのですが、死ぬたった数秒前でも自分が生きていることの証明ができればそれでいいのではないかと思っています。
自分が生きていることの証明をするために“僕”はそれまでファイトしてきたわけですから。
このメイヘム計画でタイラーはアメリカの様々な都市でファイト・クラブの支部をつくっていましたが、おそらく他の都市でも同日にこのメイヘム計画は決行されているのではないかと思います。
タイラーの存在なしでも計画が進行されるようになっていましたから。
これは何とも言えないのですが私はそう考えていますね。
この映画ではサブリミナルが至る所にあります。
ラストの男性器以外で本当に一瞬タイラーが映っているシーンが数か所あるんですね。
これを探すのも楽しいのですが、なかなか見つからないんですけどね(笑)。
でも『ファイト・クラブ』は本当にいい映画だと思います。
人生に迷ったときはこの映画です!!!(笑)
個人的に好きな女性キャラクターを紹介しようと思ったきっかけなんですが、
先日観ました『ツイン・ピークス/リターン』で私がずっと楽しみにしていたダイアンが登場したのですが、このダイアンが想像していなかったというのか予想外というのか期待を超えたというのか、本当にすごいキャラクターで、久しぶりに本当に好きになってしまったので、ちょっとここで改めて好きな女性キャラクターを紹介というのか整理してみようと思ったんです。
どういうふうに紹介するのかは今考え中なんですが、キャラクターで紹介するのか女優で紹介するのか、ちょっと考え中です。
おそらくキャラクターでいくと思います。
そして長渕剛の方も今考え中です(笑)。
すみません、考えてばっかりで(笑)。
ピンポイントで今までそこまで集中して考えたことがなかったので、後々ちょっとピックアップしていこうと思います。
考えてみると「この瞬間が好き」というのはあるので、それを整理してみようと思います。
こちらももうしばらくお待ちください。
私は高校と浪人時代に倫理の勉強をしましたが、高校の先生も私の恩師でとてつもなくお世話になった方です。
でもその倫理という思想の世界に旅立たせてくれたのは浪人時代の倫理の先生でした。
私は大手の予備校に通うことになったのですが、私の予想でははやり受験のための学校、塾、予備校ということで本当に点数稼ぎのための授業、指導なのだろうと思っていました。
その予想のほとんどは当たりでした。
でもそれだけではないというのを教えていただいたのがこの倫理の先生と数学の先生と世界史の先生でした。
予備校でこれだけすばらしい先生方と巡り会えたのは本当にしあわせでした。
この倫理の先生は本当にすごかったですね。
言ってしまえばおじいちゃんくらいの方だったんですが、いつもオシャレですごくカッコよかったですね。
この先生はすごいと勝手に自分で思ったので、この倫理の時間は一番前に座るようにしていました。
それが私の思想の旅立ちの第一歩だったのではないかと思います。
『時計じかけのオレンジ』ですが、主人公のアレックスはもう本当に嫌なサイテーなクズ野郎として描いているので、我々観ている側が嫌悪感を抱くようにしているのでいやな気分になるのはそれは正しい反応です。
削除でも数か所失敗というのかミスがあり、カッコいいシーンもあったりしてそれがよくなかったと思います。
映画のコスプレ大会みたいなところへ行くと、このアレックスのコスプレをしている人は必ずいます。
それくらい人気のあるキャラクターでもあるんですね。
ちなみにこの『時計じかけのオレンジ』は本当に様々な賞を受賞し、アメリカ映画協会、イギリス映画協会のベスト100にどちらにも入っている作品です。
もちろんいいことばかりではなく、暴力を誘発した作品、現実にある若者の暴力を赤裸々に描写してしまった作品、などいい意味でも悪い意味でも様々なことに多大な影響を及ぼしたものすごい作品でもあります。
もちろんこの作品のどこがいいの?なにがすごいの?という人もたくさんいるのも事実です。
それは人のとらえ方の自由といってしまえばそれまでですし、確かにその通りなんですが、これはほかの映画でもそうですし、映画に限らず音楽や絵画、書物でもいえることですが、人間がつくるものである以上、作品の表面に直接描かれない作者の意図、もしくは作品の背景が必ず存在します。
それが作品の本質であり、意味であり、価値であり、本当の意味で作品を楽しむというのはこういうものを理解してはじめて楽しむことができると思います。
すみません、話が脱線しましたが、『時計じかけのオレンジ』をわかりやすく一言でいうと、“犯罪者が暴れる社会と、犯罪者を洗脳してしまう社会とどっちがいい?”という映画です。
この映画には原作があり、アンソニー・バージェンスという作者がいるのですが、この作者に奥さんがいるのですが、この奥さんは第二次世界大戦中に駐留米軍から脱走した4人の若者にレイプされました。
妊娠していたその奥さんは流産し、自殺まで試みました。
命はとりとめ、後に子どもを持つことはできましたが、心の傷は二度と癒えることはありませんでした。
そうして生まれた作品が『時計じかけのオレンジ』です。
映画の中で、治療を経て、彼が昔妻をレイプして殺した犯人だとわかった作家はベートーベンの曲をかけてアレックスに拷問し、アレックスは窓から飛び降りて自殺しようとしますが、これは作者の復讐なんですね。
でも作者は、どんなに邪悪な人間がいたとしても、それを国家権力がロボットのように改造してしまっていいのかと思ったんですね。
『時計じかけのオレンジ』のまえがきに「街角でチンピラが暴れている社会のほうが、政府が自由を統制する社会よりもマシだ」と書いてあります。
人間そう簡単に割り切れるものではありません。
アレックスは、“レイプとウルトラ暴力とベートーベンが俺の生きがい”と言います。
こんなクズでサイテーなクソ野郎のウルトラ暴力をはるかに上回るある種の暴力によってこのウルトラ暴力が家畜、ペットになってしまうんですね。
街から、世界から暴力がなくなって傷つく人がいなくなるのであればその方がいいに決まっている!という人がいます。
暴力にもさまざまな種類がありますが、それを排除してしまうと待っているのは『デモリションマン』で描かれている世界だと思います。
もちろん暴力があるよりもその方がいいという人もたくさんいると思います。
同じ種族で殺し合いをするのは人間だけだ、という人がいますがそれは間違いです。
シカやアザラシだって同じ種族同士で、より強い種を残すために殺し合いをします。
昆虫だって食べるものがなくなれば共食いをします。
つまり暴力をなくすということは、それは人間ではなくなるということですし、動物でもなくなってしまうし、生物ですらなくなってしまうということなんですね。
そもそもその考え自体が間違いですし、無理があると思っていますし、言い過ぎだと思っています。
若者文化として「セックス・バイオレンス・ロックンロール」があげられます。
そしてこれらをよく政府は統制しようとします。
でもそれがなくなってしまえばそれはもう人間ではなくなってしまうんですね。
残酷さがなければサルは人間になれなかったのも事実です。
それを目指そうとしているのが国家や社会です。
我々は知らず知らずにうちにそういったものを取り除かれていくんです。
気が付いたら国家や社会に従順な人間、いや家畜、ペット、ロボットになっていないか?と問いかけをしている作品だと思います。
「こいつは悪いことをしたから懲らしめてやれ」、「こんなヤツがいるから社会、世界はダメになってしまうんだ」という考え、感情のもと、物事を判断し進めてしまうのは非常に危険なことでもあります。
こういったクズ野郎を観て、そのクズ野郎が苦しんだりしている姿を見るとそれこそ「ザマーミロ」というふうに思ってしまいます。
これは多くの人がそう思うと思いますが、これは群集心理にもつながってきて、それは歴史をみてもその感情の元恐ろしいことが山ほど起きています。
それはホロコーストであり、ルワンダの虐殺でもあり、民族浄化は政府やマスコミなんかがそういった思考にもっていくことから始まります。
こいつらはこういった理由でこうなっているからいないほうがいいんだ、生かしておいてはいけないんだ、そう流れていきます。
これは数の問題ではないのですが、どれだけ凶悪な殺人鬼がいたとしても殺してもせいぜい数十人くらいだと思います。
でもこの群集心理のもと、殺されるのは何万、何十万、何百万の人が短時間で一気に殺されます。
ちなみにランボーは今までに220人殺しています。
“正義”とはそれぞれの立ち位置で、主人公の立ち位置で変わってしまうものです。
なのでランボーが今までに殺した220人という数をみてどう思うかです。
殺された人はクズ野郎ばかりです。
しかし、その殺された人も誰かの良き家族の一員であり、誰かの良き友人であることは確かです。
それがただ描かれていないだけです。
なので誰がいい人で誰が悪い人というのはなかなか簡単に割り切れるものではありません。
この『時計じかけのオレンジ』という映画は、今までご紹介した映画のような位置から物事を見ている作品ではなく、もっと大きな高い視点から社会を見ている作品ではないかと思います。
Abbyさんのおっしゃる通り、通り魔事件に巻き込まれた被害者の人であったら同じ状況下のことで憧れることはないと思います。
削除少し話違う話を持ってきますが、これも何度もご紹介している作品ですが、黒人奴隷問題を扱ったタランティーノ監督の『ジャンゴ/繋がれざる者』がありますが、黒人は今までというか現在もそうですが差別され奴隷として働かされ、昔は人間として見られていませんでした。
本当にひどいことをされていました。
でもそれが当たり前の世界でした。
みんなそういうものだよ、と思っていました。
でもその社会に逆らった者がジャンゴです。
タランティーノ監督はせめて映画の中だけでも復讐したいということで、そして自らも白人であり、その白人全員皆殺しにするという作品をつくりました。
それを観た黒人の人々は本当に希望を持ったんですね。
本当に感動したんですね。
この作品にどれだけ勇気づけられたか。
同じ被害にあっている者たちがたとえ映画の中だけでもそう描いてくれるとどれだけ気持ちのいいことか。
なのでAbbyさんがあげられました例のようにピンポイントであればそれはあり得ないと思いますが、もっと広い幅で“逆らう人”には憧れるのではないかということです。
“逆らう”というのもいろいろあります。
音楽のロックも社会に逆らうものとして出てきます。
私が聴いている長渕もそうです。
社会に逆らうものとしてカッコいいですし、憧れます。
同じ状況下においては難しいかもしれませんが、広い意味で“逆らう人”には憧れるということですね。
Abbyさんの貴重なお話をありがとうございます。
初めて存じ上げました。
そういうことが過去にあったのですね。
確かにそういう過去や背景があると“アレックスという人間”は好きにはなれないと思います。
まあでもアレックスはサイテーなヤツです。
それをも上回るサイテーなヤツっていうのがあるのでは?というのがこの『時計じかけのオレンジ』ですね。
『ダークナイト』ですが、世間が騒いでいたほど私はそこまでではなかったんですね(笑)。
以前にも書いたことがありますが、私はノーラン監督自体あまり好きではありません。
その理由としてはオープニングタイトルをすっぽかして最後に持ってくるところが気に入りません(笑)。
そして映画自体少し長いのですが、無駄なシーンが結構あり、重要なシーンがけっこう軽い感じなところがあります。
いい映画だとは思いますが。
でも内容としてはすごくおもしろいと思います。
最近の東京は暑くなったと思えばまた数日寒くなり、天気も悪かったのですが、今日はまた暑くなりました。
もう少ししたら梅雨が始まるのかと思うとちょっと憂鬱になりますね。
季節の変わり目ですので体調にはくれぐれもご自愛ください。
お疲れ様です。
返信削除お忙しい中、いつもいつも本当に丁寧な返信をいただき、ありがとうございます。
昨日からずっと夜は仕事で、もちろん今日もいろいろあってお昼頃やっと帰ってきたんですが、長渕剛のライブの件について、おそらくファンクラブ等に所属していなければこんなに早く得られないであろう貴重な情報をご提供いただき、大変恐縮です。
…実は7月第2週あたりから9月の中旬頃まで、出張にいかなければならなくなりそうな状況でして、ツアー日程と出張の期間が思いっきりかぶっているというのが私の現実です。
出張といっても別に東京とか例の武蔵小杉まではるばる行かなければならないというわけではないのですが、今回は県が主催者のため、もしこの出張を受けた場合には公務員的な生活がほぼ2か月続くのではないかと予想されます。平日5日間連続で毎日定時に“出勤”して土日は休みという生活は大学以来ですし、社会人になってからは未知なる領域です。
昨日の午前中、上司二人と話をして現在の職場の状況や自分の考えを伝えて、私としては全力で断ってきたつもりなんですが、何だか雲行きはあやしいと言わざるを得ない感じでしたね。他の部署から希望者が出るなんて可能性も極めて低いですし…
上司としては22日が県に返答するタイムリミットらしいので、その日までに私の今年の夏の運命が決まる、そんな感じですね。
まだ今年度の要項が届いていないので詳細は不明なのですが、行かなければならなくなったとすると、平日の公演はまず無理だろうと思われます。
ならば土日の仙台・広島公演に行けるのか・その余裕があるのかというと、現時点では全く分かりません。
以前、こちらの職場では6月から9月の間で任意の5日間だけ夏季休暇がとれるという話をさせていただきましたが、この出張を受けた場合、一体いつ夏季休暇が取得できるのか、それも現時点では全く分かりません。一番可能性が残されているのは出張前の大阪公演かと思うのですが、7/7にはすでに別の出張が確定しており、7月第2週から出張となると、7月中で私の希望が通る余地なんかすでに残されていないような気もします。
天神祭についても、いそいそと航空券まで準備していたのですが、それもかなり怪しくなってきました。キャンセル料が無駄になるのもたしかに不本意なのですが、それ以上に残念なのはコロッケひとつがどこまでも遠いということです。
SAMURAIさんのファンクラブの枠で予約も可能、とのお言葉もいただきましたが、現状がこんな不透明ですので、これ以上お手をわずらわせるわけには…
そう言ってくださっただけでももう十分です。ありがとうございました。
要項が届いて、夏季休暇がどうなるのかが判明した段階で、一般枠でのトライになりそうです。枠があれば、の話ですが。
今年は夏の公演だけで終わりなんですかねー?(笑)
秋冬の公演もあればいいのですが(笑)
…やっぱり日本海側には以前のようには来てくれないんだなーというのも少し残念ですね(笑)
『ダークナイト』ですが、これもいろいろと考えさせられるところがある映画でした。
たしかに、ジョーカーはかなりのインパクトがありますね。
ジョーカーのセリフは、誰もが蓋をしておきたい社会や人間の裏側を実によく表現していると思います。良いことではまったくないけど、全部が全部間違っているわけでもない、という感じでした。
現時点ではちらっと観た段階ですが、Vol.2的な観点では、2艘のフェリーが24時までにお互いを爆破するかもしれないというシーンで、ジョーカーが実に楽しそうに「それー いけー ゴー♪」と言うところですね。結局、ジョーカーが見たかった“花火”は上がらなかったのですが。また、ジョーカーが「俺の生活は質素なんだ。火薬・ダイナマイト・ガソリンの共通点が分かるか?みんな安い」と言い、札束の山にガソリンを撒いて火をつけ「金なんかいらねーよ」というシーンですね。ジョーカーの根性をみた気がしました。
爆発するゴッサム総合病院を背に、まさにピエロのように蟹股で歩いてバスに乗り込むシーンも、何とも言えませんでした。
『時計じかけのオレンジ』についてのSAMURAIさんのアセスメントを大変興味深く拝見しました。とりあえずいったん寝てから(笑)、再びじっくり読ませていただこうと思います。ありがとうございました。
東京はもうまるで夏のような天気らしいですね。
冷房の効いた百貨店の中と外ではかなりの気温差になるかと思います。
SAMURAIさんも、体調にはお気をつけてお過ごしください。
Abbyさん、コメントありがとうございます。
削除次の職場というのか異動というのか、そういった新しいところに行くのは、先が全然読めませんよね。
私も大学を卒業して初めて働きだしましたが、どういうシステムなのか全く分からず、その年は2013年だったのですが、その年はファンクラブツアーをやっていたのですが、どうなるのか全然わからなかったので断念しました。
あの時は本当に後悔してしまいましたね。
異動していきなりこの日とこの日は休みが欲しいというのも言い辛いし、言えたとしても周りの目も気になってしまいますよね。
とりあえず新しい情報が出たのでお伝えだけでもしておこうと思います。
長渕剛の方ですが、情報が一般公開されました。
一番早く予約がスタートするのは先日お伝えしましたファンクラブからです。
そのあとの予約スケジュールを記載しておきます。
スマホ会員、モバイル会員の予約
5月23日(水)10時~5月24日(木)23時59分
ぴあいち早プレリザーブ
5月25日(金)10時~5月27日(日)23時59分
その他プレイガイド
5月28日(月)10時~5月31日23時59分
一般発売
6月2日(土)10時~
となっております。
私はファンクラブ以外にスマホ会員、チケットぴあ、eプラスにも登録していまして、チケットぴあなどのいろんなアーティストのチケットを販売してるところは登録はすべて無料なので、ファンクラブ、スマホ会員でも外れたときに使用しています。
この前にもお伝えしましたが、今回はアリーナクラスで、だいたい2days公演しているので、チケットぴあや一般販売でもチケットは手に入ると思います。
昨年はプレミアムライブということで、チケット争奪戦ににりましたが、今回はツアーなのである程度余裕があると思います。
長渕剛は私が一番愛しているアーティストなので、後ろめたいことをいうのはしたくないのですが、やはりファン離れというのは確実にあります。
“過去の人”と言われても確かにその通りだととりあえず言わざるを得ません。
今回アリーナクラスのツアーを組んでいますが、それを観客で埋めるのもおそらくいっぱいいっぱいだと思います。
安室さんはドームツアーなどやってやっていますが、今の剛にそれほどの力があるのかと言ったらたぶんないです。
桜島や富士みたいに単発で一度きりの公演となれば、私のようなカルトファンは剛の場合はかなりその割合を占めているので、どこだろうと参加します。
でもツアーとなると厳しいです。
なのでAbbyさんがおっしゃられているように、日本海側での公演はなかなか力不足でできないんだと思います。
なのでチケットはそこまで心配されなくても大丈夫だと思います。
日程的なところだけですね。
天神祭の日もキャンセルしなくなるかもしれないということですが、もしそうなったら最悪ですね。
キャンセル料はもちろんですが、ずっと前から楽しみにしていたことが消えてしまうというのもう本当に許せないですね。
タイミングというのがありますね。
お祭りもコンサートも参加できたらいいのですが。
それを願うばかりです。
Abbyさん、すみませんお伝えするのを忘れていたのですが、
削除今回のチケット代が11500円となっていました。
なんだかだんだん高くなっているような気がします。
というか高くなってきています。
チケットが高くて行けないという人もけっこういますね。
なにをするにもお金がかかってしまいますね。
私もそれに苦しめられております(笑)。