2018年1月13日土曜日

「わからなくていいよ」

  先日といってもかなり前になるのだが、YouTubeか何かの動画で10代の少年少女にスポットを当ててみんな一言一言何か言って動画が切り替わっていくという動画をみたのである。みんな思い思いのことを言っていたのだが、その中ですごく印象に残ったのがあって、それは少女が言ったことばである。
「夢は、まだわからなくていいよ。うん、わからなくてもいいよね」
ということばである。なぜかこのセリフが心に突き刺さり、気がつけば涙が流れていたのである。この少女は中学生くらいである。今、ふと自分の当時のことを思い出してみると、確かに私も漠然とした大雑把なことしか考えていなかったように思う。中学生であったらどこの高校に行こうか、学科は理系なのか文系なのか、私立なのか公立なのか、学業でいくのかスポーツでいくのか、そういった目の前のことしか頭になかったように思う。そういえば幼稚園のときに誕生日の月になったらみんなの前に出て、自分の夢を発表するというのがあった。そして小学校の卒業式でも自分の夢を発表するのがあった。今思えばそういう機会があるから、なにか考えなければならない、とそういうので考えて発表していたように思う。みんな当たり前かのように自分の夢を考えていたが、もしそこで、「自分の夢はまだ決まっていません」と先生に言ったら先生はどう反応するだろうか。おそらく、無理矢理とは言わないが考えさせて何でもいいから何か一つ発表させるようにもっていくだろう。もし卒業式で一人だけ「夢はない」と答える子どもがいるとその他の先生、保護者の方々にいい印象は与えないと判断するからだと思う。でも、夢はまだわからない、まだ決まっていない、ということがダメなことなのだろうか。悪いことなのだろうか。生まれてまだ10年ほどの子どもになにがどこまでわかるというのだろうか。わからなくて当然なのではないか。だってこれからもっといろんなことを見て、触れて、経験して、そうやって探していくものではないのか。もちろん中には、「絶対野球選手になる!」と決まっている子どももいるだろう。でもそこまでハッキリしている子どもは少ないのではないか。「夢はまだ決まっていないけど、これからいろんな勉強をして見つけていきたい」とそう言ったらダメなのか。まだわからない夢を決めさせて発表させるということに、ものすごく怯えてしまう子どももいるはずである。夢まではわからなくても、今勉強したいことや、行ってみたいところ、会いたい人、また、自分のこういうところがイヤだからそれを変えたい、そういうのでいいのではないか。成長するにつれていろんなことを見る、学ぶ、経験する。夢ややりたいこともコロコロ変わる、変わっていく。そんなものである。それでいいのである。夢を見つけるための勉強である。夢を見つけるための経験である。まだ小さなカゴの中しか知らない子どもにハッキリと夢を語らせるのはちょっとムリがあるのではないか。わからない子どももいて当然である。それでいいじゃないか。私だってまだまだ夢に向かう旅の途中である。夢なんてまだわからなくていいよ。その少女にそう声をかけたくなった。今の幼稚園、小学校、中学校、高校はどんな感じなのかはわからないが、そういう子どもたちもそのままの姿をひとりの人間として認める方が大事なのではないか。


3 件のコメント:

  1. お疲れ様です。

    先日の鹿児島でのライブで「Captain of the Ship」が披露されたとのことでしたが、え!!って思いました。
    あれって桜島で死んだんじゃなかったんですかねー?(笑)
    そうですか~
    長渕剛の場合、いったん“死んだ”曲でもいつか復活する可能性はあるということですね!
    今後もしライブに行けた場合、是非「勇次」にも一瞬の躊躇もなく全力でCPRを実施していただきたいですね。蘇生した「勇次」も聴いてみたいものです。

    今回の論点は、“幼少期から中学生くらいの頃に自分の夢について考えさせることの是非について”でした。
    ですがその前にまず、「夢は、まだわからなくていいよ。うん、わからなくてもいいよね」
    という中学生の言葉に涙した、とありましたが、Kingsmanショックに加えてYouTubeと、今年も1月上旬からすでに“エンジン全開で爆走”していらっしゃるようで何よりです(笑)
    本格的な風邪にならずにすんでよかったですね。
    大人になってから何かに感動して泣くことが身体・精神にどのような影響をもたらすのかということについては、笑うことと同様にいろんな領域で結構マジメに研究されているようです。
    今ちらっとCiNii で、単に“泣く”と入力して検索してみたところ、こんなのが見つかりました。
    望月善子:癒しをもとめて・・泣く?, 女性心身医学, 2013, 18(2), 169.

    これは論文ではなくコラムみたいなものです。J-STAGEですぐ読めますので、もしよかったらごらんいただければと思います。
    記事では、日本人女性が世界一長生きすることについて言及したあと、ストレスの対処が不得手な人が多いという現状に触れ、“涙活”について説明があります。
    SAMURAIさんのブログの涙はいずれも“感動した涙”であり、“ストレス対処がうまくいかないことによる涙”ではないですが、それでもなかなか興味深い記述がありましたので、一部をコピってみたいと思います。

    「なぜ、これほど生きなければいけないのでしょうか。何か意味があるのでしょうか。多説あるようです。その中で、人の生きる意味は種を残すだけでなく、精神の満足のためかもしれないとの説があります。複雑な感情を持ち、深い洞察力や推理力、高い学習能力など、優れた知能を満足させるよう精神の成就を図るためということです。」
    「…ストレスや緊張状態で交感神経が活発になっているところに、涙を流すことで副交感神経にスイッチが切り替わるとリラックスした状態に導かれます。…しかし、ただ泣けばいいというものでもなさそうで、何かの出来事に感動して自然に涙を流すといった共感や感動の涙の方が、悔し涙や悲しい涙よりストレス解消につながるそうです。」

    現代に生きる人々が、日々何かしらのストレスを抱えつつ、感動したり悔しがったり悲しい思いをしたりして涙を流しながら、最終的には精神を満足させるために長生きをしなければならなくなった、そう考えると何だか複雑な気もします。
    感動したり悲しい思いをしたりするために、人間は長生きしなくちゃいけないんだなぁ、どこまでも人間は忙しいんだなぁ、と。
    SAMURAIさんのように、いろんなことに感動のショックを受けて涙を流すことは、もしかしたら長生きの秘訣かもしれませんね。

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  2. さて、本題ですが、
    「子供の頃なんか目の前のことだけ考えていればいい。夢はまだわからない、決まっていない、で当然なのではないか。これからの人生でいろんな経験を積み重ねていく過程で、自分の夢をみつけていけばいいのではないか」とのことでしたね。
    私は(学校教育法でいうところの)幼稚園ではなく保育所育ちですが、夢なんて考えることすらしてなかったと思います。のんびりしてました。小学校低学年の頃は田んぼのそばにある用水路(当時はまだコンクリートのU字管とかで整備されておらず、文字通り小川でした)でザリガニとかタニシとかメダカ(今でこそメダカは絶滅危惧種ですが、当時はそこらじゅうにいたんです)とかを日が暮れるまで近所の男の子と一緒に取ったりしてました。
    子供の頃は何となく「おはなやさんになりたい」的なことを作文とかに書いていたような記憶がうっすらありますが、社会人になった現在は、前述のとおり部屋のインテリアには全く興味はなく、家賃は月数千円の激安寮生活です。「お花屋さん」どころか、この部屋に花など飾ったことは一度としてありませんね。
    いかに余計なものを減らして掃除などの維持管理にかかる手間を簡略化するか、そっちのほうがはるかに重要です。
    大阪では、どの学校に行くかという選択肢自体があったということですが、こちらの地方では選択する余地はほとんどありませんでした。つまり、私立中学というものがそもそもありませんでしたので、この地域の子供は全員ここの公立中学とほぼ自動的に決まっていました。高校も、ここかあそこかちょっと離れたあそこ、くらいの選択肢しかなかったんです。例えばスポーツや英語・国際関係・情報処理がメインの学科なんていう先進的なものは通える範囲にはなく、普通科の他には商業科・工業科・農林科ぐらいの専攻しかありませんでしたから、選ぶのはとても簡単で、そんなに悩む必要はありませんでした。
    選択肢は多いほうがいい、という言葉がありますが、実際に選ぶときにはある程度選択肢が限られていたほうが選びやすい、ということもどこかで聞いたことがあります。
    たくさん選択肢があればそれこそいろんなことが学べる可能性も広がるわけですが、一方で“自分の行きたいところを選ぶ”ということを子供の立場でもある程度は考えなければならなくなりますね。逆に、地方では選択肢自体が限られているので、可能性は都会よりも狭くなってしまいますが、“選ぶことを迫られる”ということもないわけです。
    どっちがいい、とは言えませんね。難しい問題です。

    中学生ぐらいの段階ですでに、自分のやりたいこと・自分は何が好きなのか分かっている子は幸せですね。
    ぜひ、その夢に向かって邁進していただきたいものです。
    でも、たいていの子は“目の前のこと”で精一杯なのではないかと思います。
    私もそれでいいと思いますね。
    私も、この歳になってもまだ休日に特別やりたいこともなく無駄に過ごしてきたというありさまですし、これを否定されると困ってしまいますね(笑)
    仕事においても、大学の同期のうちすでに大学院で修士をとって管理職クラスになったり、自分の専門をもっと極めたりして指導的な立場になった人もいるのですが、私はいまだに平社員のまま、日々の目の前の事に追われています。

    大学の学部を選んだ理由も、先日前述した通りです。いいわけがましくなりますが、本当に好きでやりたかったからというのは直接の理由ではない、ということは事実です。そういえば、なぜこの仕事を選んだのかということを生前の(きちんと会話ができるうちに)祖母に聞くのを忘れていましたね。
    あぁ、今思い出して、もったいないことをしました。
    私が行った学部の場合は、取得した資格が職業に直結していますので、就職先も自動的に決まりました。圧倒的に売り手市場の資格ですので、就職活動なんか形式だけでした。受ければどこでも受かる、みたいな感じです。エントリーシートというのも、書く必要すらありませんでした。むしろ就職先のほうから学部のほうに、「ここの学生なら採用するから是非受けてくれ」というオファーみたいなのが毎年あって、県内・県外を問わず地方公務員から民間まで様々で、A4で2~3枚ぐらいのリストとして学部事務所の前に掲示されていました。この掲示が、学部が学生に対して公式に行う就職活動支援の全てみたいなもので、よくある就職活動支援部門みたいな部署自体ありませんでしたね。各自で勝手にどうぞ、的な感じでした。

    今、動画の彼女のようにもし「自分の夢を語ってみて」といわれたらどうしましょうか(笑)
    SAMURAIさんだったら、どのように回答しますか?
    いまだに私は“目の前のことで精一杯”ですから、何て言ったらいいですかね…
    今週の仕事のこと…。(これはいつも考えてますね)
    来週の仕事のこと…。(ゆううつですねー)
    再来週のシフトの夜勤のこと…。(もっと憂鬱、逃げたいぐらいですねー)
    来月は年度末に近くなりますので、様々な目標管理の総括みたいな作業のこと…。
    3月は、例年のごとくいろいろなことが間に合わなくて、ボロボロでしょうね。
    あと個人的には、
    この仕事をするにあたって絶対に必要な基礎知識みたいなのを維持すること(毎日触れていないと忘れてしまうので…でもこれが一番大切で、一番面倒で、一番難しくもあるんです。そして、これは本当に自発的にやらないと身につかないので)、
    あとは統計の勉強と(毎年目標にしていますが難しいですね、ちっとも進みません)、
    あわよくばドイツ語ですかね。(いつか行ってみたいのですが、今のこんなレベルじゃコーラ1本買える気がしませんね…)
    毎日心穏やかに過ごしたい、仕事でも日常生活でも特に大きなトラブルに見舞われずに日々平穏に、というのが今の切実な夢ですかね(笑)

    中学生くらいで夢を語れたら立派なものです。
    以前自分のブログのほうで、「やりたいことが見つからないときは」というタイトルで(私のブログとしては珍しく他の人が読んでも内容が多少は通じる)記事を書いたことがあるんですが、これにはどうやらアクセスがあったみたいですね。やりたいことが見つからないというキーワードでネットを調べている人がいるということです。おそらく。
    世の中では、その気になればいくつになっても人生のやり直しはできる、ということになっています。中学生の段階で自分の好きなことや夢が分かっていなくても、いずれは自分のことが見えてくる時期があるかもしれません。
    でも、映画『KNIGHT AND DAY』で、
    Someday. That's a dangerous word. It's really just a code for ‘never.’
    というトム・クルーズのセリフについて以前書いたことがあったかと思いますが、
    いつかやりたいということは決して実現しない、この言葉もまた一理あると思います。
    だからこそ今、やりたいことはやらなければならないのですが。
    大人になればなるほど、どんどん保守的になっていく自分に気づきます。
    これも以前ですが、「転勤しようと思えばいつでも北海道でも熊本でも東京でも大阪でも好きなところにできるのだが」という話も書きました。
    宇多田ヒカルの「俺の彼女」という曲の、「俺には夢がない 望みは現状維持 いつしか飽きるだろう つまらない俺に」という歌詞にもつい目が留まってしまいます。

    読者業の成果として、そういえば長渕剛の「電信柱にひっかけた夢」という曲に、
    「生き恥をさらしても裏街道はまっぴらさ」
    「未練たらたら ひっかけた夢」
    「俺だってあの日の海を死ぬまで泳ぎ切るつもりさ あぶく銭にうもれて一生男なんか演りたくねえ」
    「あの時の電信柱にひっかけたくやしさと諦めが 俺の胸をたたきやがる」
    との歌詞がありましたね。
    未練タラタラになれるほどの夢をもつことができて、しかも挫折をものともせず長年追いかけ続けた結果として今の長渕剛がある、ということですから、すごいなぁの一言ですね。
    夢どころか現状維持するだけでも、今の自分には結構大変です。本当に毎日精一杯です。
    夢に気づくのは別に子供の頃からでなくても一向に構わないと思います。
    誰かと比較したり、誰かの基準で動いたりする必要もないと思います。
    やりたいことがコロコロ変わって何が悪い、という感じです。
    耳かきの唄のときにSAMURAIさんが書いてくださったように、人生において何が正解かなんてありませんし。
    でも、自分の心の奥底からわきあがってくるようなやりたいことにいつまでたっても気づかない・この歳になっても私の夢ってなんだろうという今の生活も、決して100%満足かといわれるとそうでもありません。
    急いで決める必要はないのですが、逆に、何歳までにとか、何月何日までにとか、いつまでに夢を決めなくてはならないといった制約がないからこそ、夢というのは困ったものです(笑)

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    1. Abbyさん、コメントありがとうございます。
      日本海側の天気がものすごいことになっているというニュースを聞きましたが、大丈夫でしょうか。
      私の職場でも日本海側へのギフトの配送ができなくなっている地域が出ております。
      お車の運転などくれぐれもお気を付け下さい。

      剛の『Captain of the Ship』を唄ったと聞いたときは私もさすがに驚きました。
      剛の言うことはほとんど当てにならないことが多いですね(笑)。
      良く言うと“ハズして”くるんですね。
      例えば、2014年のオールタイムベストツアーでは、1曲目にアルバムに入っていない『泣いてチンピラ』を持ってきたりとかするので、我々の予想をよく裏切ってくれます。
      なので、『勇次』も忘れたころに復活するのではないかと思いますね。
      すべては剛の気分次第ですからね(笑)。

      先日思っていたよりも早くにUS版で取り寄せた『キングスマン/ゴールデン・サークル』が届きまして、すでに10回は観たのですが、やはりすばらしい作品です。
      “Kingsmanショック”がガンガンにきていますね(笑)。
      本当に泣けてしまいます。
      もう少ししたらサントラの方も届くと思うので、それでまたドンドン“アゲて”いきたいですね。
      もうずっといろんな刺激を自分に与えまくっているので、そういう意味では本当に忙しいです。

      今回は何気なく見ていた動画ですね。
      それを見ていてなんだか急にハッとなってしまいましたね。
      Abbyさんからご紹介いただいたコラムを拝見致しました。
      私もいつだったか忘れてしまいましたが、“涙を流す”という行為自体がストレス解消につながるという話を聞いたことがあり、確かに泣いた後はスッキリしているなぁ、と思ったことがあります。
      確かに自分の感情を表に出すという行為、自分を表現する行為、自己主張をする、などの行為は日本人は本当に苦手というのか、避けているというのか、嫌っているというのか、そんな気がしますね。
      そういう意味ではこの国は本当に生き辛いと思います。
      そういえば高校生のときに人権教育みたいな時間になんかのビデオ?ドキュメント?映画?みたいなものをいくつか見たことがありますが、全部号泣していましたね(笑)。
      他の生徒はほとんど泣いていませんでしたが、私が一番泣いていました(笑)。
      我慢してもしょうがないというか、我慢しても涙が出てきてしまうのでどうしようもありませんね。
      それで卒業式のときは周りから「絶対に泣く」と言われていましたが、卒業式の日は全然泣きませんでしたね(笑)。
      私もみんなの予想を裏切るのが大好きなので(笑)。
      そういった“表現”はこの国は本当に乏しいですね。
      我慢することに美学を感じる、黙って耐えしのぶ、みたいなところがあるとは思いますが、それはもっと違う場面だと思います。
      そういったただ単に、悲しいものは悲しい、怒るときには怒る、喜ぶところは喜ぶ、言いたいことはちゃんと言う、と言ったところにまでそういったものを当てはめようとしているのは、それはどうかと思います。
      私は長生きしようとは全然思っていませんが、自分のやるべきこと、やりたいことができたらいつでも死んでもいいと思っています。
      長生きをして友人や大切な人が死んでいくのを見届けるのもやはり苦痛なので。
      やりたいことができなければ死ぬに死ねないので、やりたいことはちゃんとやっておきたいですね。
      そもそもいつ死ぬかわからないので、ある意味いつでも死ぬ準備はしておかなければならないかもしれません。
      なので私は観たい映画は観る、欲しいものは今のうちに買っておく、剛のコンサートだって行ける日は全部行くみたいなことをしているのかもしれません。
      そうやって都合のいいように言っているだけなんですけどね(笑)。
      “夢”というのは本当に曖昧な言葉です。
      子どもが言う“夢”というのは本当に大雑把なものです。
      野球選手、サッカー選手、医者、宇宙飛行士、警察官、消防士、最近だとユーチューバーもあるみたいですが、そんなところですよね。
      私は幼稚園の頃は医者になりたいと思っていましたね。
      母に「母さんの病気は自分が治してあげるから」と泣きながら言ったことは今でも覚えています。
      例えば高校、大学でも理系に進学しても働いているのはそういった理系とは全く関係ないところで働いているということもよくあります。
      高校や大学で勉強したことをその先で活かすことができる人はほとんどいないのではないかと思います。
      このブログでも何度か書いたことがありますが、よく子供には「無限の可能性がある」みたいな無責任なことをよく言います。
      それは学校でもそうですが、テレビなどのマスメディアもそういったものの類です。
      子どものころはみんな純粋なのでその言葉を信じています。
      しかし、成長するにつれてだんだんわかってくるんですね、気がつくんですね。
      現実はそうではないということを。
      たとえ子どものころからの夢だった仕事に着くことができたとしても、その中にある人間関係や派閥、金、そういった“仕事”、“夢”とは関係のないところで悩まされたりもします。
      世の中複雑であることがわかるんですね。
      しかもそれを毎日私たちはその現実を、事実を少しずつ確実に学んでいるんですね。
      サイコーにムカつきます(笑)。

      『電信柱にひっかけた夢』はすばらしい唄ですね。
      Abbyさん、ものすごく聴き込んでいらっしゃいますね。
      すばらしいです。
      その少女に自分の夢を聞かれたらなんと答えましょうか(笑)。
      私は“夢”という曖昧で壮大な言葉では少し違ってくると思います。
      私が生きていく上で一番大切にしていることは“魂の自由”です。
      それを維持するための行動はいくつかありますが、自分が嫌悪を抱いた感情に対して、それを一秒でも早く解決することですね。
      一番は、面倒な人はさっさと切る、ですかね。
      そうすればその人に対してのお金や時間は自分の時間に使えるわけですからね。
      と、書いてみたのですが、論点がズレてきたので、単純にやりたいことを書きます(笑)。
      「自分の好きなことは徹底的に追い求める」
      「ニューヨークに住みたい」
      「毎年バーニングマンに行きたい」
      「自分が着てみたい服をつくる、そのブランドを立ち上げたい」
      「ハリウッドスター、剛に会いたい」
      そして、自分の経験なんかを生かして子どもたちにでも何か少しでも話ができたらいいなぁーと思います。
      こんなところですかね(笑)。
      単純過ぎてすみません。
      でもこれは本当にやりたいことですね。
      そして世間通常一般的に考えられているであろう“モノゴト”に対して中指を立てて“FUCK”と叫んでいきたいですね(笑)。
      その中に私は入らないよ、その話に私は乗らないよ、という感じですね。
      なんだか書いていてわけがわからなくなってきました。
      でも何をするにしても自分が納得できればそれでいいと思います。
      その生き方を決めるのは自分自身ですし、それがどうかを判断するのも自分自身です。
      何かにトライすることに“遅すぎる”というのはないと思います。
      やるかやらないかだけの違いだと思います。
      いろんな経験をしているにつれて、自分のやりたいこと、好きなことがわかってくる、見えてくるんだと思います。
      別に興味はないが、ちょっとだけ海外に行ってみるというのもいいと思います。
      それこそいろんなジャンルの映画を観てみる、本を読んでみるというのもいいと思います。
      とにかく部屋を飛び出してみるというのもいいと思います。
      久しぶりに思いっきり走ってみるというのもいいと思います。
      例えそれでそれまでの生活が変わらなかったとしても、考え方や感じ方、捉え方が変わるのであれば、それはものすごい変化であるし、夢が叶ったというのとは全然違いますが、今の自分がもっと良く見えたり、何も感じなかったことがおもしろく感じたり、今の自分が好きになったり、とそういう方向にベクトルが向いていけばもっと大事なコトが見えてくるのではないかと思います。
      人によって大切なことは違います。
      夢なんてどうでもいいという人もいるかもしれません。
      夢の向こうに何かがあるのかもしれません。
      夢よりも大切なものがあるのかもしれません。
      書いていてわけがわからなくなってきましたが、なんだかそんな感じがしてきました(笑)。
      最終的には、自分にとってどうなのか、だと思います。

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