2017年4月19日水曜日

『キックアス』、正義への思い

 一つ前の投稿では、六本木の東京ミッドタウンにあるオープンテラスみたいなところに座って記事を書いていたのである。久しぶりに少し東京の街を歩いた。歩いていると汗をかくくらいに暑かったが、歩くにはもってこいの気候であった。最近なかなか歩くことができなかった。お店の閉店作業とか次のお店の入店研修とか健康診断とかなんやらで休日もほとんどまともな休日がないくらいで、久しぶりのまともな休日な感じであった。昼前から雨が止んで晴れてきたし、ちょうど買い物もあったので、久しぶりのウインドウショッピングも兼ねて歩いていたのである。最近というかずっとパソコンの調子が悪いので、最近はiPhoneから投稿しているということで、このブログを始めて以来、初めて外で記事を書いたのである(笑)。別に大したことではないが(笑)。15時くらいには家に戻り、前回の投稿で書いたように今回は『キックアス』について書こうかなと思う。3回目を読み終わった。最近こういう映画関連の記事が続いていて、違う内容の記事も書きたいところなのだが、最近やることが本当に映画しか観ていないという腐敗堕落しきった生活しかしていないという状況である。休日になると朝起きて映画を観て、昼にも映画を観て、昼寝して、映画を観て、お風呂に入って、ご飯を食べながら映画を観て、寝る、とそんな休日である(笑)。本当に腐敗堕落している(笑)。しかしそれが私にとって至福のひとときなのだが。前回の投稿で、アメコミを買ったりとお金をまた使ってしまったと書いたが、やはり知識とかそういうのを増やしていこう、深めていこうと思ったら、本やら雑誌やらDVDやら資料やら必要なものが絶対に出てくる。それをお金を使わなかったら絶対に知識は増えないし深まっていかない。貯金するのもいいが、そういう自分自身を広げていくモノ、ことにはお金を使わなければならない。最近ではネットが発達していて、知識を得ようと思えば一瞬で調べられてしまうのだが、このネットでの情報はほんの一部しかのっていない。そのネットで調べて、知ったつもりになるのは明らかに間違いである。やはり本当の情報を得るには、その本、専門書などを読まないと本質はわからない。ネットで満足する人間が増えているみたいだが。状況にもよるが、知識を得るのは早ければ早い方がいい。今知識を得れば、その知識は残りの人生に使っていける。しかし、死にかけのときに知識を得ても、その知識を使うのは残り少ない。もちろん死ぬまで勉強だが。いろんなことを知る、学ぶのは本当にすばらしことである。
 話がまたまたそれてしまったが、この『キックアス』は映画から入った。映画は『キックアス』、『キックアス  ジャスティスフォーエバー』と2作品あり、コミックは、『キックアス』、『ヒットガール』、『キックアス2』、『キックアス3』の4作品ある。今回どういう内容を書こうか迷ったが、映画とコミックの違いにしようかとも思ったが、ネットを見ていると、やはりその映画とコミックの違いについてすでに書いている人がいたし、そっちの方がより詳しくわかりやすく書いていたので私の出る幕はないと思ってしまった(笑)。もちろん書いている人それぞれの意見、捉え方があって、それを読むだけで楽しかったのだが。この『キックアス』の特徴は何かというと、やはり1番に挙げられるのはバイオレンス描写だろう。映画でもそうだが、コミックは本当にヤバイ。殺人殺戮残酷残虐死体だらけ血だらけの真っ赤っかである。しかもそのほとんどが“ヒットガール”が殺されるべき人間を殺しまくるのである。今回の主人公はデイヴという少年がいて、スーパーヒーローにあこがれているのだ。こんな何百万人もいるのに、ロックスターやハリウッドスターにあこがれてマネする人は多いのに、なぜスーパーヒーローのマネをする人はいないのだろうと思って自分がスーパーヒーローになろうとする話である。このデイヴはただのアメコミ好きの少年なので、なんの力もない。スーパーマンは宇宙人だし、バットマンは大富豪で兵器を使うし、スパイダーマンは蜘蛛に噛まれて特殊能力を手に入れるが、このデイヴは、ただの人間。その設定に我々読者は親近感を覚えるのだ。でもやっぱり現実は違う。その辺のギャングにボコボコにされて死にそうになる。そこで高度な訓練を受けた本当のスーパーヒーロー“ヒットガール(少女)”、そしてその父“ビッグダディ”と出会って大きな事件に巻き込まれていくのだが、ここでやはり考えなければならないのが“正義”とはなんなんだ、ということである。今は映画もコミックも区別なく話をするが、デイヴはできれば人殺しはしたくないと考えている。一方ヒットガールは、自分がやっているのは殺人ではなく、処刑なんだという。死ぬに値するヤツ、生きていてはいけないクソ野郎どもは躊躇なくブッ殺してしまう。しかし、普通に考えてみればヒーロー自体、精神異常なのである。そしてその“正義”は人それぞれの在り方考え方があり、人によって全然違うということである。つまりスーパーヒーローの物語は、ある意味正義と正義の戦いなのかもしれない。話がそれるが、タランティーノ監督の映画『ヘイトフルエイト』での話だが、自称首吊り役人が言うのだが、自分は処刑人だから悪いヤツを連れてきて俺が首を吊って殺せばそれは正義だ、と。しかし、それでは納得しないと言う人がいる。殺人犯に殺された遺族がその殺人犯を殺せば、そっちの方が人受けもいいし、みんなそっちの方がスッキリするしカッコいいから好きだと言うが、それは“西部の正義(フロンティアジャスティス)”であって、“正義”とは違うと言うのである。それぞれ自分の正義がある中で戦っているのである。警察もデイヴも周りいるヒーローたちも誰も手が出せない絶体絶命の状況下で、ヒットガールただひとりが敵に立ち向かっていくところがある。そのとき、「ゲーム開始よ、マザーファッカー」とヒットガールが言うのだが、そこで涙が出てしまう。誰もできないしやりたくないし殺されるかもしれない、といろんいろ躊躇してしまうが、ヒットガールだけは迷わず立ち向かっていくのだ。もちろん人殺しを賛美しているわけでもないし、絶対にやってはいけないことである。しかし、己の正義に迷わず突き進んでいくヒットガールの決意、パワーがある。それにある種の美学がある。デイヴはスパイダーマンの話に出てくるあるシーンの言葉、“偉大な力には責任が伴う”というのに対し、自らに問いかけるのだ。じゃあ“力がなければ責任は伴わない”のか?と。そうじゃないだろと自分で答えを出す。デイヴは、街で起こっている暴力に対して誰もが見ているだけで、俺はそれが許せないんだ、と。その暴力に俺が止めに入ってそれによって命を落とすことになったとしても俺は構わない、死んでも構わない、と。悪いヤツがいるからそれを止めてくれる存在が必要なのだ。今日家族が友達が隣に住んでいる人がこの街に住んでいる人たちが安心して眠れるためにヒーローが必要なんだ。そしてそのための手段はヒーローそれぞれ違う。だが、正義への思いは同じなはずだ。私は確かに、“デイヴの正義”、“ヒットガールの正義”を感じ取ることができたように思う。
 改めて明白にしておきたいが、私は殺人オッケーと言っているわけではない。何度も言うが、殺人は絶対にやってはいけないことである。話は少し変わるが、今回の映画だけでなく、こういった残酷シーン、残虐シーン、など殺人とかそういったものは目を背けずにちゃんとみておかないといけないと思っている。いつだって、常に、自分が人を殺す立場になる可能性があるという危機感はどんなときでも持っておきたいからである。そういった残虐残虐シーンを見たときに、当たり前だが、「恐い、ヤバイ」と感じる。これは正常な反応である。以前にも書いたが、自分自身が“愚かさ”、“不潔”、“残酷”、“恐怖”ではなく、自分自身を“正しい”、“美しい”、“清潔”、“きれい”といった清廉潔白であると信じている人は、自分自身が人を殺す立場になるわけがない、殺人なんて私には関係ないと思っている。私はそう思っている人が一番危ない危険な人だと思っているのである。人間は残酷になろうと思えばどこまでも残酷になれてしまう愚かな生き物である。ホロコーストはある意味、そういった人間の可能性を見せてしまった出来事である。自分がもしその時代に生まれ、ホロコーストする側であれば当たり前かのように虐殺しているんだと思う。当時の風潮としてそれが当たり前であれば。そういう時代であれば、風潮であれば、周りがそうであれば、最初はイヤと思っていたとしても人間慣れてしまえばなんとも思わなくなる。人間は簡単にどこまでも残酷になれる。自分自身がそういった残酷なことに対して無関係だと言って考えていない無視している人は、そういった時代であればより簡単に自分自身がやる側になっている。だから私はそういった残酷シーン、残酷シーンに対して目を背けずに直視し、「恐い、ヤバイ」と思う感じる正常な感情を確認したいのだ。
今回書き切れなかったことはまた思い出したらテキトーに書いていこうと思う。でもこの『キックアス』は本当すばらしい作品であった。これからもどんどんコミックを読んで映画を観て、考えを、深めていきたい。

2 件のコメント:

  1. お疲れ様です。
    今回は正義についてということですが、正義について語る上で重要なのは、SAMURAIさんも言及されているように、「“正義”は人それぞれの在り方考え方があり、人によって全然違うということ」なのでしょう。
    現実社会では、どう頑張ってみてもどうにもならないこと・あっちを立てればこっちが立たずみたいなことはざらにあり、まじめに考えれば考えるほど、一体何が正しいのか、どうしたらいいのかとジレンマに陥ることは多々あります。
    私の仕事の場合、この業種の職業倫理として「顧客にとってどのようなサービスを提供する(もしくはあえて何もしない)のが最善の方法なのか、いろんなスタッフの立場で相談し考えること」が正義を実現するための手段として一般的に教育されています。顧客は誰一人として同じ人はおらず、その人にとって最善の方法なんていくら考えても答えなんか見つかるはずもないのですが、答えがみつからないからこそ、考えたり悩んだりするプロセスが大事なんだ、と。

    ぱっと見、いかにもといった感じの文言なんですが、現実問題としてそうするしか方法がない、っていうのが本音なのでしょう。
    絶対的に善いことなんかない、というのが暗黙の了解であり、正解はだれにもわからないから、
    いろいろ考えたり迷ったりして出した答えなら、それはそれで自信をもって顧客に提供してよい、というスタンスです。まぁ、いうなれば現代版の免罪符みたいなものなのでしょう。
    しかしある意味、無責任な話です。ひねくれた見方をすれば、考えたり悩んだりすればそれでいい、とも解釈できるからです。顧客の評価がよければ、結果自体の良し悪しは別に問わない、ということですから。
    難しいですね、正義。いったい何なんなんでしょう。

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    1. Abbyさん、コメントありがとうございます。
      “正義”と一言で言えても、その中身は全然違いますし、途中から何が何だか分からなくなってくるものです。
      “正義”はみんな思っているのはおそらく、世の中をもっとよくしたい、今よりもよくしたい、と想像します。
      しかし、自分がよかれと思っていても、他人には迷惑なこともあると思います。
      そして映画でもよくあるパターンが、自分が世の中をよくしようと思って正義を掲げてヒーローになったのはいいが、より世の中を悪くしているんじゃないかとか、自分がヒーローにならなければこんなことになならなかった、などそういう葛藤があります。
      現実問題でも万人受けする“正義”なんて存在しないと思います。
      それぞれの立場が全然違いますし、その人のその日の気分もあります。
      それが大変ですよね。
      Abbyさんがおっしゃっているように、これは答えの出ない問題です。
      私は最初からみんな違うしと割り切って考えており、プライベートではいいですが、仕事となると自分中心で考えていては一日で100件は問題発生してしまうので、そこは外見だけは相手に合わせるようにして波風を立たせないようにしています(笑)。
      答えのない問題、課題は世の中には何万とあります。
      人類が誕生してからいろんな人がいろんな事を考えながら今に至っていますが、これから何万年たったとしても答えが出ることはないでしょう。
      でも、自分の中の“正義”、“正義”への思いみたいなものは大雑把でも良いので持っていたいものですね。
      私も今考え中です(笑)。

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