2014年11月28日金曜日

記憶

前回の一応の続きでも書こうかなと思う。おそらくこの認知症は世界中で深刻な問題となっているだろう。認知症になれば介護が必要になってくる。一番理想的な姿はやはり家族が協力し合い、できれば自宅で面倒を見ていくというのが一番いいだろう。しかし、現実は違う。そうしたくてもできないものである。何よりも“自分”の生活がかかっている。仕事をしなければ自分が生きていけない。そして介護もすることができない。介護もかなりのお金がかかる。治療費、施設料などなど。それは想像以上に大金である。
 前回は明らかに私中心の意見を書いたが、実際に私自身が認知症になったらどうであろうか。世界でも深刻化している認知症は、明らかに昔よりも大きな関心が寄せられている。今や身近な問題ともなったこの悲しい現実を私たちが危惧する理由。そこには、私たちに失いたくない記憶や大切な人の存在があるからだろう。自分が歩んできた道、自分を構成する要素。それらが一つひとつこぼれ落ちていくことはどれほど残酷なことだろう。自分が自分でなくなっていく恐怖、愛する人々が何者なのかさえわからなくなる、無情さ。私にも“その日”はいつか来るのだろうか。
 私はまだ20数年しか生きていないが、忘れたくない記憶ばかりである。こんな私でも一緒に遊んでくれる仲間。ご飯行こう、と気軽にメールをくれる仲間。今度は○○に行こう、と次も会う約束をしてくれる仲間。当たり前のようだが当たり前ではない。そして家族の存在。面倒や心配ばかりかけている。しかし、それでも遠くで見守ってくれている。私は死ぬまで心配をかけ続けるだろう。私が何歳になろうとも、どこでどんな仕事をしようとも家族の関係は変わることはない。かけがえのない全ての“ひと”に心から感謝している。
 聴覚、臭覚など五感で味わった記憶ほど人はよく覚えているという。年を重ね、“今”が思い出になる日は必ずやってくる。忘却の彼方に消えてしまう喪失感も味わうかもしれない。しかし、私の名を叫ぶ声が、仲間、かけがえのない“ひと”たちと過ごした若きこの時代を呼び起こしてくれるだろう。デジタルカメラのメモリーカードのように形に残すことのできない“記憶”。淡く、儚く、・・・。だからこそ愛おしいのかもしれない。

2014年11月24日月曜日

祖母の認知症

最近、祖母(母方)が認知症になったのである。母が祖母の認知症に気付いたのはある事件がきっかけだったのだ。詳しく書くと長くなるので省略するが、救急車、消防車、警察、というオールキャストが揃うほどのちょっとした事件だったのだ。しかし、そのようなことがあったというのは祖母は覚えていない様子だったのだ。詳しく検査すると認知症と診断された。24時間目を離さないように医者から言われたのだが、母も仕事をしているのでそうはいかない。預けてもらえる施設を一緒に探した。ちょうど大阪に戻った時である。
 祖母の家はマンションの最上階で、私の実家も同じマンションである。私が中学3年生の時に祖父をなくした。今でも鮮明に覚えている。祖父がなくなったのは1月1日。その日以来祖母はひきこもり状態になってしまった。家事は祖父がよくやっていた。家に遊びに行った時に祖父がよく掃除機をかけていた。言い方は悪いが祖母は人に頼っていたのである。毎晩夕食は母が作ってそれを持って行っていた。しかし、ご飯を食べるよりも酒ばかり飲んでいた。母はやめるように何度も注意をし、医者からもやめるように言われたが祖母は聞かなかった。酒を飲むことが唯一の楽しみになっていたのだ。次第に医者から酒をやめるように言われなくなった。患者が協力しなければ何の意味もない。骨粗鬆症、肝硬変などの病気にかかっていたが、治るはずもない。そして認知症に。
 大切な人を失って悲しむのは当然のことである。そして祖母だけが通る道ではない。世界中の人が生きていれば必ず通る道。通りたくなくても通る道。1年間悲しくて辛くてなにもできなかった。しょうがないね。5年間悲しくて辛くてなにもできなかった。しょうがないね。10年間悲しくて辛くてなにもできなかった。しょうがないね。死ぬまで悲しくて辛くてなにもできなかった。ノー!!私ならばこう答えるだろう。悲しくて辛いのは仕方のないこと。それをいつまでじ悲しむのか。死ぬまで?
 私ももしかしたらそれほどの悲しみに直面したことがないからそんなことが言えるんだと言われるかもしれないが、立ち上がらなければならないときがある。大切な人を失ってもなお立ち上がってたくましく生きている人はたくさんいる。むしろ立ち上がらなければ生きていけない。そんな姿を周りの人が見て、手を差し伸べてくれるのである。生きる目標を失い、アルコール依存の生活をしている人に誰が手を差し伸べようとするのか。残るは家族しかいない。面倒を見ているのは私の母。だから私の母は今本当に大変なのである。
 認知症になるまでに何かしらの方法で生きる目標を見つけられなかったのは、周りにいた人も悪いかもしれない。しかし、あらゆる手は尽くしたと思う。人はどんなことがあっても前に進まなければならないときがある。立ち止まってはいられないときがある。山を登らなければならないときがある。アルコールに悲しみを紛らわそうと決めたのは紛れもない祖母自身。己で選んだ道である。それが周りの人に迷惑をかける結果に。しかし、そんなことはすぐに忘れてしまう祖母。怒りすら湧いてくる。そんな祖母だが母は毎日は厳しいが二日に一回は祖母に会いに行っている。会うたびに喧嘩しているみたいだ。私は、「いかんでええやん」と言う。母は、「うん。でもなー・・・」。私が心配なのは母が体調を崩さないかどうかそれだけ。
 

2014年11月13日木曜日

久しぶりの再会

 
同期のお土産
昨日私がいつものように店頭に立って仕事をしていると、何やら久しぶりに見た顔がいたのである。前会社の同期のひとりであった。その同期の子は私と一緒で百貨店課の一人として働いていたのだが、一ヶ月くらい前に退職したのだ。この話を聞いたのは同じ同期仲間からである。
 私が前会社を退職してアメリカへ行き、同期のお土産としてm&mのお菓子を買って帰ったのだ。そして直接その同期たちにお土産を渡すために一日をかけていろんな店を回ったのである。ほとんどの同期はお店にいて、直接渡すことができたのだが、ちょうどその子だけ休みで他のお店のスタッフに頼んで渡してくださいとお願いをしたのである。そのお土産とメモを残して。もし受け取ったら何かしら連絡が来るだろうなと思っていたのだ。しかし、次の日やまた次の日になっても何の連絡も来なかった。なんで何も言わないんだよ、と思うこともあったし、大丈夫だろうかと心配になったこともあったが、催促の連絡はよくないので私からは何も連絡をしなかった。それは今年の5月後半だった。そして昨日、直接私に会いにお店に来てくれたということである。元気そうで本当に良かった。私もわざわざ来てくれたということで、連絡をよこさなかったことなどはもちろん不問にした。本当は以前にも3、4回ほど来てくれていたみたいなのだが、私が休みだったのか裏の仕事だったのかでお店にいなかったという。これは申し訳ない。やっと会えたというわけである。その子は退職をして、しばらく実家に帰っていたみたいだ。ゆっくりできてよかったと言っていた。今就職活動しているみたいだ。
 仕事といってもいろんな仕事がある。同じ百貨店の惣菜販売にしてもお店によって全然違う。人間関係やハードワーク、そんなこんなで体調を崩してしまう人も多い。でもそれはやっぱりよくない。ときには休憩も必要だろう。立ち止まることもありだと思う。仕事を辞め、少しのあいだ立ち止まり、そしてまた歩き出せばいい。元気が一番である。その元気から出る笑顔が一番である。私はその子との再会でそう思ったのだ。

2014年11月8日土曜日

カウントダウンをNYで

 11月になり、かなり寒くなってきた。私が働いている百貨店も繁忙期に入ってきた。お歳暮、クリスマス、年末年始。昨年は前会社のお店で働いていて、忙しかったのを思い出す。今年も忙しくなりそうである。


 東京駅に新丸ビルという複合施設があるのだが、私はよくそこに買い物に行く。そこのとあるお店に行き、いつもの店員さんがいたので、少しばかり話をした。その方が年末年始にニューヨークに行くそうだ。タイムズスクエアのカウントダウンを見にいくらしい。すごいではないか。タイムズスクエアのカウントダウンは毎年絶対に日本でも映像が流れる。15時くらいにはいないともう入れない状態になっているそうである。普段のタイムズスクエアですら人・ひと・ヒトである。私もまだ経験していないので、死ぬまでには絶対に行こうと思っている。
 そのお店の方はもうホテルや航空券も予約をしていてあとは行くだけらしい。オススメの場所とかあれば教えてくださいと言われたが、ニューヨークはどこもオススメである。歩くだけでも最高である。その方は映画『レオン』でも最後に出てきたマチルダ(ナタリー・ポートマン)がゴンドラに乗っているシーンがあるのだが、そこには絶対に行きたいとおっしゃっていた。私はそこに行ったことがない。でもそこにも行きたい。『レオン』は私の好きな映画の一つである。また“一人で勝手にロケ地ツアー”をやろうかな。『ダイ・ハード3』、『ナショナルトレジャー』、『プラダを着た悪魔』の“一人で勝手にロケ地ツアー”はやった。次は『レオン』かな。
 カウントダウンをあのタイムズスクエアで迎えるおいうのあ最高に羨ましい。私は去年もそうだったが、百貨店で働かなければならない。私は家でゆっくりするのは1日もあれば満足なので、正月に仕事があるのは嬉しいとも思う。まあ、忙しいのは嫌だが(笑)。それにしても1年経つのは本当に早いものである。