
このドラッグストアに行く前に映画館に行っていたのだが、『プライベート・ウォー』という映画を観に行っていたのである。これは外国では昨年だったかそれくらいに公開されていたのだが、やっと日本で公開された作品である。しかし、公開している劇場が極端に少なく、東京でも2劇場しか公開していなかった。日比谷シャンテという映画館に行こうかなーと思っていたのだが、どうも時間的に微妙であった。私はできるだけ朝一に観たい派なので、午後にまたがる時間であった。少し公開劇場を探してみると、神奈川の川崎にある映画館で9時30分から始まるのがあったので、そこにしようと決めて行ったのである。ここ川崎は私が住んでいるところからそれほど遠くなく、30分もあれば到着する場所だったので、全く問題なかった。
この『プライベート・ウォー』という作品はメリー・コルヴィンさんという実在した女性が主人公の作品である。彼女はいわゆる戦場記者であった。イギリスのサンデー・タイムズ社の記者で、世界中の戦地に赴き、レバノン内戦や湾岸戦争、チェチェン紛争、東ティモール紛争、スリランカ内戦、シリア内戦などを取材していた。メリーさんはもうとにかくすごい人で、最も危険な場所に自ら飛び込んでそこにいる“弱者の声”を一人ひとり取材をしていく。2001年のスリランカ内戦でジャーナリスト入国禁止を無視し、バンニ地域に乗り込んだ彼女は、シンハラ軍と“タミル・イーラム解放のトラ”との銃撃戦に巻き込まれて被弾し、左目の視力を失ってしまう。PTSDに苦しみながらも、彼女はそれ以降も黒い眼帯をトレードマークに世界各地へと飛び回り、まさに“生きる伝説”であった。なぜそこまでして危険地域に乗り込んでいくのか。なにがそこまで彼女を突き動かしているのか。それはただ“真実”を伝えるためである。戦争と聞くと、100人死んだ、1000人死んだ、1万人死んだ、そう聞こえる。でもそれはただの数字に過ぎない。安心安全平和な国に住んでいる私たちにとってそれは他人事であり、その数字が大きかろうが小さかろうがはっきりいってどうでもいい話。「へーそうなんだー」、とただそれだけの感想。このタイトルのように戦争って大きい話のように聞こえるが、本当はそうじゃないんだと。一人ひとり、個人の話なんだと。今日お父さんが殺された、愛するわが子が爆発に巻き込まれて死んでしまった、がれきの下敷きになって死んでしまった、一人ひとりの声を届かせなければならない、顔がわかるようにしなければならない、なぜならそれが真実だからだ。そこから先には行ってはならないと言われても彼女は突っ込んでいく。まるで死に場所を求めているかのように。彼女は戦争中毒者でもあった。戦場が一番居心地がいいとも言っていた。彼女は“普通の生活”ができない人でもあった。イギリスに帰ってきては酒浸りでアルコール中毒でもあった。恋多き人でセックス中毒でもあった。でも彼女はものすごくオシャレな人で、戦場へ行くときは必ず最高級の下着を身に着けているのである。いつだってセクシーさを忘れない人でもある。タバコもガンガンに吸う人でもある。酒にタバコにセックスにともう本当にワイルドな彼女であるが、それが彼女にとっての“燃料”、“ガソリン”だったのかもしれない。「普通の生活が一番いい」という人がいるが、それって誰が決めたの?そもそも普通って何?彼女は優雅な生活に身を置いたときもあったが、彼女はそれは求めているものではなかった。苦しんでいる人が、今死んでいっている人がいるというのに、こんなところで気まま生活なんかできるか!!と。そう考えたら酒を飲まずになんかいられない!!と。このアルコール中毒は戦場に行かないと治らない!!と。我々のこの平和ボケした生活を見たら彼女はこういうだろう。「ふざけんじゃねーよ!!」と。酒とタバコとセックスを燃料に、彼女は最前線をも突破し、いつだって真実を求め、戦争という抽象的なものに一人ひとりの声や顔を持たせるためにメリーさんは世界中を駆け回る。それが私の仕事なんだと。