2015年9月30日水曜日

また会えるその日まで

 先月8月は実に様々なことが起こった。良いことも悪いことも。その中でも一番悪かったことは、私の友人の一人が死ぬことよりもたちの悪いことになってしまったことである。その友人はこのブログでも何度も登場しているし、私の大切な仲間の一人である。詳しくはここでは書くことができないが、私自身も相当のショックを受けたのである。事が起きてから一カ月以上が経過したが、まだまだ私自身が落ち着かない状況である。落ち着いていると言ったら落ち着いているのだが。
 日々の中でぼーっとしているときなんかに、自然とその友人の事を考えてしまう。彼としては己の正義を貫いたことだろう。たとえそれが間違っていたことだったとしても。もし私が同じ状況に立たされたら、彼と同じ行動をとったかもしれない。しかし、一時の感情というのは怖いもので、時間が経過し、見失った自分を取り戻したりしたときに初めて正しいか間違いかの判断ができるものだ。彼の行動についてもちろんそうしたいところなのだが、この世界、国の中では確実に間違った行動なのである。正義は時として悪にもなり得るし、悪も時としては正義となり得るのだろう。この国を支える法律とはいったい何のために存在するのだろうか。この人間界を法律で縛りつけ、ルールを敷くのは可能なのだろうか。海よりも深く、山よりも高く、世界の果てよりも遠いこの人間たちを、そんなモノでどうやって解決できるのだろうか。そんなことを考えても無駄なことはわかっているが、ついついそんなことを考えてしまう。だがしかし、間違いは間違い。駄目なものは駄目である。そんなことはわかっていても・・・・・。
私は常に思っていることがある。このブログの中でも書いたことがあるかもしれないが、“不正に対して不正で答えてはいけない”ということである。 これは浪人時代に倫理の先生からいただいた言葉で、私の座右の銘のひとつである。やられたらもちろんやり返したい。何かを言われたら言い返したい。やられっぱなしはごめんである。仕返しをするのは良いが、そのやり方が問題である。殴られたら殴り返すのか。子供のころはそれはまだ許されたかもしれないが、社会人になればそんなものは通用しない。“目には目を、歯には歯を”は許されないのである。力で抑えつけようとすれば、その反動はどこかで必ず出てきてしまう。ではどうしたらいいのか。我慢しなければならないのである。これは苦しい。時間もかかる。しかし、耐えなければならないのである。その中で、正しいやり方を探していくのである。一時の感情で自分を見失ってはいけないのだ。たとえそれがどんなに腹が立つことであっても。己の正義を貫いても、その影響は必ず自分の周りにも及んでくる。それによって周りの人が不幸になることさえもあるのだ。それを決して忘れてはいけない。
 これから彼の動きをみていかなければならないし、彼を支えていかなくてはいけないと思っている。彼があることを起こしたとき、私は友人をやめよう、縁を切ろうとは一切思わなかった。あいつほどいい奴はいないし、あいつほどおもしろい奴もいない、そう思っている。今すぐに彼に会うことはできないが、それが何ヶ月後になろうが、何年後になろうが、私は彼に会える日を心から楽しみにしている。

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