2017年3月26日日曜日

“まとも”

 今回はiPhoneから投稿しているのだが、パソコンの調子が悪いみたいで、エラーが表示されて更新できない状態である。それを解決しなければならないのだが、私はこういうのが苦手なのでなかなか解決できずにいる。自然治癒するかも、と甘い考えでいるのだが、まずそれはあり得ないだろう。なんとかして解決しなければならない。

 会社事情なので詳しいことは書けないのだが、今働いているお店が閉店することになり、4月下旬から違うお店で働くことになった。異動である。なので今閉店に向けていろいろ準備しているところだ。何をやればいいのか全くわからないのだが、とにかく片付けやらを進めているところである。

 最近また寒くなってきている。そろそろ桜が咲くみたいなのだそんな気配はみられない。というか私が気付いていないだけだと思う(笑)。といっても桜が咲いたところで花見なんか行かないし、花見してるヒマなんてない。休みはあるから花見できるのだが、花見に休日は使いたくない。一人でゆっくりテキトーに歩いて桜なんか見て回るのはいいのだが、人と集まってお酒を飲んだりするのは面倒である。まあそれが楽しみの人も大勢いるはずだ。まだまだ寒いのに、お酒を飲むのが意味がわからない。トイレ事情もあるだろうし、どうしてわざわざそんな苦行を自ら選ぶのが理解できない。文句いってもしょうがないのでここまでにしておくが。

 5月に映画『ガーディアンズオブギャラクシー:リミックス』という映画が公開されるのだが、これは続編で、『ガーディアンズオブギャラクシー』が一つ目の作品なのだが、この映画もめちゃくちゃすばらしい映画であった。アメコミのマーベルの作品が原作なのだが、マーベル作品で感動して泣いたのはおそらくこの『ガーディアンズオブギャラクシー』が初めてだと思う。随所随所涙が溢れてしまった。ストーリーはいってしまえば、ありきたりな内容なのだが、またこれか、というような感想は一切出てこない。そして音楽もサイコーなのである。70年代の音楽がいろんなところで流れるのだが、おそらく70年代を生き抜いた人は涙なしでは観れないだろう。それが本当に羨ましい限りである。泣くといっても、この映画のどこで泣くの?という人は大勢いると思うのだが、私はマジで感動して涙が出るのである。こういう映画は本当に希望とか元気とかそんなものを私たちに与えてくれるんだなあ。しかも大ヒットしている映画なので、世界的にもこういう映画を求めている人が大勢いるということだ。マジでサイコーの映画なのでこれはオススメである。何も考えずに観れて熱くなれる映画だ。なんかイヤのことあってもこんな映画で救われる。また改めて書こうとと思うが、『キングスマン』、『キックアス』という映画もマジでサイコーの映画であった。これはどちらも同じ監督で『キングスマン』はイギリス、『キックアス』はアメリカで、その国らしい映画だ。これも本当に元気が出る映画である。こういう映画に出会うことができて、本当にしあわせである。

 職場とか生活している中で、いろんな話をしているし、考えることがあるのだが、本当に世の中にはいろんな人がいるんだなと改めて思う。自分では考えられないことがその人にはそれが普通であったりするし、自分さえよければいいと思ってる人もいっぱいいるし、オトナの世界でもイジメが当たり前のようにあるし、それぞれの人生のストーリーがあるし、すばらしい人もいるし、ブッ殺したくなるヤツもたくさんいるし、見ていて聞いていて絶望するようなこともあるし、まだまだ捨てたもんじゃないと思うこともあるし、もう本当にいろんなことがある。その中でも自分だけは“まとも”でありたいと思っている。人と同じように見られたくないし、同じことはしたくないと常に思っているのだが、この“まとも”というのはそうではなく、自分の存在価値というのか考えというのかどう表現したらいいかわからないが、そんな感じの“まとも”である。大勢の人はこう言うけど、あいつはこう言うよね、あいつはこう言ってたよね、みんなはこうするけど、あいつだったらこうするよね、こうしてたよね、そんな“あいつ”になりたいというか、そうありたいと願っている。なぜここでこんなこと書いたかは私自身もわからないし、映画のくだりとはなんの関係もないかもしれないのだが、私の中ではすごく関係しているし、最近やることとか考えることがたくさんあるのか、思考停止したくなるときもあるが、やっぱり人間は常に自分で考えて行動しなければならないし、話をしないといけない。苦しいこととか悲しいこと、辛いこと、しんどいこと、ダルいこと、そんなものは誰にだってある。もちろん楽しいこと、うれしいこともある。今まで自分が見てきたもの、経験してきたこと、聞いてきたこと、考えてきたこと、それらを通して、そんな中で自分の考え、行動が紛れもない“自分自身”である。人と違って当然だし、合わせる意味もないし、こう考えると本当にいろんな人がいるということ。そんな中でも、自分だけは“まとも”でありたいと思っているのだ。何を書いてるのかわからなくなってきたのでこれで終わりにするが、本当にいろんな人がいるよな、っていうことである(笑)。

2017年3月4日土曜日

贈り物

 
先月の2月24日、私の友人の一人が“遠いところ”へと旅立っていった。2月20日には一緒に遊び、最後のお別れをしたのである。旅立つ前日には最後のLINEの連絡をした。20日の最後の別れのときには、「3年なんてあっという間やで!!」というノリでいってまえ!!みたいな感じでお別れをして、けっこう軽い感じでお別れをしたのである。
 2月27日の夜9時ごろ、部屋でぼーっとしていたら突然インターホンが鳴ったのである。荷物を頼んだ覚えもなかったし、amazonで買い物をした覚えもなかったので、「誰や?」と思いながら玄関のドアを開けて観ると、配達のおじさんがいて荷物を届けてくれたのである。依頼人の名前を見てみるとその友人からの荷物であった。正直めちゃくちゃびっくりしたのである。急いでその箱を開けてみると、スターウォーズのフィギュアと手紙が入っていた。どうやらこの手紙を書いたのは私と最後にあった20日の夜みたいである。その日遊んだことの感想を書いていた。そういえば20日遊んだとき、表参道のおもちゃ屋さんで、ショーケースに入っているフィギュアをみながら「こうちゃん(私の名前)だったらどれがいい?」と聞かれたのを思い出した。4,5体くらいのフィギュアのランク付けをした。その中で1位を付けたフィギュアが贈り物の中に入っていたのである。その友人はそういう“ベタ”なことをしないヤツと思っていたのだが、そういうヤツがこういうことをすると効果抜群であった。手紙を読みながら泣いてしまったのである。やられた。あいつの“勝ち逃げ”である。
 その友人がどこへ行ったかは具体的には書くことができない。書いてもいいのだが、今はまだそんな感じではないかな。会うことはほとんでできないところである。外国へ行ったというわけでもない。とにかく“遠いところ”なのである。「今まで時間をつくってくれてありがとう」と手紙に書いていたが、私が彼を満足させてあげられるようなことができたのかは、はなはだ自信はない。とにかく会えるときは会っていた。2時間くらいしか会えない日もあったがそれは本当に貴重な2時間であった。彼にはタイムリミットがあった。時間というのは永遠にあるものだと錯覚しがちだが、彼といるときはその時間というヤツをすごく気にしながら遊んでいた。
 彼とよく待ち合わせをしていたのは、渋谷のツタヤの1階か新宿駅南口の小田急線の改札である。解散するのはさきほどの小田急線改札か、渋谷のバス乗り場かどちらかであった。20日最後に待ち合わせしたのはツタヤで、別れたのは小田急線の改札であった。最後の別れはハグをしていつもの握手をして、そしてV8ポーズをして別れた。最後に会って以来、数日が経過しているが、何度かその渋谷、新宿は訪れているのだが、渋谷だったらいるはずもない友人がもしかしたらツタヤの1階にいるかもしれない、とか、新宿南口小田急線改札の前を通るたび、最後に別れたあの時ときの光景の残像が蘇ってくる。いつも気が付いたら立ち止まってしまっている。私はこういう意味のないことは大っ嫌いなのだが、ついついそうなってしまうのだ。最後は軽い感じでバイバイをしたのだが、27日彼からの贈り物を受け取ったとき、なんだか急に現実味を帯びてきて、改めて彼は“遠いところ”に行ってしまったのだなと、ズシンと心に重くのしかかってきた。まあ考えていてもしょーがないのだが。フィギュアはスターウォーズに登場するストームトルーパーの戦国武将バージョンで、スターウォーズは観たことがないのだが、そのストームトルーパーはめちゃくちゃカッコいいので好きなのだ。しかもその戦国武将バージョンは格段にカッコいい。すぐに箱から出そうと思ったのだが、彼と再会できる3年後に箱から出そうと思った。それまで箱にしまったままにしておこう。彼との会話の続きは手紙でのやり取りになる。それができるだけでもありがたいな。人生いろんなことがある。何が正しいとか、何が間違っているとか、そんなものは存在しない。自分の物差しで他人を図っても何の意味もない。そんなものはファックオフである。いちいち文句を言うヤツには言わせておけばいい。自分が納得する生き方をしているのかどうか。それが大切なことである。3年間友人と会えないかもしれないが、私と彼が3年後も友人であることに変わりはない。再びほどけた糸が交差する日を楽しみに待ち続けることにしよう。また彼と一緒に東京の街を歩ける日を夢みながら。