2016年10月28日金曜日

“ヒーロー”、“正義”の在り方

 またまた久しぶりの投稿になってしまった。気が付けばもう10月末になり、冬が近づいているのか最近すごく寒くなってきた。このまま年末年始へ突入していくことだろう。早いものだなー。職場では先日お歳暮の準備をしてきたところである。一つやることを終えればまた次とやらなければならないことが現れてくる。休んでいる暇もない。まあどこへ行ってもそうだから文句を言っても仕方がないのだが。忙しくなる時期であるし、寒くなってきているので体調には気を付けていきたい。


 
連日、いや、連投になって申し訳ないのだが先日といってもかなり前なのだが、『ウォッチメン』という映画を観た。これはアメコミを実写化した映画である。これは久しぶりの私の中での大ヒット映画になり、おもしろ過ぎたので原作(日本語版)も手に入れて読みふけっていた。そして、日本では販売されていないのだが、アメリカでは“ディレクターズカット版”という私が持っているDVDの本編よりも長いものが販売されていた。そして更に調べていると“アルティメットカット版”というものが存在し、日本販売版の約50分も長いものがあることが判明。好きなものはとことん追求しなければならないので、早速手配してアルティメットカット版を手に入れたのである。
 この映画はかなり難解な映画である。この現実世界にヒーローをぶち込んだら世界はどうなってしまうのか、というのを究極に突き詰めて考えた映画なのである。ここまで考えられた映画はおそらく存在しないだろう。その中で考えられる“ヒーローの在り方”、“正義の意味”を我々読者の判断に委ねられている作品なのだ。クリストファー・ノーラン監督のダークナイト3部作でもこれらの内容に踏み込んだ作品だったが、私はダークナイトシリーズよりもはるかに分かりやすく、そして更に踏み込んだ、すばらしい作品ではないかと思う。わかりやすいと言っても一度観ただけでは理解することは到底不可能だが。映画から入った私は原作を読んだことで理解できなかったシーンを消化することができたし、ヒーローたちのそれぞれの葛藤や性格、信念も理解することができた。
 よくよく考えてみると、というか考えなくてもわかるのだが、“ヒーロー”というのはわかりやすく言うと頭がおかしいのである。ダークナイトのバットマンなんかも法では裁くことができない悪党を自分がマスクをかぶって戦うのだ。その時点で犯罪を当然のように犯している。違法行為満載なのだ。このウォッチメンに出てくるヒーローたちも頭がおかしい人ばかりである。映画の進行役も務めるロールシャッハというヒーローもまためちゃくちゃ頭がおかしいし、はっきり言って我々がイメージするヒーロー像とは大きくかけ離れている。しかもこのロールシャッハはヒーローとはいっても超能力を持っているわけでもない、ただの人間なのだ。彼のすごさはその精神力なのだ。絶対に妥協しない男なのである。かつてニーチェが残した『ツァラトゥストラはかく語りき』で言った“超人”を体現した男なのだ。何があっても妥協しないのだ。そこが本当にカッコいいのだ。彼の放つ言葉はすべて名言になり得る。「たとえ世界が滅んでも、絶対に妥協しない。」、「アルマゲドンが到来しようと俺は絶対に妥協しない・・・・・絶対に・・・・・。」彼はこうも言った、「人の心に潜む悪の可能性を知り、腐りきった世界のハラワタを見て・・・・・それでも進み続けた。」と。彼は事件の黒幕を暴き、最後の戦場へ向かうとき、こう言葉を残した。「俺自身に悔いはない。妥協を許さず、いい人生を送った。喜んで暗黒に足を踏み入れるとしよう。」
 この映画の最後は予想をはるかに超えた結末が待っている。それぞれの中にある“ヒーロー”、“正義”とは一体何なのか。どれが正しくて、どれが間違いのか。最後に語られるある日誌の言葉によってこの後の世界はどうなっていくのか。その答えは我々読者それぞれが考えなければならないのだ。
 アメコミと聞くと結構アクションシーンをイメージしてしまうことが多い。それを期待してこの映画を観てしまうとはっきりいっておもしろくないだろう。時代が冷戦時代なのでピンとくる言葉がなかなか出てこないのでこれもまた理解するのに大変だろう。だが私はもしすすめるのであればこういうだろう。「観ろ。おもしろいから。」と。すばらしい映画の一つである。ロールシャッハのようにあれほど妥協を許さず生きていくのは難しいだろう。しかし、自分の人生である。妥協したくないときなんかもある。貫かなければならないこともある。その葛藤で悩み苦しみながら人間ていうのは少しずつ進んでいくんだなーとそんなことを考える。

 
“金曜の夜、ニューヨークで一人の男が死んだ―”